2014年8月10日日曜日

干菓子の団扇

  小学校の時分に「戦後民主教育」を受けた私は形式主義が嫌いで、「中身のない者に限って形式に拘る」と思ってきた。
 形式主義が全体主義を支えてきたと教わったからである。
 それは真理だと思う。
 だから偉そうなことを言うようだが、小学校高学年には「信仰とは精神の問題で偶像崇拝や現世利益は遅れた考えだ」と考えていた。
 後年、またそれは基本的には親鸞の教えだとも考えるようになり、そういうスタンスでこれまでを生きてきた。
 なお、親というか我が家は比較的神仏に親しい生活習慣であったので、そういうことなども自分なりに消化してきたつもりである。だから単純な無神論ではない。
 ただ、近頃は、「小学生の私」に言わせれば退化したのかもしれないが、宗教や信仰をあまり論理的に整理しなくてもいいのではないかと考えるようになった。
 その結果・・・、小学校以来の主義を変え、仏教を解りやすく開放的にイメージできるのではないかと思い、たまたま入手していた救世観音(偶像)をきちんと安置しそこを我が家の仏壇とすることにした。
 そして、レインボーラムネやマシュマロなどを供えておくと、孫が来て「まんまんちゃんあん」と言ってそれを食べてもよいように孫をしつけた。

 関西のお盆は8月に決まっているが、大型ショッピングセンターでは7月からお盆の関連商品が出回っていて、その一つが干菓子である。
 実母がいた時には必ず買っていたが、夫婦だけになってからは、美味しくもないし・・といって捨てるのも憚られるから、セットになった干菓子の購入は止めにした。
 ただし、団扇だけは毎年買っている。あの最中の皮のようなウエハースのような小さな団扇である。
 そして、孫が来て、それがなくなったらまた買ってきて補充している。
 だから、あの団扇・・私も好きなんだが、なかなか私まで回ってこない。
 孫・・・祖霊からいえば遠い末裔がやってきて「まんまんちゃんあん」と言って団扇を食べる。
 それを家族が楽しく見守る。
 それでいいじゃないかと近頃は思っている。

2 件のコメント:

  1.  長谷やん、本当にそうですね。信仰ってなんなんでしょうね。人の数だけ信仰もあるのではないでしょうか。
     最近、私が信仰を身近に感じたのは、インド旅行で、釈尊の「初転法輪の地(最初の説法の場所)」に佇んで、「この教えに出会わなかったら、私の人生はもっと味気ないものだっただろう」と感激したことでした。
     かつて「人は信仰なしで生きられるほど強くはない」という言葉を教えられましたが、ようやくその意味が分かるようになってきました。

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  2.  私の勝手気ままな駄文は「和道おっさんに叱られそうやなあ」と思いながら書きました。
     私は宗教的な奇跡やあの世は信じられません。
     しかし、宗教や神仏の周辺に漂う落ち着きや優しさは好きです。
     そういう環境下で穏やかに暮らし、神仏を鏡にして謙虚に生きるというのでもいいのではないかと、今のところは思っています。

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