2014年10月31日金曜日

匂い袋

  香り袋、匂い袋のことをサシェともいうらしいが私にはあまり縁のないものだった。
 多くの草花の本にはあまり書かれていないが、柳宗民著「日本の花」(ちくま新書)の「ふじばかま」の章によると、「この花は中国原産のものだが、奈良時代あるいはそれ以前に『香りの草』としてもたらされた」とある。つまり、匂い袋用にもたらされたのだという。
 だから、「源氏三十帖藤袴」にあるように、元々は蘭というのはフジバカマのことだったが、後にもっと香りの強い(現代の)蘭にその名を盗られたようだ。
 しかしこれまで、我が家のフジバカマの葉をとって揉んでみてもさほどよい香りがせず、一時は偽フジバカマではないかと疑っていたが、昨年からアサギマダラの訪問が顕著になり、フジバカマには疑ったことをごめんなさいと謝っている。
 さて、気温の低下とともにアサギマダラの訪問もなくなり、花も萎れてきたので、先日、妻が葉っぱを少し乾燥させて匂い袋を制作した。
  が、やっぱりそれほど匂いは感じられず、「昔の人はいくつかの香草をブレンドしたのかなあ」と語りあい、結局、捨てるのももったいないからとトイレにぶら提げておいたのだが、その後トイレに入ってその素晴らしい香りに仰天した。
 そう、仰々しい香水などは一瞬にしてそれと判る代わりに後は嫌味になる。それに比べて、この控え目ながら確実な香りはどうだ。柳宗民氏の記述に相違はなかった。
 それにしてもトイレの芳香剤には似合わない。もったいない。申し訳ない。
 で、その香りはというと、和菓子の中で私が一番好きなもの、・・桜餅の香り、あの塩漬けされた桜の葉の香りである。
 これまでは、我が家のフジバカマはそれほど気にいっていなかったから、一体いつ植えたのかも記憶にないが、少なくとも10年以上この香りを知らずに剪定し、毎年ゴミ袋に詰めて廃棄していたことになる。
 無知というのはこういうものである。

2014年10月29日水曜日

他人に迷惑

  これで平年並らしいが、ここ数年残暑の秋を経験していたので、今年の文字どおりの秋冷には驚いている。27日は秋冷どころか木枯らし1号があった。
 とはいうものの、四季の移ろいは待遠しかった冬が来たようなワクワク感も伴っていて、庭に立火鉢を引っ張り出してきた。
 蒼海鼠釉薬(あおなまこゆうやく)の、ある種典型的な信楽焼の立火鉢で、義母と手をあぶりながら日向ぼっこをした。
 
 10月初めのことだが、テレビで、小じゃれたバーべキューサイトが9月末で閉じられたと報じていた。
 それが世間というやつの常識なのだろうが、我が夫婦は「バカじゃないか」とテレビに向かって毒づいた。
 暑い夏はクーラーの効いた屋内で食事をすればよく、炭火を囲むバーベキューは秋からだというのが我が家の常識だ。ヒトスジシマ蚊も来ないし。
 どうしてこう「バーベキューは夏のもの」という没論理的な「非常識」が世の中を支配しているのだろう。
 同調圧力というか、自分の頭で判断せずに大勢に従う空気は好きでない。

 そんな話を夫婦でしていたら、妻の知人によると、我が家から遠くない新興住宅街〇〇台ではバーベキューが禁止というか自粛らしい。
 大阪から結構離れた郊外に、ついに庭付きの一戸建てを建てた新しいファミリーが、夢のガーデンバーベキューをするのが近所迷惑だという人がいたからだという。ああ。
 そういえば、都市部のマンションで「サンマを焼くのは自粛」という話は珍しくないようだし。
 
 少し有名な話だが、日本人は子供に「他人(ひと)に迷惑をかけないように生きなさい」と指導するが、インド人は「人(ひと)は迷惑をかけあって暮らすものだから他人(ひと)の迷惑を許しなさい」と諭すというのを読んだことがある。
 他人(ひと)に迷惑でないかと気づかいすることも大切だが、インドの俚諺(りげん・言い伝え)の寛容さこそ肝に銘じるべきでないかと、近頃のこの国の風潮を見ながら考える。
 ガーデンバーベキュー自粛やなんて・・・・・・・・・、
 この国はいつの間に、こんなに不寛容で窮屈で、異論を認めないような国になったのだろう。
 その多くが、民主主義の衣を覆いながら推移していることに、私はしばし頭を抱えている。
 誰か教えてくれませんか。

2014年10月27日月曜日

明日香セラピー

  OB会の行事で明日香路を散策した。10月19日の記事に書いた手旗もデビューした。
 9月20日の記事で下見をしたコースだが、下見のときと違って行楽シーズン真っ最中、近鉄の合流地点である橿原神宮前駅と下車駅である飛鳥駅はびっくりするほどの同輩方であふれていた。
 奈良県ということで言えば正倉院展や大古事記展も開催中であるから、もしかしたら遠方の方もおられたかもしれない。
 明日香路は、・・・・というような有名な「観光地?」ではあるのだが、近畿の方々も正直なところ「知ってはいるが行ったことはない」という隠れた名所に甘んじている。我が参加者の多くもそうだった。
 御陵の周囲に「立入禁止」の立看板があったが、それが文科省ではなく宮内庁であることに驚いたという程度のビギナーの・・・・。
 だから、小学校の遠足程度の気軽さで猿石―鬼の俎・鬼の雪隠―亀石(バス)石舞台―都塚(バス)高松塚を文字どおり散策したのだが、結果を言えば「オミソレシマシタ」で、みんな結構な健脚で「もっと行ってみたかった」という不満を(幹事のために)呑み込んでいてくれているのが感じ取れた。
 
 「散策」ということで歴史はほとんど語り合わなかったが、飛鳥時代というのは河内・和泉に大王が巨大古墳を造って力を誇示していた時代の次の時代である。
 巨大古墳の代わりに瓦葺のお寺を建て、大規模な道教や仏教のお祀りの施設と石の製品を飾った時代。
 そして、律令や天皇号という国家の原点を作った時代。
 ということで、多くの人々は「日本人の心のふるさと」のような気持ちでここ明日香の景色を眺めているのだが、よく考えてみると飛鳥時代の明日香は、現代の圧倒的な(内陸の)中国人にとっての上海みたいに、『日本離れした』モダンな国際都市だったということを明日香の遺跡は随所から教えてくれている。
 その国際色の圧倒的な中心は朝鮮半島の技術や文物であったのだから、明日香散策の結果として東アジアの平和友好関係の樹立に皆の心が広がるとよいと思う。 
 森林セラピーという言葉や運動があるが、現代人に必要なのは明日香セラピーではないか。

 ただ、行楽日和の明日香路では、歴史のもう一面であった、当時の緊張関係にあった東アジア情勢の下で富国強兵に邁進した大和政権のごとく、相当なお歳とお見受けした幾つものグループが我々の数倍の速度で次の観光ポイントを目指してドッドッドッドッと隊を組んで駆け抜けていった。
 1日に何箇所回ったかが満足感のバロメーターだろうか。
 ああ、飛鳥時代人に比べて平成時代人はほんとうに豊かなんですか?

2014年10月25日土曜日

津軽と南部

  テレビのケンミンショーで同じ青森県内の津軽弁と南部弁を紹介していた。
 津軽弁の「せばだばまいねびょん」が同じ青森県内の南部の人たちには意味が通じず、南部弁の「んがでーんだっきゃ」に津軽の人が首を振るのだった。
 ちなみに、同じ東北の宮城や山形の人も「わがんね」と大笑いだった。
 もちろん、テレビのこっちの私も「なんのこっちゃ」と腹を抱えた。
 「せばだばまいねびょん」は「そういうことじゃだめでしょ」ということで、「んがでーんだっきゃ」は「あなたはだれですか」というのが正解らしい。

   私は、南部の八戸出身(在住)で津軽でも勤務されていた経験のある版画作家藤田けんじさんの「津軽のわらべうた」と「南部のわらべうた」という絵本を持っているが、これまではこの2冊の違いなど考えたこともなく、意味の解らないところ(注釈があるから解るのだが)も単に「キツイ東北弁」ぐらいの理解でいた。
  わが胸に手を当ててみると、「きいひん」と「けえへん」と「こうへん」(来ない)の京都、大阪、神戸の言葉をいっしょくたにして関西弁だと言われたり、「きいひん」や「こうへん」を大阪弁だといわれると違和感があるように、「東北はこうだ」とか「青森はこうだ」とステレオタイプで誤解されるのは当事者の皆さんには不服だっただろうと反省する。
 しかし言語以外でも、これとほとんど同じ「レッテル貼り」は、アジアの隣国や、あるいはイスラム諸国について、当然のようにメディアで報じられている。
 「中国人はこうだ」とか「イスラム教徒はこうだ」というような決めつけである。
 訛りにだって、場合によっては劣等感にも通じるような敏感な感情は、関西圏の人びとにはあまり理解できないようだが、それはさておき、標準語を上位と見て訛りをさげすみ、標準語的に決めつけられた考えを独善的に信奉し、そうでない異論を一方的に「遅れたもの」とみなす風潮は少し恐ろしい。
 皆が訛りを大事にして、この列島の中だってこんなに違うのだから世界中にはいろんな考えや文化があるという度量が広がればいい。
 で、写真の二つのわらべうたは何方が津軽で何方が南部だと思われます?

  ※ ふたつの絵本は青森県文芸協会出版部
    http://www.a-bungei.co.jp

2014年10月24日金曜日

岬のクジラ祭り

  10月11日に森沢明夫の小説「虹の岬の喫茶店」を読んだことを書いたが、この小説を原作とした映画「ふしぎな岬の物語」を観てきた。
 小説は小説、映画は映画の良さがあるが、う~む、やっぱり私は小説派かも。
 この映画は、モントリオール世界映画祭で審査員特別グランプリを受賞するとともに、エキュメニカル審査員賞も受賞したが、私はこのエキュメニカル審査員賞なるものを知らなかった。調べてみるとカトリック、プロテスタントを超えてキリスト教精神を物差しに選定されたものらしい。
 以上のような少しばかりの予備知識をもって映画を観ていると、小説にはなかった「町のお祭り」のシーンがあり、そのお祭りは鯨音頭を歌いながら鯨神輿を担いて練り歩くものだったので、ちょっとだけエエッと思った。
 というのも、それは基本的に捕鯨に関わるというか、トーンとしては、捕獲した鯨の法要の側面があったにしても通奏低音としては捕鯨を賛美するお祭りだと思うからだった。
 捕鯨反対の主張には、自然保護だとか高等知能動物だとか色々な理由があるが、多くの欧米諸国の人々の根底には鯨食文化が生理的に理解不能だということがあるのではないかと私は思う。そして、そういう鯨食を忌避する精神文化の根底には旧約聖書(レビ記第11章)の戒め(とがめ)があるのではないだろうかと勝手に私は想像するのだが、・・・・だとすれば、捕鯨を称える祭りのシーンの入った映画がよくエキュメニカル賞を戴けたものだと勝手に感心したわけである。
 というような感想は、全く筋違いの勘違いかもしれないが・・・・。
 さて、鯨神輿と鯨音頭というと私の故郷・堺の出島にも伝わっていた行事であり、戦後は一時期途絶えたようだが、今は多くの方々の尽力で復活している懐かしいものである。(といって鯨音頭を私は紙上でしか知らなかった)
 映画の本筋ではないそんな感慨を抱きながら映画を観たが、エンドロールの「制作協力」で住吉大社と堺出島漁協が出たので再び驚いた。ただ、一瞬のようなものなので見誤りかもしれないが・・・。

 それで、本質的な映画の批評はどうなんだ?と聞かれるかもしれないが、いつも通りそれは各自が自分で感じていただくとよい。
 私は幾つかあった(原作にもあったが)スピリチュアル(精神的な不思議現象?)を肯定するようなシーンには違和感があったし、そのピークともいえる「小さな子供の親子に亡き夫の虹の絵画を譲る」シーンは、・・・作者の気持ちに立って解しようとしても判り難かった。
 そして何よりも、クライマックスともいえる場面での主人公の喪失感の描写もまだまだ甘いような気がした。
 とはいうものの、全体としては気分の良い映画だったと感じている。
 よかったら、皆さんの感想をコメントに戴けるとありがたい。

2014年10月23日木曜日

季節は巡る

  記録のために書いておくが、冬鳥である尉鶲(じょうびたき)♂が今朝方やってきた。
 秋も後半である。
 頭が白くて紋付を着ているから「尉」。
 カチカチカチと火打石を打つように鳴くから「火焚き」。
 冬の庭の主人公。
 これから毎日同じ時刻に同じ場所にやって来る筈だから今冬は楽しみがまた一つ増えた。

考古学一派ですか

奈良県は「ほんまもの」を大事にしてほしい
  若草山にモノレールを造る案はほゞ頓挫したようだが、奈良県知事はあくまでも何か工事をしたいと・・、次にはバスを走らせる案を検討しているらしい。
 目的は、バリアフリー(障碍者にも眺望を味わってもらいたい)とか賑わいづくりとか、その折々のご都合主義に見える。
 ちなみに、若草山の三重目の頂上には現在でもバリアフリーで簡単に行けるようになっている。
 想定される一重目へのバス道路と回転広場のためには、結構な土木工事や舗装工事が予想されるから、世界遺産のバッファゾーンにある若草山を大いに傷つけることは間違いない。
 県議会予算委員会で共産党の議員が奈良県風致地区条例の「原則的に現状を凍結的に保存する」とした条文を引用して質問したことに対して知事は「共産党は、凍結保存を前提にしている。ユネスコ一派の方も保存目的を大事にしている」「凍結保存は研究者の言葉であり、考古学一派の言葉だ」と発言したらしい。
 これを聞いたとき私は耳を疑ったが「ユネスコ一派、考古学一派」という侮蔑はほんとうだったらしい。もしかしたら私も考古学一派?

  現代の考古学では単純な「凍結保存」論は否定されており、国民共通の歴史遺産を大いに公開展示することになっているが、知事はこのような現状に対する認識を誤ったうえで、文化財関係の部下も含めた研究者に侮蔑の言葉を投げかけたわけである。それに引用した条例は県の条例だ。
 なお、モノレールに反対した方々は単純な凍結保存どころか、ナンキンハゼ等の駆除、ナラ枯れ対策、本格的な奈良地域の遺跡遺物の博物館等の積極提案を行っている。ランドマーク的な復元も主張している。
 あるいは、奈良の観光振興にも積極的である。
 私個人としても、若草山の麓の北の端、手向山八幡宮南端まで電気自動車で路線を延長する方がよいと思っている。小さい孫を連れて若草山や二月堂に行くにはアクセスは悪すぎる。
 しかし、奈良観光の究極のコンセプトは「本物の歴史に出会える」ではないのか。
 テーマパークまがいの施設で観光客を誘致しようという発想自体が遅れているのである。
 京都市が本格的に屋外広告物を規制しようとしているのに、何という時代遅れであることか。
 その時代遅れの感覚が「考古学一派」の発言に現れたのだろう。
 心ある歴史愛好家は『若草山壊し』に反対の声をあげてほしい。知事の「考古学一派」の言葉は歴史愛好家全員への侮蔑の言葉だと思っている。

※ 新しい署名用紙のリンク先・・・・・印刷してご協力をお願いします。
http://sk-net.net/wakakusayama/syomei201408.pdf

2014年10月21日火曜日

鳥たちも人恋しい?

  バードウォッチングでカラの混群に出くわすといっぺんに華やかな気分になる。
 カラの混群というのはシジュウカラなどのカラ類が中心になった小鳥の群れで、我が家の周辺で言えば、エナガが一番最初にやって来て、一緒にシジュウカラ、ヤマガラ、キツツキのコゲラ、メジロなどが群れてやって来る。
 ヤマガラがエゴノキの実を啄ばんで電線の上でコツコツ コツコツと大きな音をたてて割る音がすると混群のお出ましだ。
 カラの混群が30羽ほどで庭にやって来て、右から左へ、左から右へと30分近く飛び交う様をガラス戸の此方から眺めていると、テレビのワイルドライフを見ているようだ。
 彼女らの一番のお気に入りは私の用意した小さなバードバスで、先を争って水浴びを楽しんでは木の枝に移って羽ばたいたり毛づくろいのようなことをする。
 小さなバードバスは4~5羽が取り合いをしたりしているが、ただ、コゲラが水浴びをしたのは見たことが無い。
 もっとよく見ていると、結構バードバスをめぐって争ったり、バードテーブル(餌場)でも争っている。
 混群になって一緒に移動するぐらいだから仲良しなんだろうと思ったが、事実は小説よりも奇なりで結構イケズをしあいながら、それでいて群れている。
 「おいおい付和雷同かい」と思ったが、秋は人恋しく群れているのだろう。(ただの感想)
 そして、同じようにやって来る中でも、メジロは人気を感じたらすぐに逃げるが、ヤマガラは私の1mほど先でも平気でいる。
 こんな話、「だからどうした」とお思いだろうが、わたし的には気に入った話である。
  庭のチェアに知人が来た時に、目の前にヤマガラがやってきて水浴びなどをすると驚いて喜んでくれるが、孫はというと野鳥のすばしっこい動きに目がついて行かないのか、もう一つ大喜びまでには至らない。贅沢な環境だ。小鳥が飛び回っているのが当たり前の風景だと思っている。

2014年10月19日日曜日

ライオン橋


  OB会の小旗を作った。
 バスガイドさんが持っているあれである。
 屋外行事のときに列が伸びて迷子にならないようにとの思いで作った。
 色を黄緑にしたのは1970年代大阪黒田革新府政のシンボルカラーのため。
 ただ、この頃は維新の何とかが同じように緑を使っているのが気に喰わないが、もともとこのシンボルカラーの本家は我々だと思っている。
 ついで、シンボルデザインは「難波(なにわ)橋」=「ライオン橋」の四隅の親柱に座るライオンにした。
 難波橋は奈良時代に行基が建てたともいわれており、江戸時代には浪花三大橋のひとつで広重の諸国名所百景にも描かれている。
 なにわのOB会としてその選択はよいだろう。
 なお、デザインのカットは、切り絵作家として有名であった故加藤義明氏の作品で、氏の奥さまは同僚であった。カットの使用は正式に承諾を得ている。
 この小旗が宝の持ち腐れにならないよう、行事を重ねていきたいものだ。
 会報もこの秋から刷新した。
 早速「よくなったね」との声も届いている。
 年金その他OBをめぐる諸問題も積み重なっている。
 元の職場と仕事も大変そうだ。
 そんな時だからこそ、このライオンのように面を上げて、理不尽なことについてはガオーと年甲斐もなく吠えてみたいと思っている。

2014年10月18日土曜日

日本書紀を引っ張りだす

岩波文庫「日本書紀」巻第三十
高天原廣野姫天皇(持統天皇)
  8日の参議院予算委員会で共産党の大門実紀史議員がカジノ解禁反対の論陣を張り、安倍首相にカジノ議連最高顧問を辞任させた。
 私としては枝葉の話ながら、共産党の議員が「持統天皇が雙六(すごろく)禁止令を出してから1300有余年」と例えたのが愉快であった。
 そんなことで日本書紀を引っ張りだしてみると、「持統3年12月己酉朔丙辰、雙六を禁断む」とあった。
 持統元年の前年には朱鳥元年があったから持統3年は西暦689年に当たるが、この12月8日は西暦690年1月23日に当たりそうだ。
 赤旗の(忠)という署名のコラムは689年と書いていたが間違っていないだろうか。
 といって、このころの暦は難しく、いろんな本をひっくり返したがその西暦は私には正確には解らなかった。
 
 持統天皇の「春すぎて・・・」の歌は孫の名前の典拠になったもの。
 まんざら縁遠い天皇でもない。
 そんな天皇の故事を、ユーモアで包んだ例え話ではあるが挿入して、共産党の議員が自称愛国者と言いたいだろう首相を追い詰めたのは痛快だった。
 私は決して謹厳実直といえるほどの者ではないが、こんな私でも近頃の首相周辺や大阪市長周辺の主張には品位が欠けていると思う。
 金儲けのためならカジノであろうが何でもありの主張は危険ドラッグの売人と変わらない。

2014年10月17日金曜日

昨日のアサギマダラ

  ブログの読者は「またあ~」と食傷気味だろうが、ブロガーの特権で我が家のペットについて何回も書く。(いつの間にペットにしたのだの声は聞こえない)
 昨日は常時4~5頭が乱舞してくれて当方が舞い上がった気分だった。
  この光景を独り占めするのがもったいないので、無理やり通行中の人を招き入れて鑑賞してもらった。(何処の何方かは存じあげない)
 「これがあの渡りをする蝶ですか」と感心し喜んでもらえた。(と勝手に解している)
  おまけで「この実は何ですか」と聞くので「ヤマボウシです。食べられます」と言って食べてもらっていくつか持って帰ってもらった。
 こんなの大阪のおばちゃんおっさんですか。






2014年10月15日水曜日

まこもたけ

写真はネットから

  妻が「こんなの知ってる?」と言って『まこもたけ』を買ってきた。
  葦などによく似た湿地の植物の真菰に黒穂菌が寄生して茎の根元が肥大化したものらしい。
 その外の皮をむいて、根曲竹のタケノコのようにしてから料理する。

写真はネットから
  全く癖がなく、我が夫婦には「癖がなさすぎる」と不満も残ったが、上品に食感を楽しむと考えれば絶品だった。
 レシピは多彩で何にでも使える。

 そういえば、以前に奈良市の山奥の弘仁寺の黄金ちまき会式に行ったとき、見慣れない田圃に何を植えているのだろうと思ったことがあった。
 少し離れた場所で農作業をしていた方に尋ねたが判らなかったから、勝手に畳表を作る「イ草」だろうと解釈していた。
 今から思えば「まこもたけ」のための真菰畑だったに違いない。

 真菰は、薦被り=菰樽の菰だし、宇佐八幡宮の御神体が菰枕であることは古代史に出てくる。
 さらに、最近お目にかかった水田裕之氏の「水田家の食卓」というエッセイには、「三橋美智也のおんな船頭唄に♪思い出すさえ ざんざら真菰・・とある」とあったし、「出雲大社の注連縄にもこの葉が使われている。お釈迦様も病人を葉の上に寝かせて治療にした」とあった。
 神事にはよく使われているようだ。
 というようなことを思うと、味とは別に、何か有難~い食べ物を戴いたような気になった。

2014年10月13日月曜日

恋人と再会

  前回アカタテハと挨拶を交わしたことを報告したが、その翌日、きっちりと「待ち人」と再会できた。
 去年書いたことを繰り返すが、アサギマダラは、春から夏には八ヶ岳のような本州の標高1000mから2000mの高原で繁殖し、秋になると、南西諸島あるいは台湾や中国大陸の南部にまで2000キロを超える「渡り」をする日本で唯一の蝶と言われている。
 その「渡り」の途中でフジバカマの蜜を吸い、その有毒物質で身を守っているらしい。
 その防御能力によって自信があるのか、立ち居振る舞いが優雅で、ふわりふわりという感じで飛び回るから見ていて美しい。
 台風19号が直撃するようなので掲示板を取り外したが、台風が通り過ぎたなら『恋人と再会』の掲示板を再び掛けようと思っている。
 超ド級の台風がやってきた。旅行中のアサギマダラは無事だっただろうか。

2014年10月11日土曜日

虹の岬の・・・

アカタテハ
  1969年生まれの小説家の小説を読んで、どうしてこうも違和感がないのだろう。
 吉永小百合が惚れ込んで、吉永や鶴瓶が出演する映画になったという先入観のためではないと思う。
 森沢明夫の『虹の岬の喫茶店』。
 私としては、建設会社の重役にまでなったが不況で左遷・転勤になり、結局男はその地で孤独死するのだが、その男と喫茶店の女主人との別れの間合いが印象深かった。(第四章ラヴ・ミー・テンダー)
 特別に社会の不条理と闘った登場人物もいないし、どろどろの愛憎劇もないのだが、それでいて面白おかしいだけの小説で終わっていない。気持ちの好い読みごたえが後に残った。
 そのうちに映画を観てみたいが、小説自身もお勧めだ。活字の世界は無限に広がる。
 映画はモントリオール世界映画祭審査員特別賞グランプリ受賞。


 9月28日の記事に書いた、アサギマダラを待っている庭のフジバカマに、アカタテハがやってきた。
 アサギマダラは、フジバカマなどの毒を吸って自身を毒化して身を守っているという説があるが、アカタテハが毒蝶だという話は聞かず、昆虫の世界は不思議なことがいっぱいだ。
 よく見るとサファイアのようなハナムグリもフジバカマの花に潜っている。
 昆虫だけでなく、人間には毒だとされている木の実を野鳥が啄ばんでいることも多いから、この世界は多様性こそが真実なのだろう。あまり、自分の意見だけを盲信して他人に押し付けない方がよい。同様に他人の意見を先入観で見るのもよくない。自戒を込めて。
 9月28日の記事のコメントに書いたが、家のポストに「ふじばかま 蝶のお話 うれしく拝見しました・・・・」という手紙が投げ込まれていた。どなたかは全く判らない。
 この街もまんざらでもないと妻と話し合ったが、元はといえば『掲示板』を出したから。
 人生は何もしなければ何も起こらない。歳と失敗を怖れていれば終活以外にすることが無くなる。

2014年10月9日木曜日

赤い月

  8日は十五夜で皆既月蝕だった。
 ただ、地球の大気の影響で太陽光の一部が廻り込むとのことで、真っ暗にはならず、悪く言えば薄雲のかかった満月状態だった。
 ・・・と、言ってしまえば身も蓋もないのでじっくりと観察しながら、各国の想像力に寄り添ってみた。
 ヒキガエル(中国)、バケツを運ぶ少女(カナダインディアン)、本を読むお婆さん(北ヨーロッパ)、大きな鋏の蟹(南ヨーロッパ)、左向きの女性の顔(東ヨーロッパ)、水を担ぐ男女(バイキング)、吠えているライオン(アラビア)、薪を担ぐ男(ドイツ)、そして兎の餅つき・・・。
 私としては蟹が一番似ていると思ったが、ここは、影を反転させた女性の顔という想像力に一票を投じたい。
 
 前述のとおり、8日の月蝕は別にして、月は万国共通で、その影に何らかのイメージを膨らませるのも万国共通である。
 しかし、この満月を眺めながら、楽しくお酒を飲んでいる人々がいる一方で、戦地でおびえながら仰ぎ見ている人々もいることに、想像力が及ばなければならないように私は思う。
 さて、荒廃したアフガンの地で人々がどんな顔で笑い転げたのかという鶴笑さんらの報告会を聴こうとチケットぴあで調べたら、7日の夜だけでなく昼にもあると出たので7日の昼のチケットを買って繁昌亭に行ったら、やっぱり夜だけであったので、普通の寄席を見て帰ってきた。我ながら自身のガサツさにうんざりしている。
 ただ、娘に教えてもらったランチどころ、天満宮の東の『箸の音』は、そこだけでも出かけた甲斐があるほどで、妻も満足してくれた。

2014年10月8日水曜日

老人は図書館

  「アフリカでは、老人が一人亡くなると図書館が一つ消えると言う。地域によって言い回しは違うかも知れないが、この言葉が意味するところは、文化にかかわらず真実である」とは、2002年の国連アナン事務総長の演説の一部で、全く同感である。

 先日、近所で「憲法9条の会」発足の集いがあったが、戦後世代が「個別的自衛権と集団的自衛権は?」とか「9条を守るだけで良いのか?」というような理屈を言いあっている中で、80歳以上の先輩が、満州の新京から女子供だけで引き揚げてきた経験や、樺太で8月15日以後も機銃掃射を受け、これも九死に一生を得て引き揚げてきた経験は、文句なしに「二度と戦争をしてはならない」ということを説得力を持って教えてくれた。
 前回のブログで「親の半生を聴いておこう」と書いたが、親だけでなしに戦前・戦中を知っている先輩から『生の言葉』を聴いておくことの大切さを私は今ひしひしと感じている。
 ただ、辛かった被害の話の割に加害の話が少ないのは、一般に男性の方が早死しているからと思われ、となれば、それは喫緊の課題と言えよう。
 そうでないと先日テレビで、櫻井よしこ氏が慰安婦問題に触れ、「日本人が、日本の兵隊がそんな酷いことをしたはずがない」というような、非科学的ではあるが日本人には耳あたりのよい言葉を繰り返していたが、そういう状況を的確に克服し難い気もする。
 事実を冷静に紡げば真実は明らかになる。
 戦前や戦中に関わる先輩諸氏の声を聴き及んだ方々がコメントに書いていただければ幸いだ。

 さて、確か「ああ野麦峠」の著者の言葉の中に、「予想に反して元女工たちの話は明るいものだった」という件(くだり)があったように記憶している。
 体が弱く「ああ飛騨が見える」と言った方々は記録採取の時点で多くは亡くなっていたのだ。
 (記録採取に応じてくださった元女工たちは健康で生き抜いてこられた方々だった。)
 同じように前日の会合で、父親たちの戦争体験の報告をしあったが、総じて「楽しい戦地の想い出」が多いことに目から鱗の驚きを感じたが、反面ものすごく理解もできた。人情というものは一筋縄ではいかないものだ。
 とすれば、私たちは死者の言葉や口を閉ざした父親たちの言葉をどう語り継ぐかについて話し合わなくてはならない。
 ただ単に先輩諸氏の話を聴けば戦前の不条理が浮かびあがるほど世の中は単純ではない。
 それだけに?、身近な戦前の記録を採取するのは予想外に楽しいことだとも思っている。

2014年10月6日月曜日

下駄は履かなんだ

 
  安倍首相が国会で「慰安婦誤報でいわれなき中傷が世界に広まった」旨の発言をした。
 河野談話に採用もされなかった吉田証言の朝日誤報問題にかこつけて歴史を修正しようというものだ。
 慰安婦・慰安所問題の実行主体が軍や政府であったことは公表されている資料等でも明らかであるにも拘わらず、そういう事実すらなかったかのようにマタマタこういう発言をすることこそが世界中で日本の評価を落としていることが首相には判っていない。私はナサケナイことだと思う。
 ほんとうにこの国・日本と日本人が好きなら、過去の誤りを反省して未来を語るべきだと思う。
 それを自虐史観などとレッテルを貼り攻撃することは常識人の容認すべきことではない。
 戦後の日本は、朝鮮戦争勃発と東西冷戦のおかげで、敗戦までの反省・総括を曖昧にしたまま「経済第一主義」で突っ走ってきたが、ここにきてそのツケが回ってきているようだ。
 実際、学校教育では現代史は教わってこなかった。
 そんなことで、私のちっぽけな周辺では今、現代史の勉強がブームである。
 ・・・と、ここまで書いてきたが、実は私の言いたいことは竜頭蛇尾で、極めて卑近な問題である。

 私には歳老いた義母がいるが、施設に外出許可をもらっては度々我が家で過ごしてもらっている。
 その時のために、回想療法というほど大層なものではないが、そのようなことに役立つ本を用意したりしている。
 そんなことで、先日は「大正昭和くらしの博物誌」という本を置いておいたら、珍しく興味を示してページをめくり、主として農具について私に語ったりしてくれた。
 という中で草履(わらじ)を見つけて・・・・、「学校には草履(わらじ)で行った」「下駄は履かなんだ」「雨の日は下駄やった」と話し始めたが、妻にはその意味が解らないようだった。「何で普通の日には下駄を履かなかったの?」と。
 答えは、草履(わらじ)はタダで作れるが、下駄は買わなければならないものだから、下駄は雨の日以外使用しなかったのだった。だから、普通は草履(わらじ)で通学して、学校についてから外の人に笑われないよう、持ってきた下駄と履き替えていたのだという。
 そんなことは、何時か何処かのテレビで聴いたことがあるし何かの本で読んだことがある。しかし、自分の義母の口からそういう話を直接聞くと、現代史と言うか民衆史というか民俗学というようなものが「生きた話」として胸に突き刺さる。
 こんなことは社会問題でも何でもないが、親がご存命の皆さんは、講座や図書館で現代史を学ぶもよろしいが、今のうちに親の前半生を聞いておくべきだと思う。
 私にとっては、両親4人のうち3人を亡くし、義母の記憶も薄れてから気のついた痛恨の反省点である。
 
 いま現在誰も疑わないような常識でも、四半世紀後の総理大臣や教科書がどういうか解らない国である。。
 「日本人は明治維新後は全員が靴を履いていた」というような・・・・・。
 些細なことでも記録に残すことが大切だと思う。
 義母が下駄を抱えて草履(わらじ)で学校に行ったのは、昭和初期の奈良の国中(くんなか)のことである。

  10月9日追記
 下駄といえば、小さい頃は写真のような木製のサンダルをよく履いていました。

2014年10月4日土曜日

終活なんておやめなさい

  「近頃どうしておられます?」「専ら終活をしています。」というようなことを私の周りではしばしば聞く。自分の墓を建てた者もいる。
 年齢、健康状態、子供の有無等々で感じ方に違いがあるようだが、終活はちょっとしたブームらしい。
 そんな最中、散歩中の書店で、ひろさちや著『終活なんておやめなさい』という本が目についたので購入して読んでみた。
 著者ひろさちや氏は、自身が「浄土宗の人間です。」と書いている著名な宗教評論家であり、私はこれまでに何冊か読んだ記憶があるが、正直に言って、内容に納得できてもパルピテーションはあまり感じなかった。
 それがこの本は、目次をつまみ食いするだけで・・・、
  遺言書は無用
  「迷惑かけたくない」の嘘
  気まぐれな理想主義ほどの迷惑なし
  葬式は、したくなきゃしなくていい
  墓参りを年中行事にする愚
  戒名という大ペテン
  「霊魂は考えるな」がお釈迦様の教え
  真の終活とは何か
  最期を明らめてこそ生が輝く
・・・・という具合に刺激的である。
 前文の一部を引けば、「いま、世間では、「終活」という名の死の準備がすすめられています。それは、死後の心配ばかりをしているのです。死後のことばかりを考えて、いま現在をないがしろにしています。馬鹿らしいと思いませんか!」というスタンスに貫かれている。
 知人友人にはお坊さんもおられるから、彼らには不愉快な内容も少なくないかもしれないが、私はこれまで読んだ著者の本の中で、一番共感が広がった。
 内容を紹介したいが、刺激的に語るのも憚れるから興味のある方は購読されるとよい。
 私は著者の主張に数多く納得して、読後、心に充実感を覚えた。
 私は、終活に取り組む暇があったら、私の半生の結果として近頃感じていること、考えていることをブログに綴っていこうと思う。
 その100分の1でも1000分の1でも子や孫の思い出になってくれればいい。これが私の老年期の仕事であり終活である。

2014年10月2日木曜日

蟄虫戸を坯す

  10月1日は、働いていたときには第3四半期の始まりとの意識が濃厚にあったが、今では「秋分の次候」、蟄虫戸を坯す(すごもりのむしとをとざす)と感じている。・・・と偉そうなことは言えず、これは息子のお嫁さんにプレゼントしてもらった『日本の七十二候を楽しむ』という本をめくって知ったことで、それまでは知らなかった季節の言葉であった。
 それにしても、七十二候は江戸時代に和風に改定されたというものの、その後の地球温暖化のせいだろうか、「蟄虫戸を坯す」というのに拘らず窓の外ではアオマツムシが風情もなんのそのといった様子でリーリーリーリーとうるさく鳴いている。
 この虫だけは「秋の虫」に数えたくもなく、早々に隠れて戸を塞いでもらいたい。

 この間、古書店で、孫のために昆虫大図鑑を買ってきたが、あまりに美しく楽しいので、孫には買ってきたことを内緒にして、私が開いては楽しんでいる。
 図鑑の美しさは息子や娘の子供のころと比べても隔世の感がある。

 今年は珍しく9月から秋らしい気候がめぐってきた。
 孫との電話で、「秋になったら何処へ遊びに行こうか?」「動物園?水族館?遊園地?」と聞いたところ、「お祭り!」とのことだった。孫のいうお祭りは秋祭り等のことでなく、盆踊りのことである。
 「さすが、観てるだけのものでなく主体的に参加したいんや!」と私が言ったら、「先日の綿菓子とかき氷が嬉しかっただけやろう」と妻が冷たく言った。

 エッ、この記事、ラベルが違いますか?