2015年8月20日木曜日

ミートショップは何処にあったか

 小笠原好彦先生の古代史の講座があり「古代の市(いち)」について講義を受けた中で、「延喜式の中に平安京の東西の市における商売の店名が84もあげられているのにその中には肉屋がないが、その理由を考えるように」と宿題が出されたので帰路にぼんやりと考えた。
 その私の答えは、肉食のことを俗に「薬食い」と言ったこともあるから「肉は薬店で売られていた」という推論で、帰ってから私の推論を言わずに妻に尋ねた結果も同じように「薬店」だった。
 しかし、私の知っている「薬食い」という言葉はきっと江戸時代のことであり、犬公方たち幕府の施策に反発した庶民が広めた口実・言い訳だったような気がする(だいたいが落語「池田の猪買い」で知ったような気がする)から、この言葉をもって平安京以前の意識が肉=薬であったというのは原因と結果が一致しないように思って自信が持てなかった。
 正倉院御物の「種々薬帳」に「干し肉」とでもあればよかったのだがそれは見つからなかった。

 そのため別の角度から考えて、諏訪神社のように鹿の頭を供える信仰をみると、獣肉の主たる性格は贄、犠牲であるから、肉食の主たる側面も神人共食(直会)であったはずで、故にその材料の流通経路は市ではなく神社と朝廷にあったのではないかという推論に行きついたが、これは反対に各地の主要な神社で獣肉を売買していたというような証拠が見つからず、採用できないように思った。

 さらに別の角度から考えると、中世には世の中の主だった意識が、獣肉の解体処理を汚穢として嫌悪、忌避したが、それ以前にも仏教の受容と相まって穢れを恐れ畏怖する観念が始まっており、故に神聖な?市の中でその売買は許されず、市の隣接地の処刑場のごとく、隣接する『河原』が肉の売買の場所ではなかったかという推論に達したが、これも藤原京出土の動物の骨の状況などからすると、もっとあっけらかんとして食していた様でもあり、この推論も根拠に乏しく、私の頭はもう一度元に戻って考えることとなった。

 そうすると、万葉集の「乞食者(ほがいびと)の詠(うた)」の中に、「王がヤマトの平群(へぐり)で薬猟(くすりがり)をするときに・・・雄鹿がこう嘆いた・・・自分の肉は膾(なます)の材料、肝も膾の材料、胃は塩辛の材料になるだろう」というのがあった。
 また日本書紀推古19年(611)5月の菟田野の薬猟も、女は薬草、男は鹿の角を獲ったとされているし、薬猟というキーワードで考えると、獣肉が薬餌と考えられていたことは薬食いという言葉に先行して常識であったと考えられる。
 というような要旨で書かれた文章も少なくないのだが、第一次史料となるとなかなか見つからなかった。
 そんな中、弘仁14年(823)の「日本惣国風土記」の石川郡富樫のところに、「鶴、鵲、鴎、鷺、鹿、猪革肉を貢ぐ。革は武庫部に献じ、肉は典薬寮(くすりのつかさ)に送る」というのを見つけた。
 当時の肉の多くは塩漬けや干し肉であっただろうから『典薬寮(くすりのつかさ)』に送ったことも納得できるし、典薬寮に送ったのだから肉=薬と考えられていたことは間違いなさそうだ。
 また勉強の途中では、「少彦名の神話を持つ出雲世界は縄文時代から薬の知識があり、それが富のひとつであった」「山陰の特殊な土器は薬づくりと関係がある」「特異な大型甑は『いぶし肉』を作るのに適していた」という考古学者の文章にも出会って先の考えが補強された感じがした。
 以上のとおり回り道をして、結局のところ・・・、
 「古代社会もタテマエとしての禁令(多くの例外があるが)とは別に薬餌という口実で獣肉は食されていた」
 「それは京(みやこ)にあっては典薬寮が管轄する『薬』のひとつとされていた」
 「そのように『薬だとカテゴライズする』ことによって、朝廷自身も、天武4年(675)以降の数々の食用禁令と実際の薬猟やその食用という事実の間に存在したダブルスタンダードに、まるで落語の鹿政談のように安心の根拠を与えていた」
 以上の結果、「主に塩漬け肉や干し肉であったそれらは、市にあっては『薬店』で売買されていた」
 だから「延喜式の市の店に『肉屋』がないのである」・・・と考えついたのだが、さて、この答えは間違っていないだろうか、そして、点数は何点だろうか。

5 件のコメント:

  1. 面白く、楽しく、知的なクイズのブログ読ましていただき有難うございます。基礎知識がないとこんなハイセンスのブログ書かれませんもの!、長谷やんに感服、脱帽、最敬礼!!

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  2.  スノウさん、コメントありがとうございます。書き終えてからも「河原説も捨てがたい」とか悩んでおりますが、とりあえず『薬店』説に決めました。正解は9月に入ってから小笠原先生にご教示頂きます。
     読者の皆様、「私はこう思う」という説がありましたら、気楽にコメントをお願いします。

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  3.  国語や古語の辞典を引いてみると、「薬食(くすりぐい)」は蕪村や西鶴で近世のようだった。
     「薬猟(くすりがり)」は本文に引用した万葉集一六3885で、少なくとも文字としては古代からだった。
     どこかに、もっとドンピシャの史料はないのだろうか?

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  4. 天武天皇が675年肉食禁止令を出したのでその後の「延喜式」では書く事が出来なかったのではないでしょうか。でもどこかで獣肉は売買されていたのでしょうね。

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  5.  天武天皇4年(675)4月17日の詔は、前段が捕獲法と期間の制限で、うち期間は4月1日から9月30日まで禁じられ、後段は牛、馬・・等を禁じ、鹿や猪は禁制の限りでないとしています。
     ただ、聖武天皇の天平17年(745)や天平勝宝4年(752)は全殺生禁断ながらそれも大仏開眼まで等の期限付きでした。
     また天平宝字元年(757)の養老律令の中の厩牧令には官の牛馬死亡の場合は皮、馬の脳、角、牛の胆嚢、牛黄は別に進上するか売却して代価を弁償するよう定められていることから、肉や内臓の採取が普通であったことを逆に裏付けています。
     また、木簡や発掘された骨からも平城京で獣肉が食されていたことが裏付けられています。
     記事の延喜式は平安京のことですが、内容は平城京も同様であったと考えられ、9世紀より前の時代では普通に食べられていたと思われます。
     そのため、表向きは度々の禁令がありましたが、全面的に肉食がなかったわけではないでしょうから、何らかの場所にその店(流通経路)があったと考え記事のような推論を行った次第です。

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