2014年7月31日木曜日

夏は夏祭り

  26日の土曜日、かつて実母がお世話になっていた老人施設の夏祭りに、家族会OBとしてお手伝いに行ってきた。
 家族と言っても、ここでこそ介護する側の息子や娘だが、世間ではみんなお祖父ちゃんお祖母ちゃんの世代であるから、炎天下で始まった設営ではスタッフの熱中症が心配だった。
 だが考えてみると今は日本国中老人だらけなのだから、今日も行なわれているであろうあちこちの夏のイベントはきっと老人たちが仕切っているに違いない・・と思うと可笑しくなる。
 テントを張り、楽しく飾り付け、いろんな準備に追われているうちに開会時刻になった。
 私の責任範囲では、ヨーヨー釣りのプールに幼児が頭から突っ込んでビショビショになるという失敗も数件発生したが、例年以上に盛況だった。
 私は裏方に徹したので入所者の方々の状況を詳しくは知らないが、あちこちから家族の笑い声が聞こえていた。
 実母がいた時には、100歳を超えて缶ビールをグイッと空ける実母の写真が長く皆の話題になった。思い出す。
 老々介護は一般的に辛く鬱々とするものだが、そういう意味では特養等の老人施設はこのような行事がいっぱい用意されていてありがたい。家族介護は「介護うつ」になる。
 ところがこの国では「施設入所はぜいたくだ」とばかりに介護福祉を制度的にも予算上も縮小している。そして言う、「家族介護はうるわしい」と。
 介護の事態は突然やってきて、待ったなしになる。
 しかし、施設は「何百番です。お待ちください。」となる?????。
 事実、実母も亡くなってから、ようやく状況を尋ねる連絡のあった施設もあった。
 フクシマの避難者にしても、介護の必要な老人にしても、この国では「捨てられている」と思う。
 「棄民」という言葉にリアリティーがある。
 1機100億円のオスプレイを何基も買う国で、これっておかしくないですか。
 
 いろんな団体では「役員の成り手がない」というのが悩みの種だろうが、ここでは「家族会の役員になれば貴方が倒れた時に優先的に入所できます。」と言って大いに効果を発揮している。・・・というのは100%ジョークである。

 私は、どちらかというと気持ちだけは老け込まずにいようと努力している方だと思うが、盆踊りの前にスタッフの大勢が披露した踊りはAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」だった。
 入所者は誰も知らないと思うし、私も口を開けてただ感心するばかりだった。

2014年7月29日火曜日

二宮金次郎

  小学校の同窓会に、昔と現在の母校や郷土等に関する写真等を入れたファイルとそれを入れる封筒を持参した。
 封筒には小学校の図書室の前にあった二宮金次郎の石像を切手風にプリントして添付した。
 私が説明するまで「ほんとうの切手」だと信じている同窓生も多かった。・・ほとんどがそうだった。
 なお、金次郎像は平成の御代も母校の裏庭に建っている。
 
 金次郎は、小国民の教科書で大いに取り上げられ、貧困を社会問題ではなく「自身の気持ちの問題」にして忍耐と努力を教え込んだ第一級教材だった。
 本を見ていると、大東亜共栄圏の拡大に伴ってジャカルタの現地人学校に建立された写真もあった。
 ただ金次郎は可愛そうなことに、戦局悪化とともに銅像は鋳つぶされて砲弾にされ、戦後は皇国教育に利用された責任を問われ石像も多くは壊された。という中で残っている母校の石像は貴重である。
 歴史の証人として残され、近現代史の教材にされたらよい。
 この像は、私の小学生の時代から「本を読みながら歩いたら交通事故にあう」とからかったものだが、今は、ストレートに『歩きスマホ』を連想させるので非常によくないとして撤去する話も多い。
 しかし、そんな理由(「歩きスマホは止めましょう」キャンペーン)で撤去すべきだという主張も皮相だが、はいはいと撤去する学校や自治体も『事なかれ主義』だと思う。
 私の小学校生活は『窓際のトットちゃん』に似たものだった。
 何でもかんでも昔がよかったという気は毛頭ないが、金次郎のいない小学校も寂しいものだ。
 
 戦前の近現代史を学べば学ぶほど、戦時体制確立に果たした教育の役割は大きいと思うが、現代の教育と教員に対する管理統制はすでに「戦前」ではないかと心配する。
 長い時代を見つめてきた金次郎の石像も同意見だろう。

2014年7月27日日曜日

アメリカの流儀

アマゾン
  中村メイコさんがテレビ「サワコの朝」で夫婦の会話を披露していた時、「(夫)宅配便が来るから受け取っておいて」「はい、どこから来るの」「アマゾンから」っていうので、地球の裏側から宅配便が来る時代になったのかと驚いたと話していた。
 これをお読みの皆さんはお笑いだろうが、「パソコンなんて」とおっしゃっている多くの方々はメイコさんと五十歩百歩の感想を抱かれても不思議でない。
 いうまでもなくアマゾン=Amazonは、アメリカ シアトルに本拠を置く世界的なネット通販会社である。
 日本国内の本などは新刊書も中古本も豊富で、少なくないケースでは送料無料で、近所の書店に取り寄せてもらうよりも配達も早い。
 その裏では、買い叩かれた宅配業者は悲鳴を上げ、佐川急便が佐川側から取引を取止めたというニュースも記憶に新しい。
 
 さて、少し古い話で恐縮だが、3月にフェースブックに書いた話をここに書く。
 その理由は、つい最近、知人のフェースブックに同じ話を見つけたからである。
 3月・・・、メールの「カード利用代金のお知らせ」に身に覚えのない請求が載っていた。普通、この「お知らせ」は「電車賃」や「本」ぐらいで定型的なものだから多くの場合はロクに読みもしないが、その時はたまたま目についた。さて、3900円のアマゾンの買い物の記憶がない。
 妻に話すと「買ったものを忘れたんとちゃう」と言うのだが、最近は特別なものを買った記憶がない。本で3900円ならちょっとしたものだから、値段からして珍しいから覚えているはずだ。
 さてはカードの情報を盗まれたのかと不安もよぎった。2~3日考え抜いた。

 少し経ってから「お知らせ」メールにあった「アマゾンプライム」というのが気になった。ただのアマゾンではない。プライムとは何だ
 そして、いろんな検討を経て辿り着いたのが「無料お試し期間」を使った記憶で、中古本であろうが、数百円の本であろうが、送料無料で超特急で配達されると・・・「今日から1か月間無料でご利用いただけます」という「無料お試し期間」の利用だった。
 答えを言うと、この無料体験期間が終了すると自動的に有料会員に切替わり年会費が発生するというもので、私の場合はアマゾンの画面から「Amazonプライム」に入り会員登録終了手続を行ったので、『有料会員に切替わってから一度もプライムの特典を利用していない』ということで、3900円は返金された。

 そしたら、そもそも『1か月後に有料会員に切替わる』というのは当初一切記載されていなかったのかといえば、後で判ったことだが、画面をスクロールすると目立たないところに小さく小さく小さくその文字はあった。余程神経質な人でない限りそれは気付かない。
 これがアメリカ流なのだろう。「善良な市民が普通の読み方をしたならば誤解するだろう」というモラルなど通用しない。詐欺すれすれの「脱法説明文」でないか。
 だが、このアメリカの流儀はアメリカ資本に乗って今や日本の流儀になりアジアの流儀になりつつある。
 テレビCMも広告チラシも同様だ。ネット通販だけでない。
 自給自足生活が無理であるなら、私たちは余程賢明にならなければならない。
 ポイントは・・・、身辺で解らないことが発生したとき、「負けるもんか」と立ち向かう根性だと思う。
 「怖いものには近づかない」というのは正しいようで負け犬の遠吠えだと思う。
 生き馬の目を抜く様な現代に、負けるな高齢者!と自分に言い聞かせている。

2014年7月25日金曜日

歌の好みは別や

  フェースブック上で宮本岳志参議院議員が「ユーチューブの高田渡と関西フォークがいいねえ。」と呟いたら、「私はフォークは嫌いだ。ついでに共産党の演説会で演奏される歌も基本的に嫌いだ。」というコメントが返ってきていて、横から眺めていて、そのやりとりが非常に愉快に感じた。
 私はというと、プロテストソングといわれたフォーク世代で、宮本さんと同じ感性を持っている。
 同時に、「歌の好みは別や。」という意見も痛いほど解る。
 いくらかの行事を企画するときに選曲に悩み、そして度々(実はほとんど)スベッテきたからだ。
 以下は、そういうことに関わって感じた独断と偏見の話である。
 
 だいぶ以前に、私のほんの少し上の方々の送別会を企画したとき、送る側のスタッフの若い女性に歌唱指導を頼んでおいたら、その中の一曲が「青い山脈」だった。
 その時私は、「それはもう一世代上の歌で、我々の世代にはその明るさが恥ずかしいで。」と一人思った。独断と偏見である。
 このとおり、歌に抱くイメージは5歳も違えば全く異なるものなのだ。
 この5月に現職の退職者とOBの集いを企画したときには、「‟故郷”はどうや。」という意見が出たが、私は、高齢者=郷愁=故郷の歌というワンパターンも、「年寄りは故郷の歌に感動すべきだ。」とNHK的な偉い人に言われているようでついていけなかった。
 「故郷」は、若草山のモノレールに反対する若草山での集会でも歌われたが、同じような気持ちになった。だが「故郷」を選曲される方は少なくない。私はどちらかというと少数派だ。
 5月の集いでは私の独断で、「花は咲く」「愛燦燦」「人生いろいろ」「今日の日はさようなら」をチョイスして行ったが、『はまった』という感じにはならなかった。難しい。
 いま、少しだけ関係している老人ホームの秋の行事を話し合っているが、ここでも歌は、童謡、唱歌、民謡がよいという意見が多数で、「昭和2~30年代のヒット曲」という私の意見は少数派のようである。
 妻は「童謡コーラスも楽しい。」と言うし、要するに歌の好き嫌いに正しいも間違いもないのだとつくづくと思う。
 遠い遠い昔に演歌が好きな友人に、「こんな歌詞やメロディーラインに感情移入できる感性は問題や。」と言ったことがあるが、今は深く反省している。
 フォークもボサノバもポップスもよいが、先の日曜日には「のど自慢」をけいはんなホールで観てきた。ゲストの山川豊も天童よしみも流石であった。
 娘から「客席でピンクのシャツが目立っていたで」とメールがあった。
 好き嫌いの問題を正しいか間違っているかのように論じるのは生産的でないとしみじみと思ったが、私は高齢者の多い集会で「これなら歌えるでしょ」と言わんばかりに童謡などを歌うのは恥ずかしくて好きでない。理屈ではなく好き嫌いの問題である。叙情歌そのもののことではない。叙情歌は好きである。

2014年7月23日水曜日

技術大国の実態

 
  実録・550日の憂鬱!
 今から1年半前の正月に日本国某有名メーカーのノートパソコンを買った。
 ところが直ぐに、画面が点滅する故障が発生した。
 ディスプレイ画面と本体の接続部分の接触不良かと思い、いろいろ触っているうちに直ったが、また再発した。
 大昔の真空管ラジオのようにトンと叩いたら直ったりするので、あれこれ試しながら原因を考えた。もちろん素人に解るはずがない。
 で、メーカーに電話をして、電話の指図に従っていろんな作業を数時間したがやっぱり故障だということで修理と相成った。
 メーカーが指示した宅配業者がやってきて持って帰り、修理をして帰ってきた。メインボードを交換したという。
 ところがほどなく再び同じ症状が発生した。そして、今回もあれこれ触っていると回復したりするので不便ながらも使い続けていた。
 しかし、あまりに不便なもので再び電話をし、いろんな操作をし、そして修理と相成った。症状その他を事細かく文書で連絡した。
 液晶パネルを交換して帰ってきた。
  ところが、ほどなくまたまた再発した。
 それまでの電話のやりとりで静電気が関係するように思えたので静電気除去グッズを買ったり、アース線をパソコンに接続などいろんな工夫をやってみた。
 直ったりするので不便ながらも使い続けたが、あまりに不調が続くので三度目の連絡をした。
 今度はメインボードの交換とウィンドウズの再インストールがされて帰ってきた。 
 ウィンドウズの再インストールは、基本的に全てのデータが消滅されてしまうので、ネットとメールの再接続や住所録の再入力等々泣きたいくらいダメージだ強かった。
 ところがそれでも同じ症状が発生した。
 電話の際には、「点滅している画面の裏で作業はできているのだから、メーンボードなどではなくもっと単純な部分の接触不良等ではないのか」と度々言ったが、私とて全くの勘のような話であった。
 そして、購入から1年半近くずーっと不調なまま4回目の修理となった。
 今度も、液晶パネルとメインボードが交換され、「長時間の負荷テストを行なった」と言って帰ってきた。結論を言えば直っていなかった。
 ただこれまでの経験から、電源とバッテリーを抜いて1日ほど放置しておくと回復することを経験則として学んでいたので、そのようにパソコンをだましだまし使用した。
 そしてついに、妻もこの状況を憐れんで、別にパソコンを買うことを了承してくれた。以前使っていたメーカーのパソコンを購入した。(結果的にはWin8のPCが2台となった。)
 そして、5回目の電話をして、「修理工場はアテにならないから我が家に来てもらいたい。」と要求した。(本来はそういう対応がない。)
 で、通常は法人向けに出張しているのであろう下請け外注会社の青年がやって来た。
 青年に症状を話すと青年は磁石を取り出し、それを近づけたり離したりして「こんな症状ですか?」と症状を再現した。
 「そのとおり」と言うと、「液晶画面を閉じた時に画面を消すためのセンサーの不良です。」と言って、その小さな部品を交換した。
 答えを言えば、550日ほど続いていた憂鬱はこれにてジ、エンドとなった。
 
 4回の修理を行ったのは我が国を代表するような有名メーカーである。
 そこの電話対応部門と修理工場である。
 近頃のことだから非正規の派遣社員かもしれないし、もしかしたら「追い出し部屋」かもしれないが、「こんなことをしていたら世界に敗けるよなあ(溜息)」と思う550日だった。
 電話応対の印象からいえば誰もええ加減なものではなかったが、きっと、マニュアル本に書かれていなかったのだろう。
 一方、下請け・外注ではあるが、お客さんの顔を見ながら何が何でも対応しなければならない下請け会社担当者の技術というかセンスは立派であった。
 そこで思うのだが、日本国大企業は、労働者の働かせ方にしても顧客対応にしても、基本中の基本のところで何か道を踏み外してはいないだろうか。
 大阪船場商人の土台となった近江商人の「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)は真理だと思うが、近頃は「効率」だとか「成果」だとか「グローバル」というような無粋な言葉の陰で忘れられている。
 不況の原因はそんなところにもありはしないかと思っている。

2014年7月21日月曜日

ふじたけんじの生活マンガ

河北新報ONLINE NEWSから転載しました
  共稼ぎ(共働きともいう)の親にとって子供たちは戦友のような気がする。
 振り返ってみれば危機一髪のようなヒヤリハットも数知れず、子どもたちには寂しい思いもさせた。
 私の場合はその多くの矛盾を妻に担ってもらったが、看護婦(今風には看護師)のオヤジであったふじたけんじさんは真正面からそれと格闘した。
 妻は看護婦、自身は地方勤務の国家公務員で社会のセーフティーネットを支えていた。誤解を恐れず言えば二人のそれは聖職だったし、日々深刻な「お客さん」と対応していた。(話せば長くなるが、私は医療労働者だとか人権に関わる公務労働者は『聖職でもある労働者』だと思っている。)
 そして、それぞれの雇用主は職員のそういう聖職意識というか責任感にかこつけて使用者責任を十分には果たしてこなかった。
 その構図は21世紀の今日もあまり改善されておらず、否、さらに酷くなっている。
 悲しいけれど、ディーセントワーク、人間らしい労働を!という課題はますます切実さを増している。
 という、ほんとうは重要で根の奥深いテーマをふじたけんじさんは、マンガ(5月20日発行「ふじたけんじの生活マンガ」)にしてしまったのだから恐れ入る。それも、全く声高でないところが反対に胸を打つ。
 ユーモアとともに「子どもらの寝息たしかめ久々の妻と二人の浴槽まぶし」のマンガのようなエロチシズム?も素晴らしい。
 「共働き親子奮戦記」を読まれた方は「あっ、読んだことある」という作品も多いが、先に書いたように労働環境がますます非人間的になっている今日、このマンガを再読して社会や家庭や人生の原点のようなものを再確認するのは悪くない。
 全ての共稼ぎやシングルマザー必見の書籍である。
 いや、今日の社会問題、労働問題に多少なりとも関心のある方は手に取ってもらいたい。
 ・・・・・というか、そのような話は全てが蛇足で、この本は全編が楽しくて胸の奥が熱くなる。
 日々の暮らしに疲労感を感じられている皆さんに栄養剤代わりに読んでもらいたい。
 効果は保証する。

 ふじたけんじの生活マンガ
 A5版200ページ 税込1620円
 発行所 青森文芸出版
 〒037-0004 青森県五所川原市唐笠柳藤巻467
 電話 0173-35-5323 FAX 0173-35-8414
 アドレス info@a-bungei.co.jp

2014年7月19日土曜日

奈良公園のエコロジー

  奈良公園の生態学(エコロジー)を谷幸三先生から聞く機会があった。
 先生は探偵ナイトスクープの生物の先生である。
 奈良公園のシバは生産者、シカは消費者、フン虫・バクテリアが分解者のそれぞれ代表で、その生態網(エコネット)が見事なシステムを作っているという話だった。
 奈良公園のシカは約1200頭(直近に1350頭と報じられたが)で、そのシカの糞の量を先生は実測した(その奮(糞)闘記も楽しかった)らしいが、年間約330トン(乾重量で79トン)だから公園中糞だらけになるところを清掃してくれているのが約40種類のコガネムシで、中でも奈良公園と大台ケ原(紀伊半島)だけにすむルリセンチコガネは「糞を食べて何故これほど綺麗になるのか」というほどのものである。

  この仲間のスカラベ(聖タマオシコガネムシ)はエジプトでは神になり王様の印章にもなった。
 先生の言うのには、糞球の中でスカラベがサナギになって誕生(再生)するところから、そのサナギに似せてミイラを作ったと・・・・・?
 
 ただ、生態系は何でもかんでも原始のままがいいわけではなく、奈良公園のシカは明らかに数が多過ぎ、慢性的な栄養失調と近親交配の弊害も出ているようだし、周囲に毒素を撒くナギの木の急増も山の様相を一変させる勢いらしい。
 樹相の変化が草を減らし、多様な昆虫を減らし、野鳥を減らしている側面もあるということで、本質に迫る知恵を出し合うことは非常に困難なことだという苦渋が伝わってきた。
 昆虫一匹よう触らないような人に限って、「シカの頭数削減などとんでもない」と言い、いわゆる世論はそれを肯定するようだ。

 とはいえ、鉄道の駅から20分ほど歩いて世界遺産の原始林に入れるのは世界広しと言えどもここだけで、こういう貴重な自然を「思い付きの観光策」のために手を入れては、取り返しのつかないことになる。
 先生は、エコロジーの大切さが実感できない若者が増えていると嘆き、子や孫の小さい時にどうか自然の中で遊ばせてほしいと強調されていた。(受講者の多くは対象が孫以下だったが)
 そして、シカが栄養不足だからと言ってキャベツ等の野菜くずをやるのは止めてほしいとのことで、それはシカが野菜の味と匂いを覚えて民家の畑を荒らす元になっているからだということだった。

 補足  奈良県知事が、奈良公園でイベントをしてシバが剥げたら高麗芝で補修すると言ったときに大反対した話も楽しかった。ここのシバは、奈良公園と九重連山にしか残っていない貴重な「日本シバ」という「ノシバ」らしい。

2014年7月17日木曜日

おしよせる渡来文化

  先日受講したシンポジウム「おしよせる古墳時代の渡来文化」は午後1時から5時近くまでみっちりしたもので聴きごたえがあったが、その話はいずれまた・・・・。
 余談として面白かったのは、考古学をずーっとされてきた公益財団法人大阪市博物館協会大阪文化財研究所の田中清美講師が「私は出土品をもって歴史を語るという一貫した立場で研究をしてきたが、今年度末で定年退職というこの歳になって、記紀のような文献の細部にも歴史の事実がリアルに表現されているように感じるようになった。ご参加の皆さんも、考古学と文献史学を併せて学んでもらいたい。」と述懐されたことだった。
 結論部分だけを言えば従来から多くの先生方によって述べられていることで珍しいことではないが、100%渦中の専門家(考古学者)から聞く言葉の意味は重かった。
 
 さて、そういう意味では、異分野ともいえそうな角度から古代史を論じている本の中で、ちょっと面白い論があった。
 複雑系脳科学の中田力氏の「日本古代史を科学する」で、これは古墳時代の前の弥生時代誕生のことである。
 父系の性染色体の変異(Yハプロタイプ)を追跡すると、AからRのグループに分類され、アジアには先ずCグループの人間が広まり、それを追いやるようにOグループの人間が広まった。
 ところが、日本は他国と異なりOグループが絶対多数を占めていない。
 Cグループを主体とするモンゴルよりもさらに特殊で、C以外にDも有意の数が存在している。これは日本とチベットだけである。
 結論的には、初期の縄文人がD、後期の縄文人がC、そしてOが弥生人という説が多い。
 そして、このOのサブグループを見ると、日本と韓国のOの多数を占めるO2bは中国本土にはほとんどいない。
 同じような解析が稲でもされていて、RM1-bという遺伝子を追跡すると、湖南省北西部で誕生し、長江河口「上海」付近のデルタ地帯に広まった稲が九州から本州南部に来たことが解っている。
 なお、この遺伝子は韓半島では見つからない。

  このことから、ずばり、「上海」地方から温帯ジャポニカの稲を持って、韓半島を経由せず、直接九州に到達した弥生人によってこの国の弥生時代は幕を開けた。
 そして、当時、紀元前473年に「上海」付近の国家が滅亡している事実がある。
 姫(き)姓の呉(三国志の孫権の呉ではない)である。
 呉王夫差・越王勾践による臥薪嘗胆や絶世の美女西施の故事の呉であり、その滅亡時に呉の王族貴族たちが逃亡できた道は海路しかなかった。
 ・・・・・・・という説である。
 ほんとかどうかはわからないが、楽しい説である。
 陳舜臣の十八史略の該当部分を読み返してみたが、・・・・夢は広がる。

2014年7月15日火曜日

XPよ さらば

  Win XPのパソコンを捨てることにした。
 米国国防総省方式といわれる最強のデータ消去を行ったが、その結果を素人は確認することができない。
 世界的な企業の信じられない不正等が種々報じられていることを思えば、それを疑うのも許されるだろう。
 そこで、念には念でハードデスク(HDD)をさらに物理的に壊すことにした。
 HDDをパソコン本体から取り出すのは簡単だったがHDDの蓋のネジが固くて?小さすぎて?プラッタ(鏡のようなプラの円盤)部分が出てこない。
 だが、横からドライバーを差し込んでラジオペンチでこじたら容易にプラッタが現れた。
 この小さな円盤に驚くほどのデータが載っているのかと思うと、技術の到達点には腰を抜かしそうだ。
 そうしてプラッタをペンチで破壊した。
 これ以上の疑いは不要である。
 私などがワープロ専用機を使っていた頃、「パソコンにしたらバージョンアップができて一生買い替える必要がない」とパソコン派の方々から聞かされていたが、結局何代代替わりをしたか知れない。
 もったいない大量消費社会に翻弄されているのだろうが、最低限ついて行かないと現代社会人として必要な情報スキルを維持できない。
 ネット社会の若者の右傾化を心配するよりも、ネットすら覗こうとしない情報弱者が為政者の情報操作に操られていることの方が重大だと思う。

2014年7月13日日曜日

漫画家は偉い

 この種の本がいったい書店の何処に並べられるものなのか見当がつかないから、本屋の検索コーナーへ直行して「やくみつるのコミックで大事小言(おおごとこごと)は何処でしょう」と尋ねたら、検索しようとする女性を制して後ろの女性が何処かに行った。(正しくは大事小言でなく小言大事だった・・・が。)
 その女性の動作の意味が解らず「何があったのか??」と思っていたら、手にこの本をもって「昨日入荷したところです」と言って渡してくれた。11日。プロである。

  帰りに、この本のあった場所を見てみたら、「サブカルチャー」のコーナーだった。こういうのは世間ではサブカルチャーというのか。ひとつ勉強になった。
 中身は「しんぶん赤旗日曜版」連載の四コマ漫画のダイジェストで、中には私に関係する問題が微妙に取り上げられているものもあったからそこは複雑な気持ちもあったが、全体としては、愉快な世相風刺漫画である。
 やくみつる自作の金言・格言が「君子、危うきに近寄らずんば、虎子を得ず」だそうで、その見上げた根性には感心する。

 ほんの少しだけ短い文章もあって、起承転結というセオリーをもう一回転させる漫画の例を文章で・・・、
 阪神タイガースが突如緑色のユニホームで巨人戦に臨んだネタ。
 一コマ目=熱烈な阪神ファンと思しきオヤジ、意気揚々と甲子園球場にやってくる。
 二コマ目=スタンドに上がってきて凝然とする顔のアップ(グランドは描かず)。
 三コマ目=一コマ目と同じ画角ながら、今度は球場から慌てて駆け出してくるオヤジ。
「アカン、ワシもいよいよボケて来よった。」
 四コマ目=右=古女房と卓袱台を囲むオヤジ。
「甲子園に行くつもりが、大阪球場に行っとった。緑のヤツがギョーサンおったワ」
 四コマ目=左=古女房が応答する。
「なに言うてんでっか。交流戦で阪神が南海とあたっとったん違(ちゃ)いますぅ?」
・・・・とあった。
 文字を読んでも感心する。四コマ目右で十分に出来上がっている話を、さらに左でボケている。なるほど。

 やくみつるの感性には遠く及ばないが、その爪先ほどのセンスを磨きたいものだ。
 キャッチコピーや漫画は「寸鉄人をさす」。・・・こともある。
 だから、為政者は「はだしのゲン」を仕舞おうとする。

  鳥取市教委はそこまでの意味もなく、程度の低い「反響」とやらに腰を抜かして、マスコットキャラクター「かつ江さん」をHPから削除した。情けない。
 が、その意味するところを寸鉄のごとき四コマに脚色する能力が私にはない。悔しい。

 この本には収録されていなかったが、3.11直後の「小言大事」の印象が私には強かった。
 やくみつる本人が、東北の肉親?と連絡が取れず、心配で心配で小言も出ず、オチすらなかった。四コマともオロオロするやくみつるを描いただけだった。歴史に残る記録作品だと私は思う。

 四コマ漫画といえば「日刊しんぶん赤旗」の『まんまる団地』は7月12日に13776回を数え、日刊全国紙連載四コマ漫画で最長記録を更新中である。
 作者のオダシゲ氏はこの作品で5月に日本漫画家協会賞を受賞している。
 『小言大事』も『まんまる団地』も大好きだ。

2014年7月11日金曜日

仮説は楽し

  先日は、「こうして生命は生まれたーGADV生命起源仮説」という話を、池原健二・放送大学奈良学習センター所長から聞くことができたが、細部は数時間の講義で理解できるようなものではなかった。
 しかし、話の骨子は非常に解りやすく、その内容を横においても、何よりも創造的な考えを聞くことは刺激的で楽しかった。
 話は私の好きな日本列島の古代史などよりずーっと古く38億年前の地球の話である。
 DNAとタンパク質(酵素)からなる生命はどのように発生したのか・・について、そもそもDNAとタンパク質の解説から始まって、宇宙起源説や熱水噴出孔説の問題点を指摘し、DNAを転写したRNA→遺伝暗号→タンパク質合成→生命の誕生という、現在、最も主流のRNAワールド仮説へと話は進み、そこに立ちふさがった遺伝子とタンパク質の間に見られる「ニワトリと卵の関係」を提起された。
 その上で先生が考え出された仮説に進んだのだが、その内容を無謀にも一言で言ってしまえば・・・、
 原始地球環境下で、グリシン[G]、アラニン[A]、アスパラギン酸[D]、バリン[V]からなる単純なアミノ酸が生まれた。(落雷や彗星衝突などのエネルギーで可能)
 それがGADVタンパク質になった。
 GADVタンパク質は疑似複製と原始的な代謝系(化学反応系)を形成し、原初遺伝暗号が確立された。(これも原始地球環境下でこそ可能であった。)
 さらに、最初の一本鎖RNA遺伝子が形成され、合成の後二重鎖RNA遺伝子が形成された。・・・というようなものだった。・・・・これ以上語る能力は私には欠けている。
 最後に私の印象に残ったのは、「その仮説は実験によって検証されているのか」という質問に対して先生が、「各種実験結果のデータでもってシュミレーションした仮説であるが」と言いながら、「せめて数百万円でも予算が欲しいが」「予算がつかなかった」と溜息をつかれたことだった。
 マスコミでは、あれこれの「特区構想」が宣伝されたりしているが、結局は目先の金儲けという物差しで予算が動いているようだ。
 経済効果の見える応用科学の偏重と純粋科学の蔑視は人類の未来に関しても重大事態ではないだろうか。もっと言えばこの国では哲学が徹底的に蔑視されている。国の指導者たちが嘘のつき放題なのだから当然か。

 余談ながら、応用科学的ではあるが、ライト兄弟以前に飛行機の原理を完成させていた二宮忠八のことを思い出した。彼に予算がついていれば・・・・・。

2014年7月9日水曜日

文庫本

  文庫本は軽く小さく値段が安いから私は好きで、近頃は書店で、角川ソフィア文庫をよく立ち読みする。
 角川ソフィア文庫には、興味を引く「背表紙」つまり題名が多い。
 上野誠著「はじめて楽しむ万葉集」も面白そうだった。だから次の機会には買おうかと考えた。
 ただ、よく似た本を持っているから念のためと思って家の書架を探してみたら、案の定、全く同じ本を持っていた。
 
 書店で、笹原宏之著「訓読みのはなし」も面白そうだった。
 これもよく似た本を持っているが、それは新書であったから、少し違う角度から読んでみるのも悪くはないと思って購入した。
 家に帰ってから、同種の新書とどのように構成が違うのかを確かめようと引っぱり出したら、なんと、全く同じ本だった。
 文庫本って、単行本を手軽なように作り直すものではなかったの?? 新書の文庫本化ってありなん??
 
 購入した本が予想外につまらなく、途中で読むのを放棄する本も少なくないから、新書と文庫本が重複したくらい大したことはない。
 ただ、自分の興味の方向があまり変っていないということと、ええ加減な読み方が変わっていない(つまり、読んだ内容を忘れている)ことが再確認できたことがおかしい。

 ちなみに、訓読みや日本語に関して言えば、少し以前から大学の授業を英語でしたり社内公用語を英語にする話が新聞をにぎわしている(この間も朝日が1ページを割いていた)が、表意文字と表音文字、音読みと訓読みを瞬時に頭の中で整理している日本人・日本語は素晴らしいのではないだろうか。
 世界中では、母国語で大学教育を受けられる国はごく少数らしい。
 なので、外国の学生が、そんな日本の学術レベルと同時にそれを可能にした日本語の積極面に驚嘆しているというのに、当の日本人は「グローバル化に乗り遅れる」とか言って「自虐」的に語っているのも不思議なことだ。
 そういう素晴らしい日本語の基礎を固めたひとつが訓読みで、一部分の例外ではなく体系的に訓読みを行うのは世界広しといえども日本だけらしい。
 ・・・という話を聞くと訳もなく嬉しいが、なぜ嬉しいかと聞かれると説明は難しい。

 余談ながら、菊という字にはキクという音だけがあり大和ことばの訓がない。
 近頃口汚く中国や韓国の悪口を叫ぶヘイトスピーチなるものがある(8日に大阪高裁は在特会に厳しい判決を言い渡した)が、その街宣車に訓のない菊の紋様が大きく描かれているのもおかしいと言えばおかしい。・・・・と指摘するのは嫌味かもしれないがヘイトスピーチには当たらないと思う。

2014年7月7日月曜日

雨天決行

  大阪弁護士会主催の「平和主義が危ない! 秘密保護法廃止!! 野外集会」があった。チラシには雨天決行・荒天中止とされていた。
 天気予報では夜になってから雨ということだったので、ポツリポツリ降り始めていたが駅まで自転車で行った。
 ところが、会場に着くとしっかりした雨空で、集会の進行とともに最後の方は荒天に近くなった。
 参加していた全気象という気象庁の労働組合のOBが、皆から「当ってないやないか」ととっちめられていたが、「測候所と人員が削減されて辛いんや」と言い訳をしていた。
 細かい話は知らないが、気象台でもメンタルの病気で治療中の職員が驚くほど増加していて、公務の職場はどこも悲惨な感じになっているようだ。
 公務の職場の労働条件の低下が国民生活を劣化させるという見本のような話である。

 今日のプラカードも比較的評判がよく、仲間が度々モデルにされていた。
 私たちは指示や動員で参加するのでないから、そういう自覚をプラカードの創造に向ければ運動は楽しく広がらないかと思っている。
 集会では、真宗大谷派(東本願寺)の代表の方やカトリック大阪教区の司教、宗教者平和協議会の代表等々、草の根の広がりが感じられた。
 大阪では久方ぶりの超党派の一点共闘と言えるだろう。という意味では歴史的な集会だったと理解している。
 そう、合言葉は草の根がふさわしい。
 現代社会では著名人の言動が与える影響は大きいが、そこに過大な期待を預けてしまうのは現実的ではない。
 与党に影響力のある宗教団体婦人部もさらに同様だろう。
 遠いように見えて草の根が王道だと私は思う。
 帰りの自転車はずぶ濡れになったが、漂ってくるクチナシの芳香が気持ちを楽しくさせてくれた。
 クチナシの学名の和訳は「ジャスミンのような」ということらしい。
 またクチナシは、私の好きなオオスカシバの幼虫が好む樹木である。
 「悲観も楽観もしない」が、できるだけ小さくても新たな展望を探しながら地道に歩んでいきたい。
 そんなことを言うと、引かれ者の小唄だと人は笑うだろうか。

2014年7月5日土曜日

平和行進

  8月の広島と長崎に向けて全国からリレーをしながら日本列島を歩いていく、原水爆禁止・被爆者援護国民平和行進が大阪を通過したので参加した。
 カンカン照りになりそうでもあるし、にわか雨にも降られそうな天気のため、どんな出で立ちで行こうかと考えていた時に、長年、息子の家にいっていたピスヘルメット(探検帽)が目についたので被って行った。
 思い起こすと、30数年前に平和行進に被っていったもので、平和行進とピスヘルメットのお互いのご長寿を感慨深く寿いだ。
 さて行進では、少しヤンキーっぽい兄ちゃん姉ちゃんが歩道で「戦争反対」「戦争反対」とお株を奪うほどにパフォーマンスをしてくれたのが別々に2回あった。
 その程度のことで、この危機的な政治状況を楽観してはならないという意見もあろうが、それは兄ちゃん姉ちゃんのただのシャレではなく、やはり世論の広がりなんだろうと思った。
 もっと身近では、参加していた古い仕事上の知人とばったり会って感激した。
 そして、全国通し行進者と大阪府内通し行進者のただただ直向きな行進が今年もあった。
 「もっと効果的な運動がないのか」という気持ちが全くなかったのかというと嘘になるが、私は戦後民主主義の崩壊に抗って現状で食い止めている力は、ごもっともなご指摘をされるリベラルな知識人よりも、主要にはこの通し行進にみられる愚直な市民の力にあったと思って頭が下がっている。
 終点の旭区役所前から梅田に出て、エビスのプレミアムブラックで遅ればせながら熱中症予防のための水分補給を十分に行ってから家路についた。

2014年7月4日金曜日

天牛

  古書店の話ではない。
 天牛(カミキリムシ)は、非常に種類が多いうえにカラーバリエーションも豊富で「愛すべき昆虫」といえよう。
 「虫屋」の世界では蝶に次いでコレクターが多いと読んだことがある。
 しかし、その幼虫テッポウムシには、白樺、サンシュユ、ミモザ等々、私も何本ヤラレタか判らないし、また、マツノマダラカミキリはマツノザイセンチュウを運んで松枯れ病を国中に広めているから、「愛すべき昆虫」などと軽々しく言っていられないかもしれない。
 樹木の下部に鉄砲が撃ち込まれたような穴があき、おがくずのような小山を見つけたときには手遅れである。
 そんなことを言うと、すべての・・といっていいほど蝶類も甲虫類も幼虫の時は害虫だから、そんなあれこれを冷静に考えると、カブトやクワガタを含めて「愛すべき昆虫」などほとんどいないことになる。
  写真のは最もポピュラーなゴマダラカミキリ。
 比較的動作がのろくて捕まえやすいし、生命力が強くこういう虫籠に数日間放っておいても生きている。
  背中や触覚も持ちやすい。
  捕まえた時などキー、キーと鳴くが、その動作と相まって「昆虫ロボット」という感じがして、何とも言えない快感がある。
 噛切り虫か紙切り虫か髪切り虫か諸説あるが、髪切り虫というのが定説らしい。
 ちなみに、鋭い顎に持っていくと、髪の毛も紙きれも見事に切る。これも楽しい。
 が、トカゲ大好きな夏ちゃんはカミキリの方は掴まえたくないそうだ。

 天牛という字は中国語で、・・なるほど、・・江南の水田で犂(すき)や馬鍬(まんが)をひく牛のようではないかと言われると・・想像を限りなく広げると肯ける。
 義母は曾孫に「曾祖母ちゃんは牛を飼っててんで」「も~」と話しかけるが、曾孫はあまりにリアリティーを感じないのかその話に乗ってこない。
 牛を使う長江流域の農耕は日本文化の源流に違いない。
 そのことがその天牛という名前とともにこの昆虫に親しみを感じさせるのだろう。
 天牛を見ながらそんなことをつらつら考えた。

2014年7月3日木曜日

海鞘は三陸の香り

 
  今から40数年前、短期間、首都圏で住んでいたが、そこで初めて「ほや」を知った。
 当時の大阪ではなかったように思う。
 結婚間もない妻が店で見つけて「どうやって食べるん?」と関西弁で親父さんに聞いたら、「食べたことのない人(関西人)は止めとき」と言われたので買わずに帰ってきて、「そんな食材こそ買ってきてほしい」と私が言ったことを思い出す。
 もちろん、ほどなくリベンジした。
 それは、東日本、主に東北・三陸の海の幸だったが、個性的といえば個性的な味だった。 
 関西に帰ってきてからは鶴橋市場で売られていることを知り、家庭でも居酒屋でも度々食べた。
 私としては夏を代表する食材のひとつである。
 一説には強精の効能ありとして「保夜」との当て字もあった。(これは余談)
 その「ほや」が、非常に珍しく、‟ありきたり”で有名な近くの大型スーパーに並んでいた。
 
  しかし、需要がないのだろうか、早々に値引きのシールが貼られていた。
 なお、それは皮や内臓を処理してビニール袋詰めされたものだった。
 そのせいだろうか、あるいは膾の酢が悪かったのか、なんとなく締まりのない味だった。
 万人向けに水洗いされていたようで、あのキューッとした磯の香りがぼやけていた。
 まさか、大震災とフクシマの後遺症ではあるまい。
 三陸の香りをキューッと浴びて脱原発に再出発と考えていたが、ちょっと調子に乗れなかった。
 小泉武夫教授の本に「この肴ほど鮮度が落ちるとガクンと音を立ててまずくなるのも珍しい。」とあるから、単純にそうだったのだろう。
  3歳の孫の様子を見たが、どういうわけか最初から手にとろうともしなかった。この子の直感はスルドイ。
 ひげ親父さんの奥さん手作りのアクセサリーを喜んではしゃいでいるだけだった。
 ひげ親父さんありがとう。
 自公による歴史的暴挙の直後にこんな緩いブログを書いていていいのかと反省しつつ。

2014年7月2日水曜日

自公合意は恥ずかしい

ツイッターから
  2014年7月1日、集団的自衛権容認へ憲法解釈を変更すると自公が合意し、安倍自公政権が閣議決定を行った。
 相当以前から報道されていたとおりの日程でもあり、「歯止め」が取り入れられたかのようなポーズのために時間を使っていただけだろう。
 朝日夕刊の「素粒子」は「理性も良心もかなぐり捨てて、自衛隊発足60年の日からの新たな戦前。」と書いたがそのとおりだと思う。
  冷静に近代史を振り返ってみても「国民の生命と国益のため」という以外の理屈で戦争を始めた国があっただろうか。あえて言えば、すべての戦争は「自衛のため」という名目で始まるのである。
  確かに、近頃の北朝鮮や中国の立ち居振る舞いには腹の立つことも多い。
 しかし、それを戦争に拡大しないことこそが外交であり政治なのだろう。
 「抑止力のためにはパワーが必要だ」という主張があるが、ここも冷静に考えると「抑止力のための抑止力」というパワーは論理的に言って誰も恐れないのではないか。
 かつてのアメリカやロシアのように、時々没論理的に‟キレる”から恐れるのである。
 だから、今後我が国は、理性と良心で外交を強めるか、時々没論理的にキレるようなロシアンルーレットの道を歩むしかない。「平和のための集団的自衛権」なんて寝言を信じる人がいるだろうか。
 というような危険極まりない内容を、憲法の法体系も議会制民主主義の根本も蹂躙しての今回の結果である。
 つまり、内容が平和憲法に反することを、民主主義の諸原則を踏みにじって決定したことは重大だ。
 若い頃先輩から法律の読み方を教わった。いわく「百姓読みはあかん」と(農民=百姓=無知というような誤った蔑視がある言葉だが昔はそう言っていた)。つまり、憲法やそれぞれの立法趣旨に基づいて読むべきだと。
 それからすると、集団的自衛権の議論は恥ずべき百姓読みの積み重ねである。いや、正確にはあえて百姓読みをして「何が悪い」と居直るという態度で、こういう論法はエセ同和や右翼のごろつきが横車をねじ込んでくるときの常套手段である。
 昨日私は「夏越しの祓え」を肯定的に書いたが、この歴史的事実は心の中の『石に刻んで』忘れてはならない。(「石に刻んで」は大阪公明党が都構想で橋下の悪罵に対して言ったフレーズである。)
 ただ、ほんとうの派兵までには多くの手続きが国会で審議されることになる。
 反対の運動はこれで終わりでないし挫折もしていない。
 民主主義を取り戻す運動の再出発点だとは大江健三郎さんの言。
 先日、小島慶子さんのツイッターに元国連難民高等弁務官緒方貞子さんの言葉を引いた呟きが載っていた。
 「世界から戦争がなくなることは現実的にはないかもしれないが、それでも戦争がなくなることを信じて全力を尽くすことが世界を変える唯一の方法だ。「平和なんて現実的でない」と言って見せることがどれほど臆病か!」

2014年7月1日火曜日

水無月の なごしの祓い

  昨6月晦日の夜、テレビは上賀茂神社の大祓の行事を報じていた。
  水無月の夏越しの祓は古い宮中神事から広まった素朴な神事である。
 半年間に犯した罪を神々に吹払ってもらって気持ちをリセットするというようなイージーな精神の行事が宗教や信仰というカテゴリーに値するのかという意見もあるが、先人の素朴な願いが形になったものではないかと考えるとこれもまた楽しい。
 そしてこういう行事は、上賀茂神社のように京都の神社に行くと盛大で絵になっているが、そうなると我々庶民はどうしてもただの観客になってしまう。
 その点、奈良の神社の多くでは、桁違いに由緒ある行事がこじんまりと素朴に行われていて、当事者たる参拝者として参加できるのがうれしい。
 という・・古社中の古社である往馬大社のそれに参加した。
 拝殿に登って並んで参拝者の名前も神々に報告されるし、ひと通りの神事があった後、晒の領巾(ヒレ)が配られて、それを夫々が一斉に引き裂いた。
 布は貨幣でもあったから、それほどまでの願いの強さを神に証明した名残りなのだろう。
 こういう布を引き裂く神事は、私としては初めてだったが、ニュースの上賀茂神社では同じようなことをしていた。
 その後「形代」を焚き上げるべく奉納し(昔は川に流した)、最後に神職に並んで八の字形に茅の輪をくぐった。
 その折に、神職に付いて、〽 水無月のなごしの祓いする人はちとせの命のぶというなり~ と古歌をくぐる度に3回歌い、場は一瞬に千数百年昔にタイムスリップしたのだった。
 それは歌会始のようなゆっくりしたものではなく、わらべ歌のような単調な歌い方だったが、それがまた千年の社の森に馴染んでいた。
  写真のとおり、参加者もこじんまりとしたものだから、並ぶのに急ぐこともないし、茅(ちがや、真菰)を引き抜いて小さな茅の輪にして持ち帰るのも全く急ぐ気配がなかった。
 社会の現状をリアルに見ると、「とりあえず済んだことは水に流す」というような態度は絶対に容認できないが、小さな私生活では、つい最近、夫婦そろって体調を崩していたこともあり、気持ちの好い心身のリフレッシュになった気がする。
 茅の輪の行事は旧暦等で行われるところもあるから、そこに参加された折には、〽 水無月の~ と歌われると、周囲から「おお~っ」と注目を浴びること間違いがない。