2014年8月30日土曜日

トルストイを読む

 「夏休みにトルストイを読んだ」というと大方の人びとは「ホホーッ」と感心されると思うが、そういう先入観や既成概念で判断してもらったのでは後が恥ずかしい。
 読んだのはお嫁さんが図書館で借りてきた童話『三匹の熊』で、それを私が孫に読んであげただけというお粗末なものである。

  女の子が森の中で道に迷って熊の家に入り込む。
 「父、母、子供の熊の名前はミハイル・イワーノビッチ、ナスターシャ・ペトロブナ、ミシュートカ」・・と言うあたりから俄然ロシア文学の香りが漂い始める。
 そして、女の子は熊の家族の留守中に、テーブルのスープを飲んだり、子供の椅子を壊してしまったりした上でミシュートカのベッドで寝てしまう。
 当然、熊が帰ってくる。熊の父親は状況を見て怒る。
 さてどうなるのかと思いながら読んでいくと、「女の子は窓から飛び出して逃げていきました」で、「はい、おしまい」・・・・・・・。
 ちょっと狐につままれたような気分で朗読を終了した。これってほんとうにトルストイ?

 ネットを繰ってみると、これは元々ヨーロッパでは有名なイギリスの民話が元らしい。
 「トルストイが、当時言葉が荒れていたロシア農民の子供に綺麗な言葉を教えようとして書いた」という一文もネットにあったが、これは日本語に翻訳された本ではわからない。

 私の方が日本の仏教説話的な教訓話や予定調和に馴らされてしまっているせいか、女の子が謝ったり、熊と相互理解をしないまま逃げ出した筋書きに戸惑った。
 童話だと思うせいか、理由を考えようともせずに怒った熊に少々腹が立ったし、小さい子が気分のままに振舞ったとしても許してやれよ!とも思ったが、近代法制下では女の子が明らかに不法侵入して、勝手に食べ物を食べ、椅子を結果として壊したのだからこれでいいのだろうか???
 だからといって、トルストイの真意が「勝手によくないことをしてはいけません」・・・にあったようにはどうも思えないのだが。
 日本の民話だって、近代の変なバイアスがかかる以前の原話は「ほんとうは恐ろしい」ものが多いのだから、『収まりの悪い』私の感情の方が素直でなく、「よかったね」「めでたし めでたし」的結論を期待するつまらない常識に毒されているのかもしれない。
 こっちがそのように戸惑いながら読んだものだから、3歳の孫がどう感じたかは全く分からない。
 「世の中はそんなに単純ではないわい」とトルストイがロシアの大地で大笑いしているような気がするが、今も喉に何かが詰まったようなままである。 

2014年8月29日金曜日

災害列島

  豪雨土砂災害のニュースを聞きながら気が晴れない日々が続いている。
 人は「どうしてあんな山の近くに住んだの?」と言うかも知れないが、50年に一度、100年に一度の豪雨にまで気の回った人はいなかっただろう。
 いや正直に言えば、ほんの少しの不安はあったかも知れないが、庶民が購入できる土地というのはああいう土地になるのだと思う。
 私がかつて土地を探していたときも、庶民が手に届きそうな土地は崖の上や崖の下、あるいは元々池や沼であったようなところしか懐感情から現実味が出てこなかった。
 だから、あのニュースは自分のニュースであったとしてもおかしくない。
 たまたま旧住宅都市整備公団の造成した土地に住むようになったが、振り返ってみて紙一重の感じがしている。
 ネットで得た情報だが広島の八木地区の古い地名は「蛇落地悪谷(じゃらくじあしだに)」で、先人が厭っていた谷だったと想像させられる。
 私も全く新しい地名の住所に住んでいるが、やはり地名は無闇に変えるべきでないように思う。

 我が町のハザードマップを見てみると、新興住宅地以外の元々の旧村のようなところは大方色が塗られている。
 考えてみればそれは当然で、活断層=川=幹線道路=鉄道=住宅と田畑・・と重なるのは当然だし、もっと大きなところでは、木津川の広い周辺は長い歴史のスパンで見ると、洪水=その後は肥沃な田畑=村ということだったのだろう。
 そも、飲料水があり稲作が可能な土地というのは一歩間違えれば危険な土地だったのだ。
 だから、「みんな安全な場所に住めばいいのだ」となると大多数の国民は移転しなければならないのが瑞穂の国の宿命だろう。
 ということを前提に、「安心、安全な国づくり」を本気で政治の柱にする必要があるのではないか。
 真剣に考えれば課題は大きく困難だが、でも、それこそが政治の課題ではないか。
 今の政治がそういう方向を向いているようには到底思えない。
 JRのことだと言わず、リニアなど造るより普通の町を安全に補強すべきではないか。

 ただ、地震の話を専門の先生に聞いたとき・・・・、
 「奈良県北部京都府南部の活断層の話はこれくらいにしておく、これ以上説明すると不安を与えすぎるから」というのに笑ったが、ほんとうは笑えない話だった。
 オーストラリアは桁違いに地盤が安定しているらしいが、先生が国際会議でオーストラリアの専門の先生から、「どうして日本列島なんかに人間が住むの?」と尋ねられて答えに困ったらしい。
 私たちはそういうところに住んでいるのだという自覚が必要だ。
 だから原発など狂気の沙汰だと思っている。

2014年8月27日水曜日

華氏451度

  花子とアンで嘉納伝助が「蓮子は本ば読みよる時が一番楽しそうでん」という台詞があったと思うが、この間から私が本を読んでいるのを横から妻が「余っ程楽しそうな本やね」と聞いてきた。そんな顔をしていたらしい。
 本は古本市で手に入れた「継体大王の謎に挑む」で、平成元年と翌二年に開催された「越の国シンポジウム」をまとめたもので、一冊の本の中に大先生方の異論、反論が載っているというか「闘論」されているのが楽しい。
 しかし、よくよく考えてみると戦前なら、「天皇家は万世一系ではなかった」というような発言のくだりは、「×××」という伏字だろうし、そもそもこの本は発禁であったことは間違いない。
 戦前というのは若い人にとっては歴史の彼方であろうが、私などにとっては父母や兄や姉が実際に呼吸していた時代、ついこの間のことと思えるようになった。自分も若い頃は「生まれる前の遠い時代」と感じていたが。
 
 「華氏451度」という映画にもなった小説がある。
 舞台は、情報が全てテレビやラジオによる画像や音声などの感覚的なものばかりの社会。そこでは本の所持が禁止されており、発見された場合は焼却し逮捕される。本によって有害な情報がもたらされ、社会の秩序と安寧が損なわれることを防ぐためとして、密告が奨励され、市民が相互監視する社会が形成され、表面上は穏やかな社会が築かれていた。その結果、人々は思考力と記憶力を失い、わずか数年前の出来事さえ曖昧な形でしか覚えることができない愚民になっていた。
 アメリカの著者レイ・ブラッドベリが、1953年マッカーシズム(赤狩り)の中、ディストピア(ユートピアの反対)的未来社会を書いたものだ。
 
 全く小さな私事だが、先日私はNHKのインタビューを受けて全国ニュースで一瞬ではあるがテロップ付きで放映された。そして、あるOB会に出かけた時、「出てたね」「見たよ」という人があまりに多いことに驚いた。玄関前で大工仕事をしていた時にも近所の方に声を掛けられた。
 ということで、テレビというメディアの影響力の大きさをひしひしと実感というかほんとうに「少し恐ろしい」程に再認識したところである。

 そのNHKの人事に政府が強引に介入したり、首相がメディア幹部を頻繁に酒席に招いていることは周知の事実である。
 その外壁のように特定秘密保護法も施行された。
 そういう中で、若い人の中には「テレビとネットがあるから新聞はとっていない」という人も結構増えている。
 「えっ! 華氏451度ってSF小説と違ゃうかったん?」という社会がそこまで来ている。

2014年8月25日月曜日

先祖返りで酷い目に

 安倍政権のことを「アメリカべったり、財界べったり」と評することがあるが、私はいささか不正確だと思っている。
 安倍首相が靖国神社を参拝したときアメリカ政府は「失望した」と発表したが、外交文書上の「失望した」は「この時代に米中は対立したくない」「今頃何をしてくれるねん」という相当重い意思表示だった。
 財界は首根っこを押さえられて正直にものを言えないようだが、実際に中国を相手にした経済活動は大きく冷え切った。本心は「何をしてくれるねん」に決まっている。

 それでも繰り返す首相の発言と政策は、結局戦犯とされた祖父岸信介等の名誉回復、戦前的全体主義国家の名誉回復、綺麗な(戦前のような)日本を取り戻す、戦後(民主主義の)レジームからの脱却で、その限りでは彼の言動は一貫している。
 この国は彼とともに「先祖返り」しようとしている。
 小選挙区制の結果として、良識的な保守層は自民党内から排除され、国民を裏切り続けた民主党への利きすぎたお灸が、こんな奇形的な先祖返りを支えている。

 そうだとすれば、一貫して政党助成金も企業献金も受け取っていない日本共産党がもっと伸びてもいいようなものだがそうもなっておらず、マスコミの誘導が大きいにせよ、真の革新勢力がより奮闘しなければこの国は危うい。
  「より奮闘」の中身としては、「安倍政権はアメリカべったり、財界べったり」的な決まり文句を繰り返すだけでなく、現実をリアルに見て自分の言葉で語ることが大切だと思っている。
 しつこいようだが、決まり文句しか語らない、語れない部分がないとは言い切れない。
 「この頃、あまりに不愉快なニュースが多いから、情報をカットしている」「制限している」という声を結構聞く。気持ちは解る気がする。
 ただその上に、終活に向けての身辺整理に手を取られ「今さらネットなんか」と尻込みしたのでは首相らの『思う壺』ではないだろうか。
 それではただの心配性の愚痴っぽい老人で終わらないか・・・・という話をするのだが、あまり賛成意見は得られない。

 先日、安い居酒屋で万願寺唐辛子を注文したら辛いの辛くないのって…。
 「注文したんは鷹の爪ちゃうでえ」。
 どこか手入れの悪い農家から仕入れたので先祖返りしていたらしい。
 私は久しぶりにのたうちまわった
 我が家の万願寺も日当たりや連作のせいか今年は不作の上に、写真のような状態だ。(獅子唐ではない。)
 万願寺ぐらいは先祖返りしてほしくないと強く思っているが、話は反対か。

2014年8月23日土曜日

ムササビの宴の痕

  妻がテレビで知ったとかで、「奈良公園にエビがいてるのを知ってる?」とナゾナゾのように聞いてきた。
 すぐに答えは出なかったが、こちとらは谷幸三先生に奈良公園の自然を教わったばかりである。
 「エビのシッポ! ムササビの食べかす!」と正解をして、「何でそんなこと知ってたん」と妻を驚かせた。

 しかし残念なことに、この知恵は谷先生からの耳学問でしかなく、全く地に足が着いていない恥ずかしいものだった。
 そこで後日、エビのシッポを探しに行こう!と、夫婦で奈良公園へ出かけてみた。

 このお盆の時期、奈良公園にはバンビともいえないほど小さな子鹿がたくさんいて散歩が楽しい。
 手土産に持参したドングリ(昨秋収穫しておいたもの)を鹿たちに振舞いつつ、ムササビのいそうな大木、古木の下を探し回ったが、エビのシッポはなかなか見つからなかった。
 半分以上あきらめて帰りかけた時、妻が古いエビのシッポらしいものを見つけてくれた。
 すると、その近くのあまり大きくもない木の下に、樹上におけるムササビの宴の痕・・・。疑いなく耳学問どおりの「現場」があった。

 それは、まだ青い松ぼっくりの鱗のような一枚一枚の種を食べ、その滓を食べ散らかし、最後に種を食べつくして松ぼっくりの芯と先っちょだけになり、それがほんとうにエビフライのようになったものが散乱しているという一種異様なものだった。
 なるほど、「エビフライ」とか「エビのシッポ」と言われるはずである。
 的確な命名?に感動をすら覚えた。
 その食べ滓の感じではまだまだ新鮮そうだったから、今朝方数時間前までこの樹上でムササビが食事をしていたかと思うと心がウキウキした。
 ムササビですよムササビ。

 他方、目を人間界に向けると、ここでは文句なしに皆んな穏やかなコスモポリタンになると思う。
 奈良公園で、中国語や韓国語をはじめとする各国語を耳にしながら散歩していると、自然に心が優しくなる。
 そして、この国でこの公園でヘイトスピーチをした人々が愚かに思えてくる。
 同時に、この豊かな自然と宗教空間を無視してハリボテに似た観光施設を「整備」したがる人々を思うとこれも悲しくなる。
 さらに正直にいえば、この観光シーズンだというのに店を開けるのが遅いし閉めるのが早い、さらにはウィークデイだからと店を閉めたまま、さらには、「お盆休み」との貼り紙を見ると、言い古された言葉だが「大仏商法」ではないかとうんざりする場面もないことはない。

 まあ、こちとらはそんな場面は見流し?たり聞き流しておいて、ムササビやセンチコガネと楽しく会話するから「お勝手に」と言ったところだが・・・。
 食べ散らかせたエビフライの痕を眺めていると、先ほどまで私がその宴に参加してドンチャン騒ぎをしていたような愉快な想像の翼が広がっていく。
 携帯に孫から「遊びに行っていい?」と電話があったので、ムササビの夢から覚めて、ランチも止めて大急ぎで帰宅した。

2014年8月22日金曜日

蜘蛛の糸

  先日、家の裏の自転車置き場で蜥蜴の子供が蜘蛛の糸に捉えられていた。写真のとおり、尻尾を上にして半ば釣り下がっていた。
 この場所からするとハエトリグモに似たごく小型の蜘蛛で、子供といえども蜥蜴は手に余るのではないかと思うのだが、朝、出かける時に引っかかっていたのが、夜、帰って来た時にも引っかかっていたから、その時は蜘蛛の糸の丈夫さにほとほと感心した。
 蜥蜴が食べられても、逃げたとしても我が家の生活にあまり問題はないからそのままにしておいたが、数日後にはそのあたりを妻が掃除をしたから、結局どうなってどちらが笑ったのか結末は判らない。

  そんな風に蜘蛛の糸の丈夫さに感心していたら、8月20日の朝日新聞に「合成生物学で人造クモの糸」を作る記事が朝刊トップに載っていた。
 いわく「世界で一番タフな繊維で、車体、防弾チョッキ、人工血管などに応用できる次世代素材の注目株」らしいが、要するに微生物の中に別の遺伝子を組み込むという。
 朝日新聞は「生態系破壊やテロの懸念も」と大きな中見出しを立てていたがそのとおりだろう。
 科学技術の持つ恐ろしい一面と科学者の倫理を湯川秀樹氏やアインシュタイン氏が唱えてから多くの時を数えたが、今や原発にしても「合成生物学」なるものにしても、地球の破滅と紙一重のようなものである。
 と思う私の感情が時代遅れという保管箱に分類されるようなものかもしれないが、現代社会こそ「正邪」や「倫理」を語るべきときだと思う。
 でないと全人類が蜘蛛の糸にぶら下がったカンダタと同じ運命に陥らないだろうか。

2014年8月21日木曜日

軍隊の理不尽

  8月15日に終戦記念日に因んで「戦争の狂気」を書いてみたが、世間が戦争を振り返ることの多いこの時期に「軍隊の狂気」についても考えてみたい。
 よくテレビの中の芸能人などが「近頃の若者はなっとらん」「徴兵制で軍隊に入れたらええねん」というようなことを言う。
 そして実は、そんな発言の方がニュース解説よりも世間では影響が大きいので、あえて一文を書いてみる。

 8月15日の記事では、非常に常識人で気のよいお父さんやお祖父ちゃんが戦争法にも違反する虐殺や強姦に近いようなことをしたということを書いた。戦争とは、軍隊とはそういうものだと書いた。
 それを可能にしたものは命令と絶対服従の関係で、先にあげた芸能人の主張等もその種の体育会系の「規律のようなもの」をヨシとするものだろう。
 しかし、その記事でも触れたが、それは仲間内だけの「ルール」で仲間の外には全くそうでないところが一つの問題だ。
 よく電車の中で強豪と言われる学校の体育会系の部員が乗っていたりする。上級生のいる間は規律正しいが上級生が下りるや否や周りの乗客の迷惑も考えず横柄な態度に変わるというのを目撃することは日常茶飯事だ。
 その反対に床にバッグを敷き詰めて我物顔であったのが上級生が乗ってきた途端によい子に変身することもある。
 第二次世界大戦時の日本軍隊もそうだったのだろうと容易に想像がつく。

 第二の問題は、実はここが今回のメーンテーマだが、軍隊という「仲間内」のモラルも先の芸能人が言うような立派なものではなかったということだ。
 『員数合わせ』という言葉がある。一言でいえば軍隊内の泥棒であり、それを連鎖的に行い、最後の者が紛失した者として制裁を受けるのである。

 義母に、結婚後3日で入営した夫(義父)のことを聞くと、遠い記憶の彼方から、まるで自分が軍隊にいたかのようにこの員数合わせの話をする。「盗ってこなしゃあありませんねん」「なかったら死ぬほどどつかれますねん」というような話を繰り返す。
 実は、亡くなった私の義父は頭に馬鹿がつくほどの正直者で融通の利かない頑固者だった。
 例え話でなく、おつりが1円多かったと思うと500円出してもほんとうに返しに行く人だった。
 だから、軍隊内の理不尽な員数合わせの犠牲にどれほどあったかもしれないし、最終的には泣く泣く員数合わせをした(つまり盗んだ)かもしれない。
 いずれにしてもその理不尽がたまらなく、終戦後妻(義母)に繰り返し嘆いたのだろう。
 そこ(軍隊)には、チームワークもなければ、真実を解明しようとする科学的な姿勢も全く存在していなかったというのが真の姿だろう。
 ゲームの中で映画の中で頻繁に綺麗な戦争と殺し合いが繰り返されている。
 建国記念の日や終戦記念日に軍服をコスプレした若者が楽しそうに集っている。
 年寄りが「そんなことは解っているやろう」と口を閉ざしている間に、理不尽な軍隊がスポ根のチームにすり替わっていっている。
 語り部の次に『語り継ぎ部』が大切だと言われている。

2014年8月19日火曜日

盆踊りの季節

 孫を連れて祇園祭に行ったとき、孫が華麗な山鉾を前にして「ねえ、お祭りは何処?」と聞くので、「これがお祭りやないの」というと「違う」と言う。要するに孫のいうお祭りとは『ぼおどり』(ママ)=盆踊りのことで、いつ盆踊りが始まるのかと不満だったということがそのうちに解った。

 義母は老人施設に入所しているが、そこでは『盆踊りばあさん』として有名になっている。
 といって、義母は若い頃盆踊りが好きであちこち踊りに行っていたわけではなく、娘時代の農村の盆踊りは新盆の家を回ってその家の中庭等で踊るという、ほんとうに念仏踊りに近かったらしい。
 だからそういう想い出とは関連性がなく、老人施設に入所してから、どんな音頭であっても炭坑節の振り一辺倒だが、盆踊りの曲を聞けば体が独りでに動くようになっている。
 外泊の時にも、ユーチューブで盆踊りをするのを一番喜び、そんなとき此方は興奮しすぎることを抑制するのに必死になる。
 そして「曾孫の夏ちゃんも盆踊りが大好きやで」というと、嬉しそうに「血いやなあ」と応える。

 私は元々、戦後の町中に育ったから、「よい意味で」土俗的な盆踊りとは縁が遠かった。
 しかし、櫓の上で音頭取りが歌う盆踊りは、文句なしに私の中の民族のDNAが覚えていたように感じている。
  そんなことがあったから、以前にニュータウンで始まった夏祭りでは、「幼児向けのレコードで踊る盆踊りではあかん」と主張し、江州音頭の音頭取りを無理をして来てもらった。
 夏休みが始まってから、近所のお寺、福祉施設、自治連合会単位の盆踊りが毎週のようにある。
 そして、このあたりの締めの盆踊りは9月17日の東大寺二月堂十七夜盆踊りといわれているから、十七夜盆踊りの行燈用に孫の夏ちゃんの絵を送って申し込んである。

 念仏踊り等のルーツは知らないが、念仏の思想からすると「現に生かされている有難さ」を歓喜したものではないだろうか。
 もっと単純には、人間にとって楽しいひと時を作るなら神仏も楽しく喜んでくれるに違いないという奉納でもあったろう。
 ただ孫はこの頃、レゲエのようなヒップホップのような『ぼおどり』をより好きになっている。

2014年8月17日日曜日

都塚古墳は稲目の墓?

  8月16日の天気予報が芳しくなかったので、前夜には「明日の現地説明会は止めとこ」と心が萎んでいたが、朝になると予想外に青空が広がっていたので、とるものもとりあえず火事場泥棒のようにあたふたと7時半に家を出た。
 この列車には、「ハイキングシューズとナップザックだがハイキングのようでは決してない」という、一目でそれと判る人々が各駅から乗り込んできて8時34分「飛鳥」駅でどどーっと降車した。
 だいたい私の乗車駅は都塚を発掘調査された故網干善教関大教授のお住まいがあったその最寄り駅でもあったから、最初からそれらしい人々も多かった。
 私はバスの先頭に立っていたから、この集団の中では現地にイの一番に到着した。
 それで10時開始のところを9時前に到着したのだが、既に2~3列で数百mの行列ができており、今度は晴天が恨めしかった。
 で、事件現場を思わせるようにヘリコプターが舞う中、現地説明会は繰り上げられて9時15分ぐらいには始まって列が動き出した。

  事前の新聞やテレビ報道では「6世紀後半の類例のないピラミッド型の古墳!」ということだったが、階段状の石積は荒っぽい作業に見えた。(崩れていることも多分にはあるようだが。)
 なお、土の層は明瞭になっていたから、後年に畑や田圃のために造られた石垣ではないし、地形からしてもそれはあり得ないことは明らかだった。つまり、ピラミッド型古墳であることは間違いなさそうだ。

 しかし、この時代以前の前方後円墳の葺石やこの後の方墳、円墳の葺石よりも見劣りがした。不思議だ。単なる(あるいは実用的な)土留めという発想だったのだろうか。
 そうだとしても、巨大前方後円墳のイデオロギーが終了した後に、飛鳥中心部からみて正面の見かけの高さは7m、横幅41~42m、裾部に周濠を掘るというピラミッド型の古墳は堂々たるもので、「被葬者を立派に葬る」以上の思惑があったのかもしれない。
 藤原氏の興福寺や春日大社が平城宮を睥睨していたように・・・・蘇我氏が飛鳥を睥睨・・?
 (※ 伝推古天皇陵は63×56mの方墳)
 (※ 蘇我稲目の後裔には馬子、蝦夷、入鹿の外に、欽明、敏達、用明、崇峻、推古、舒明、斉明、天智、天武各天皇や厩戸皇子)

 NHKのインタビュアーが「誰のお墓だと思われますか?」と聞いてきたので「蘇我稲目とも言われているが勉強不足で解らない」と答えたら、その部分はカットされていた。
 なお、日頃は見ることのできない横穴式石室も立派であった。
 石棺の総高1.72mというのも巨大だし、飛鳥の中で唯一石室内に石棺がそのまま残っていて見ることができるものだった。

 「類例のないピラミッド型古墳」というのは強く高句麗の影響を受けていると紙上で学者が解説していた。
 だとすると、何をもって「日本の原風景」と言うかは諸説あるが、明日香を日本の原風景と言えば、ここは大陸文化を競って導入したスーパーモダン都市だったのだろう。
 そんなことを考えていたが、当たり障りのない「夢が広がりますねえ」と言うところだけがテレビニュースで流された。
 というか、それ以上の理論を語れるような知識もない。

 私は10時15分ぐらいには遺跡を見終ったが、その頃には気の遠くなるような行列が後ろの方にできていた。
 昼のニュースの限りでは「都塚現地説明会で熱中症」という話はなかったが、相当の人びとが戦列離脱していたに違いない。

 文字で知った歴史を皮膚で感じる充実したひと時だった。これも御縁だからと夕方には祖霊と一緒に蘇我一族の霊も送り火で送っておいた。南無~。

2014年8月15日金曜日

69年前の夏

大阪大空襲
  私自身は日本国民・戦後派第一期生で疎開先で生まれているから69年前の夏のことは実見していないが、大阪上本町にあった我が家は大阪大空襲で灰燼に帰している。戦後は道路の拡幅のために半ば強制的に土地を収用されている。
 それでも直接的な家族が生きていただけ幸せな方である。だから今日の私がいる。

 それから20年近く経ち就職したが、当時の職場には戦争体験者がごろごろいた。
 そして、実はことあるごとに職場で酒を飲んでいたのだが、不思議なことに彼らの口から悲惨な戦争体験はあんまり聞かれず、どちらかと言うと、満州で餃子の調理法を覚えたというような話は序の口で、捕虜を刺殺した話や慰安所を利用した話で盛り上がっていた。
 中国人の首を刎ねているような写真もそこかしこにあった。
 家族のいないその場の話はある意味真実で、つまり、戦争というものは普通の常識人や教養人さえも狂気に引きずり込んだんだと思う。職場の先輩たちはしごく普通の社会人だった。
 人道主義の信念でそれらを拒んだものは帰ってこれなかったんだろう。

 戦争をテレビゲーム感覚で理解し、「中国や韓国を懲らしめた方がよい」などと言っている人々は、そういう戦争のもつ狂気を解っていないような気がする。
 私の実父は松下飛行機の幹部社員であったから、敗戦時には軍に関する書類等を何日もかけて焼却隠滅したという。
 それでも自分の歴史が全てなくなるのが悲しいのか、『軍機密』というようなゴム印を入れた印箱が我が家にあって小さい私は玩具にしていた。

 だから、橋下大阪市長が「慰安婦を強制した証拠がない」というようなことを言ったときには、彼の歴史を見る不誠実さに開いた口が塞がらなかった。
 週刊誌の広告を見ると、近頃、右翼と言われる人々が、「韓国軍はベトナム参戦で酷い虐殺や強姦をしてきたではないか。そうしておいて日本軍の慰安婦問題だけを非難するのはけしからん。」というような主張をされているようだ。
 私は結論は別にして、虐殺や強姦は事実だと思う。そして、彼らもまた戦争に行く前は普通の市民だったのだと思う。戦争はそういう狂気の世界なのだ。
  日本軍でも、新兵の訓練は捕虜(でもない民間人)の刺殺で、そういうことを繰り返して人間性を忘れることで初めて陸上戦が可能になるのだろう。
 戦争は戦争ゲームではない。そのことは、アメリカのイラク帰還兵の精神病の多発に現れている(だからアメリカは日本の集団的自衛権容認を喜んでいる。)し、イラク帰還の自衛隊員の自殺率も異常な状況を示している。

 7月1日、安倍内閣は集団的自衛権の行使容認閣議決定を行った。
 その8月15日に、戦争の狂気について重ねて考え込んでみることも無意味ではないように思う。

2014年8月14日木曜日

お盆の迎え火

  京都(市内)の人は、他所の人が「大文字焼き」などと言おうものなら、大いに軽蔑しながら「山焼きは奈良(若草山)どすえ。これは五山の送り火どす。」と不愉快な顔をする。
 しかし、この「大文字焼き」という発言と、「大文字焼きではない(送り火だ)」という訂正は、テレビでもラジオでも毎年何回か繰り返されるシーンで、視聴者としては毎年アハハと軽く笑っている。
 さて、その迎え火・送り火だが、親鸞の弟子たちに言わせると「無用な行事」だとなる。
 祖霊は浄土にいるし、それはこの世のすぐそばなのだから、お盆にだけ帰ってくるものではないという。
 ましてや、祖霊は仏になったわけであるから、帰り道や家族の家、そして浄土への道に迷うことなどありえず、そのために煙をあげてもらう必要などどうしてあろうかということらしい。
 こういう突き詰めた理屈を私は大好きだ。
 私も、お経の中の例え話のようなものを、その精神を学ぶのでなく、書かれてある文字面を真似るのはナンセンスだと思う。
 ズバリ、祖霊が山の奥あたりに行っていて、盆正月などの行事のときだけに帰ってくると考えるのは、土俗のアニミズムの考えだと思う。
 さは、さりながら、凡夫の私などは常日頃の信心を忘れており、こういう行事や環境が提供されることで思いを新たにするのである。
 で、親鸞の理屈を愛しながらそれを踏み外し、お盆だからとお寺に参り、13日には戸口で迎え火を焚いて、そんな形式をクリアしたことだけで『ええ気になっている』のである。
 奈良町を歩いていると『お迎え団子』の貼り紙があった。
 我が家の風習、言い伝えに『お迎え団子』はなかったが、一般に『行事食』をいただくことは楽しいことだ。求めたものは白と黄色で餡などが入ったり掛けたりしていなかった。奈良町独特のイワレがあるのだろうが、若い店員は知らなかった。
 迎え火の後、孫が美味しいと言ったから、これでいいのだ。

2014年8月12日火曜日

タマムシ

  法隆寺の玉蟲厨子の最初の所有者は推古天皇だと言われているから、この虫と日本人のお付き合いもすこぶる長い。
 2008年に玉蟲厨子のレプリカが作られたが、その時に要したタマムシの翅は約5000枚で、ほとんどは東南アジアで調達されたらしい。
  とすると、飛鳥時代にはタマムシが群舞していたのだろうか。決してそうとも考えられないから、当時としても超高級な厨子だったのだろう。
 さてさて、どのように5000枚を調達したのだろうかと想像の翼は広がる。
 「宝の虫」との名は「黄金虫」以上のレベルで、昆虫の女王と言ってもよい。
 だからと言うわけではないが、この虫に興奮するのは真っ当な日本人だと思う。
 本には、真夏の昼にエノキやケヤキの木の上を飛び回ると書いてある。
  あの光沢は、秋の田にキラキラのテープを張り巡らしたり、近頃では要らなくなったCDディスクを吊るしたりするように、鳥がキラキラ光るものを嫌がるからそのように「進化」したものらしい。
 写真は夕方にケヤキの木の上を飛び回っていたもので一瞬葉っぱにとまったもの。
 カメラを持ち出したらすぐに飛び立ってしまった。

 こんな素晴らしいタマムシだが、新聞紙上では「集団的自衛権、自公合意、重要部分で玉虫色」というような使い方が一般的で、腹黒い政党や政治家の記事に度々登場してかわいそうだ。
 そんなときにはもっと別の形容をしてタマムシの名誉を回復してやりたいと考える。

 昨日は台風11号のおかげ?で猛暑でなかった。
 そのためだろうか、今日(11日)は、クマゼミの蝉時雨の中に、ツクツクホーシの声を初めて聞いた。
 ツクツクホーシが7日の立秋を知っていたとも思えず、土の中で昨日「猛暑終了」と感じとり、慌てて出てきたのだと思う。
 ツクツクホーシが鳴き出し、「お盆やから殺生(虫捕り)したらあかんで」と言われたら、夏休みの終わりが少し遠くに見えてきて悲しかった、そんな小学生時代の記憶がよみがえる。

 話の中で3歳の孫が「ゲーム機を買ってほしい」と言うので驚いた。年上のお友達の話を見聞きしたからだろう。
 私が「ゲームよりも如何に虫捕りの方が楽しいか」を語ったら、今回のところは「虫捕りがいい」と言ってくれたが、何時までそんなことを言ってくれるかはわからない。
 タマムシの方が何倍も興奮するのになあ。

2014年8月10日日曜日

干菓子の団扇

  小学校の時分に「戦後民主教育」を受けた私は形式主義が嫌いで、「中身のない者に限って形式に拘る」と思ってきた。
 形式主義が全体主義を支えてきたと教わったからである。
 それは真理だと思う。
 だから偉そうなことを言うようだが、小学校高学年には「信仰とは精神の問題で偶像崇拝や現世利益は遅れた考えだ」と考えていた。
 後年、またそれは基本的には親鸞の教えだとも考えるようになり、そういうスタンスでこれまでを生きてきた。
 なお、親というか我が家は比較的神仏に親しい生活習慣であったので、そういうことなども自分なりに消化してきたつもりである。だから単純な無神論ではない。
 ただ、近頃は、「小学生の私」に言わせれば退化したのかもしれないが、宗教や信仰をあまり論理的に整理しなくてもいいのではないかと考えるようになった。
 その結果・・・、小学校以来の主義を変え、仏教を解りやすく開放的にイメージできるのではないかと思い、たまたま入手していた救世観音(偶像)をきちんと安置しそこを我が家の仏壇とすることにした。
 そして、レインボーラムネやマシュマロなどを供えておくと、孫が来て「まんまんちゃんあん」と言ってそれを食べてもよいように孫をしつけた。

 関西のお盆は8月に決まっているが、大型ショッピングセンターでは7月からお盆の関連商品が出回っていて、その一つが干菓子である。
 実母がいた時には必ず買っていたが、夫婦だけになってからは、美味しくもないし・・といって捨てるのも憚られるから、セットになった干菓子の購入は止めにした。
 ただし、団扇だけは毎年買っている。あの最中の皮のようなウエハースのような小さな団扇である。
 そして、孫が来て、それがなくなったらまた買ってきて補充している。
 だから、あの団扇・・私も好きなんだが、なかなか私まで回ってこない。
 孫・・・祖霊からいえば遠い末裔がやってきて「まんまんちゃんあん」と言って団扇を食べる。
 それを家族が楽しく見守る。
 それでいいじゃないかと近頃は思っている。

2014年8月9日土曜日

ナガサキ 想像する力

  今日8月9日は長崎原爆の日だ。
 報じられているところでは、本日行われる平和祈念式典で読み上げられる平和宣言で、田上富久長崎市長は、安倍政権による集団的自衛権行使容認閣議決定について懸念を示す文言を入れることにしている。
 被爆者や大学教授など14人からなる起草委員会での議論の結果を踏まえてのものだという。
 至極真っ当な判断だと思うが、閣議決定に盾突くわけであるから、陰に陽に大きな圧力があったのではないかと想像され、それを乗り越えられた多くの長崎県民の良識と勇気を称賛したい。
 それを思うと特段の圧力もないのに、ただ「ヒロシマもナガサキも生まれる前の出来事だ」的に無関心でいたり、「集団的自衛権も今日戦争が起こるわけではなかろう」と傍観していてよいはずがないと思う。
 誰だって、自分が何かを盗まれたり暴力を受ければ怒るだろう。
 それが家族なら同じだろう。
 しかし、その種の「仲間内の世界」の外になるとどうして冷やかになるのだろうか。
 民俗学の宮本常一が著書「生きていく民俗」の中で、明治の商人を評して「商人仲間の間では正直と義理は何よりも大切なものであったが、仲間以外の世界では全くそうではなかった」「その意識は今(1965年初版)も民衆の中に強く残っている」と辛辣に書いている。
 私は現代社会の強豪と呼ばれる体育会系のクラブを想起した。
 仲間内の世界しか世界と考えられない性根はあまりに遅れた意識だろう。
 優しさというか、人間性というのは、「仲間内の世界」の外の人びとの悲しみを想像できる力だと思う。
 そして思う。日本には素晴らしい格言があると。情けは人の為ならず。
 甘い情け心はその人の為にもならないという誤訳だけはしてほしくない。
 
 私は、全労働省労働組合元副委員長福田幸雄氏の語るDVDを持っている。
 氏は、爆心地近くに住んでいたが2日前に疎開していた。
 当日も、爆心地に一番近い旧制中学校である県立瓊浦中学校で防空壕に逃げた後、警報解除で浦上駅にたまたま来た列車に乗り、少し離れた長与駅の列車の中で被爆された。
 疎開していなかったら、下校しなかったら、列車が来ていなかったら、長与駅で列車の外に出ていたら、亡くなられていた可能性が高い。
 DVDの中で、当日直後と翌日の市内で見た被爆者の惨状に声を詰まらせておられる。
 そして本人は、証人がいないということで被爆者手帳をもらえていないという。
 これでも私たちは、それは昔のこと、遠くのことと言い続けていいのだろうか。
 その時を、その地を想像する力こそ人間性なのだと重ねて思う。
 全労働省労働組合には、ダイジェスト版をホームページやYouTubeにアップしてほしいと思っている。

2014年8月7日木曜日

こうもり博物館

  2013年8月24日付けでコウモリに指を噛まれたことを書いた。
 この出来事は、昨年の我が家の珍事ナンバーワンであったが、そこにも書いたが、ちょうど孫がお母さんの実家に帰っていて、その珍事をリアルに孫に見せてやれなかったことが私には一番の心残りだった。
黒い布の中に赤ちゃんが3匹
  だから、もう一度コウモリを捕まえたいと常々考えていたのだが、そういう邪心があるとコウモリは寄り付いてくれないものでほとんど諦めていた。
 そんな折、ひょんなことから『東洋蝙蝠研究所こうもり博物館』というのが奈良市にあることを知った。奈良市といっても北東の端の端、京都府笠置町に接した森の中。でも行ってみなければなるまい。
 ここは標本等だけのプチ博物館であったが、孫の夏ちゃんがあまりに楽しく見ているので、特別にアブラコウモリの赤ちゃんを見せて触らせてくれた。
 ミルクで育てているらしい。
 夏ちゃんは「コウモリはこんなにたくさんの蚊などを食べてくれる」という話を聞き、『コウモリさんはいい人だ』と確信して好きになった。
 私はこれで、去年からの心の中の宿題をひとつ片づけたような気分になった。
 博物館には、中国等で目出度い生き物とされていることに因んでデザインされた磁器やおもちゃなどもあり、特におもちゃを手に取って遊ぶことが出来た。
 ちょうどメンバーが会議中であったが、博物館は従で、研究や保護活動が主のように見えた。
 非常にフレンドリーなプチ博物館で楽しかった。興味が湧いたお方は夏休みの行事に子や孫を連れて行ってあげては如何だろう。
 私たち祖父・祖母と孫は、そのあと笠置山頂上にある笠置寺の行場を冒険して帰った。
 近くには、フジタカヌーがあるので川下りもいいかもしれない。
 笠置の河原はBBQもOKだ。
 繰り返すが奈良市というよりもそこは笠置町である。

2014年8月6日水曜日

ノー モア ヒロシマ

  8月6日ということで一番思い出すことは、先輩Yさんのことになる。
 Yさんは労働組合の先輩で、中国ブロックのリーダーだったし、仕事上の職責もその地の幹部に近かった。
 恰幅もよく押し出しも効く、一言でいえば親分肌で肯定的な気分を込めて仲間からボスと呼ばれていた。
 当然のように皆に押されて、その年には原水協の国連・ニューヨーク要請団に参加され、米国のテレビでも被爆体験を話されるなど活躍をされた。
 その親分が、「実はな長谷川君、わしゃあ、ピカドンの話をするのは好かんのじゃ」とおっしゃったときにはその意味が解らなかったが、その夜、ホテルの二人部屋で一緒になったとき、私は彼の悲鳴で飛び起きた。
 それは、文字では到底伝えきれない「ウオー ウオー」という悲鳴というか叫び声で、直ぐには心臓病かと思ったが、「今わし大声を出さんかった?」と尋ねられ、また何回か繰り返されたので、うなされていることが理解できるようになった。
 翌朝には、「夕べ大声を出したん違うかな」「迷惑かけたん違うかな」と謝られ、「昼間に原爆の話をした日の夜は必ずうなされるんじゃ」と辛そうに語られた。
 「ああ、また今晩もうなされる」という恐怖が「話すのは好かん」意味だったのだ。
 その後私は、仕事の上でPTSDなど『重度ストレス反応』を取り扱ったりすることとなったが、診断ガイドラインにある『フラッシュバック』や『夢の中で反復して再体験するエピソード』を読む度にあの夜のことを思い出した。
 戦後生まれの私は直接的な体験を語ることはできないけれど、Y先輩は命がけで地獄の様子を私に教えてくれたように思う。
 だから、この話を毎年8月6日に書くのが与えられた宿題だと考えている。

あの日
この子の目の前で
起きたことを
知っていただきたいのです
あなたに

そして
日本の子どもたちに
全世界の人びとに
 

2014年8月4日月曜日

遺跡の復元

吉野ヶ里遺跡
  先日、千田嘉博先生の「近世城郭の成立」という講義で、復元された吉野ヶ里遺跡について触れられて、「あんなびっしり詰まった城柵では弓矢で護ることもできない。」と、暗に文化庁、文化財研究所、教育委員会の復元した城柵を批判されていて可笑しかった。
 敵が城柵まで襲い掛かって来た時には、礫か矢を放物線を描いて放ったと言うしかなく、「間抜けた見解だ」とその批判は判りやすい。
 ことほど左様に、権威ある復元と言えども誤りも多く、未解明な問題も多い。

  以前にも書いたが、平城宮大極殿は二層(二階建て風)に復元されているし、平安宮のそれは平安神宮に単層で復元されている。
 これも歴史の流れからすると逆ではないかと不可解で、平城宮の復元時に「できることなら立派に見えるように復元したい」という意識が働いたのではなかろうか。

  その意識の延長線上で平城宮大極殿前を整地して回廊を復元するという工事が始まっている。
 立派な復元建物で覆ってハリーポッターの城と張り合いたいのだろう。
 吉野ヶ里と変わらない。
 若草山にモノレールという案(とりあえず「棚上げ」になった)にしても、国や県は目先の金儲けしか興味がないようで悲しい。(結局そんな張りぼてのような観光策は見捨てられ、最後にはホンモノが値打ちを発揮するだろう。)
 発掘や研究はゆっくりすればいい。
 奈良県知事には、大阪の都心から25分ほどのところに広がる草はらを「どうだ!」と自慢する器量が欲しい。
 

2014年8月3日日曜日

リニアは必要?

 奈良県奈良市の北端、リニア奈良駅候補地らしい地の近辺にすんでいる。
 候補地は生駒市や大和郡山市等にもある。
 さて、東京・大阪間を1時間で結ぶリニア新幹線は観光客を奈良に呼び込んで奈良に泊ってくれるだろうか。そんなに甘くはなく、否、今以上に日帰り観光地にならないか。
 莫大な地元負担金を負担してリニア奈良駅を造ることにどれほどの意味があるだろう。
 知事や市長、地元の経済人は澄んだ眼で「費用対効果」を弾いてみてほしい。
 今現在、東北新幹線や九州新幹線まで繋がる東海道新幹線京都駅改札口正面に近鉄の駅がある。そこから約35分で大和西大寺、45分もあれば奈良駅に到着する。
 リニア奈良駅ができたとしても、奈良駅に停まる列車はどう考えても1時間に1本だろうから、東京駅(品川駅)までの所要時間は実質的には大して変わらないのではなかろうか。
 それでも、奈良駅というのと京都駅というのでは東京の人びとへのアピール度が違うと、きっというのだろう。
 それでも費用対効果はペイしないと私は思う。
 結局、「私が誘致した」という自慢話と、土地や工事を巡る利権に加わりたいというものではないのだろうか。
 今現在でも、奈良の人は東京への日帰り出張が容易である。大阪の人以上かもしれない。
 近鉄のダイヤさえ充実すれば、リニア京都駅で何ら差支えないと、候補地近辺の私は思う。
 問題は近鉄だ。京阪の特急は綺麗で速くて、何よりも無料である。
 地元政治家は近鉄の有料特急優先策を改善させないか。そこはタブーなのだろうか。
 
立派な瀞ホテル
  私は交通アクセスが便利になることに反対ではない。
 しかし、この列島が国民にとって住みやすい場所であるためにはどうあるべきかの議論を再考する時である。
 朝日新聞8月1日付け夕刊に加戸論説委員が「リニアは幸せの青い鳥か」と、名古屋大阪間同時開業要望に浮かれる関西の人びとに問題を提起している。東海道新幹線開業以来半世紀の間に進んだ東京一極集中(ストロー効果)と大阪の地盤沈下を必死に考えるべきだと。同感である。
 先日、息子たち家族が紀伊山地の最奥の瀞(どろ)八丁に行ってきたという。そして言うには、便利な道路が造られて皆が日帰りするようになったので、大正6年創業の有名で立派な瀞ホテルが宿泊できなくなっていたと。実質的にホテルとしては閉館したと。こういう話は全国に散在している。
 ただ、生活道路が便利になるのは悪いことではないから、ほんとうに冷静な議論が必要だろう。

2014年8月2日土曜日

キリギリスは鳴いていない?

  途中で転居はしたが広い意味でこのニュータウンに居を構えてから30年が経つ。
 その頃(30年前)は、夏の退勤途上、駅前の街灯の下にクワガタやカブトが時々舞っていた。
 コクワガタなどはいっぱい地面に落ちていてゴミのようなものだった。
 そういう話がいつの間にか思い出話になってしまった。
 開発が進んで緑がなくなったわけではない。けっこう緑地も残されている。
 子供たちが捕りつくしたわけでもない。そんな頼もしい子供の方がカブトより桁違いに少ない。
 街中が明るくなりすぎた? 害虫駆除の徹底? 枯木の始末?? 私には判っていないが、枯木が処理されて‟きれいな街”になったのが一番臭いと思っている。
 
 さて、クワガタやカブトは見なくなったが、キリギリスは盛んに鳴いている。
 孫に捕ってやろうと出かけたが全く捕れずに帰ってきた。
 小さい頃はあんなに捕れたのに・・と思ったが、あの頃は1日中遊んでいたのだから、今から思えばそれほど捕れていたわけでもない。遠い楽しい想い出は実際よりもたくさん捕れていたように記憶にしまわれている。

 そんな話を妻にすると、「キリギリス? そんなんいてる?」と聞き返したので驚いた。
 駅までの道中キリギリスだらけでないか。家にいても聞こえるではないか。
 妻は「ザーザーと虫が鳴いてるのは知ってるけど」と言う。ザーザー?? はっきりと『キリギリース チョン』と鳴いているのに。興味を向けないとこういうことなのだろう。
 近所の知人が「コウモリなんか見たことない」と言っていたのと同じで、見えてはいるが『つまらない蛾が飛んでいる』と信じ込んでいたに違いない。

 金子みすずさんの詩ではないけれど、「見えぬものでもあるんだよ」というか、見えていたり聞こえていても見えない聞こえないものも多い。
 好きでもない昆虫なんかに反応しないというか、同じように、人間には辛い出来事を辛いと感じないように入力を遮断する深層心理があるようだ。
 ただそれを繰り返すと、社会の歪みさえも見えていても見えなくなる。
 戦争の前触れは怖いことだ。だからそういう事実を見たくない。まさかほんとうに戦争なんて起こらないだろうと信じたい。信じたいので信じ込む。
 私も3.11の後、「メルトダウンはしていない」「ただの水素爆発だ」との発表を疑いながらも‟そう信じたい”ので半ば信じ込もうとしたことがある。
 悲しいけれど、これが安倍内閣や維新を潜在的に支える無党派層を作っている。
 とすれば、大切なことは、そこに共鳴してもらえる言葉である。
 正しい理屈が即多数になるなら話は単純だ。
 私たちは、キリギリスやコウモリを聞いたことも見たこともない方々に解ってもらえるダンドリに知恵を出す必要があるように思っている。
 昨日のなかにし礼さん風に言えば、若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければならない。
 朝日新聞は、右翼運動の日本会議が主導して19県議会で改憲推進の決議がなされたと報じている。
 そんな中、護憲平和を望む人々が、十年一日のごとき言葉と行動であっていいはずがない。

2014年8月1日金曜日

戦争体験者の詩

  『なかにし礼オフィシャルサイト』に戦争体験者の詩が載っている。
 集団的自衛権行使容認の閣議決定のあった7月1日に毎日新聞からの依頼を受け、すぐに応えて書いた詩で、7月10日付け毎日新聞東京夕刊に掲載され、その後、Twitter や Facebook で大きな反響を呼んでいる。
 氏は、「終戦から69年。戦争を知らないどころか平和憲法を満喫して生きてきた若い世代は、まさに平和の申し子です。草食系男子? 国を滅ぼすマッチョな男よりずっといい。心優しき彼らこそ平和を守ることができる。そんな彼らがいてくれることを僕は心強く思います。若者を『戦争を知らない』とか『無関心だ』とか批判するのは間違っている。僕たち戦争体験者は、若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません。」(なかにし 毎日新聞記事より抜粋)と書いている。
 いみじくも1か月が経過した8月1日、なかにし礼さんの詩をここに掲載する。


平和の申し子たちへ! 泣きながら抵抗を始めよう

二〇一四年七月一日火曜日
集団的自衛権が閣議決定された
この日 日本の誇るべき
たった一つの宝物
平和憲法は粉砕された
つまり君たち若者もまた
圧殺されたのである
こんな憲法違反にたいして
最高裁はなんの文句も言わない
かくして君たちの日本は
その長い歴史の中の
どんな時代よりも禍々(まがまが)しい
暗黒時代へともどっていく
そしてまたあの
醜悪と愚劣 残酷と恐怖の
戦争が始まるだろう
ああ、若き友たちよ!
巨大な歯車がひとたびぐらっと
回りはじめたら最後
君もその中に巻き込まれる
いやがおうでも巻き込まれる
しかし君に戦う理由などあるのか
国のため? 大義のため?
そんなもののために
君は銃で人を狙えるのか
君は銃剣で人を刺せるのか
君は人々の上に爆弾を落とせるのか
若き友たちよ!
君は戦場に行ってはならない
なぜなら君は戦争にむいていないからだ
世界史上類例のない
六十九年間も平和がつづいた
理想の国に生まれたんだもの
平和しか知らないんだ
平和の申し子なんだ
平和こそが君の故郷であり
生活であり存在理由なんだ
平和ぼけ? なんとでも言わしておけ
戦争なんか真っ平ごめんだ
人殺しどころか喧嘩(けんか)もしたくない
たとえ国家といえども
俺の人生にかまわないでくれ
俺は憶病なんだ
俺は弱虫なんだ
卑怯者(ひきょうもの)? そうかもしれない
しかし俺は平和が好きなんだ
それのどこが悪い?
弱くあることも
勇気のいることなんだぜ
そう言って胸をはれば
なにか清々(すがすが)しい風が吹くじゃないか
怖(おそ)れるものはなにもない
愛する平和の申し子たちよ
この世に生れ出た時
君は命の歓喜の産声をあげた
君の命よりも大切なものはない
生き抜かなければならない
死んではならない
が 殺してもいけない
だから今こそ!
もっともか弱きものとして
産声をあげる赤児のように
泣きながら抵抗を始めよう
泣きながら抵抗をしつづけるのだ
泣くことを一生やめてはならない
平和のために!