2014年7月25日金曜日

歌の好みは別や

  フェースブック上で宮本岳志参議院議員が「ユーチューブの高田渡と関西フォークがいいねえ。」と呟いたら、「私はフォークは嫌いだ。ついでに共産党の演説会で演奏される歌も基本的に嫌いだ。」というコメントが返ってきていて、横から眺めていて、そのやりとりが非常に愉快に感じた。
 私はというと、プロテストソングといわれたフォーク世代で、宮本さんと同じ感性を持っている。
 同時に、「歌の好みは別や。」という意見も痛いほど解る。
 いくらかの行事を企画するときに選曲に悩み、そして度々(実はほとんど)スベッテきたからだ。
 以下は、そういうことに関わって感じた独断と偏見の話である。
 
 だいぶ以前に、私のほんの少し上の方々の送別会を企画したとき、送る側のスタッフの若い女性に歌唱指導を頼んでおいたら、その中の一曲が「青い山脈」だった。
 その時私は、「それはもう一世代上の歌で、我々の世代にはその明るさが恥ずかしいで。」と一人思った。独断と偏見である。
 このとおり、歌に抱くイメージは5歳も違えば全く異なるものなのだ。
 この5月に現職の退職者とOBの集いを企画したときには、「‟故郷”はどうや。」という意見が出たが、私は、高齢者=郷愁=故郷の歌というワンパターンも、「年寄りは故郷の歌に感動すべきだ。」とNHK的な偉い人に言われているようでついていけなかった。
 「故郷」は、若草山のモノレールに反対する若草山での集会でも歌われたが、同じような気持ちになった。だが「故郷」を選曲される方は少なくない。私はどちらかというと少数派だ。
 5月の集いでは私の独断で、「花は咲く」「愛燦燦」「人生いろいろ」「今日の日はさようなら」をチョイスして行ったが、『はまった』という感じにはならなかった。難しい。
 いま、少しだけ関係している老人ホームの秋の行事を話し合っているが、ここでも歌は、童謡、唱歌、民謡がよいという意見が多数で、「昭和2~30年代のヒット曲」という私の意見は少数派のようである。
 妻は「童謡コーラスも楽しい。」と言うし、要するに歌の好き嫌いに正しいも間違いもないのだとつくづくと思う。
 遠い遠い昔に演歌が好きな友人に、「こんな歌詞やメロディーラインに感情移入できる感性は問題や。」と言ったことがあるが、今は深く反省している。
 フォークもボサノバもポップスもよいが、先の日曜日には「のど自慢」をけいはんなホールで観てきた。ゲストの山川豊も天童よしみも流石であった。
 娘から「客席でピンクのシャツが目立っていたで」とメールがあった。
 好き嫌いの問題を正しいか間違っているかのように論じるのは生産的でないとしみじみと思ったが、私は高齢者の多い集会で「これなら歌えるでしょ」と言わんばかりに童謡などを歌うのは恥ずかしくて好きでない。理屈ではなく好き嫌いの問題である。叙情歌そのもののことではない。叙情歌は好きである。

2 件のコメント:

  1. 中学校の担任の先生はちょっとユニークな先生だったが、ある日突然、「家にある余った歌謡曲の歌集を呉れませんか」と仰った。「日本の歌謡曲の歌詞は素晴らしい!」と云われるのだ、担任は理科の先生だったので余計に驚いた。当時、昭和35~6年頃の歌謡曲といえば文語体の歌詞が多く、作詞家にも「歌人」や「詩人」が多かったように思う。その当時、私たちは、アメリカンポップスに夢中で、漣健児という素晴らしい訳詞家もいたが、とにかくメロディー重視であった。齢をとるにつれ最近は阿久悠や杉本まさとの歌詞に涙するようになった。

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  2.  「サワコの朝」など、「一番思い出の曲」を語り、そしてそれが流れる番組が幾つかありますが、多くの方々が20代の貧しく悩み多き時代に流れていた曲を語ります。
     実に下らぬ歌詞であったとしても、思い出に裏打ちされた歌というのはそうなんですね。
     思い出の曲が少ないということは、その時代が振り返ってみて幸せだったんでしょう。
     で、最近の曲に興味がわかないのは、今が幸せ・・・それとも感受性が鈍ってきただけ?

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