2015年3月31日火曜日

続 日曜大工

  3月26日の記事のコメントの続きである。

 写真の場所は右の方(鏡の中)の歩道橋の上から自転車が結構なスピードを出して下ってくる。
 「子供の飛び出し注意」や「スピード落とせ」は何枚も表示しているが、それで済むほど世の中は甘くない。
 その上に、その角がキチキチいっぱいまである直角の擁壁のため十字路の見通しが悪いものだから、出合い頭の事故が心配だ。
 なので自治体にカーブミラーの設置を再三要求してきたが、一言で言ってらちが開かない。
 曰く「歩道にカーブミラーは原則設置しない」「予算の順序がある」等々等々。
 「ミラーを付けたらミラーに頼ってスピードを落とさなくなるという意見もある」とまで言うが、それは自治体が言うたらあかんやろ。
 本音のところは、設置する場所は当方の自治体だが「この十字路そのものは隣の自治体」と言いたいのだろうか。なんともまあ度量の狭いことである。
 事故が起こり怪我が起これば住民票は関係ないのに・・・・。
 で、3月26日の記事のコメントの続きになるが・・・

 もういい!! 自治体がしないなら私がやってやる!
 ・・・と、私は自分自身に対して「やってみなはれ」と激励した。
 さて、インターネット通販を調べるとウソのように安いミラーがあった。耐久性が心配だがその時は更新すればいいと考え、クリックしたら翌日には到着した。
 支柱はホームセンターで廉価な塩ビ管を購入した。塩ビ管の中に入れる杭は家にあった。
 だから材料費は以上で終わり。
 ‟塩ビ管”ではないけれど、日曜大工は廉価な材料を見つけてどのような工事をしようかと考えるのが一番楽しい。(高い材料で普通どおりするのは面白くない)
 このカーブミラー、まあ普通には「年度末にようやく自治体が建ててくれたか」と通行の人々は思う程度の出来栄えではないかと思っている。(塩ビ管を使っていたりして自治体の工事などと誰も思うはずがないか?)
 それでいい。
 前の記事に書いたが、ミラーの向こうの「飛び出し注意」の看板はソーラーライトで見えるように大工工事終了済みである。
 ほんとうは、ハイウェイのトンネル内にスピードを感知して「スピード落とせ」と電光表示されるものがあるが、あのアレンジができないかとも思っているが、「そこまではな~」と私のつまらぬ常識が躊躇させている。
 それに、お金も少々かかるので、それは私の日曜大工のコンセプトをはみ出している・・・と自分に言い聞かせてブレーキをかけている。

2015年3月29日日曜日

津軽のわらべうた

  孫の成長は祖父ちゃん祖母ちゃんを驚かせる。
 この間は「はるすぎて なつきにけらし しろたえの ころもほすちょう あまのかぐやま~」(新古今)と空で詠ったので驚いた。
 孫の名前の元となった歌だからと親が教えたのだろう。
 冷静に考えると訳も分からないまま言葉を覚えただけだろうから「ちょと待ってちょと待ってお兄さん。ラッスンゴレライってなんですの?」を覚えたこととなにも変わりがないのだが、犬養節に聞こえた祖父ちゃん祖母ちゃんには「和歌の世界が理解できるようになったんだ」と思えてしまうのだ。
 そして、「ひらがな」もまあまあ読めるようになった。
 ところが「ひらがな」だけの短い絵本が我が家にはなかったし、児童文学の幼児用でも少し話が長いようだ。
 で、いろいろ書架を探し回ったら、ふじたけんじ の版画の絵本「津軽のわらべうた」が出てきた。
 ちょうど現在の孫のレベルにぴったりだ。
   とんび とんび
    おれのえ まわれば 
   にしのかわ けるはで
    まーわれ
 でもね、ひらがなは読めるが、こんな短い文章でさえ私でも判り難い「外国語?」が多い。
 「日本は広い$%&#?」と、標準語でさえ怪しい関西人は唸っている。
 和訳?をしてコメントに書いてみてほしい。

 だから孫も外国語みたいな津軽弁は敬遠して、・・・しかくはとうふ・・・とうふはしろい・・・*・・・ほおずきはなる・・・なるは へ・・・へはくさい・・・くさいはべんじょ・・・べんじょはしかく・・・しかくはとうふ・・・とうふはしろい・・・(エンドレス)・・・の方が気にいったらしい。
 そう、子どもたちは「うんこ」や「おなら」の話が大好きだ。
 だから祖父ちゃんも一緒に「へ~はくさい」「くさいはべんじょ」と大きな声で歌っている。

2015年3月28日土曜日

フォトムービーの試作

  わが自治体主催のパソコン講習会(フォトムービー作成)に行ってきた。
 2時間半の講習で解ったような気になって帰ってきてから復習してみたがなかなか上手くいかない。
 マニュアルを見ずに勘だけで触るからいけないことは解っているが悪い癖である。というか、そういう風に元に戻って調べるのが億劫に感じられるというのは明らかに「老化」の特徴である。
 何よりも驚いたことは平日の日中だからだろうが、受講者全員が高齢者で、どう見ても私よりはお歳上で、80歳を過ぎているという方がほとんどだった。
 こうなると「もう歳ですから」という言い訳は通用しないし、「負けてられない」という前向きの気持ちも湧いてきた。
 退職して一番不便なことは、すぐ近くにパソコンについて尋ねられる若者がいないということだが、この会場に湧き上がってきたかのような逞しい高齢者連中はナンダ!

 さて、フォトムービーの試作品、上手く観ていただけるかどうか。
 映るかどうかも自信がないが、とりあえずアップする。
 
 今回使用したものは特別のソフトではなく、Windowsの中に含まれている「フォトギャラリー」と「ムービーメーカー」である。




2015年3月27日金曜日

医療費が倍に

  退職者会の会報・新年号に(所得税の)「確定申告をしてみたら」という記事を提稿し、その中で、「予想していなかったことだが波及効果で結果として65歳以上70歳未満の低所得者ということで老人医療(基本が3割負担)の自己負担が【1割負担】になった」と書いたが・・・、(この話は同輩方にはちょっと新鮮だったらしく酒席で大きな話題になった)
 ・・・・・・それがこの4月から【2割負担】になった。
 確かに一昨年に比べて昨年は控除対象医療費が少なくて済んだが大幅に減った感じもない。う~む。
 そこで説明書きをよく読んだら、【1割負担】が制度的になくなり、最低水準が【2割負担】になったことが解った。そういえば、そのようなニュースを読んだこともある。
 ニュースの時には迂闊にも自分が該当するとは思っていなかった。
 「70歳から74歳は国の制度で2割負担に改悪されてしまったから、このままだと福祉対象者は70歳になると1割負担から2割負担になり75歳からまた1割負担になる」「その70歳の‟負担増”に抵抗感が生じるからその前から最低でも2割負担にしよう」というのが京都府の考えだった。そうだった。
 2割負担は1割負担の倍である。つまりは医療費が倍になるということである。
 「福祉医療」なんて遠い世界の出来事だと思っていたのがよくなかった。
 これほど地方自治を身近に感じたこともない。
 安倍自公政権とその潮流が続くと、少子高齢化を錦の御旗にした福祉切り捨て政策が一層進むだろう。
 それに対抗するためには、医療費や保険料等の領収証を必ず保管しておいて、所得税の確定申告若しくは住民税の申告に対応することが大切だ。
 そして、自治体の福祉政策を監視し、声を上げていかなければならない。
 今は、ちょうど統一地方選挙真っ最中。
 地縁血縁で付き合っている場合ではない。

2015年3月26日木曜日

日曜大工のための大工

  冬の間中は寒さに震えて冬眠していたが、「吉野デンドロン」とともに春の匂いを嗅ぐと花粉症も忘れてむやみやたらにドアの外に出たくなり外に出はじめている私。
 そして、必要に迫られて何かをするというのでなく、日曜大工をしたいがために大工をしはじめている。
 先ずやったのは、座らずに立ったまま作業が行える屋外の洗い場(シンク)の設置。これは珍しく少し材料費がかかった。
 それから、作ってあったBBQテーブルのペンキの塗り替えと補修。これは手持ちの材料ばかりで無料で済んだ。
 さらにおまけで、写真の新しいBBQテーブルをもうひとつ作成した。
 元々あったBBQコンロを使ったものだから支出は若干の木材費だけ。
 これでGW頃にBBQパーティーが、肉系と水産系に分けて実施できると夢見ている。
 先日帰ってきた娘が「BBQテーブルが増えている!」と喜んでくれた。
 それでも物足りないので、巻尺を持って馴染の老人ホームに行き、気になっていたベンチの補修方針を考えた。
 というほど難しい話ではないので、考えた設計図どおりの木材を加工して用意し、メンテナンスを完了した。
 このように、この頃は小物の補修はいっぱいあるが、何かもう少し大きな作業はないものかと探している。
 さて思い出してみると、1960年代までは物干しも梯子もみんな木製で手作りだった。家の壁板だって自分たちで補修していた。
 いま、「レジリエンス」という本を読んでいる最中だが、レジリエンスとは「しなやかな復元性」のことらしい。
 そんな折、東南アジアの災害復興に取り組む高校生と東北の高校生の交流がテレビで放映されていた。そして彼の地では、公的な支援がほんとうに乏しい中で、住民は自分たちで家を建てていて考えさせられた。
 いっしょくたに論じられないことは重々わかっているが、この国の現代人は個々人の復元力が大いに弱っていないだろうか。
 先日自治会の防災会から「災害時に役立つ技術をお持ちの方は登録をお願いします」という要請があったが、振り返ってみると私には何もなかった。
 心の中では「ガスも電気も止まっても御飯は炊ける」と思ったが、馬鹿にされそうなので登録はしていない。

2015年3月24日火曜日

少子化論という棄民思想

 何気なくテレビをつけたら「ニッポン空き家列島の衝撃」という番組をやっていて、労働規制緩和、行政民営化などで辟易させられた規制改革会議や経済財政諮問会議の主要メンバーのひとり八代尚宏氏が映っていた。
 「人口減少時代になった。20年後には3軒に1軒が空き家になる。地価は下落しライフラインは維持できなくなり犯罪や放火が頻発する。だから老人は都会の介護付有料老人マンションに移住し、(田舎の)実家に住み続けたいなどと我儘を言うな」というような議論が展開されていた。
 若者たちには、「高齢者がいる限りコンパクトな居住街以外のライフラインは面倒見きれないから君たちも覚悟せよ」と言っていた。
 人口減少時代を大義名分にして、福祉の切り下げ、高負担、公務員攻撃が地方自治の舞台でも本格化するようだ。
 穏やかな隠居生活は逃げ水のように逃げていく。
 
 このテレビ番組のネタ本は、日本創生会議(元総務大臣・元建設官僚増田寛也座長)の人口減少問題検討分科会報告(通称増田レポート)で、中央公論でキャンペーンが開始されたのち、新聞やテレビで「この県ではあと何年で何割の自治体が消滅する」と面白おかしくセンセーショナルに先行して報じられている。
  これに対する分析・批判は山下祐介著「地方消滅の罠」(ちくま新書)などで、「そもそも現状分析が正しくない」とか「選択と集中は危険な考え方」だとかというように明らかにされ、「各地方で実践されている事業の展望」などが縷々語られていて非常に参考になる。

 さて、「ショックドクトリン」という言葉があるが、単純なフレーズが膨大に繰り返されるとショックドクトリンと同じような効果が引き起こされるように思う。
 大阪でいえば「大阪府と大阪市という自治体が二つあるのが無駄だ」という幼稚なフレーズであるが、それでも繰り返され、メディアが拡散すると「そういうものか」という意識が庶民に広がる。
 「地方は消滅する」論も、これでもかと繰り返されると、「長生きして申し訳ない」とか「実家に住みたいというのは我儘だろう」とか「もう私たちは『選択』されない方の人間なんだ」と思わせることだろう。
 だから心ある人々は、増田レポートの各種の誤認や歪曲を批判し、自治体の未来を語らなければならないように思う。
 ポイントは、人間や生活や社会というものを単純な経済と効率という物差しだけで斬って捨てる危険である。
 「地方消滅の罠」は新書で300頁と言う大部であるが、暇なときに一読しておく価値はある。

2015年3月22日日曜日

春を告げる花たち

  お彼岸でお寺に参ってきた。
 さて、曼珠沙華のことを(秋の)彼岸花と言うなら、春の彼岸花というのもあってもよいが・・。
 とは思うものの、春の彼岸はいろんな花々がこの時を待っていたかのように咲き競うので何を彼岸花と言ってよいか特定するのが困難だ。
  写真のスミレは寒風吹きすさぶ冬の間も順に幾つか咲いてはいたが、やはり「スミレの花咲くころ」はこの季節だろう。
  写真は、野生種に近い質素さを好んで庭に植えたもの。けっこう気に入っている。
 冬が終わって春の野に目をやると・・・といった気分。
 次の写真の沈丁花は、その土地土地によって開花期が異なるが、我が家の沈丁花は(春の)彼岸花と言ってもよいほどカレンダーに忠実で、この香りをかぐと「年度末だな~」という気分がよみがえる。
 もう何年も「年度末や年度始」というカレンダーとは関係が切れているのにおかしなものである。
 ただこれは花というよりも香りが主役で、彼岸花というにはしっくりこない。

  その次の写真の侘助(侘助椿)もいいが、我が家の小さな木ではこれも彼岸花とまでは言い難い。
 もう何十回と植え替えたりしたので大きくならないが、けなげに毎年咲いてくれている。

 最後の写真は蕾が膨らんできた『吉野デンドロン』、正式には「ロードデンドロン吉野」という。
 けったいな名前やな~と思いながら20年近く過ごしてきた。
 もうすぐ花が咲くと相当な存在感を醸し出す。
  そんなもので、毎年「この花は何ですか?」と聞かれるので先日名札を提げた。
 その時調べて解ったことだが、私は単純に「ツツジの一種」だと思っていたのだが、実はツツジとシャクナゲの交配種だった。
 言われてみればシャクナゲの雰囲気もある。
 ほんまもんのシャクナゲは何本も枯らしてきたが、ハイブリッドだけが残ったことになる。

 ホームセンターで丁度盛りの花を買って来るのもよいが、冬の間、庭でじっと耐えてきた草や木が咲くのには、文句なく可愛いという感情が生まれてくる。
 遊歩道も、レンギョウ、ユキヤナギ、ベニスモモ、モクレンが慌てて咲き始めた。
 

2015年3月21日土曜日

膳臣を探す

  今日は、中学校の試験でヤマを張ったら当ったという程度の話を書く。
 2月16日の「古代史の魅力」の続きになる。
 なので、2月16日の「古代史の魅力」をとりあえず斜め読みしていただきたい。
 さて、2月の講義で小笠原好彦先生から「膳臣〈かしわでのおみ〉の墓(古墳)が何処にあるかを考えてきなさい」と宿題が出されて私は悶々とした日々を送ってきたが、私の答案は次のようなものになった。

 ① 埼玉(さきたま)稲荷山鉄剣銘文によると、ヲワケの臣がワカタケル大王に仕えていた。これが詐称とは思えない。
 ② ワカタケル大王は雄略=倭の五王の「」と考えられるから、宋書倭国伝の「478年遣使」からしてヲワケの臣も5世紀後半の人物である。
 ③ ヲワケの臣は「7代前の上祖がオホヒコだ」と言っている。とすると書紀・崇神紀の大彦の実在性が高い。上祖がオホヒコであったかどうかは別にして、ヲワケが「上祖はオホヒコだと言っている」ことがポイントである。
 ④ 書紀・孝元紀(欠史8代の7代目)に「大彦命は膳臣の始祖なり」と書かれているから、今回宿題の膳臣はヤマト王権の初代大王と考えられる崇神(神武は崇神と同一人物若しくは大王でないと考えられる)以降の初期の頃の「中上級豪族」である。
 ⑤ 膳臣とは文字どおり料理番であり、大王に非常に信頼の厚い、つまり毒を盛られる心配のない豪族であった。
 ⑥ 大王の料理番が地方に居るわけがないから、膳臣は初期のヤマト王権の中心地に遠くないところにいた。
 ⑦ 新撰姓氏録に「膳臣が天武12年に高橋朝臣と改名を賜った」とあるから、「高橋」に住んでいたかもしれない。なお、天理市櫟本町に旧高橋邑がある。
 ⑧ 以上から、膳臣の墓は、◎初期の古墳である、◎ただし大王規模の巨大古墳ではない、◎初期の大王に近しい豪族のためその形状は前方後円墳である、◎初期の大王墓があると考えられている大和古墳群、柳本古墳群から遠くない、・・と考えられ、それに該当する古墳を各種論文、著作等を探した結果、私は『東大寺山古墳』がそうではないかと想定した。
 
 さて、以下は3月の小笠原先生の講義で学んだこと、
 ① 書紀・武烈11年に影姫が平群鮪(へぐりのしび)を悼んだ歌があり「石の上、布留、高橋、大宅、春日、佐保(以上すべて地名)を過ぎて泣き行きた」とあり、櫟本あたりに高橋があった。
 ② そこには今も和邇下神社があり和邇氏の地(本貫)である。なお膳と和邇とは同族である。
 ③ 聖徳太子の妃の一人は膳大郎女でその父は膳臣傾子(かたぶこ)である。
 ④ 太子は生母・穴穂部間人皇女のために中宮寺を建てた。
 ⑤ 和邇庄に8世紀の願興寺の址というのが現在あるが、ここからは、はるかに古い中宮寺と同じ軒丸瓦が出ているから正しくは膳臣傾子の建てた寺であろう。つまり、天理の旧高橋邑は膳の地である。

 よって先生は、現代の考古学から得た知見を総合すれば、膳臣の墓は東大寺山古墳と考えられるとおっしゃられた。

 なお、東大寺山古墳は盗掘されていなかったため、多種多様な副葬品が発見されているが、その中に金象嵌の紀念銘のある太刀があった。
 訓読すると、『中平☐年五月丙午に支刀を造作す。・・・』であり、中平は後漢の元号で西暦184~189年である。
 とすると、この太刀が早くに日本列島に渡っていたとすれば、倭国の大乱、女王卑弥呼の邪馬台国、前方後円墳のヤマト王権という時代を潜り抜けて、見つめてきたということになる。
 だからこの話は、日本古代国家成立過程をどう理解するかということと関わるとてつもなくスケールの大きな話の一部である・・・・と、小笠原先生は指摘されている。
 だが重ねて断わっておくが、私の答案にはそんなスケールはなく、他人の本を読み漁って鉛筆を転がしたようなヤマが当っただけのことである。

 3月の講義のとき、近くに座った受講生が「先生に答は藤の木かキトラ古墳!て言うたら先生にブブーって言われた」と嘆いていた。そして私に「どう思う」と聞くので「キトラも藤の木も時代がはるかに新しすぎる。私は東大寺山古墳と考えてきた」と意見を言ったので、あとでくすぐったいほど感心された。
 考古学の世界では、「墓誌も出ていない古墳の被葬者を検討することは考古学の本流ではない」という意見もあるが、小笠原先生や白石太一郎先生などは「遺跡・遺物と文献史料を検討して歴史を解き明かそうというのは邪道ではない」と強く主張されていて、私はその意見に強く共鳴している。
 ・・・なので、少しウキウキした気分で半分自慢話のような「趣味の勉強」の話を書いた。
 「それの、どこがウキウキするほど面白い箇所なのか?」と聴かれても説明のしようがない。

【4月18日追記】 コメントに書いてみたが、先生の講演内容を私が記述した箇所に不十分さがあるので本文に追記する。小笠原先生から次のように丁寧な指導を受けた。
 「高橋はワニの本拠地にふくめて考えられているが(岸俊男説でも)、ここにはワニの一族とともに、膳氏も本拠地としており、阿倍氏とともに大彦を同祖とすることからみて、膳氏の本拠地であったとみなされます。それで、ここの東大寺山古墳は被葬者として膳氏の祖先が、倭王権からいつ下賜されたかは明らかにしにくいが、被葬者が宝器としてもっていたものであったと理解するのがよいと思います。併せて、倭王権の初期には、膳氏が王権内部の職掌と外部の軍事的、外交的な部門にもかかわる有力氏族であったことを、あらためて評価することが必要になります。」
 ‟下賜された宝器”とは金象嵌の紀念銘の太刀のことだと思われる。
 このブログを読んでいただいた先生に感謝、感謝だが、目いっぱい背伸びをして書いたものなのでちょっと恥ずかしい。

2015年3月19日木曜日

キャンプ場でないという真実

  写真はネット上の「画像」で見つけたものだが、私の言わんとすることにほゞ間違いないと思う。
 堤 未果(ジャーナリスト・作家)さんの『沈みゆく大国アメリカからの警告~未来への選択~』という講演の冒頭にプロジェクターで映されて見たテント村である。
 これが人気のキャンプ場ではなくロス郊外の公園であること、そしてアメリカのすべての州の公園にこういうテント村が現在生まれていることを私は知らなかった。
 3月8日の記事で、 私はABE首相の吹き出しで「汚染水はコントロールできないが、情報は完全にコントロールできている」と書いたが、ほんとうに私もコントロールされている一人であった。
 これは生活保護を5年満了で打ち切られたホームレスのテント村で、このように急増しているホームレスは政府統計の失業人口と失業率から排除されるため、アメリカのほんとうの失業率は20%ぐらいと言われている。
 失業率20%と聞くと「何かの間違いだろう?」と思ってしまうが、生活保護受給者が6人に1人、定職なしが10人に6人、医療破産(保険に入っていたが破産した人)が年に90万人、学資ローン破産が500万人、フードスタンプ(一種の生活保護)受給者が5000万人と数字を提起されるとそうなのだろう。
 講演後に高名な元大学の先生が、「1960年代などには夢の国、自由と民主主義の国であったアメリカがどうしてこうなってしまったのだろう」と若き日の留学先について述懐を込めておっしゃったのが印象的だった。
 堤さんの講演は、健康保険制度のなかったアメリカの医療制度の問題点、アメリカ版皆保険(オバマケア)はそれを変更できなかったことを数々の事実で解き明かしてくれた。
 オバマケアは皆保険といっても多種多様な民間保険であること、だから、保険に入っていてもお金が下りない、治療が受けられないことが日常茶飯事に起こること、病院に行かずに売薬で対処しようとしての薬の誤服用等の事故者が年間7万人以上いること、れっきとした大企業のホワイトカラーでもひとたび大病に罹ると破産まで行くことが珍しくないこと、等等々。
 それは、軍需産業以上にアメリカで一番政治力のある医療・薬業業界の献金攻勢が作った社会であり、日本の医療保険制度の根幹にある不十分ながらも社会保障の概念がアメリカにはなく、医療も薬価もただの【商品】にした結果であると堤さんは述べた。
 もちろん国民向けには、「福祉を行政が行なうと無駄が出る。民営化すれば効率がよくなりサービスが向上する。いろんなニーズに応える選択肢が広がる。そうして国際競争力に打ち勝つのだ。」と、レーガン以降言ってきたのであると。
 翻って日本の未来の選択を考えるとき、規制改革、特区、民営化、行政改革、TPP等、自民党や維新の党の主張は沈みゆく大国の政策の100%焼き直しである。つまりは国家以上の多国籍企業(薬業や保険業界その他)の手先だと私は思う。
 この先には、金がなければ治療を受けられない国、それに絶望したときには安楽死薬(自殺薬)が保険で買える国(アメリカの幾つかの州ではそうなっている)が待っている。
 やたらに「無駄だ」「規制改革だ」「民営化だ」と語る人間には注意しなければならない。
 「貧困大国アメリカ」等堤未果さんのレポート(新書や文庫本)は現代人必読のレポートだと思う。
 読者の方々には、まだの方は時間と本代を投じてもらいたい。

 以前に私は、混合診療はそれほど悪くないのではないか、選択肢が増えるのは悪くない、現行制度にはいささか硬直した部分がないか・・と思っていたときがあった。
 しかし、それはアリの一穴であり、最新の治療を受けたければ自費で対応せよ、それが怖ければ民間保険に入れ・・への地ならしになるだろう。事実、C型肝炎の新薬ソバルディのアメリカでの薬価は1クール12週間で84,000ドルである。この事実をどう考えよう。破産するか、治療を諦めるか。
 薬価を含む国民皆保険制度を守らなければ、そういう社会が口を開けて待っている。

2015年3月17日火曜日

双葉町が撤去したいもの

  3月16日付け朝日夕刊の記事に考えさせられた。
 福島県双葉町が『原子力明るい未来のエネルギー』という写真の看板の撤去方針を示したことに、1988年当時小学6年生だった標語の作者大沼さんが「負の遺産として保存し、人間の愚かさを後世に伝えるべきだ」と訴えている。
 町は「老朽化して危険」として新年度予算案に410万円計上したが、大沼さんは「周囲に崩壊しそうな公共物がたくさんあるのに、看板だけ撤去するのは間違った過去と向きあわない行為。それだけの金額があれば補強できる。子どもたちにも真実を伝えていきたい」と、保存の署名運動も始めると記事は結ばれている。
 本田記者、根岸記者の署名記事であるが、私は記事中の大沼さんの主張や両記者の執筆姿勢に共鳴する。

 この看板は、当時小学生であった大沼さんの意図とは別に歴史の証人であり、何を証言しているかといえば、原子力村とか呼ばれる原発利権共同体が農村の自治体の横っ面を札束で叩いたという歴史だと思う。
 その積み上げられた札束を前にした高揚感がこの看板を建てさせたのだと想像する。
 だから町は、札束に目がくらんで尻尾を振ったという、そういう恥ずかしい過去を証拠隠滅したいのだろう。
 でなければ、広島に原爆ドームがあるように、堂々と「負の遺産だ」と主張して残せばいい。

 この国では総理大臣からして「当時は知らなかった」と言えば免罪されるという風潮があるから、この看板を残す意義は大きい。

 統一地方選挙直前である。
 地方自治体と議員には、このような各種の利権がらみの誘惑が存在する。
 大阪市に見られる市立病院の廃止・民営化、地下鉄民営化、カジノ誘致、みんな利権がらみの方針であり、誰も双葉町を笑うことはできない。
 この看板は、全国の住民に地方選挙の大事さを訴えている看板に見えてくる。

2015年3月15日日曜日

氷の僧の沓の音

  東大寺二月堂の修二会、普通には「お水取り」。
  近頃はツアーの観光客がひしめくらしいので、へそ曲がりの私はもう何年も行っていない。(ただし去年は「達陀帽(だったんぼう)戴かせ」には行ってきた)
 で今年は、誰も見向きもしない(10日の)午前中にお詣りをしてきた。というか、私もミーハーな見学のようなもの。
  正午からの食事・上堂も始まっていないから、紙衣(かみこ)の僧たちも一瞬の休憩中だった。
 参籠宿所は「火鉢以外の暖もない」と言われているが、庭では焚火が焚かれていた。
 私は「話が違う」とも思わなかった。雪の舞う中の法会である。
 東大寺はさかんに「観光行事ではありません」とアナウンスしているが、そのとおりで、長い修行中のこうしたホッとした風景が反っていい。
 周囲では、大きなへっついさんで食事が作られ、近世、中世、古代もかくやと思わせる時間が流れていた。

 二月堂北の茶店に寄ると、お松明の(杉の)燃え殻が「ご自由に」と書いて置かれていた。
 無病息災とか言われて先を争って拾われているあれである。
 我が家と子供たち2軒分、3本いただいて帰ってきた。
 奉書で包んで玄関に飾らしていただいた。

 いつも通り大仏殿にも回ってみた。100%シーズンオフで心地よい。いや、ちょっと寂しい。
 裏の「大仏さんの鼻の穴」も、知らない外国人が見向きもせずに通り過ぎようとするから、20数人ぐらいは呼び止めて、身振り手振りで「ここを潜りなさい」と案内した。驚き、躊躇した人も潜り抜けた時には大喜びで、私にジェスチャーでお礼を言ってくれた。きっと、楽しい記憶のひとつになっただろう。
 首相が世界中で日本の評判を落としているから、微力ながら日本観光の記憶が豊かになるよう、ひいては国際貢献と日本の「国益」のために私はあえて「お節介爺さん」になっている。
 でも、近頃よく聞く「国益」ってなんだろう。
 おどけて使ってはみたものの、嫌~な時代の先触れのような感じがする。

2015年3月14日土曜日

介護民俗学

  2月22日の「洗濯板」の記事で、京都府立山城郷土資料館の「暮らしの道具いまむかし」展に行ったことを書いたが、そこへ出掛けた時に「ご自由にお持ち帰りください」とあったので、その企画展のポスターを1枚持って帰ってきた。義母の『回想法』に用いてみようと思ったからであった。
 先日、そのポスターを義母に見せてみた。
 すると、『回想法』の教科書以上に義母のチカラのよみがえってくるのが判った。
 近頃では会話も十分に行き来できないことが多いのだが、このポスターを見るや指差しながら「たらい」「(炭火)アイロン」「こたつ」・・と私に説明をし始め、「へっついさんの下にはイナゴを串に刺して焼いて食べた」とか「機織りはこうやった」とその動作を手足でやってみせるのだった。
 「へっついさんの下のスギヌカ(スリヌカ・磨糠=籾殻)にサツマイモを入れていた」というのが、実家のへっついさんのそこが保管場所であったということか、焼き芋を焼いたという話か、話すたびにころころ変わって理解できないこともあったが、ほんとうに何か月ぶりかで見せたイキイキとした表情だった。
 この「昔のことを教えて」と頼むと元気になることや、「老人ホームは民俗学の宝庫や」というのは実母を介護していた時代に、そういう理論を知る以前に実践的に学びとったことだったが、改めてその有効性を確認した。
 ただ義母の場合は、「昔のことが思い出せない。ああ駄目だ」というような強迫観念にとらわれることがあるので、世の中はそれほど単純に「語ればいい」ということでもない。

 それにしても、昔語り、思い出語りで元気を出してもらうという、こういう対応は(介護する)こちら側の心の余裕が大前提で、そのためには家族介護には限界があり、適切な施設の利用が大切だと確信している。
 「家族介護が一番望ましい姿だ」というのは福祉切り捨てを企図する為政者の洗脳である。
 当事者になってみると、「この世には介護を経験した人と介護の経験のない人の2種類の人しかいない」と感じてしまう。
 介護うつによる自殺、心中、はては殺人まで「解る」ような気分が全くなかったかといえば嘘になる。
 後輩たちが順に老々介護に突入したりしているが、その時に慌てないよう・・・何かの参考になるかと、・・こんなことも綴っておこう。
 介護される側になるのも遠くはない。その時には若いヘルパーさんたちに、戦後から高度成長の時代のあれこれを語る準備をしておこう。そのとき若者たちは「お爺ちゃんの話は民俗学や」と喜んでくれるだろうか。それとも「またいつもの古い話をしている」と嘲笑われるだけだろうか。

2015年3月12日木曜日

Auld Lang Syne

  朝ドラのマッサンでお馴染みのスコットランド民謡「蛍の光」。
 民謡というよりも彼の地では準国歌的なものらしい。
 原曲の歌詞が「蛍の光」の歌詞とは大きく異なるということは昔からよく言われていたが、いざそれがどういうものかというとよくは判らなかった。
 それで書棚から「ジュニア英和辞典」を引っ張り出したが、初っ端のAuldからしてこれが全く出てこない。
 語学に弱い私は悩み、スコットランド方言を調べに図書館に行こうかと一時は思った。
 しかし、そういう努力を回避して、安直にネットを開くといろんな和訳はおろか、カタカナの読みまで出てきた。
 「こんなことでいいのだろうか」と反省しつつ、易きに流れる私であった。
 
 年度末で、かつて同じ釜の飯を食った後輩たちが現職から去ってゆく。
  我々OBからするとOB会に参加してもらう季節でもある。
 だから、今年は少し発想がミーハーかもしれないが、Auld Lang Syne (オールド ラング ザイン)を唄って送別と歓迎の心を贈ろうと思う。
 以下は安直にネットから仕入れたもの。
 You Tube に、紅白の最後のシャーロットの歌があり、判りやすい。
 私がカタカナを見て歌うものだから、妻は「スコットランドはドイツ語?」とからかった。

    Auld Lang Syne  (Old Long Since の方言)
Should auld(old) acquaintance be forgot,
 (シューッ、オード、アクェンタンッス、 ビーフォアーガッ)
and never brought to mind.
 (エーンネーバ、ブロートゥー、マーイン)
Should auld(old) acquaintance be forgot,
(シューッ、オード、アクェンタンッス、 ビーフォアーガッ)
and days of auld lang syne.
 (エーンデーズ、オーレーン、ザーイン) 
For auld lang syne, my dear,
(フォー、オー、レーン、 ザーイン、マイディア)
for auld lang syne,
(フォー、オー、レーン、ザーイン)
we'll tak(take) a cup o'(of) kindness yet,
 (ウィルテー、アカップ、  オ、カーインネスエッ)
for auld lang syne.
(フォー、オー、レーン、ザーイン
 (意訳)
忘れがたき古き友よ
思い出すことがなくとも
忘れがたき古き友よ
どれだけ時間が経とうとも
遠き昔のために 友人よ
遠き昔のために
友情の杯(さかずき)を酌み交わそう
遠き昔のために


auld【形容詞】(方言形) =old 古い、昔ながらの。
acquaintance
 知り合い、知己。
lang
【形容詞】(方言形long 長い。
syne
【副詞】(方言形) =since 昔に、のちに。
tak
【動詞】(方言形)  take ~を取る。

2015年3月10日火曜日

頭が下がる

  若い頃、(いや今だって)自分の能力のなさに落ち込んだ時が多々あった。
 そんな(若い)とき、尊敬する先輩から「花はくれない柳はみどりと言うんやで」と慰められ諭されたことを思い出している。
 行動しないことの言い訳に使いたくはないが、それぞれのポジションと条件で草の根のように前向きに努力する・・・、近頃は、人生これに尽きるような気がしている。

 そういう気持ちを今さらながら自覚させる出来事があった。
 堺で住職をしている友人から、「大阪都構想が許せないから、おまえの作った文書を使うぞ」とメールがあったのだ。
 彼のお寺の前の法話等を貼りだす掲示板に大きく拡大して掲示するというのだ。
 私の文章は、私が長期間住んでいた奈良県の立場から、明治9年に奈良県が廃止され堺県に合併(後に大阪府に合併)された以後の奈良県の衰退と、屈辱と苦悩の「奈良県再設置運動」というものがあったこと。それが大阪都構想を前にした堺市の位置とよく似ていることを堺市長選挙前にメモッたものだった。
 その内容はさておき、友人がお寺の掲示板に写真の内容を大きく拡大して貼り出すその勇気に私は芯から頭が下がった。
 これこそが草の根の運動なんだろうし、そのポジション、ポジションでの花の咲き方、葉の繁り方だろう。
 先日の川口基督教会に引き続いて感動を与えられ、「比べて自分はどれほど努力をしているだろうか」と、自身を反省させられる出来事だった。
 「わかっちゃいるけどやめられない」は私のことである。
 草の根を言い訳にしたらあかん。草の根というのは自分の頭で考えて一歩踏み出すことや。・・そのように改めて教えられた気がした。

 「3.8さよなら原発」のパレードに『ひげ親父』さんが「現職」提供のサンバイザーを工作して持参してくれた。そして、名札(プチゼッケン)を「日常的に着けたいから持って帰る」と言って持って帰った。これもすごい。『世界に一つだけの花』ではないけれど、その花を咲かせることだけに一人ひとりが一生懸命になればいい。

2015年3月8日日曜日

I am not ABE

  『Je suis Charlie ジュスィ・シャルリー/ 私はシャルリー』 は、テロ事件直後にパリの市民が掲げて瞬く間に広がった合言葉で、ダサく言えば「私はシャルリーを支持する」だろうか、表現の自由を守れ、テロには屈しないという意味では積極的な意味を持っていたと思う。その一点で私もシャルリー・・を支持する。
 フランスの風刺の文化は日本人には理解し難いほどの意味を持っていると新聞で読んで「そういう文化を感覚的にも理解しよう」と努力したが、だが正直なところ、あの週刊誌の風刺画はムスリムの感情に対して鈍感すぎるように私は感じた。
 そして、パリが「私はシャルリー」の合い言葉一色の感じになったとき、その「鈍感さ」について語る自由そういう表現の自由が反対に憚られる空気が生まれたように私は感じ、世の皮肉をしみじみと味わった。
 ・・・前説としてのシャルリーの話はそれで終わり。

 あれから4年、3月11日が近づいてきた。
 今日、大阪では幅広い共闘で『3.8さよなら原発』の集会とパレードが準備されている。
 私は全くただの一参加者でしかないが、どうしたらパレード参加者と街行く市民との共感が少しでも深まらないかと考えた。
 そして、その折のひとつのキーワードは「運動に笑いを!」ではないだろうかとこの頃思っている。
 去年は鹿のカチューシャにメッセージをつけて被った。一定程度笑っていただけたと思っていたが、「今年は被りたくない」という意見も出たので制作は中止した。
 なら、「私はシャルリー」の発展形で国内で話題※になった「I am not ABE」にしよう、そう名乗るのであるから「A5版の名札」にしようと考えて制作したのが写真の名札(プチゼッケン?)。
 さて、多少はクスッと笑っていただけるだろうか。

 さてABE氏であるが、彼は「戦争できない特異な国」が嫌で嫌でたまらなく、何が何でも「戦争のできる普通の国」にしたいらしい。
 しかし、こんな小さな国に原発を並べ立て、ミサイルが原子炉を壊さないでも、周辺機器類を火事にでもすれば自爆してしまうことを証明した国が戦争するという方が、まるでコメディーの台本のように私には思える。
 敦賀で事故が起きれば琵琶湖が汚染され、大阪府全域が人の住めない(水の使えない)街になる。
 先日書いたが、大阪府北部の方が福井市よりも原発に近い。ウソのようなホンマの話。
 事故がなくても廃棄物は増え続け、その処理方法はない。少なくとも10万年保管するという。
 「運動に笑いを!」と言いながら、どうしてもこのような冷笑になるのは私の力量不足である。

 ※【国内の話題】とは、報道ステーションで古賀茂明氏が首相の意図的な中東歴訪を批判して「日本人は今、I am not ABE というカードを掲げる必要があると思う」と語り大いに話題になったこと。さらに、そのことが原因と想像されるが、出演日程調整済みの3月をもって古賀氏が報道ステーションから降板させらること・・を指している。
 ABEという表記については、日本人も日本文化どおり姓名の順で表記しよう、姓と名の誤解をなくすため姓は大文字で表記しようという論に賛成の立場で表記した。

2015年3月6日金曜日

川口基督教会を訪ねて

  大阪の旧居留地を訪ねるイベントに参加した。
 漠とした知識はあったが、長期間大阪で働いていたにも拘らずゆっくりと足で歩いたのは初めての地だった。
 その訪問先のひとつが川口基督教会で、ステンドグラスとパイプオルガンと煉瓦造りの素晴らしい建物だった。
 阪神淡路大震災で甚大な被害を被ったが、保存運動が広がり再建された。といっても煉瓦の壁がところどころ波打っていたり凸凹になっていて、「よくぞご無事で」といった感じで残っている。
 ・・・が、感動したのはその建物だけではなかった。
 今回初めて知ったのだが、この教会では本気で原発反対の行動を地道に積み上げておられるのだった。
  牧師が不在で信徒の方がいろんな説明をしてくれたのだが、「原発反対の取り組みは牧師から必ず説明しておいてくれと言われました」との伝言付きで、3.11後東北の教会を支援する行動に立ち上がって見た惨状、そこから考えたことなどが話され、原発問題の小冊子をいただいた。
 要約など到底できないが、原発は基本的には科学技術の問題、経済の問題ではあるが、①神によって造られたいのちを脅かす、②神によって創造された自然を破壊する、③神によって与えられたくらしを奪うという点から、重大な問題がある・・と断じている。(冊子の中身はこんな簡単なものではなく、いろんな角度から原発問題やそこに関わる信仰の問題が著述されている)
 邪念のない宗教者の姿を壁の向こうに見る思いがした。
 なお、この教会は、日本聖公会に属し、カトリックでもプロテスタントでもない英国国教会が始まりだという。聖路加病院、立教大学、桃山学院、プール学院、聖バルナバ病院等の施設のバックボーンでもあるらしい。
 いただいた冊子の最後は『反省と課題』になっていて、その一部を圧縮して引用すると・・・、
 1950年代に、米国聖公会より提案を受け、立教大学が原子炉の提供を受けた当時、日本聖公会は積極的にその労をとりました。こうした歴史を振り返るとき、わたしたちも、原発の問題性に無頓着でありました。事故から三年が経過しましたが(フクシマの)被災地の復興はほとんど進んでおらず深刻です。それにも関わらず、政府は「原発は完全にコントロールされている」などと主張し、またオリンピック関連の膨大な予算と投入資源の陰で、震災からの復興と原発事故から人々のいのちを守る対策がおろそかにされています。イエス・キリストの教えに生きようとする者は、しっかりと事態の本質を見つめ、声を上げ、具体的な支援にも立ち上がって行かなければならないと実感いたします。・・・と結ばれていた。
 この教会とは初めての出会いであったが、話を聴いたり冊子を読んだりして親しみを覚えた出会いであった。
 キリスト教や仏教や宗派の別なく、真面目に社会を見つめそれに向きあう宗教者には畏敬の念を覚え身が引締まる。
 焦ることはない。こういう草の根の行動が合流する日が必ず来るに違いない。
 3月8日、各地で「さよなら原発」のアクションが取り組まれる。私は14時に扇町公園に行く。

2015年3月4日水曜日

昔の名前

 2月22日の記事で「洗濯板は明治時代に移入されたものだから、それ以前は宮崎県の名勝『鬼の洗濯板』は何と呼んでいたのだろう」と書き、すぐに宮崎県の観光部局にメールで質問したが、今日に至るも返事がない。ちなみに山城郷土資料館に洗濯板の上下を尋ねたらすぐに回答があった。
 だから、鬼の洗濯板の昔の名前は判らない。
 
  さて、和菓子の名前でも有名な三笠(山)はどこだろう。
  若草山と春日山と高円山の三つの山を重ねた総称だという説もあるが・・・、
 正解?は御蓋山と書くのが正しく、春日山の前の方の一峰と言われている
 後ろが春日の奥山である。(普通に言うところの春日山)
 阿倍仲麻呂の「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」がここ(御蓋山)を詠ったものであるということに異論は多くない。
 しかし、正直に言えば御蓋山と奥山の区別は見た目にはほんとうに判り難く、奥山に比べて御蓋山の影は薄く、それよりも、ごく普通には若草山の旧称こそが三笠山である。
 こちらは確かに一重目、二重目、三重目と重なっているのが明瞭で、ここを三笠山と呼んでいたということも十分納得できる。事実、私などもそう理解していた。
 なら、三笠山と御蓋山が並んでいるのが煩雑なので三笠山の方が若草山と改称されたのかというとそう単純ではないらしい。
 真相は、昭和10年に三笠宮家が宮号を賜った際に「同じ名前では畏れ多い」として若草山に徹底されたらしいのだ。
 このように考えると、近代史も古代史以上に複雑怪奇である。
 その近代史を為政者たちのグループの主張する『現代史』が、あちこちで捻じ曲げようとして蠢いている。嗚呼。私がこの記事で一番言いたかったことは此処である。
 私たちは近代史修正の進行形の上に生きているのだ。

 だから三笠山と読んだり聞いたりした場合、それが御蓋山のことなのか若草山のことなのかは今でも文脈から想定しなければならない。
 なお、和菓子の三笠は、山焼きでのっぺらぼうになった若草山(一重目)に違いない。あれは鬱蒼と繁った春日原始林のイメージでは決してない

 余談ながら、戦後レジームの下で秋篠家が創設されたときには奈良市秋篠町も秋篠寺も「畏れ多い」として改名などしていない。それでいい。
 さて、秋篠地域と伎芸天で有名な秋篠寺は非常に歴史ある街とお寺であるが世界遺産の中には含まれていない。
 こちらの理由は、すぐ隣に競輪場があるからで、当然、そんな世界遺産は何処にもない。
 私などは、古都に似つかわしくない競輪場こそが「畏れ多い」とか言って無くなって、秋篠寺周辺が世界遺産に包含されればいいと思っている。
 ほんとうは「畏れ多い」かどうかではなく、理性的に考えてそうあるべきだろう。

  ※ 追記  3月4日に宮崎県から返信があった。「鬼の洗濯板」の初見は昭和8年であり、それ以前の呼称については県立博物館、県立図書館の文献等に見つけることができなかった・・とのことであった。宮崎県の観光推進課、ありがとうございました。

2015年3月3日火曜日

雛祭り

  日曜日に今年2回目の雛祭りを行った。四世代揃っての雛祭りだ。
 大層なことをしたわけではないが、孫が雛祭りの歌を歌った後、甘酒で乾杯を行った。
  甘酒を大人たちは「甘くて美味しい」と言ったが孫は残した。
 料理の中で孫が一番喜んだのは写真のとおりの骨付きのラムチョップだ。
 孫の好物の中のひとつである。
 お祖父ちゃんが教えたとおり「羊さんは可愛いけど美味しいね」(「牛さんも豚さんも可愛いけど美味しいね」「鶏さんも・・・」)と言って食べてくれた。
 そう、動物たちは可愛いし美味しいのだ。そこが「戴きます」の神髄だ。
 そのままおおらかに育ってほしい。

 孫は食事の途中から天眼鏡を持ち出して、新子の中にいる怪獣探しに夢中になった。エビやカニのゾエアと呼ばれる幼生(プランクトン)はまさしく怪獣の赤ちゃんだし、大発見の連続に興奮だった。
 もちろん、研究?しながら食べるのである。

 食事の前のことだが、「いろはかるた」ができるようになった。が、負けそうになるとお祖父ちゃんを妨害する。負けず嫌いである。
 それも集団生活を経験すれば成長し克服されるだろう。4月には幼稚園の入園式がある。

 お祖父ちゃんとしては、このまゝ成長が止まって欲しいと思う雛祭りだった。
 こののち、あんな雛祭りもあったなあと思い出す日もやって来るだろう。
 それよりも、あんなにお祖父ちゃんも元気だったのに・・という会話の方が先にくるだろうか。

2015年3月2日月曜日

文化財無残

  ISがシリアの博物館の文化財を破壊しているとのニュースがあった。
 解説では、「イスラムの教えに反する偶像だから」と言っているらしい。きっとそうだろう。
 この蛮行をもってイスラム全体への誤解や偏見が広がることがないよう祈りたいが、何とも言えない気分になる。
 近所の奈良大学は、シリアを始め中東の発掘作業に大いに参加し、パルミラ遺跡の報告会などをよく聴きに行ったが、そこの映像で見た数々の遺物等は被害に遭わなかっただろうか。今回の破壊以前から無政府状態による盗難も酷かったと聞く。
 
 前回の記事で奈良県立橿原考古学研究所付属博物館に行ったことに触れたが、ここでも(奈良県でも)拝金教徒による文化の破壊が進んでいるようだ。
 奈良県議会では、昨年9月議会の予算委員会で知事が若草山モノレールに触れ、反対する意見について、それは「研究者の言葉だ」「考古学一派の言葉だ」と発言している。品のない言葉である。
 知事の言いたいことは『考古学一派は発掘と保存に熱心であるが、遺物等を研究者だけで一人占めにしている』ということらしいが、それは大きな誤解であり、相当以前から考古学者らは遺跡や遺物の公開、説明、展示等に力を注いでいる。
 きっと・・・それを知った上で言っているはずであるから、早い話が「研究や保存よりももっと観光資源に使いつくそう」ということだと私は推測している。
 そして今年の1月、県は橿原考古学研究所を教育委員会の所管から知事部局に移すことを決定したと新聞が報じた。やっぱり。
 奈良県が観光政策を重視するのには反対ではない。
 しかし、若草山にバスを走らせたり、奈良公園の中心部に土産物屋を建てたり、平城宮趾の木簡を朽ちさせるのは本末転倒ではないだろうか。
 ISのニュースを聞きながら、この地の拝金教徒にも心が塞ぐ。