2014年8月9日土曜日

ナガサキ 想像する力

  今日8月9日は長崎原爆の日だ。
 報じられているところでは、本日行われる平和祈念式典で読み上げられる平和宣言で、田上富久長崎市長は、安倍政権による集団的自衛権行使容認閣議決定について懸念を示す文言を入れることにしている。
 被爆者や大学教授など14人からなる起草委員会での議論の結果を踏まえてのものだという。
 至極真っ当な判断だと思うが、閣議決定に盾突くわけであるから、陰に陽に大きな圧力があったのではないかと想像され、それを乗り越えられた多くの長崎県民の良識と勇気を称賛したい。
 それを思うと特段の圧力もないのに、ただ「ヒロシマもナガサキも生まれる前の出来事だ」的に無関心でいたり、「集団的自衛権も今日戦争が起こるわけではなかろう」と傍観していてよいはずがないと思う。
 誰だって、自分が何かを盗まれたり暴力を受ければ怒るだろう。
 それが家族なら同じだろう。
 しかし、その種の「仲間内の世界」の外になるとどうして冷やかになるのだろうか。
 民俗学の宮本常一が著書「生きていく民俗」の中で、明治の商人を評して「商人仲間の間では正直と義理は何よりも大切なものであったが、仲間以外の世界では全くそうではなかった」「その意識は今(1965年初版)も民衆の中に強く残っている」と辛辣に書いている。
 私は現代社会の強豪と呼ばれる体育会系のクラブを想起した。
 仲間内の世界しか世界と考えられない性根はあまりに遅れた意識だろう。
 優しさというか、人間性というのは、「仲間内の世界」の外の人びとの悲しみを想像できる力だと思う。
 そして思う。日本には素晴らしい格言があると。情けは人の為ならず。
 甘い情け心はその人の為にもならないという誤訳だけはしてほしくない。
 
 私は、全労働省労働組合元副委員長福田幸雄氏の語るDVDを持っている。
 氏は、爆心地近くに住んでいたが2日前に疎開していた。
 当日も、爆心地に一番近い旧制中学校である県立瓊浦中学校で防空壕に逃げた後、警報解除で浦上駅にたまたま来た列車に乗り、少し離れた長与駅の列車の中で被爆された。
 疎開していなかったら、下校しなかったら、列車が来ていなかったら、長与駅で列車の外に出ていたら、亡くなられていた可能性が高い。
 DVDの中で、当日直後と翌日の市内で見た被爆者の惨状に声を詰まらせておられる。
 そして本人は、証人がいないということで被爆者手帳をもらえていないという。
 これでも私たちは、それは昔のこと、遠くのことと言い続けていいのだろうか。
 その時を、その地を想像する力こそ人間性なのだと重ねて思う。
 全労働省労働組合には、ダイジェスト版をホームページやYouTubeにアップしてほしいと思っている。

3 件のコメント:

  1.  被爆者代表の「平和の誓い」は感動的でした。
     そして、「平和宣言にあった」『微力であっても無力でない』の言葉を大事にしたいと思いました。
     それらに比べ、安倍首相あいさつの空虚さはどうか。
     「そんなものさ」と判った振りをせず、声を出し続けたいと思います。

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  2. 安倍首相の広島でのあいさつ文は昨年のあいさつ文の使い回しだったと「赤旗」が報道。長崎でも「核兵器のない世界を実現していく責務がある」との言葉のなんと空虚なこと。

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  3.  コピペ挨拶を「官僚作成文書を棒読み」と批判する方がおられますが、私は、官僚はもっと上手にコピペすると思います。
     これは首相自身が「そんなのはコピペでいい」と、原水爆禁止、被爆者援護の課題を本心で不愉快に考えていることを右翼仲間にアピールしたのではないでしょうか。
     つまり、問題の本質は安倍首相のの横着にあるのでなく、明確な挑戦だと思います。

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