2015年6月30日火曜日

オクトーバーフェスト

  孫と嫁と私たち夫婦で奈良オクトーバーフェストに行ってみた。
 オクトーバーフェストについては本場ドイツのものもニュース等で知っていたし、大阪の天王寺公園等で開催されていたことも知っていたが、参加したのは初めてだった。
 せっかくだからステージに近いテント席に陣取って、「ゲーテの好んだビール」だとか、フルーティーなビールだとかいろいろ味わった。
 オクトーバーフェストは初めてだったが、この雰囲気はある意味懐かしいものだった。
 記憶が怪しいが、若い頃、大阪の梅新あたりの重厚なビルに銀座ライオンのビヤホールがあった。(梅新でなかったかもしれない。ライオンでなかったかもしれない。確かビルの取り壊しでその店は無くなった)
 ここではジョッキを片手に合唱したり踊ったりしたものだ。そこはまるでドイツだった。
 その後、大阪には趣向を凝らした大型のビヤホールがいろいろできたが、先の記憶のビヤホールこそビヤホール中の王道だったと思っている。
 そしてそこには長靴型のジョッキもあった。
 今回、少し離れた席のグループが2リットルの長靴で飲み始めたが、当然のように靴を前に向けて飲み始めた。(100人中99人はそのようにするだろう)
 私が「あの飲み方は間違いで靴先に空気が入った途端ビールが飛び出すから見ていてごらん」と言ったら、しばらくするとゴボッとその人の顔にかかったのでこちらで大笑いした。
 Ein Prosit Ein Prosit ・・・・・の乾杯の歌は、あらかじめ平仮名で「あい ふろーじ あい ふろーじ ・・」と書いて行ったので、孫も何回も合唱をして乾杯を重ねた。
 「前に行って踊ろうか」と言ったが、近頃少々恥ずかしがりやになってきた孫は席の近くで嫁と小さく踊るだけだった。
 だいたい日本人は、フォークダンスの雰囲気に似た長調の健康的で明るいお祭りを照れるが、それが社会の不健康を反映しているのでなければよいのだが。

2015年6月29日月曜日

紫蘇が好き

 以前にホームセンターで豆の種(つまり豆)を買ったとき「この種(豆)は食べるな」という注意書きがあった。食べると危険な種(豆)とは何とも不自然な話である。
 TPPが成立するとダンピングのような農産物で日本の農地は崩壊する。
 その後には、救世主のような飛び切りのGM(遺伝子組み換え)種子と農薬が輸入されるが、数年後には薬漬けの農地はさらに疲弊する。・・・・そういうことが世界中で起っている。
 「農業近代化」の名の下に世界の途上国の農民がモンサント社とライセンス契約を結ばされているが、その内容は・・・、
 ●自分の農地で採れた種子を翌年使用することは禁止
 ●毎年種子はモンサント社から購入
 ●農薬は必ずモンサント社から買う
 ●毎年ライセンス料をモンサント社に支払う
 ●何かトラブルが起きた際はその内容を他者に漏洩しない
 ●契約後3年は、モンサント社の私設警察による農場立ち入りを許可する・・・・というものだ。
 詳細は堤未果著「(株)貧困大国アメリカ」に詳しい。

  おかげさまで、モンサント社と契約していない我が家の庭には、去年の紫蘇の子どもが勝手に生えている。近所のお宅にも嫁入りしている。
 栄養以前に紫蘇の香りが好きな我が家では非常に重宝している。
 お刺身のつまその他いろいろ・・
 炊き立てのご飯に千切りにした紫蘇を混ぜ込むのも日常茶飯事だし、これからの素麺でも欠かせない。
 生きている苗は、何よりも次から次へと葉が出てくるので「いつ採ったの?」というほどエンドレスなのがありがたい。

 先日テレビで「外国人技能実習生」の実態が報じられていた。
 内容は、大葉(青紫蘇)を決められたように揃えて輪ゴムで止めて箱詰めする作業を深夜までして雀の涙ほどの手当を貰うというものだった。(朝8時から16時までは時給713円の摘み取り作業。その後17時から季節によっては午前2時3時まで一束2円の内職?時給なら300円?)(後日のニュースでは実習先(雇い主)から酷いセクハラも受けていたという)
 なるほど、それでスーパーに、綺麗に揃った大葉が安い値段で並んでいたんだ。
 しかし、大葉を摘んでそろえて箱詰めする「技能実習」って何だ。
 「技能実習」という名を隠れ蓑にした低賃金労働以外の何ものでもない。
 改悪されそうな「労働者派遣法」などと相まって、外国人技能実習制度は労働力の市場価格を強烈に引き下げている。
 堤未果氏の著書に「政府は必ず嘘をつく」というものがあったが、的を射たタイトルだ。
 TPPといい、外国人技能実習制度といい、不誠実な嘘がこの国を蝕んでいる。
 少なくない国民がそういう不誠実な嘘に「ホンネとタテマエ」だとかといって不感症になっている。集団的精神疲労状態と言ってもよい。
 紫蘇は精神疲労によいとの効能書きもある。あまりの不条理に厭世観に傾く国民は広く食すべし。

2015年6月28日日曜日

憲法改正草案

  自民党は、「マスコミを懲らしめよう」と話し合った文化芸術懇話会のニュースに対する世論の反発を受けて、懇話会代表の木原青年局長を素早く更迭した。
 ズバリ、「ホンネを言っていい時と悪い時がある!」ということだろう。
 事実、自民党の正規の日本国憲法改正草案では、第3章国民の権利及び義務の第12条の、現行の『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。』を、改憲案では『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。』と天下に公約しているのであるから、懇話会の議員たちは、落語の「禁酒番屋(馬の小便)」ではないが「この正直者めが!」と叱られただけである。
 ちなみに、この懇話会メンバーは安倍側近たちであり、「首相が仕事をしやすいように、邪魔者が出てきたら排除するのが役割だ」と言っていたと報じられている。それが肯定されているように、同日に行われるはずだった自民党内リベラル派?の勉強会は党から「邪魔者」として中止させられ、予定の講師であった小林よしのり氏がネット上で「言論封殺だ」と怒っている。
 重ねて言うが、木原氏の更迭は自民党にとっては「言い方とタイミングがまずかった」だけである。
 自民党が目指しているのは、公の秩序に反するとして表現の自由、言論出版の自由も制限される、どこかの独裁国家並の国である。
 なお、自民党がすばやく手を打ってきた今回のスピード感で言えば、これはネット社会の機敏な反応があってこそのことだろう。私もブログで書いたし、友人もブログの記事にした。
 こういう時代だから、とりあえず集まって議論をして、文書を印刷して送付するという対応だけではこうはいかなかっただろう。是非、読者の皆さんもネット上で素早く発信する行動に参加してほしい。


28日追記 その勉強会で講師を務めた百田尚樹氏のツイートをリツイートする。

2015年6月27日土曜日

歴史の地点

  安倍首相に近い自民党国会議員が「文化芸術懇話会」をつくって、戦争法案を批判する報道に対して、「マスコミを懲らしめるには広告料をなくせばいい」「経団連に働きかけてほしい」と議論した。それを得々とネットで公言している出席した議員もいる。
 要するに自民党を批判する報道は許さない、報道の自由など顧みないということで、さすが現憲法の定める報道の自由を毛嫌いする自民党の改憲案の本質を知らせてくれている。
 現状でさえマスコミは、中国で千人ほどの学生がデモをすれば大々的に報じるが、我が国の国会を取り巻く数万人のデモはスルーすることが度々だが、それでも自民党には我慢がならないらしい。

 地方でも、神奈川県大和市で「憲法九条やまとの会」のイベントで、アイドルグループの制服向上委員会が自民党批判の歌詞の曲を歌ったというので、自民党の市議がカンカンに怒って大和市は後援を取り消した。
 去る5月には、憲法記念日に「憲法を守ろう」という集会を企画したところ、「政治的な集会だ」と自治体が市民会館等を貸さない事態も頻発している。

 戦前の歴史を見ても、大正時代などは、まさか十数年後にあんな時代が来るとは想像できないような自由もあったようである。
 だから、一つひとつの些細な空気のような圧力が重なって、これはおかしいと気付いたときにはもうモノも言えない全体主義国家になっていたということだろう。
 
 そのアイドルグループは、野田政権のときは民主党を批判する歌詞の歌も歌っていたし、桑田佳祐だって共産党の志位委員長をおちょくった歌を歌っていた。もちろん、民主党も共産党も抗議などしていないが、ということで、自民党は度量が狭い、大人げないというレベルで見過ごしてはならないのではなかろうか。自民党は政権与党、権力の側なのだから。

 私たちは地動説のように、いま私たちが後世に綴られる歴史のどういう地点に立っているのかと見つめる必要がないだろうか。
 孫が「その時、お祖父ちゃんはどうしてくれていたの?」と問われる時代が来るような予感がする。

2015年6月26日金曜日

緻密な証明

 テレビで上沼恵美子さんがいつもの亭主ネタで、『昔はお酒を飲んでいたから主人の「縄文が・・弥生が・・」という話も感心して聞いていたが、お酒を止めたこの頃はそういう話がウザい』と語っていて、隣で妻が大きくうなずいていた。

  で、今日の話は弘仁6年(815)のことである。
 (国立)奈良文化財研究所の第116回公開講演会に行ってきた。
 講演は3本あったが、そのうちの1本、都城発掘調査部考古第二研究室長・尾野善裕氏の『「日本後記」を考古学で解釈する―弘仁六年正月丁丑条を中心に―』という講演が楽しかった。
 能力もなく要約するとその楽しさが伝えきれないが、骨子を言えば次のようなことだった。
 「日本後記」といえば古代日本の正史だが、その弘仁6年正月5日の条に『尾張の国本籍の乙麻呂たち3人の見習い技術者が「瓷器(しき)」と呼ばれる施釉陶器生産の技術を習得し終えたため、諸々の見習い官吏に準じて、正式に技術官吏として登用された記事がある。正月早々に末端官吏の登用というかくも些細な人事が何故国史に記録されたのか・・・・ということがテーマであった。
 講師は、田中琢氏ら有名な先人の説を紹介しながら「どうも納得できない」とし、いろんな文献や考古学の成果を引用しながら、「瓷器」の実体と生産地を検討し、その上に平安京跡出土の緑釉陶器から年代と所有者を推定するのだった。
  出土したその場所は、規模からいって高級公卿・親王以上の居住者で、後の文献で棲霞寺とされることから源融(みなもとのとおる)の一世代前の人物、即ち嵯峨天皇の邸宅等であると、これも緻密な証明の上に推定した。
 次に「江家次第」等によると、正月の宮中行事に「供御薬」と一連の行事で「歯固」というものが弘仁年間から始められたとあり、その「歯固」行事の料理類には尾張産の緑釉陶器を用いることとなっていたのであるから・・・。
 その時の緑釉陶器の出来映えが嵯峨天皇の大いに嘉するところとなり例外的な褒賞として3人が登用され正史に残ることとなったのであろう。・・・・ということを、一つひとつ考古学の成果や文献で裏付けながら講義が進んだので、先のブログで「安倍首相の答弁には数学の証明同様の論理展開が必要だ」と書いた私としては、その対極のような論理的な講義に感動し、帰ってから妻に「そもそも弘仁六年に・・」と伝達、復命したところである。
 最後に講師は「オマケの想像」だというのだが、この件の黒幕は弘仁3年に尾張介、弘仁7年に尾張守となった滋野家訳(しげのいえおさ)で、官僚としての手腕とともに尾張における唐物に匹敵するようなハイクオリティーの緑釉陶器の生産実現が唐物好みの嵯峨天皇に評価されたのではないかと結んでいる。
 上沼恵美子さんではないが「そんな話のどこが面白いのか」と問われると答えはないが、国会での首相や官房長官発言や、先の大阪市の住民投票時の橋下市長発言のように非論理的で扇動的な発言ばかりが社会で目についた今日この頃にあって、一見、典型的な文系のテーマであっても、このように種々のデータで検証、証明しながら仮説を厳密に証明して行く講義は一服の清涼剤の感がした。
 骨子をまとめすぎたのでこの感動が伝わらないのが口惜しい。

2015年6月25日木曜日

大阪府民集会

  STOP安倍政権!戦争法案阻止!6.23大阪府民集会があった。
 東京では・・・、そして全国各地でも立ち上がっているのに大阪はどうした!という気持ちで待っていた集会だった。
 というのも、昨年のフラッグ・フェスティバルも含めて大阪のリーダーのこの種の素朴な行動提起の消極性が物足りなかったからである。
 私の感覚でいえば久しぶりに参加者が多かった。高齢者は集会後「デモはパスさせてもらうわ」とエスケープする人も多かったが、それでもデモの終了は9時になっていた。
 
 名札は2種類用意した。
 「写真は沙羅双樹です」と仲間と話していたら、横の方から「平家物語ですね」と言葉をもらった。
 仲間がOB会の小旗をへんぽんと掲げてやって来た。
 「だからそれでどうなるねん」という声もあるかもしれないが、こういう一市民としての積極性が大切だと私は思っている。
 
 23日の昼には沖縄で全戦没者追悼式があり、翁長知事の平和宣言や高校生の詩の朗読があった。どちらも立派なものだった。フェースブックでは動画で観ることもできる。
 海外の新聞等では安倍首相の空虚な挨拶に異例のヤジが飛び交ったことが報じられている。
 国会の会期延長は、野球に例えるなら9回裏同点で延長戦であるべきところ、9回裏で負けているから逆転できるまで延長するという無茶苦茶なものだ。それは見かけの絶対多数=強さの表れでなく、この政権の末期症状を示している。
 朝日新聞の世論調査では内閣支持率が39%まで低下した。
 愚直に多彩な行動に立ち上がりつつある市民の力の結果だろう。
 

2015年6月24日水曜日

田鶏

  蛙というと、鳥獣戯画を思い浮かべるが、古墳の壁画や銅鐸にも登場する。
 「鬼道を事とし能(よ)く衆を惑わす」(魏志倭人伝)の鬼道は古代の道教であるがその道教では蛙は月に住む神?ですらある。
 古人は、冬眠を繰り返す蛙に不死と再生を見たのだろう。
 どういう訳か娘は小さい頃から蛙のキャラクターが好きで、結婚して出ていった後も我が家には蛙の絵や形のいろんな物が残っている。
 1枚目の写真は妙心寺の蓮鉢。

 先日、東大寺法華堂の前の池からお馴染みの声が聞こえてきた。
  私などはウシガエルというよりも食用ガエルという方がぴったりくるが、ボー ボーという声はすれどもなかなかお目にかかれない蛙である。
 2枚目の写真は法華堂前の池。
 フランス料理では有名な食材で、それが故にフランス人の蔑称が、フロッグ、蛙喰い、蛙野郎というのも有名な話。
 その昔、程一彦さんが開いていた龍潭(リュータン)に田鶏(ティエンチー)を食べに行ったのも懐かしい想い出。

 3枚目の写真は新聞に投稿した吉城園のモリアオガエル。
  先日確認に行ったが、オタマジャクシは未だ後ろ足も出ていなかった。
 そう言えば、田植えの頃は夜に洗濯物を干しにベランダに出ると、遠くからだが大きな声が聞こえていたものだった。
 娘に感化されてその声を楽しく聞いたのも懐かしく感じるほど、時の流れが速くなっていく。

2015年6月23日火曜日

盛者必衰の理

  お釈迦様の涅槃図に描かれている、つまり涅槃経に書かれている沙羅双樹は熱帯性の木で日本にはないと言われている。ただ、佐賀県小城町の清水観音には鍋島公がインドから取り寄せた木が奇跡的に生育しているとの情報もあるが、まあ、普通には日本列島にこの木は生えていない。
 だから・・・、困った?お坊さんたちがそれに似た夏椿を沙羅の木、沙羅双樹と呼んでお寺に植えてきた?・・と、私は推測している。
  平家物語の作者が知っていたのもこの「夏椿である沙羅双樹」である。
 白く清楚な「一日花」だから、朝に咲いたと思ったら夕べには落花する。
 故に、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす・・との平家物語のあまりに有名なイントロは、この木を知ると文句なく納得させられる。
 ところで、夏至というのは冬至や春秋のお彼岸ほどには行事がないので、梅雨の一休みに妙心寺東林院に行ってきた。
 沙羅の庭は見事な落花で、そのはかなさが胸を打つ・・(といいたいところだが)それどころでない賑わいで、抹茶つきで1600円の拝観料に大勢の観光客が納得しているようだった。
 と言ってしまうと身も蓋もないから補足すると、庭を鑑賞している最中に「音もなくポトリ」というのも変だがポトリと落花する瞬間は無言のお説教のように感じられ、心の中でべんべんと琵琶の弾かれる音の聞こえた気がした。
 さて、この私は、仏教の無常観などとは関係なしにこの木を育てたいと庭に植えたことがあったのだが、結構立派な木であったのに、二度も枯らしてしまったという、少々恨めしい想い出がある。
 きっと、世俗の垢にまみれた私を沙羅双樹の方が忌避したのだろう。
 この歳になって、ようやく私も諸行無常の断片が解りかけ始めた気になっているが、だからと言って、首相や市長に「盛者必衰の理(ことわり)」を教えてあげたいなどと思うことは「まだまだ悟っていない」証拠以外の何ものでもないのだろうか。
 私は無常観を、「実践しないことの言い訳」に使ってはならないと思っているが・・・。
 沙羅双樹を前に東林院の雲水も「無常を自覚して正しく生きよ」と語られていた。
  と、偉そうに書いても言い訳だらけの有言不実行の日々、 喝!

2015年6月21日日曜日

殺すな 殺されるな

  「集団的自衛権」などと凄い理屈のように言うが、一言で言えばアメリカの始めた戦争に自動的に参戦する法律でないか。
 事実を言えば、世界水準でいえばまあ普通の国であったイラクに戦争を仕掛け、大量に庶民を殺戮し、結果としてテロリストを育成してその国を滅茶苦茶にしたような戦争に参加するということだろう。
 私は「今行動しなくて何時するの」と自分に言い聞かせている。
 6.23大阪集会に参加しようと思っている。
 ミニゼッケンは『殺すな 殺されるな』でいいだろうか。
 昔、誰かは忘れたが関西の大学の先生の講義で、「東京の先生は楽でいいのだ。正しいことを正しいと講義をしたらいいだけだから」「関西では、正しいことを面白く講義しないと認められない」と話されて笑ったことを覚えている。
試作品
  市民運動も同じだろう。
 正しいことを正しいと怒るだけで世の中が変わればそんな楽なことはない。
 工夫や日々の生きざまを通して共感してもらえるように努力しなければならないように、これも自分に言い聞かせている。

2015年6月20日土曜日

実学の〇〇

  電車の中に大学の広告がよくあるが、「実学の〇〇大」というようなキャッチコピーを見るたびに私は「専門学校かい」と心の中でチャチャを入れていたが、そういうキャッチコピーは私立大学だけでなく文科省のホンネでもあるらしい。
  事実、文科省は国立大学(国立大学法人)に対して、文系の学科を廃止して実学に特化せよと通達(指示)をした。指示に従わなければ予算で報復されるのだろうから、そうなっていくのだろう。
 私はというと、法律の条文を読む場合でも、どちらかといえば数学の証明問題のような理屈が好きで、そういう理屈抜きで情緒的に語るのを好きではないが、そして、こういう大学教育のあり方についてコメントするような知識を全くと言ってよいほど持ち合わせてないが、それでも私なりにこれは重大問題だと感じている。
  例えば、・・・本論の前に、文科省は先に国立大学に日の丸掲揚と君が代斉唱を指示したが、「日の丸掲揚・君が代斉唱強制の是非」を議論したり研究するのが大学ではないのか。そのことに思いが至らない文科省に学問を論じる資格があるのだろうかというように。
 さて本論だが、科学技術の成果は地球を何百回と破壊できるほどの核兵器を作りだした。
 遺伝子、医療技術は人造人間が可能な段階に近づいている。
 経済学の主流はグローバル経済に勝ち抜くためにということで大量の生涯非正規労働者を生んでいる。
 それらが複合して、地球環境が変動して異常気象が頻発している。
 このように、そういう学問や技術の成果?が国民の幸福とは反対に作用し、社会や個々人の人生を崩壊させている現実があるが、その問題に解を出すのは狭義のその専門分野の学問ではなく、そのことを問うのが文系の学問だろうと私は思っている。
 国会における首相の答弁を聞いていると全く答弁になっておらず、首相の脳に例えば数学の証明のような理系の思考方法を期待したいが、よくよく考えると彼はあえてはぐらかし、証明なしの断定を振りまいているのであろうから、やはり道徳教育?が一番欠けているのが首相周辺だと思わざるを得ない。それを指弾するジャーナリズムにも文系の教養は大切だ。
 社会の正義だとか真理の探究の対極にあるのが現代社会では「効率」という言葉だろう。
 効率至上主義の克服こそが現下の課題ではないだろうか。
 だとすると、文科省から「くその役にもたたん」と馬鹿にされている全国の文系の先生方は、現代社会に異議申し立てをしないのだろうか。
 『国立大学改革亡国論「文系学部廃止」は天下の愚策』と明解な内田樹先生等の声しか聞こえてこないのは寂しい。
 で、写真の『古典不要論への反撃!?』だが、これは万葉学者上野誠先生が前述のテーマとは関係なく著されたものではあるが、その一節にはアンナ・ハーレントのアイヒマン裁判も登場し、幅の広い読書の大切さを痛感させてくれている。
 氏は述べている。私は、たとえ古典学者であっても、自らの生きている今を語る義務がある、と思う。と・・

2015年6月19日金曜日

深めない責任者

  18日朝日夕刊の「素粒子」、・・・『言いたいことだけ返事する。応酬を続けても深まらぬ党首討論』と。
 そういえば朝日朝刊で前日の党首討論に付けられていた見出しは「憲法論戦かみ合わず」。
 しかし、共産党の志位委員長は往復わずか7分の持ち時間であっても、
 志位 「武力行使と一体でない後方支援」という国際法上の概念が存在するか・・に、
 首相 国際法との関係(の概念)ではない・・と、
 志位 「武力行使と一体でない後方支援」こそ世界で通用しない議論ではないか・・に、
 首相 (答弁できず)兵站は安全な場所を選んで行なう・・と、そこで、
 志位 兵站は軍事攻撃の格好の標的でそこが戦場になる。
 というように、世界に通用しない詭弁で合憲であるかのように言う首相の支離滅裂さが浮き彫りになっていた。
 言いたいことは・・・・、首相と食事会を重ねるマスコミが国会論戦すら正確に伝えない、もちろん批判もしないことが「深まらぬ」「判り難い」世論を誘導しているのではないかということ。
 いわゆる大阪都構想のときも酷かったが、論点を正確に報道せず、橋下氏(今国会でなら安倍首相)の発言だけを無批判に垂れ流して、結局「ようわからへん」「どっちもどっち」的な風を煽って詰まるところ権力側を支援している。
 朝のテレビは、我が家では時計代わりに「おはよう朝日です」をつけているが、ここの島田大アナのコメントも似たり寄ったりで権力に腰が引けている。
 そんな中、「おは朝」で石田純一氏が「邦人を守るためと言って満州に出兵した軍隊が、庶民をほったらかしにして軍人だけ帰ったんですよね」とポロッと語ったことの方が余程的を射ている。
 このように情報操作が展開されている現代だからこそ、「しんぶん赤旗」を読む値打ちは大きいが・・。
 選挙権は18歳になったけれど、新聞は購読していない、固定電話は持っていない、マンション入口でチラシは捨てる青年が気が付いたときには戦場になっていないか。課題は大きい。

2015年6月18日木曜日

アイヒマン論争


  大阪市住民投票の頃から気になっていた『ハンナ・アーレント』について、写真の新書を読んだ。
 カバー裏には、『全体主義の起源』『人間の条件』などで知られる政治哲学者ハンナ・アーレント(1906-75)。未曽有の破局の世紀を生き抜いた彼女は、全体主義と対決し、「悪の陳腐さ」を問い、公共性を求めつづけた。ユダヤ人としての出自、ハイデガーとの出会いとヤスパースによる薫陶、ナチ台頭後の亡命生活、アイヒマン論争――。幾多のドラマに彩られた生涯と、強靭でラディカルな思考の軌跡を、繊細な筆致によって克明に描き出す。とあったが・・・、
 その中で、やはり私が気になっていたのは「アイヒマン論争」だった。
 1960年5月にアルゼンチンで逮捕され、イェルサレムで開始された元ナチ官僚アドルフ・アイヒマンの裁判について『ニューヨーカー誌』に発表されたアーレントの『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』からそれは始まった。
 以下引用、
 第1回目の雑誌掲載直後から、アーレントはそれまでに経験したこともない激しい非難と攻撃を浴びた。彼女は自分にはその法廷がどのように見えたかを語ったのだが、それは許されざる見解だった。彼女は、裁判長のランダウ判事が「被告が告発され弁護され判決を受ける」という法廷にあるべき「正義」に仕えていたのにたいして、「裁判全体の見えざる舞台監督」であるイスラエル首相ベン・グリオンが検事長ハウスナーをとおして展開しようと意図していたのは、「反ユダヤ主義の歴史」であり、「ユダヤ人の苦難の巨大なパノラマ」という「見世物」であったと指摘した。さらにはイスラエルでユダヤ人と非ユダヤ人の結婚を禁止する法律があることを批判した。また、ナチ官僚とユダヤ人組織の協力関係に言及した。アーレントの言葉は、ユダヤ人にナチの犯罪の共同責任を負わせ、イスラエル国家を批判するものと受けとめられたのである。
 ・・・・・・・さらには、アイヒマンを怪物的な悪の権化ではなく思考の欠如した凡庸な男と叙述した点である。紋切型の文句の官僚用語をくりかえすアイヒマンの「話す能力の不足が考える能力――つまり誰か他の人の立場に立って考える能力――の不足と密接に結びついていることは明らかだった」と彼女は述べた。無思考の紋切型の文句は、現実から身を守ることに役立った。こうしたアーレントの見方すべてが、アーレントは犯罪者アイヒマンの責任を軽くし、抵抗運動の価値を貶め、ユダヤ人を共犯者に仕立て上げようとしていると断言された。
 ・・・・・・・アーレントはナチの先例のない犯罪を軽視しているわけではけっしてないが、ナチを断罪してすむ問題でもないと考えていた。また、加害者だけでなく被害者においても道徳が混乱することを、アーレントは全体主義の決定的な特徴ととらえていた。アイヒマンの無思考性と悪の凡庸さという問題は、この裁判によってアーレントがはじめて痛感した問題であった。
 以上、ブログに引用するには長くなりすぎるのでこのあたりで終了する。
 要は、現代社会では官民を問わず内在している「企業社会内の不正義」に関わって、「私は職責上の仕事をしただけだ」「私にそれを覆す権限はなかった」「私の職責なら誰もがこうしただろう」「誰もがあの時代、多かれ少なかれそれぞれの位置で同じようにしていたのでないか」というアイヒマン的な反論に斬り込まないなら、アイヒマンを処刑しただけでは問題は解決しないという問題提起のように私はとった。このテーマは非常に現代的なテーマであろう。(アーレントは決してアイヒマンを許していないので念の為)
 さらに補足的に私がアイヒマン論争から感じたことは、世の中の善悪はそんなに単純ではないということでそういう冷静で本質に迫る議論が大切なこと、そして「指示待ち人間」という言葉に代表される思考停止の持つ罪の深さである。
 となると、その罪は、政治の世界だけでなく各種市民運動の中にもありはしないか。
 「そんなのはこうだよ」とバッサリと斬って捨てるような「議論なき運動」が、国民的な幅広い運動に発展するようには思えない。(これは余談)
 話の本筋は、空気のようにどんよりとした同調圧力に市民はどうあるべきかという問いかけだろう。

2015年6月17日水曜日

人品骨柄

 人を見かけで評価するのは差し控えているが、今回については『人品骨柄卑しからず』という言葉を反面教師として思い出した。
 橋下徹大阪市長のことである。
 「政治の世界から一切引退しますよ」という舌の根も乾かないうちに、東京まで出かけて安倍首相と3時間密談し、その後好き勝手なツイートを発している。
 6月16日付け朝日新聞夕刊「素粒子」は、「憲法学の切れ味にほれぼれとする」との章の後に「政権の重要影響事態に大阪から駆けつける人あり、引退は表明しても老兵にはほど遠く。まだ戦を続けたい気配」と手厳しい。
 要するに一言で言って、彼のその折々の発言など全く信用ならんということに尽きる。
 維新党内の派閥争いでもあるだろうし、己が身の売込みもあるだろうが、政権という権力にすり寄って戦争法案に事実上の賛成をして庇護を求めるという闇取引を行ったことは明々白々である。
 もし「そうではない」とお考えなら、明らかに眼が曇っているとしか言いようがない。
 私たちは、彼の節操のない発言に付き合っている暇はない。
 それでもマスコミは「視聴率が取れる」の一点で彼を売り込むだろうから、理性ある人々はSNS等で真実を語る必要があるだろう。
 弁護士というのは刑事被告人でさえ弁護しなければならない聖職かもしれないが、飛田の飲食業組合の顧問弁護士や「腎臓売って返せ」の商工ローンの顧問弁護士を好んで担当した彼の本質を、もうそろそろマスコミも指摘する必要がなかろうか。
 「有権者のレベル以上の民主主義は生まれない」と言ったのは上岡龍太郎師匠だったか。
 人品骨柄卑しからずというメルクマールは軽視できないとしみじみと感じている。


  • 橋下氏、野党再編に冷や水 維新、分裂の可能性も
  • 2015年6月16日火曜日

    ささやかなネームプレート

     「それは戦争法案だ」というと安倍首相は「レッテル貼りだ」と反論したが、公平に見て「安全保障法案」の方が偽装表示だと私は思う。
      集団的自衛権の名の下にこれまで政府自身が「戦闘地域」としてきた場所にまで派兵し、米軍等への兵站を行い、形式的な「停戦合意」下でなお戦乱が続いている地域でも「治安維持活動」を行うというのであるから、自民党推薦の憲法学者ですらが「憲法違反」と国会で語ったのも当然だ。
     すると与党・内閣は「憲法学者は浮世離れしている」かのように躍起になってそれを否定し(維新の橋下氏も同様)、米軍占領下で司法の独立を投げうった『戦後レジューム』そのものの砂川判決を、しかも牽強付会してマスコミに載せるという始末。戦後最悪の法案との指摘も頷ける。
     だから、安倍首相に親しい讀賣系のNNN NEWSでさえ内閣支持率が41.1%まで低下し(最高時は65.7%あった)「ボーダーライン」が見え始めているが、そんな最中、安倍・橋下3時間会談が報じられ、維新と与党の闇取引で事態は緊迫しつつある。
     それ故、全国各地で集会やデモが行われているが、そういう行動と併せて、市民一人一人が多彩な活動にチャレンジすることに意味があるように思う。
      と、偉そうなことを言うわりにちっぽけなことしかできないが、写真のようなネームプレートを私は制作した。
     ザックは背中に背負うから、この可愛さでも読んでもらえるだろう。
     お説教じみた文句でもなく、理性的な声が広がっているのだなあと感じてもらえたらよい。
     OB会の集まりに持って行って配ろうと思っている。

    2015年6月15日月曜日

    汝 蛾は哀れ

      蝶目(チョウ目)の昆虫は世界で約15万種が知られているが、実際には30~50万種はいるといわれていて、日本には約6240種知られているが、そのうち約6000種が蛾と呼ばれている。(だから、蝶は約240種)
     そもそも蝶と蛾ははっきり区別することができず、蝶目の中で ●昼間に活動し ●触覚の先が膨らんでいる・・のが蝶と呼ばれている。
     そして、多くの蝶は人間に愛でられているが、ほゞ99%の蛾は人間に忌嫌われ、その落差はあまりに大きく、蛾にしてみれば「あまりに理不尽だ」と訴えたいだろう。
     鈴木孝夫著『日本語教のすすめ』新潮新書によると、フランス語、ドイツ語、ロシア語には蝶と蛾の区別がないそうだから、彼らの訴状には十分に説得力がある。
     ゲーテの詩の一節を、『隔たりも汝は物ともせず 追わるるごとく飛びきたる ついには光をこがれしたいて 蝶なる汝は焼けほろびぬ』と訳した訳者はそれを知らず、日本語の区別が世界の常識だと思い込んでいたと指摘している。(ランプの灯に飛び込んで焼け死ぬのは蛾である! 思い込みとはなんと強力なものか)
     続けて著者は、胡蝶蘭のことを近頃は『ファレノプシス』と呼ぶことが多くなっているが、ファレノとはギリシャ語の『蛾』ファライナからきており、オプシス(~に似ている)と繋がって『蛾みたいな花』で、その命名は正確かも知れないが胡蝶蘭のほうが似合っていると述べている。
     さらにさらに、ギリシャ語のファライナは『蛾』という意味と『鯨』という意味があり、通常は同音異義語=発音は同じでも関係のない別の言葉・・と言われていたが、著者はちゃんとした立派な関係があると論を進めた。
     結論を言えば、元々は奥地に住んでいて蛾は知っていたが鯨を知らなかった古代ギリシャ人が、尾の形が蛾を思わせるこの海の動物に出会ったときにファライナを転用したのだと。・・・むむむ、お見事。(写真を参照)
     あらゆる定説なるものは後で学べば容易いことも多いが、それを最初に思いついた人はエライ。
     著者は一年の大半を山小屋暮らしという動物好きな懐の深さがあったので、テキサス大学図書館でこの大きな写真を見た途端閃いたそうだ。
      さて、去年の今頃も書いたが、今年も庭にウメエダシャクという蛾が大発生している。
     大発生をしてユラユラ飛ぶので蛾といえば文句なしに蛾なのだが、昼間に飛ぶし蝶といえば蝶にも見える。
     丁度よい程度の動きなので孫に網を持たせたら、何度も失敗の後初めて補虫網でこの蝶(蛾)を空中でゲットした。もちろん、親には祖父ちゃんではなく「自分が捕った」と自慢した。そして網の中に手を入れて上手に虫籠に収めたから、師匠の祖父ちゃんは目を細めている。
     孫の初狩猟だから当分の間、ウメエダシャクは蛾ではなく蝶ということにしておこうと思っている。前述のとおり決定的な誤りとは言えないだろうし。
     エダシャクの幼虫は毛虫ではなく尺取虫だから少しだけ気分はおおらかである。


    2015年6月13日土曜日

    キェキェキェ

      大阪のテレビで大阪の芸人が、声を荒げて「ミナミあたりの中国人観光客のマナーが悪い」と言うのをよく見るが、そんな風なモノ言いの大阪人が全国的には「大阪人は品がない」などと顰蹙を買っていることをご存知ないのだろうか。
     中国語が大声に聞こえたりするのは、ドイツ語が固く聞こえるのと同じ文化の違いだから、それを情緒的に軽蔑するような発言は、訛のある人を嘲笑うのと同様で聞いていても楽しくない。
     奈良公園などを歩いていると日本語は少数派で多様な外国語が飛び交っているが、それぞれ特色だと思うと言語やしぐさに優劣はない。
      そういう中、もっと外国語ができたら友好が進むのにと反省しきりながら、100%ジェスチャーで私は国際交流を図っている。

     さて、梅雨本番といえば蝸牛もよいけれど、奈良公園といえば森青蛙がよく似合う。
     日本庭園に欧米人らしい人たちが来たので、ジェスチャーで「これを見よ」と話し?かけた。
     「ケロッグ」と言うと「フフン」という顔が返ってきた。そうかそれはコーンフレークだったと気づき、「フロッグ」と言い換えた。
      そして、木の上と池の中を交互に指して、「モ・リ・ア・オ・ガ・エ・ル」「ベ・イ・ビー」「オ・タ・マ・ジャ・ク・シ」と教えると、「オオー、モ・リ・ア・オ・ギャ・エ・リュ」「オ・タ・マ・ジャ・カ・シ」と何回も繰り返し、笑いあった。
     その後、彼らが私に「キェキェキェ」「キェキェキェ」というので、それをなぞって返したらまた笑い声になった。
     帰ってから調べてみると、Kikker キッケルはオランダ語で蛙のことだった。

    2015年6月12日金曜日

    油まき事件その後

      4月15日の「香油の祈り?」という記事で私は、「メディアは悪質ないたずら一本槍だが、作家・寮三千子氏が指摘するように信仰の形態かもしれない」と書いたが、その後報じられている限りではやっぱり信仰の一形態であったらしい。
     ただし、寮氏のトーンやそれを引いた私の記事は敬虔な気持ちで『香油を供えた』という方向で想像していたが、報じられた内容では『よくない神仏を清める』というもので、ある意味真逆のことで愉快ではなかった。
     一神教の原理を突き詰めると他神は全て邪悪なものとなるのかもしれないが、私はやはり寛容な宗教心が好きである。
      そんなため、明治政府の強制で一応表向きは華厳宗となっているが、「うちは何宗でもありません」というおおらかな東大寺が嫌いでない。
     中でも一番好きなのが『大仏の鼻くぐり』で、外国人観光客を見つけては「記念だからくぐりなさい」と100%ジェスチャーで勧めている。

      あの柱の場所ほど賑やかで国際交流が飛び交う宗教施設?はない・・とまで言ったら言い過ぎだろうか。
     彼氏彼女が帰国してから「そこにいた日本人に勧められて柱をくぐったのがこの写真だ」というように楽しく日本旅行の思い出を語ってくれたらと願っている。
     大仏の周辺では、油まき事件の補修作業が淡々と進められていた。

    2015年6月11日木曜日

    やまんば

     遠い遠い記憶がよみがえってきた。
     高校の文化祭で、演劇部の演じていた舞台、眞山美保作『泥かぶら』。
     その感動もあってか、生徒会で新制作座の公演を取り組み大成功させたこと。
     青臭い想い出の数々。
     そんなものだから働くようになってから、勤労者演劇協議会(労演)に入って、毎月新劇の舞台を観に行っていた。
     その頃の気分を、この本は思い出させてくれた。
     市原悦子の対談集『やまんば』、A5版変形×約500頁、正直なところ読み切るのに少々疲れた。
     それに、舞台はやはり東京で、時代はアングラ等が台頭し、この本で初めて多くの芸術家が時代と格闘していたことが解ったが、うすぼんやりとではあるが、ああ、あの時代にそういう人々がいたよなあ・・という、アバウトではあるが同時代性を感じさせた本である。

    対談者は、
     恩地日出夫、映画監督
     岩上廣志、教育者、僧侶
     中村美代子、女優
     林光、作曲家
     田中悳、音響効果家
     中田実紀雄、プロデューサー
     佐藤園子、演出家
     駒澤琛道、写真家、僧侶
     越智武彦、テレビプロデューサー
     大下晴義、プロデューサー
     堀貞雄、プロデューサー
     西川芳男、カメラマン
     大嶋敦子、スタイリスト
     川岸みさこ、スタイリスト
     早坂暁、小説家、脚本家
     三木敏悟、作曲・編曲家、指揮者
     ミッキー吉野、音楽家
     火口秀幸、タップダンサー
     沢柳則明、マネージメントプロデューサー
     柴英三郎、脚本家
     塙淳一、テレビプロデューサー
     赤司学文、プロデューサー
     坂本登美、ヘアメイク
     鶴巻日出雄、監督
     東原三郎、撮影
     石原武龍、シナリオライター
     ジャン・ミネオ、演出振付家、ダンサー
     鵜山仁、演出家
     小野武彦、俳優
     種倉保夫、舞台監督
     畑崎広和、舞台監督
     麿赤児、舞踏家、俳優、演出家、「大駱駝艦」主宰
     鐘下辰男、劇作家、演出家、「演劇集団THE・ガジラ」主宰
     小林勝也、俳優
     塩野谷正幸、俳優
     若松武史、俳優
     堀川とんこう、演出家、映画監督
     出目昌伸、映画監督
     構木久子、スクリプター
     沢部ひとみ、ノンフィクション・ライター
     竹山洋、脚本家
     村田喜代子、小説家
     石澤秀二、演劇評論家、演出家

     そして話の中の登場人物は数えきれない。
     要は、私がリアルなあまりにリアルな職業人生を送ってきたころ、こんな芸術や表現等について格闘していた人々がいたということ。
     纏めようもない余韻の残る本だった。

     市原 わたしは山姥が一番合っているってみなさんに言われるんだけど、好きなんですよね。山姥っていうのはね、障害を持って生まれた人とか、日本にたどりついた異国の人とか、それから伝染病を持った人とか、口減らしのために山に捨てられた人とか、とにかく不幸な人が山に入って、木の実を食べて生きなきゃならない。そのうちに肌は苔のようになって、髪もぼうぼうになって生きていて、一番痛みを知っているのが山姥なんですね、私の解釈では。

    2015年6月10日水曜日

    亀の瀬 補足

      昨日の記事に対して、「奈良県側三郷駅に出たら駅前にレストランがある」との情報を受けたので、それならばOB会の遠足の対象になるかも?と思い補足調査を行ってきた。
     先ず、亀の瀬から三郷駅までは2kmで、多くは下り坂でもあり『三郷駅に出るコース』は距離からは問題ないことがわかった。
     亀の瀬から500mのところには写真の峠八幡神社があった。峠とは字の名前であるが、文字どおり大阪と奈良を分ける峠でもある。
      しかし、三郷駅周辺には喫茶店、居酒屋等が合計2~3軒あるだけで、食事ができてビールが飲めるようなところは、いろんな聞き込みまでしたが見つからなかった。
     隣の王寺駅にはいっぱいあるが、そこまで歩くのも、一駅だけ乗車するのも「もひとつ」のように思われた。
     よって、結論は、やっぱりボツだろう。
      なお、せっかくだから写真の龍田大社に寄ってきたがこれは番外編のオマケ。
     秋の遠足だから、「あらしふく み室の山の もみぢばは 竜田の川の 錦なりけり」 もいいかもと思ったが、そんな思いつきの案は見事に風神に吹き飛ばされてしまった。
     龍田大社は日本書紀に登場する延喜式の式内社で風の神様。

    2015年6月9日火曜日

    亀の瀬をご存知ですか

     OB会の秋の遠足の一案を検討するために「亀の瀬」に行ってきた。
     柏原市の、JR大和路線(関西本線)河内堅上駅を降りて奈良方面に歩いて20分のところである。(この道は飛鳥時代に法隆寺と四天王寺を結んだ龍田越奈良街道で大阪側は渋川道。明治に大和川南岩壁を開削してのち国道25号線となる)
     大和川の河床に亀岩をはじめ多くの岩が露出する景勝地であるが、目的はそれではない。
     近頃は、火山だけでなく豪雨による土石流など人間のちっぽけさを再認識させる出来事が続いているが、「」の人々はそれでも原発を再稼働させるという。なので、今ひとたび自然の大きさを実感したいと思ってそこへ行ってきた。
     そこは、日本有数の「地すべり」の地で、国を挙げて「地すべり対策」をしてきた場所である。
     北は生駒・信貴山、南は金剛・葛城山の一毫の切れ目で、吉野以南の山岳地帯を除く奈良盆地(国中・くんなか)のほぼすべての水(川)がここへ集まって大和川となって、大阪府~大阪湾へと流れてゆく。
     その北側、信貴山側の斜面の下層に粘度性の高い地層があり、雨が降ったら上の地層が滑るというのが亀の瀬の地すべりである。
     そうなると、地上の建築物、構築物や田畑が破壊され、土砂は大和川をせき止める。
     その結果、奈良側の王寺町あたりで大和川が広範囲に氾濫・浸水し、その圧力が一定のレベルを超えるとダム化していた土砂が一挙に崩壊し、土石流となって旧大和川流域である柏原、八尾、東大阪、大東から大阪市東部に溢れ、深刻な浸水等の被害が発生する。(藤井寺、松原、堺も要注意)
     地すべり地は長さ1100m、幅1000m、最大厚さ70m、推定移動土塊量1500万㎥という大きなもので、近代以降も明治36年、昭和6~8年、昭和42年に大きな被害が生じている。

     故に、亀の瀬を知らずにのほほんと暮らしている奈良県民・大阪府民は、原発の危険性を知らずに誘致した地の人々を笑えない。
     ただ如何にも大阪的だと思われるエピソードは、昭和7年1月から3月には、多い日には一日2万人もの見物客が押し寄せ、紅白の幕をめぐらした「野天カフェ」が出現し、地すべり被害の写真の絵ハガキも販売されたという。ああ。
     そして、ここで行われた(ほぼ完成した)「地すべり対策」というものが想像を絶する大規模なもので、① 上部の土を904.330㎥排土、② 地表に2772mの水路工事(雨水を浸み込ませない)、③ 約3900本、合計147kmの管のボーリング、④ 集水井戸54基、7236mに及ぶ排水トンネル、⑤ 鋼管杭560本、深礎工170基(主力の55本は世界最大級の直径6.5m、深礎工の最大は96m、地上30階建てビル相当という桁違いな鉄筋コンクリート杭)・・・というものを見学してきた。(繰り返しになるが、この結果、奈良県民・大阪府民は暫し安心して暮らせている)
     昭和37年に建設省が本格的に工事を開始してから53年が経過した。かかった費用は知らないが、聞けば卒倒するような額だろう。
     地すべりでさえこうなのだから、原発事故は何世代にもわたって巨費を投入し続けなければならないだろう。亀の瀬を見てそう想像するのが大人ではないだろうか。

     さらに、オマケとしては超ビッグなオマケになるが、「鉄ちゃん」垂涎のトンネルにも入ってきた。
     これは、明治25年に完成した大阪鉄道(現関西本線)のトンネルで、昭和6年の地すべりで完全に壊れていたものが、トンネルの中間部分だけが山中に残っていて、前述の排水トンネル工事のときに偶然見つかったもの。
     以上、非常に楽しい見学会であったが、河内堅上駅周辺にビールを飲んで昼食できるような店は1軒もなく、これでは参加者のブーイングは火を見るよりも明らかだから、遠足の案としてはボツというのが私の結論となった。



      現関西本線は亀の瀬地区で大和川の南側へとわざわざ迂回している。





      排水トンネル見学のためのトンネル








      排水トンネル本体(それでも背丈はある)







      上から井戸を覗く(横から水が湧き、下から排水トンネルへ出ていく)








      汽車の走っていたトンネル(壁の煉瓦はイギリス積み、アーチ部分は長手積み)(正面は崩壊している)




      亀の瀬上空はノーテンキ
     (時鳥の声がコダマしていた)

    2015年6月8日月曜日

    謹告

     謹告、
     あす「亀の瀬」のレポートをアップする。
     妻は原稿について、「政治や歴史や文明(含花鳥風月)というラベルでなく、あっさりしていていい」と言ってくれているが、さてどうか。
     大和川は1704年(宝永元年、将軍綱吉)に付け替えられるまでは、河内平野に流れていた。
     だから・・・・・・
     大和・国中(くんなか)の人、河内の住人は襟を正して読まれたい。

    2015年6月7日日曜日

    何? 別の本

      書店に行くと『沈みゆく大国アメリカ〈逃げ切れ!日本の医療〉』という本が平積みにされていた。
     私は『沈みゆく大国アメリカ』がいつまでもよく売れているのだなと眺めていた。
     確かに私の読んでいたその内容は、「アメリカから医師が消える」「リーマンショックからオバマケアへ」「次のターゲットは日本」というような内容だったし、「集中治療室と一般病棟を行き来していた父が『国民皆保険制度がある日本に生まれて本当に良かった』と何度も繰り返した」とあったものだった。
     ところがツイッターを読んでいると、「沈みゆく大国アメリカの続編はまだですか」というのに堤未果氏が「5月20日に発行しました」と答えているではないか。レレレ、もしかして?
     書店に行って確かめると、それは2015年5月20日第1刷発行となっていて、つまり続編、別の本だった。
     こういう変わった書名を嫌いでない私だが、これには参った。

     さて、その『沈みゆく大国アメリカ〈逃げ切れ!日本の医療〉』だが、目次の大見出しだけを拾うとこうである。
     序 章 「臨終」の格差
     第1章 オバマもびっくり!こんなにアメリカ化していた日本医療
     第2章 (株)アメリカに学ぶ、大衆のだまし方
     第3章 マネーゲームから逃げ出すアメリカ人
     第4章 逃げ切れ!日本
     私には一連の氏のアメリカレポート同様どの章も参考になったが、先ず出だしの「介護」では、「公的介護保険のないアメリカでは、65歳を過ぎた高齢者が、医療費や介護サービスも含めて必要な資金は、インフレを考慮すると150万ドル(1億5000万円)と言われていること、現に老人ホームでは人手不足のため‟放置”されたまま変死に至る事件が頻発していることがショックだった。
     次いで氏は、日本人は世界中が嫉妬する日本の国民皆保険や高額療養費制度の素晴らしさを知らないと述べているくだりも納得させられた。
     また、当事者(国民等)を排除した経済財政諮問会議以降の各種諮問会議で戦後民主主義や福祉が壊されアメリカの強欲資本主義に提供されていっている日本の現代史の分析もそのとおりだと感心した。
     そして、混合診療、医療特区が「国民皆保険」を破壊するであろう指摘も事実の積み上げで説得力があった。
     
     私はほんの少し前、TPP推進論者がテレビの中で「米韓FTAを結んだ韓国を見習え!日本経済は韓国に突き放される」と叫んでいたことを思い出す。
     その韓国がアメリカの「金融植民地」となって各種制度が急速に疲弊していっていることもこの本では詳しい。
     そして、アメリカ資本主義の狙いの本命が日本であることは自明だと考える。
     「新聞を裏から表までしっかり読んでいるから世の中のことは解っている」という方もおられるが、私はやはり「本を読まないと頭の整理が不十分だ」と思っている。
     この本は日本国民必読の書だと信じている。

    2015年6月6日土曜日

    どさくさのチャンスに賭ける

      思想家・内田樹氏の分析はいつもながら的確に的を射ているように思う。
     私が頷いた諸点を拾ってみると・・・、
     大阪市の住民投票で維新は、巨額の資金を投じてカジノ誘致等で経済が浮揚するという一攫千金の夢物語を掲げた。
     それに対して反対運動を突き動かしたのは地域の求心力への素朴な信頼だった。言語、祭り、食文化、生活習慣、そういう具体的なものが地域住民を統合してきたのだから。
     安倍氏橋下氏に共通している「破壊願望」が大きな訴求力を持っていることは明らかで、破壊のもたらす爽快感・全能感が、現状に強い不満と閉塞感を感じている層にアピールした。
     もうひとつ共通しているのは弱者に対する不寛容で、他の人間が自分たちの払った税金に「ただ乗り」することは許さないという発想だ。
     どう考えても、自分も「弱い市民」たちが彼らを支持する理由は、「誰かが自分の取り分を横取りしている」という被害者意識と「制度を全部壊したら、どさくさに自分にもチャンスが巡って来るかもしれない」というかぼそい射幸心だ。・・・・というものだった。
     
     地域の求心力という提起については、堺市長選挙のときにそれを強く感じた。
     非常に深い歴史と伝統に裏打ちされた堺市で大阪都構想が拒絶されたのは正にそれだった。
     同時に、巨大ニュータウンを中心とした堺市南区では維新派が多数になったことも裏表の関係だと私は思う。
     そして大阪市住民投票では、堺市南区とよく似た区では「旧北区や旧中央区と合併された方が得にならないか」という意識が賛成票を稼いだに違いない。
     次の「破壊願望」については、在阪テレビ局の報道姿勢が非常に大きな扇動効果を発揮していると思っている。扇動は、下品な言葉であればあるほど効果がある。
     三つめの「弱者に対する不寛容」だが、これも、「誰もがホンネで言えば自分が可愛い」「きれいごとは建前で偽善や」的なテレビ発信の「本音の大阪論」的なものが果たした役割が大きい。
     同時に、義務教育の時代から競争を煽られ、利益と効率一辺倒の企業社会の中で、例えば力を合せて仕事をするというよりも、例えば「仕事の遅い同僚」を排除すれば自分の仕事が楽になると思う素地は既に蔓延しているように思う。
     この克服の方向を考えると、教員をはじめ宗教家、芸術家等の果たす役割は大きくなるに違いないだろう。
     そして、いろんな市民運動のリーダーたちが、日々の生きざまで地域や職場での連帯の形を作り上げていかなければならないと強く感じている。新聞記事の断片をおうむ返ししているだけでよいはずがない。
     大阪市住民投票が提起した問題は、遠い別世界の例外的な出来事ではないという理解が大切だ。

    2015年6月5日金曜日

    あの番組ほんとうですか

    ネットから
      秘密のケンミンショーという番組は相当大げさで眉に唾をして観なければならないが、その前宣伝で「大阪の人が春になると必ず食べる、他県にはないものがある」とあったらしく、「そう言っていたから若牛蒡のことやろね」と妻が言って、私もそう言われれば、あまり全国的でない大阪の春の食材なら若牛蒡だろうとうなずいていた。
     ところが、本番ではそれが『豆ごはん』だったので我が家ではほんとうに驚いた。つまり、他県というか関西から遠い地方では『豆ごはん』を食べないらしい。それほんとう?
     曰く、エンドウ豆の代表のウスイエンドウは羽曳野市の碓井地区でグリンピースから改良された品種で、関西以外ではあまり栽培されていない。だから他県の人が『豆ごはん』と聞くと給食に出てきたグリンピースの『豆ごはん』を想像して料理として評価されない。・・・というものだった。
     さて我が家だが、この春にも何回も『豆ごはん』を作って食べた。
     最初に作ったのは私で、妻が外出の日にスーパーでエンドウを買ってきて豆を取り出して炊いた。だから、「大阪(人)では春に『豆ごはん』を食べる」という番組のアナウンスは肯定する。
     しかし、他の地方ではほんとうに食べないの? 疑問に思って書棚の食べ物の本をいくらかめくってみたが、そのような記述は見つけられなかった。
     こうなれば文献を探すよりもネット世界の方が簡単かもしれない。
     読者の皆さん!「他県では『豆ご飯』を食べない」ってほんとうですか?

    2015年6月4日木曜日

    丸裸にされる

      この秋からマイナンバー制度がスタートする矢先に、年金機構から125万人の個人情報が流出した。
     マイナンバー制度はゆくゆくは「成長」して、個人の戸籍、資産、病歴等々が積み上げられていくことだろう。積み上げれば積み上げるほど政府や自治体にとって効率的で便利だからである。
     橋下・維新の言うように「無駄を省け」が公務にとっても絶対的な善とするなら当然の帰結となる。
     私はこんなブログを書いているぐらいだから公務のOA化に反対ではないし、「新しい技術の習得が面倒だからコンピュータが嫌い」というような主張には与しない。
     しかし、無駄と言われようが統合してはならないデータは統合してはならないと考えている。
     そこで、元に戻って年金機構の個人情報流出問題にシステムの面から感想を述べる。

     先ず、システムというものは『人間はミスをするものだ』という大前提に立って構築されなければならない。人がミスをしてもシステムがストップをかけるようにである。この考え方はそんなに突飛なものではなく、例えば労働災害防止の考え方としては、手を入れたら動かないプレス機でなければ使用してはならないという常識に類するものである。
     それを、「添付ファイルを開けた一部職員のミスで発生したもので今後は絶対に開けないよう徹底します」で済ませてはならないと思う。
     皮肉を言えば、年金機構の中心的な管理者たちはシステムを熟知しておらず人事管理で出世した者たちがほとんどではないかと推察する。

     次に、私はNTTとは何の利害関係もないが、正直に言ってNTTが受注を独占していた昔の方が行政のシステムが安定していたと思っている。
     だから、ここの話は難しいところだが・・・・、非常に高度なシステムの構築に関する専門家がいない行政体制のまま、何もかも競争入札ということで、表向きは透明性が高まり経費が節減されたと言われながら、実は能力の堕ちたつぎはぎだらけの会社やグループがシステムの構築を受注し、目を覆うばかりのシステムの劣化が起こっているように思えてならない。
     それが、大所高所から見ると業務の能率を著しく低下させており、国民の権利を危うくしていないかと心配している。
     緊急災害速報のシステムが全国的に機能しなかったことも思い出してほしい。
     私としては公会計の専門家が本気になって検討してほしいと願っている。

     最後にこれは想像だが、年金機構は職員の6割以上が非正規職員である。
     だとすると、マニュアルでは重要な情報には正規職員しかアクセスできないようになっていたと想像する。
     しかし、4割以下の正規職員では仕事にならないから、非正規職員がアクセスするのを事実上容認していなかっただろうか。
     ということは想像の範囲を超えないが、管理者の責任逃れのための画餅のようなマニュアルだったのではないだろうか。
     仕事にならない人員体制でカッコをつけようとすると、こういう事故が発生する。
     (※国会で理事長は「人が入れ替わる非正規雇用者にも大量の個人情報が入っている共有サーバーを扱える権限を与えている」と答えたが、個人情報保護の重要性をどのように認識していたのだろう
     多くの人々と本音で議論したいものである。
     マイナンバー制度が同じような風土の上に構築されるなら、個人情報の流出で個人が衆人の眼前で丸裸にされる事故は必ず発生するだろう。

    2015年6月3日水曜日

    椎名誠著『孫物語』

      椎名誠氏の代表作のひとつ「岳(がく)物語」を読んだのは今から30年前のことで、氏の長男の岳くんの何歳か後を追って成長する自分の息子とダブらせて楽しく読んだものだ。
     その本の中で氏が、広場が公園として整備されるにしたがって「あれも駄目」「これも駄目」と規制されていく現状に憤っていたことに私は共鳴し、当時、自治会の役員として同じような問題に直面していたので「綺麗な運動場より、子供たちが自由に遊べるただの公園がよくないか」と岳物語を引用しながら新聞に投書をして掲載されたこともある。
     その岳くんの3人の子ども、つまり椎名誠氏の孫に関わる「イクジイ」のエッセイがこの本である。
     だから、新聞紙上で紹介記事を見た限り、これを買わないという選択肢は私には考えられなかった。
     
     初孫誕生の連絡は外国(パタゴニア)で聞いた。
     南米の厳しい嵐がやってくる前の日だった。そこからさらに奥地にいく小型飛行機が飛ぶか飛ばないかの瀬戸際だった。
     海外での旅の停滞は嫌なものだから、ぜひ飛行機が出てほしい、と思ったが、パイロットは慎重だった。でもそういうときにいきなり「孫誕生」の知らせを聞いたものだから「パイロット無理すんな」と急に思考とタイドを変えた・・とは、冒険家シーナ氏の恥ずかしくも率直な感想だ。
     今年71歳の氏がこの本のあちこちで、自分の息子や娘の子育てのときは奥さんに任せっきりで、孫を通じて初めてのように「子育て」を実感しているというくだりを読んだときには、私の胸にも共感と大いなる反省がジンジンと突き刺さった。
     そして、親を送って・・子供たちが家を出て・・孫たちと接触する中で人生を思い『家族の時間は短い』と振り返った部分などは、諸行無常とでも言おうか、文句なく「そう、そう」と頷いてしまった。

     余談ながら、世界を冒険してきたシーナ氏ならではの『遊牧民は花が嫌い』という文化や価値観の「異文化性」などの指摘のように、イクジイでなくても楽しい話題もこの本の中には豊富にある。

     孫物語が、岳物語のときよりも格段に穏やかな展開に感じられるのも、椎名誠氏が歳を重ねたからか、読者である私が歳を重ねたからか、そんなことを思うと、私も淡々と「爺ばか日誌」をブログに書き溜めたいと再確認した読書であった。

    2015年6月1日月曜日

    笑うしかない辛さ

      「今朝のNHKの『あさイチ』はよかったで」と妻が教えてくれた。
     それは5月27日のことで、沖縄出身の南沙織の息子の(篠山)アッキーが母の生家もあった沖縄を尋ねるものだった。
     だからこの記事は妻からの伝聞が中心である。
     
      最初はいつもの観光地巡りのようだったが、那覇の国際通りや公設市場で店の人が「最近はオスプレイの騒音がひどくなった」と語ったり、アッキーが「1945年にガマから出てきたときは一面焼け野原で、日本人は収容所に入れられ、戻ったときにはフェンスが張られ米軍基地に接収されていた」と、沖縄の基地問題のそもそもを説明するなど、近頃のマスコミがスルーするような現実を素直に語った。
     また、母(南沙織)の生家は世界一危険と言われている普天間基地のすぐ側で、アッキーを憶えていた近くの商店の女性は「戦争が近づくと騒音(爆音)が大きくなるので戦争(ベトナム、アフガン、イラク?)が始まったことは肌で感じた」「ほんとうに怖い」と臨場感のあるレポートが続いた。
     それから、沖縄で人気のコント劇団?の稽古風景の取材になり、その劇では、おじいさんが臨終のときを迎え家族や縁者が見守り「おじいちゃん、何か言い残すことは」的な場面で、おじいさんが弱々しく最後の言葉を語ろうとしたとき、ゴーッという米軍機の爆音が続き、長い爆音が終わったときにはおじいさんは亡くなっていた・・というもので、「沖縄あるあるネタ」として県民の共感と笑いを得るのだという。
     スタジオも「そんなのを笑っていいの」的な空気が漂ったらしいが、妻も戸惑いを感じ、かつ納得できたらしい。
     アッキーのレポートも劇団のコントも素晴らしいと私は思う。
     私たちは、この一瞬戸惑うコントを観てハッとするところから理解が深まるに違いない。
     そして、「笑うしかない」とでもいうような沖縄の辛い現実を思うべきなのだろう。
     翁長知事がアメリカを訪問している。日本政府は「よい返事をしないように」米政府に圧力をかけている。マスコミは上っ面だけしか報じない。
     ネット上では「報道番組以上の情報番組だった」と称賛の声が多い。