2014年8月14日木曜日

お盆の迎え火

  京都(市内)の人は、他所の人が「大文字焼き」などと言おうものなら、大いに軽蔑しながら「山焼きは奈良(若草山)どすえ。これは五山の送り火どす。」と不愉快な顔をする。
 しかし、この「大文字焼き」という発言と、「大文字焼きではない(送り火だ)」という訂正は、テレビでもラジオでも毎年何回か繰り返されるシーンで、視聴者としては毎年アハハと軽く笑っている。
 さて、その迎え火・送り火だが、親鸞の弟子たちに言わせると「無用な行事」だとなる。
 祖霊は浄土にいるし、それはこの世のすぐそばなのだから、お盆にだけ帰ってくるものではないという。
 ましてや、祖霊は仏になったわけであるから、帰り道や家族の家、そして浄土への道に迷うことなどありえず、そのために煙をあげてもらう必要などどうしてあろうかということらしい。
 こういう突き詰めた理屈を私は大好きだ。
 私も、お経の中の例え話のようなものを、その精神を学ぶのでなく、書かれてある文字面を真似るのはナンセンスだと思う。
 ズバリ、祖霊が山の奥あたりに行っていて、盆正月などの行事のときだけに帰ってくると考えるのは、土俗のアニミズムの考えだと思う。
 さは、さりながら、凡夫の私などは常日頃の信心を忘れており、こういう行事や環境が提供されることで思いを新たにするのである。
 で、親鸞の理屈を愛しながらそれを踏み外し、お盆だからとお寺に参り、13日には戸口で迎え火を焚いて、そんな形式をクリアしたことだけで『ええ気になっている』のである。
 奈良町を歩いていると『お迎え団子』の貼り紙があった。
 我が家の風習、言い伝えに『お迎え団子』はなかったが、一般に『行事食』をいただくことは楽しいことだ。求めたものは白と黄色で餡などが入ったり掛けたりしていなかった。奈良町独特のイワレがあるのだろうが、若い店員は知らなかった。
 迎え火の後、孫が美味しいと言ったから、これでいいのだ。

2 件のコメント:

  1.  先程近所の○○一族の亡くなった方の家に初盆に行ってきました。○○一族の末裔にはバラやんの家も入れてもらっています。大阪生まれの嫁さんは、田舎は色々行事が多いねーと言いつつ半強制的に協力してくれています。長谷やんのお孫さんのお祈りの写真を見せてもらったら、先祖代々のご供養がいっぺんに成就していること間違いなしです。後30分すれば、我が家も孫が来て楽しいお盆になりそうです。

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  2.  バラやんコメントありがとうございます。
     楽しいお盆をお過ごしください。

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