2015年3月21日土曜日

膳臣を探す

  今日は、中学校の試験でヤマを張ったら当ったという程度の話を書く。
 2月16日の「古代史の魅力」の続きになる。
 なので、2月16日の「古代史の魅力」をとりあえず斜め読みしていただきたい。
 さて、2月の講義で小笠原好彦先生から「膳臣〈かしわでのおみ〉の墓(古墳)が何処にあるかを考えてきなさい」と宿題が出されて私は悶々とした日々を送ってきたが、私の答案は次のようなものになった。

 ① 埼玉(さきたま)稲荷山鉄剣銘文によると、ヲワケの臣がワカタケル大王に仕えていた。これが詐称とは思えない。
 ② ワカタケル大王は雄略=倭の五王の「」と考えられるから、宋書倭国伝の「478年遣使」からしてヲワケの臣も5世紀後半の人物である。
 ③ ヲワケの臣は「7代前の上祖がオホヒコだ」と言っている。とすると書紀・崇神紀の大彦の実在性が高い。上祖がオホヒコであったかどうかは別にして、ヲワケが「上祖はオホヒコだと言っている」ことがポイントである。
 ④ 書紀・孝元紀(欠史8代の7代目)に「大彦命は膳臣の始祖なり」と書かれているから、今回宿題の膳臣はヤマト王権の初代大王と考えられる崇神(神武は崇神と同一人物若しくは大王でないと考えられる)以降の初期の頃の「中上級豪族」である。
 ⑤ 膳臣とは文字どおり料理番であり、大王に非常に信頼の厚い、つまり毒を盛られる心配のない豪族であった。
 ⑥ 大王の料理番が地方に居るわけがないから、膳臣は初期のヤマト王権の中心地に遠くないところにいた。
 ⑦ 新撰姓氏録に「膳臣が天武12年に高橋朝臣と改名を賜った」とあるから、「高橋」に住んでいたかもしれない。なお、天理市櫟本町に旧高橋邑がある。
 ⑧ 以上から、膳臣の墓は、◎初期の古墳である、◎ただし大王規模の巨大古墳ではない、◎初期の大王に近しい豪族のためその形状は前方後円墳である、◎初期の大王墓があると考えられている大和古墳群、柳本古墳群から遠くない、・・と考えられ、それに該当する古墳を各種論文、著作等を探した結果、私は『東大寺山古墳』がそうではないかと想定した。
 
 さて、以下は3月の小笠原先生の講義で学んだこと、
 ① 書紀・武烈11年に影姫が平群鮪(へぐりのしび)を悼んだ歌があり「石の上、布留、高橋、大宅、春日、佐保(以上すべて地名)を過ぎて泣き行きた」とあり、櫟本あたりに高橋があった。
 ② そこには今も和邇下神社があり和邇氏の地(本貫)である。なお膳と和邇とは同族である。
 ③ 聖徳太子の妃の一人は膳大郎女でその父は膳臣傾子(かたぶこ)である。
 ④ 太子は生母・穴穂部間人皇女のために中宮寺を建てた。
 ⑤ 和邇庄に8世紀の願興寺の址というのが現在あるが、ここからは、はるかに古い中宮寺と同じ軒丸瓦が出ているから正しくは膳臣傾子の建てた寺であろう。つまり、天理の旧高橋邑は膳の地である。

 よって先生は、現代の考古学から得た知見を総合すれば、膳臣の墓は東大寺山古墳と考えられるとおっしゃられた。

 なお、東大寺山古墳は盗掘されていなかったため、多種多様な副葬品が発見されているが、その中に金象嵌の紀念銘のある太刀があった。
 訓読すると、『中平☐年五月丙午に支刀を造作す。・・・』であり、中平は後漢の元号で西暦184~189年である。
 とすると、この太刀が早くに日本列島に渡っていたとすれば、倭国の大乱、女王卑弥呼の邪馬台国、前方後円墳のヤマト王権という時代を潜り抜けて、見つめてきたということになる。
 だからこの話は、日本古代国家成立過程をどう理解するかということと関わるとてつもなくスケールの大きな話の一部である・・・・と、小笠原先生は指摘されている。
 だが重ねて断わっておくが、私の答案にはそんなスケールはなく、他人の本を読み漁って鉛筆を転がしたようなヤマが当っただけのことである。

 3月の講義のとき、近くに座った受講生が「先生に答は藤の木かキトラ古墳!て言うたら先生にブブーって言われた」と嘆いていた。そして私に「どう思う」と聞くので「キトラも藤の木も時代がはるかに新しすぎる。私は東大寺山古墳と考えてきた」と意見を言ったので、あとでくすぐったいほど感心された。
 考古学の世界では、「墓誌も出ていない古墳の被葬者を検討することは考古学の本流ではない」という意見もあるが、小笠原先生や白石太一郎先生などは「遺跡・遺物と文献史料を検討して歴史を解き明かそうというのは邪道ではない」と強く主張されていて、私はその意見に強く共鳴している。
 ・・・なので、少しウキウキした気分で半分自慢話のような「趣味の勉強」の話を書いた。
 「それの、どこがウキウキするほど面白い箇所なのか?」と聴かれても説明のしようがない。

【4月18日追記】 コメントに書いてみたが、先生の講演内容を私が記述した箇所に不十分さがあるので本文に追記する。小笠原先生から次のように丁寧な指導を受けた。
 「高橋はワニの本拠地にふくめて考えられているが(岸俊男説でも)、ここにはワニの一族とともに、膳氏も本拠地としており、阿倍氏とともに大彦を同祖とすることからみて、膳氏の本拠地であったとみなされます。それで、ここの東大寺山古墳は被葬者として膳氏の祖先が、倭王権からいつ下賜されたかは明らかにしにくいが、被葬者が宝器としてもっていたものであったと理解するのがよいと思います。併せて、倭王権の初期には、膳氏が王権内部の職掌と外部の軍事的、外交的な部門にもかかわる有力氏族であったことを、あらためて評価することが必要になります。」
 ‟下賜された宝器”とは金象嵌の紀念銘の太刀のことだと思われる。
 このブログを読んでいただいた先生に感謝、感謝だが、目いっぱい背伸びをして書いたものなのでちょっと恥ずかしい。

2 件のコメント:

  1.  古代国家や古代天皇は直接的には現下の政治や経済と関係はないかもしれないが、この国の文化や私たちのアイデンティティーに思いを馳せると、やっぱり気になり、できるだけ解明し理解したいと思う。
     いや国会で神武天皇由来の八紘一宇を真顔で主張する人物が現れているから、近代史と古代史を併せて批判できる力も大切だろう。
     私は、つい最近まで日本書紀など鼻にも掛けていなかったが、考古学や大陸の記録と照合する中で、これは侮れないという感を強くしている。
     ただ古代史関係の書物は玉石混交、言うたもんが勝ちというほど非科学的なものが多いから、変な説に迷い込むと収拾がつかなくなる。

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  2.  私のこのブログを小笠原先生に読んでいただいたところ、先生から次のようなご指摘をいただいた。そんなメールをここに掲載してもよいものかどうか迷ったが、本文で私が「3月の講座でこう学んだ」というように書いた内容についての赤ペンであるのでお許しいただけるだろう。以下、先生からのご指摘。
     【私の講演のところで、一か所、高橋はワニの本拠地にふくめて考えられているが(岸俊男説でも)、ここにはワニの一族とともに、膳氏も本拠地としており、阿倍氏とともに大彦を同祖とすることからみて、膳氏の本拠地であったとみなされます。それで、ここの東大寺山古墳は被葬者として膳氏の祖先が、倭王権からいつ下賜されたかは明らかにしにくいが、被葬者が宝器としてもっていたものであったと理解するのがよいと思います。
     併せて、倭王権の初期には、膳氏が王権内部の職掌と外部の軍事的、外交的な部門にもかかわる有力氏族であったことを、あらためて評価することが必要になります。】

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