2015年1月18日日曜日

ファシズムはニコニコ顔でやってくる

  「ファシズムというものは軍靴の音をたててやってくるという誤解がある」(決してそうではない)というような文章を小田実氏か誰かの本で読んだような気がするが、現代人に対する的確な教えだと思う。
 そういう風なことを思うと、9日に書いた永田和宏氏の二つの歌の的確な視点に体が震える。
   まさかそんなとだれもが思ふそんな日がたしかにあった戦争の前
   余計なことには関はりたくないといふ意識だれにもあればそれこそが怖い

 映画の「菩提樹」だったか「サウンド・オブ・ミュージック」だったかに、主人公たちがレストランで食事をしていると、他の席の青年が美しい声で故郷を称える歌を歌い始め、その綺麗な歌に二人三人と加わり、最後は大合唱になっていくシーンがあったように覚えている。
 故郷を称える歌詞は民族を称える歌詞に繋がり、青年たちは右手を掲げる敬礼に酔っていくのだった。
 その時私は、百の論文よりも「ああ、ナチズムはこのように広がっていったのだな」と自身納得した記憶がある。
 
  この頃テレビで、陰に陽に「日本人がどんなに立派であることか」というトーンのバラエティー番組が増えている。
 自分の国や自分の民族を誉められて心地よい庶民は(その心地よさを悪いと言っているわけでは決してない)、強調された日本人の真面目さとか律義さに溜飲を下げ、番組の中でそれに驚く外国人を悪意はなくとも笑うということが繰り返されている。
 繰り返し繰り返し放送されるその種番組を見て、世界と日本が全て解ったような気になって、その気分の延長で集団的自衛権も秘密保護法も「まさかファシズムに向かうことはないだろう」と根拠もなく信じる。
 
 こんな時代は歴史上なかったのだろうかと私は自分に問う。
 掲げた写真は毎日新聞社の「一億人の昭和史」に見つけたものだが、昭和初期の竹久夢二の作品と、昭和初期の銀座。
 豊かな者はエロ・グロ・ナンセンスを含めて結構平穏な享楽を享受し、貧しい者は社会を考える余裕もないまま、「戦前」は音も立てずに(ほんとうは大きな音であったはずだが)背後に立っていたのだろう。 

 昨日の記事で、現代社会はリアルな連帯が希薄な分、バーチャルな連帯を人々は潜在的に求めていないかと書いたが、マスコミがそれ(疑似連帯)を提供し、人々はマスコミに露出する著名人や多数派的な主張をなぞることで自民党的な、あるいは維新の党的な体制に絡めとられているように思う。
 大きなバーチャル連帯共同体に包まれている感覚で安心感を得ているといってもよいかもしれない。
 そういう人々は、例えば安倍氏や橋下氏の批判を、自分への批判のように受け止め感情的に反発する。悲しいけれど、そういう現実がある。
 あんな低レベルな大阪都構想なるものが一定支持されている理由もここにありはしないか。
 だからリベラルな人々には、そういう人心のひだを開かせる言葉と行動が求められている。
 偉そうに言っているが、そこの段階のままで私は答えが出せていない。
 ただ、理屈で論破することによって世の中が変わるなら、それほど楽なことはない。

7 件のコメント:

  1.  陰に陽に繰り返される「日本人がどんなに立派であることか」というトーンのバラエティー番組が安倍氏や橋下氏を支えているという珍説を開陳しましたが・・・・如何でしょう。

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  2.  長谷やんの問題提起にかみ合うかどうか分りませんが、私の直近のブログ記事でも、直葬が何度もメディアに登場することで、「直葬が葬儀の主流では」と思っている人がいるという葬祭業者の声を紹介しました。
     私が知る限りメディアで直葬を肯定的に取り上げた例は少ないと思うのですが、何度も取り上げられると視聴者の意識には、肯定的にインプットされるのではないのでしょうか。
     内容はともかく、何度も繰り返しメディアに登場することが、知らぬ間に視聴者の潜在的な意識を形成している、ということは大いに考えられると思います。

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  3.  マスメディアごときに誘導されているのは馬鹿な奴だ!では済まないと思うのですが、そういう分析をするのは確信がないからだ!的な発言をして議論を深めない方もおられます。
     安倍首相の統治方法は3M(マネー、メディア、マインド)です。過不足なく分析することが大切でしょう。
     社会を考える場合でも同様だと思います。

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  4.  ひげ親父さんのブログに、毎日新聞東京本社版に掲載された山田洋二監督のインタビュー記事が書かれていたが、黒沢監督のデビュー作「姿三四郎」の試写の際、検閲の陸軍将校が「ラブシーンは英米思想でカットすべきだ」と言ったことに触れ、「その当時も、英米思想はいけないという法律はなかったが・・そうなっていった怖さ」が書かれていた。
     それと非常によく似た状況が現代生まれていないか!
     茹で蛙になる前に指摘し続けることが大切ではないかと自分に言い聞かせている。

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  5. 博識多彩そして年季の入った流麗な表現、毎度う楽しく読ませていただいております。イラストのいかつい顔つきを見て、ずっとむかし、「ほんとは僕は国語が好きなんだ」と言いながら、黒板に向かってピタゴラスの定理を教えてくれた恩師の顔を思い出しました。守備範囲が広いということは楽しいことなんですよね。

     周回遅れになりますが、右傾化風潮について述べさせてください。

    忍び寄るファシズムについて

     天皇と安陪晋三との歴史観の格差
     いわゆる大東亜戦争は、1941年(昭和41年12月)に始まり、1945年(昭和20年)終結。
    今上天皇は1933年(昭和8年)生まれ。終戦時は12歳。幼少なりに終戦間際の戦況窮迫時代、及び終戦後の復興時代の情況をご自分で体験的に認識され、昭和天皇の戦中戦後にわたる苦渋の体験をつぶさに見つめてこられ、戦争がなぜ、どのように行われ、どのように収拾されたかというありのままの認識を持って、年頭感想を表明された。
     一方の安陪晋三は1941年(昭和29年)生まれ。戦中、戦後の混乱期を知らず、戦後日本の発展期に生まれ育った苦労知らずである。戦争にともなう残酷、横暴、凄惨、酷薄、強制、忍従、不信,辛酸などなどの不条理をしらないまま育った良家の御曹司である。戦争に伴う過誤については歴史学者の判断に任せ、戦後レジュームからの脱却をし、新しい日本をめざすのだと言う。
     戦争の実体験に根差して過去を踏まえ、未来を考える、天皇の至極まっとうな感想表明に対して、過去を踏まえないまま、未来を語る安陪晋三の言葉はいかにも軽く空しく危うい。
     しかし、先に行われた衆院選挙は、安陪政権与党を盤石にして、この機を逃さずに一気に右傾化への布石を打ってしまう、とのもくろみがかなり露骨な選挙であったにもかかわらず、大勢は安陪政権の右傾化に対する支持が圧倒的に多いという結果になった。
     何故、国民の多数は政権の右傾化に対する危機感を持たないのか。
     端的にいえば、戦争の体験記憶がない年代層が増えたからである。かりに終戦時小学1年生だった人の現在年齢を78歳とすると、おそらく戦争の記憶を体験として記憶している人は、この年代以上の人に限られる。つまり10%程度の人しか戦争の記憶を持っていないという現実がある。(総務省統計推計H25年現在75歳以上の分布12.3%)。高齢になればなるほど記憶が薄れるということもある。感覚としての戦争の体験記憶のない世代が圧倒的に多くなっているということである。
     感覚としての体験記憶がないということは、政権や社会風潮の右傾化について、さして危機感を感ずることもなく、逆に、ネトウヨや排他思想やヘイトスピーチに同調しやすい世代と言えるだろう。
     どうしたら感覚としての体験記憶を持っていない世代に、ファシズムの危機を訴えることができるか。
     情報活動が制限されるなかにあって、正論を訴えるのがますますやりにくい時代になるが、特別な方法があるわけでもない。使えるメディアを最大限使い、こまめに、あきらめずに発言し、訴え続けるしかあるまい。

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  6.  泣き雀さん、丁寧なコメントありがとうございます。
     戦争の体験や記憶のない世代にファシズムの危機を再確認していただくのに特効薬はないのでしょうね。
     おっしゃるとおり、こまめに、あきらめず、語り続けることこそ王道なのでしょう。
     私は、どちらかというと呑気で鈍感な方ですが、日々顔を出す歴史修正の芽、民主主義制限の芽を少し心配性気味に指摘し、提起することが大切だと思います。そう自分に言い聞かせています。

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  7.  鳴き雀さん、「泣き雀」さんと書いてごめんなさい。

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