2015年1月3日土曜日

年賀状の文化

  元日の昼前に年賀状を読むのは文句なく楽しい。
 56.4cmのチヌを抱きかかえた写真なぞに何の説明がいろうか。
  短い言葉の裏にはそれぞれの家庭の1年があり、それぞれの抱負がある。
 年賀状だけのお付き合いは「虚礼だ」という意見もあるが、私はそれでも構わないと思っている。
 かつてお世話になった方々への「安否通知」でも構わないと思っている。
 広義でいえば無駄こそが文化ではないだろうか。

 私は悪筆のため相当以前からワープロ~パソコンで年賀状を作っている。
 毎年この時期の新聞の投書欄には必ずといっていいほど「味気のないパソコンの年賀状。年賀状はやっぱり手書きで」という投稿が掲載されて胸にグサッとくるが、その分、当たり障りのない祝賀の言葉ではなく、元日にクスッと笑っていただけるような我が家の近況を綴るようにしている。
 お世辞だろうが「貴方の年賀状を読むのを毎年楽しみにしている」というような声を聞くと嬉しい。
 だから、秋の初め頃から頭の片隅では「次の年賀状のテーマは・・」などと悩んでいる。
 そのため、イラストにせよ版画にせよ所信表明にせよ、どこかに心のこもった年賀状の奥にはそれぞれ製作者の苦労が思われる。

 さて、近頃は「昔の暮らし」の展示場に自分の知っている道具がいっぱいあって、「私の半生も‟昔の暮らし”という範疇なのか」とがっかりすることがあるが、もうすぐそこに、私の使っていたプリントゴッコも並べられるに違いない。
 あれこそ、年賀状のためにだけ発明された(謄写印刷は昔からあるのだが)道具だった。
 もちろん、プリントゴッコを駆逐したのはパソコンと家庭用プリンターである。
 2010年のある調査では、家庭用プリンターの所有率はその時点で90.9%で、世界中でも高所有率らしいが、その理由がネットの普及というよりも、やっぱりというか、利用目的の第1位が年賀状のためという結果であったのも何となくうなずける。

  最後に、年賀状の歴史を調べていると、昭和12年の盧溝橋事件、13年の国家総動員法以降、世の中の雰囲気も「年賀状どころでない」となり、15年には『年賀郵便の特別取扱中止』になり、ついには逓信省自らが「お互いに年賀状はよしませう」と自粛を呼びかけるポスターを掲げた。
 年の始まりを祝い、消息を伝え合う年賀状も平和の象徴のひとつだろうと思うと、世の中「メールなどSNSでの年賀が普及し年賀状が減少している」と報道されているが、もうしばらくは年賀状派でいたいと思っている。

2 件のコメント:

  1.  上段の写真ほどではありませんが、南国土佐も元旦、2日は雪が舞っていました。楽しい年賀状有難うございました。オセチで熱燗やりながら、駅伝見て、年賀状を見て、孫と凧あげをしていつもながらの楽しいお正月で今年も始まりました。

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  2. 土佐や阿波や駿河からの年賀状を見ると、若い若い頃を思い出します。

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