2015年5月13日水曜日

橋下・維新は大阪人ではない

  親の出身地や本人の出生地、育った地等々の外形から「大阪人」であるかどうかを語る気はない。語りたいのは「大阪人」のバックグランドたる「こころ」の話であるが、参考文献は『五木寛之 こころの新書「宗教都市・大阪 前衛都市・京都」(講談社)』というなかなかに刺激的なタイトルの本である。
 奥深い著作を一言で言うことは困難だが、東京に対するカウンター・カルチャーのような感じで論じられ、合理的な経済功利主義者のようにステレオタイプで論じられることの多い「大阪人」という定義に著者は疑問を呈し、実はある種のマックス・ウェーバー的なプロテスタントの勤勉とか倹約とか労働を大事にする、石山本願寺以来の真宗の信仰心がその特徴だと論じている。
 実は非常に保守性が強いと言われている「お雑煮」を見ると、船場にルーツのある我が家の「お雑煮」は、実は近江の「お雑煮」と同じで、これは大阪の「お雑煮」が近江に広がったと考えるよりも、近江商人が核になって大阪の商家の文化を形作ったと考えられる。近江が真宗王国であることも有名なことである。
 蓮如さんの本願寺が諸芸(人)を積極的に取り入れたことが今日の大阪文化に繋がっていることも興味深い指摘だが、結局、テレビの中の吉本的なものがステレオタイプの「大阪人」を全国に撒き散らせていると私は思う。
 「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」も、そういうフレーズの中で成長したもので、本来は「もうかりまっか」「おかげさまで」という感謝の言葉で応えられていたという指摘もうなずける。
 私の言いたいこともおおよそ察しがついたと思われる。
 「嘘も方便」とばかりに「投票に勝ちさえすればよい」という橋下・維新の言動は、本来の「大阪人」の精神性の対極のものである。
 住民投票最終盤に彼らはいろんな嘘を連発するだろうが、それは決してほんとうの「大阪人」を納得させられないだろう。
 とはいえ、真宗的世界観を端的に表した言葉には「一寸先は闇」という仏教思想もある。
 勝手に油断することだけは注意したい。

2 件のコメント:

  1. 今朝の「毎日」に「民意と呼べる住民投票を」という読者投稿がありました。その中で、議論の拙速さを指摘し、「一党派に偏った法定協議会での提案だと言えば乱暴に過ぎるだろうか?」と危惧し、「民意と呼ぶにふさわしい投票数を望みたい。市民として恥ずかしくない投票権を行使したい。」と結んでいました。立派な市民だと感じ入りました。

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  2.  関連しているかどうか判りませんが、在阪テレビ局の「内容は判らんけど、何か変えなあかん」的な報道姿勢が市民の『思考停止』を生んでいると思います。
     ハンナ・アーレントは読んでいませんが、その種の思考停止がファシズムを生むのだと指摘していると、藤井聡先生が語っています。
     「ノリや雰囲気で賛成するのは罪に値する」と舌鋒はスルドイ。

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