2014年3月31日月曜日

岩波新書『信長の城』を読む

著者(ネットから)
  テレビや模型の世界にはマニアックな城好きがいて感心?(半ばあきれた感じが)するが、私はあまり興味がなかった。
 ただ、近所の奈良大学にちょっとユニークな千田嘉博先生がいて、その城郭等に関する講義を何回か聞いていたことと、その先生がテレビのその種の番組にちょくちょく顔を出していたことぐらいが記憶にあった。
 だから、「ちょっと乱読してみようか」という調子で、本屋の書架のこの本(千田嘉博著「信長の城」岩波新書)を手に取っただけなのだが、と同時期に「千田嘉博教授が奈良大学次期(4月~)学長に」というニュースにも接して「へ~」という感じも受けていた。
  そんな時に、同大学でモンゴルの城跡の発掘調査報告があるというので、それならと、この本を持参して参加し、ついでに、千田嘉博次期学長に「城への道は楽しい道」と添え書きの上でサインをいただいた。
 このあたりがマンモス大学でない中規模大学の好いところだ。
 
 そこで、まるで一端の書評のようなタイトルをつけてはみたが、私には基礎的な知識もないし、それ故に一切の既成概念もないものだから、内容の全てが新鮮だった。それ以上にここに書けるものはない。
 ただ、中世の城を遺跡等から復元した諸説にも、驚くほど多くの疑問や異論のあることを知って驚いた。
 著者はそれを、事実を挙げて大胆に指摘し対案を提起している。
 「そこまで言っていいの?」と言うほどだが、それが研究・学問の世界の正しい姿だろう。
 後半は、単に城の形のことでなく、信長が安土城設計に込めた近世に繋がる革命的ともいえる思想が、その城づくり町づくりに現れていることの数々を展開されていて、ぐいぐいと引き込まれるように読み進んだ。
 門前の小僧には遠く及ばないが、大学の近くに住むのは悪くない。

2014年3月30日日曜日

トラメガ

  29日に娘夫婦が他の用事もあったのだが、メーンの用事は「タイガースのメガホンを頂戴」ということで我が家にやって来た。
 阪神VS中日戦のタイガース側の上等の席のチケットを手に入れたらしい。
 「(ユニホームほか応援グッズ一式を取り揃えているほどの)熱狂的なドラゴンズファンのお婿さんはどうするの」と聞いたら、「だから別の友達と行く」とのこと。
 娘は決してトラキチではないが、「席が席だからタイガースの応援を楽しむ」らしい。
 
 で、どうしてトラメガが我が家にあるのか・・・・・・、
 全く期待がないわけでもないが、「あ~あ、やっぱりだめか、人生もタイガースも上手くはいかんもんや」という感覚に己が人生と親近感が湧いている。
 今春(オープン戦)も夫婦で出かけたが、コテンパンにオリックスに蹴散らされていた。
 ダメな子供ほど可愛いというやつだろう。
 阪神ファンは基本的にマゾである。
 開幕戦も負けっぷりが良かった。

2014年3月29日土曜日

和歌山大学の卒業式

 卒業式の季節。
 大阪府や大阪市では、君が代の斉唱を教員に強制したりして、真の教育とかけ離れたニュースが多く心が痛む。
 そんな中、和歌山大学学長の卒業式式辞が素晴らしいと報じられた。
 要旨をご紹介しようかと思ったが故意に要約したように思われたくもないので全文を掲載させていただく。

 「和歌山大学山本健慈学長 平成25年度 卒業式式辞」

桜に先んじて紅李が満開
 本日、学士の学位を得た918名の学部卒業生の皆さん、修士の学位を得た225名の大学院修士課程修了生の皆さん、博士の学位を得た6名の博士課程修了生並びに博士学位取得者の皆さん、そして11名の特別支援教育特別専攻科修了生の皆さん、卒業・修了おめでとうございます。
 御来賓の本学同窓会の萩平会長ならびに本学後援会の奥村会長、そして列席の理事・副学長、学部長とともにご卒業を心からお祝いいたします。あわせてご家族あるいは関係者の皆様にも、心からお慶びを申し上げます。
 さて、本日卒業の学部卒業生の多くは、1年次年度末の311日東日本大震災を経験されました。311大震災は、皆さんの中に、どのように刻まれているでしょうか。
 311大震災後、私自身すぐに思ったことは、個人として大学として、直ちに何かをしなければならないということと同時に、被災者の方々の苦しみを真に共有するよう努力することが大事だということでした。とくに未来を背負う学生、若者に、現地に足を踏み入れ、まずは現地を知ることによって、自分が今なすべきことを考えると同時に、自らの未来・人生のテーマを発見してほしいと思ったのです。
 そして2011年、12年、13年と毎年本学からボランティアバスを派遣してきました。私自身も、311後の未来を考えるうえで、判断を誤ることがないように、機会があれば東北、とくにフクシマを訪ねるようにしています。
 このボランティバスに参加した第1期生も、本日の卒業生の中にいます。そのうちの一人の学生と先日対話をしました。
 彼は、震災が起こるまでは、趣味としてスポーツを楽しみ、自宅を離れての生活を満喫していたと言います。そして、311がなければ、そのままの生活で学生時代が終わったであろうと。しかし、震災後のいろいろなメッセージに接し(彼は、私が学生への講演で紹介した渡辺憲司立教新座中学校・高等学校校長の「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ」(『それでもいまは、真っ白な帆を上げよう -3.11東日本大震災後に発信された、学長からの感動メッセージ』旺文社2011年)での「海を見る自由」に触発されたという)、自分の満喫していた生活は、大学生としての自由の保障の中であったのだと気づいたと言います。
 そして、その自由を生かしているかと自らを問い直し、ボランティアバスに乗ったと言います。その後、福島を含め繰り返し東北を訪ねているという彼に、卒業を控え、今は何を感じているかと聞きました。そうすると、「就職も決まり進路も決まったが、今、人生と時代への不安を、今までにない感じ方で感じている。」と言い、そして「それに抗するためには、学び続けることしかないと思っている」と付け加えました。
 彼は「学び続ける」というテーマを、人生の価値として発見したのだと思います。皆さんが在学したこの4年、大学は、教育のあり方を根本的に変えてきました。受動的な学びではなく、アクティブラーニング、プロジェクト・ベイスド・ラーニング、その拠点としての大学図書館の大改造。
 皆さんも、彼と同様、主体的な学び、答えのない問題への探求の姿勢、この意味と醍醐味を身につけられたでしょうか。これこそが、大学卒業の最大の意味だと言ってもいいでしょう。
 彼との対話の最後に、彼から、「学長には不安はないですか」と問われました。そのときは、時間もなく、十分答えられませんでしたが、この式辞をまとめながら、彼との対話を思い起こし、そのとき彼の問いに正直に答えられなかった不誠実と、「私の深い不安」が身に迫ってきました。
 それは、彼が言った「不安に抗するためには、学び続けることしかない」、この「学び続ける」自由の危機、学び続ける自由を抑圧しようとする動きが、この日本社会にあること、そしてこの不安を彼の前で表明しなかったことです。
 中沢啓治氏の古典的アニメ『はだしのゲン』の行政および民間団体による排斥、個人の行為とはいえこれも古典的価値のある『アンネの日記』の破損、さらには社会思想家 内田樹氏や、社会学者 上野千鶴子氏の講演への行政権力の介入的態度。私が生きてきた65年の人生で、こうしたことが公然と行われ、かつ連続的に起こっていることは、驚くべきことです。
 私は、昨年末の「特定秘密保護法」の制定に対して、これを、学びの自由への抑圧と捉え、その危惧を表明しておりました。(20131231日毎日新聞)。
 先の学生が言うように、学びは、不安から、そして好奇心から始まります。この学びの行き着く先は分からないのです。
 かつて治安維持法の時代、好奇心旺盛な学生が、旅で見た風景を語っただけで「スパイ」とされ、罰せられた歴史的事例もあるのです。(上田誠吉『ある北大生の受難・・国家秘密法の爪痕』花伝社刊 2013年)何が秘密かも知らされない特定秘密保護法は「どこに地雷が埋まっているか分からない」という恐れを抱かせ、何かを知ろうとする若者たちの意欲を萎縮させるものです。社会の要請である自発的な学びの意欲をもつ人材を育てることを阻害するような制度は、大学の経営を任されている者として容認することはできません。
 そして、「学び続けること」の必要は、学生だけのものではありません。社会には多くの判断の違い、対立があります。それらの違い、対立を自由な学びの中で考え、自らの判断を形成し、社会・政治に参加していく、これが民主主義社会の姿です。市民に学習の自由が保障されてこそ、民主主義は成立するのです。
 このことを、1985年第4回ユネスコ国際成人教育会議は、「学習権は、人類の生存にとって不可欠な道具である」「学習権は、経済発展のたんなる手段ではない。それは基本的権利のひとつとして認められなくてはならない。学習行為は、(中略)人間行為を出来事のなすがままにされる客体から、自分自身の歴史を創造する主体にかえていくものである」(1985329 4回ユネスコ国際成人教育会議採択)と言っています。
 この「学習権」が否定されようとしていること、これが私の市民として、学長として、また生涯学習の自由を研究してきた研究者としての「不安」の核心であり、全てです。
 そして、私自身が、皆さんの未来への義務としても、この動きに抗する責任を感じています。そして今こそ、その責任を果たすべきだと考えています。
 それはなぜか。私は、いま198558 2次世界大戦でのドイツの敗戦40周年にあたっての西ドイツ国会でのヴァイツゼッカー大統領の演説の一節を思い出します。
 ヴァイツゼッカー氏は、「後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」と述べましたが、このドイツで、1945年の敗戦の直後に、ナチスの支配を許したドイツの反省を、ある牧師が語った有名な回顧があります。
 「ナチ党が共産主義者を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会民主主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した・・・しかし、それは遅すぎた」(マルティン・ニーメラー牧師)(M・マイヤー著 田中浩・金井和子訳『彼らは自由だと思っていた・・元ナチ党員十人の思想と行動』 未来社 1963年初版刊行)と。
 この牧師の回顧にならうならば、ある書籍が排斥された、そのとき多少不安だった、でも何もしなかった。ある研究者が排斥された。前よりも不安だったが何もしなかった。そしてついに・・・ということになりかねないのです。
 皆さんの未来にとって、そして大学、社会の未来にとって、<学び続ける自由>こそ重要であり、民主主義の根幹です。日本社会においての最高学府で、学ぶことの価値と意味を体験した皆さんには、それを行動で体現し、それを阻害するものに抗していただきたいと思います。
 ヴァイツゼッカー氏は、先の講演の最後に、「ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪を掻きたてつづけることに腐心しておりました。若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。」「若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい」と言い、次のように締めくくっています。
 「民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範をしめしてほしい」と(永井清彦編訳『言葉の力 ヴァイツゼッカー演説集』岩波書店 2009年刊)。私も、皆さんが、そうあることを願っています。
 式辞の終わりにあたり、私は本学が発信している「和歌山大学は、生涯あなたの人生を応援します」というメッセージ通り、教職員は勿論のこと全国各地にいる同窓会の諸先輩方とともに、卒業後も皆さんを応援することを、とりわけ<学び続けること>を応援することを重ねてお伝えし、式辞といたします。

      2014325日            和歌山大学長 山本 健慈

2014年3月28日金曜日

アカタテハ 春

  3月23日、二日前の雹(ひょう)がが嘘のように暖かい春になった。
 オールファミリーで「バーベキューコンロ開き」をした。
 孫が「チョウチョや!」というので跳んでいって沈丁花で吸蜜していたのをパチリと撮った。
 ツマグロヒョウモンの仲間かと思っていたら、後で調べたら「アカタテハ(赤立羽)」だった。
 成虫で越冬していたようだ。
 数日前の冬の嵐のような日を思うと、いったいどんな場所で厳しい季節を3~4か月も越冬していたのだろう。

 泉麻人著「東京少年昆虫図鑑」の巻頭はアカタテハだった。
 「世界のどこででも見られる蝶の一種だが、冬場の東京の路地裏で見るアカタテハが一番の好み」とは著者のこだわりだろう。
 「その姿は、人気のなくなった季節はずれのビーチで優雅に陽を浴びる別荘の貴婦人のような佇まいでもある。翅の色合いも、黒と朱に白点を織りまぜた、どことなく仕立てのよい和服を思わせるようなデザインで、とりわけ裏翅はそこにさらに群青のアクセントなどを利かせて、凝った柄に仕上がっている。」と、べた誉めだ。
 私は蝶の種類も知らないし、こんな形容も思い浮かばない。
 振り返ってみて、この国の労働環境は自然を感動的に観察する余裕を与えてくれなかったように思う。
 負け惜しみでなく、今は日々の発見を楽しんでいる。
 リタイヤ万歳!
 リタイヤしなかったならば、会社という社会の外を知らないまま人生を終えていたかもしれない。
 

 さて、近頃の労働者は、成果主義だ、パワハラだ、労働規制緩和だと大変だ。
 そんな辛い季節は冬眠でもさせてあげたいと、この蝶を見ながら思わないでもない。
 息子は4月1日から遠距離通勤だと言っている。

2014年3月27日木曜日

古代行事の記事

ネットから
  まず朝日新聞の記事をそのまま紹介する。
 天皇、皇后両陛下は25日、式年遷宮があった伊勢神宮に参拝するため、新幹線の臨時専用列車で東京駅を出発した。歴代天皇に受け継がれる「三種の神器」の剣と璽(じ・まが玉)も一緒に運ばれた。剣と璽が皇居外に持ち出されたのは20年ぶり。新幹線車内では、剣と璽は両陛下と同じ車両に設けられた専用台に安置された。両陛下は名古屋駅で近鉄特急「しまかぜ」に乗り換え、剣と璽は両陛下が乗る車両の隣の専用車両に置かれる予定。
 草薙剣(複製)、八坂瓊曲玉、八咫鏡という三種の神器の前二者のことであるが、歴史の復習というか、伝統芸能というか、古代宗教というか、そういう珍しいものを見させて頂いたという感じでこの記事を半ば好意的に読んだ。
 昔の「お召列車」には専用の棚があったように覚えている。今は「専用の台」と「専用車両」らしい。
 ある種の宗教行事と考えれば、その仰々しさや時代とのズレを指摘するのは大人げないが、とは言うものの、私はどうしても『昭和天皇独白録』を思い出す。
 ポツダム宣言受諾を決意した時の独白に、「このまゝでは日本民族は亡びて終ふ」との思いに続けて、「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の餘裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」という、
 そこには、広島も長崎も沖縄も、餓死した兵も空襲下の庶民も、ましてやアジアの人々もなかったようだ。
 このように、三種の神器に罪はないかもしれないが、これらは皇国史観の要石だった気がする。
 私は、公式の発言を見る限り、今の天皇、皇后、皇太子、それを取り巻く宮内庁は現憲法の精神を尊重しようと努力しているように感じている。
 しかし、首相が改憲や海外派兵を言い、ネトウヨ(主にネット世界での右翼)など右翼ナショナリズムの声が大きくなっている今日、何も現人神に繋がりかねない剣璽動座を20年ぶりにしなくてもよいのに・・といらぬ心配をしたくなっている。
 歴史の教訓は、実に些細な事柄の積み重ねが、気が付いた時には制御不能なほどのファシズムを成長させていたということなのだから。
 

2014年3月26日水曜日

写真は失敗続き

  19日の記事でレンジャクに出会ったことを書いたが、その続きになる。
 21日の春分の日は寒かった。
  夕方に少し遠い地から自転車で帰ってきたが、嵐のような風の中、雹(ひょう)まで打ちつけてきたので必死になってペダルをこいだ。
  だから、頭を下げて目を細めてハーハー言っていたのだが、その嵐のような空の向こうに見慣れない小鳥が群舞しているのが見え、余裕のない頭の中だが「先日出会ったレンジャクではないだろうか」と思いながら帰ってきた。
 そして、濡れた服を脱いだりしていたが、どうも窓の外が普通でない。

 見ると、なんと「我が家の電線」と言ってもよい目の前にレンジャクの大群が休んでいた。
 驚いてカメラを取り出したが、こんな時に限って広角レンズ(日頃は野鳥撮影用に望遠の時が多い)装着で、それも数枚撮っただけで飛び去られてしまった。

 だから一連の写真は、まるでスズメかムクドリのありきたりの風景になってしまったが、飛び去る一瞬に私のショック(なさけなさ)を感じ取っていただければ幸いである。

2014年3月25日火曜日

訣別した回顧録

  堺市長竹山修身著「訣別―橋下維新を破った男」(角川書店)を読んだ。
 抜群の知名度と自民、公明の支援で橋下大阪府知事が誕生して1年強の平成21年、その橋下知事の支援を受けて「泡沫候補」が思わぬ当選を果たし、それから橋下不敗神話がスタートした。そして、その4年後にその不敗神話を破った男である。
 4年前には大阪維新の会も大阪都構想も存在していなかった。
 選挙公約に基づいて粛々と政策を推進していた竹山市長に対して、「堺を大阪都に吸収する大阪都構想」を打ち出すなど変質したのは橋下氏達であった。
 だが、「大阪維新の会の全面バックアップで市長になったんです。市長になった瞬間に、堺市は都構想は嫌だっていう話になって」(朝の報道番組で辛坊治郎キャスター)というような事実に反する強力な「裏切り者」キャンペーンが展開された当事者が、折々の維新の動きを赤裸々に語っているところが生々しい。
 そして、堺市長選挙は維新にとっての「堺ショック」と呼ばれるようになった。
 これによって維新の迷走はさらに深まった。

 3月23日の大阪市長選挙は、投票率が大阪市長選史上最低の23.59%(前回60.92%)、橋下氏得票数は377,472票(前回750,813票)、無効票が67,506票、無効率13.53%(前回0.69%)、3人の対立候補中では都構想反対と言った候補が最上位という結果だった。
 朝日の見出しを拾うなら「橋下流に抗議の白票」「橋下維新の退潮鮮明」であることは明瞭だろう。
 だが、傍観しているだけでは彼らは退場しない。
 大阪の事実をもっともっと明らかにして来年12月には知事と市長と連れ立って退場してもらわなければならない。

 本の中の辛坊治郎の件(くだり)にもあったように、維新の横暴を許した責任の一端は在阪テレビ局を筆頭とするメディアにある。
 悔しいけれど、マスメディアの果たす影響力は桁違いに大きい。
 ならば、真実を広めようと思う人々はそれに打ち勝とうとする気迫がいる。
 何度も言うようだが、「私はネットは苦手だ」などと自慢していてはならないと思う。
 

2014年3月23日日曜日

大草原の震える風

  ホーミーをテレビで観て聴いた人は多いだろうが、今般私は馬頭琴に乗せて生で歌うのを聴く機会を得た。
 結論を先にいえば、圧倒されるような迫力がある美しい歌声で、ちょっとしたカルチャーショックを受けた。
 太鼓などと同様、この生の空気の震えが感じられないと、この迫力は伝わらないのではないだろうか。
 テレビで知っていたものとは別のもののように感じられた。
 低音の歌の一部に浪曲に似た声を感じたが、それ以外は未体験の歌声で、いくら説明されても一つの口から二つ以上の違う声が出てくるのは信じられないがほんとうだった。。
 モンゴル(韃靼)の西の端アルタイ山脈の麓オイラト(瓦剌)族の地が発祥の故郷らしいが、想像を膨らませるとその地は幾多の民族が西に走り東に移動した場所である。
 蒙古斑といい、日本語文法のツングース語との近似性といい、縄文以前、遥かな昔この列島の原日本人もここを駆け抜けた時の記憶の深層が、珍しいけれども親しみを感じさせる理由かもしれない。
 それなのに、その地の地中に日本の核のゴミを100万年管理させようという話が進んでいる。
 大草原を震わすホーミーや口琴の音色が悲しく聞こえてくる。

2014年3月22日土曜日

豊穣の祈り


  前回のブログで私は「男女像の道祖神は集落内の豊穣」を願ったものだろうと書いたが、その昔、唐古・鍵考古学ミュージアムに行った時の思い出も交えて、もう少し補足をしたい。
 弥生時代を代表する遺跡のひとつであるここ(ミュージアム)には、有名な、シャーマンと思しき女性が下半身を露わに祈っているような絵画土器がある。
 ボランティアガイドはジョークでなく「スカートの下から覗き込んで描いたのだろう」と真剣に説明したが、それはつまらぬ現代人の想像だろうと私は反論した。
 これは信念をもって描かれていて便所の落書きではない。
 女性の下半身はこの世の生の入り口であり豊穣の源だと考えられ、憑依したシャーマンは神や悪霊たちに向けそれを露わに突き付けることによって僻邪し、豊穣の約束を取り付けようとしたに違いない。
 これは縄文からの一貫した太い信仰の流れであるし、天宇受売命(アメノウズメノミコト)しかりだろう。
 不確かな記憶だが、南方熊楠と柳田國男が「宝貝がなぜ貨幣となったか」について論じた折、柳田が専らその希少性に着目しただけであったのに対し、熊楠は、その女性に似た形態からくる神聖性が柳田には判らなかったと言っているような文を読んだ記憶があるが、ミュージアムのガイドにはそれによく似た印象を受けた。
 結論として、男女像の道祖神は僻邪と豊穣を祈る賽の神の完成形である。
 なお、我が家の道祖神はさらに現代風の「なかよし地蔵」という趣になっているから、人がそれを高砂と考えようが、信愛や友好ととらえようが自由だと思っているが、陰陽の統一は道教の根本的思想でもあって実は奥が深い。

2014年3月21日金曜日

春の彼岸花

19日、花は咲き始めだが
香りは十分主張している
  我が家の庭の曼珠沙華は秋の彼岸にぴったり咲く文字どおり彼岸花だが、今まさに春の彼岸にぴったり咲いて香りをまき散らす花がある。
 沈丁花だ。
  沈丁花は春の彼岸花と言っても良いと思うが、どういうわけかそのような記述は見当たらない。
 そういえば、木によってはもっと早くから咲いているのもある。だから、春の彼岸花だと思っているのは私だけなのだろう。
 匂いが沈香のようで花の形が丁子のようだから沈丁花と言われるらしい。
 そのとおり、春の夕刻の艶っぽい香りは、春風の明るさとは正反対の、物憂い空気の固まりのように毎年感じる。
 この、如何にも私小説風の沈丁花の香りについて、少しばかり歳時記や随筆をめくってみたが、ピタッと来るような文章は見つけられなかった。こんな強烈な個性の花なのに不思議だ。
 私の方が過剰反応なのだろうか。

 沈丁花の香りに包まれるように下から覗いているのは道祖神だが、道行く人から「高砂ですか?」「いつも楽しくこの道を歩いてます。」と話しかけられた。
 私は、元々は賽の神で悪霊の侵入を防いでいたものだと思うが、夫婦像の頃には、転じて集落の内の豊穣を見守る神になったのだと勝手に考えている。
 だから、見る人が翁と媼と見て、偕老同穴の教えと思ってもらっても一向に構わない。
 通り過ぎる人々が芳香を感じながら一瞬でもクスッとしてくれたらよい。

2014年3月20日木曜日

神域にモノレール


  奈良県知事は、若草山にモノレールを建設する理由は「素晴らしい眺望をお年寄りや障害者の方を含め、誰でも楽しめるようにしたい」と説明し、新聞各紙も「バリアフリーか景観か」と見出しをつけたりしていた。
 これに対して、奈良県障害者の生活と権利を守る連絡会会長は、「障害者の利益か歴史的・文化的価値かというように対立的に議論をしないでほしい」、「障害者だって奈良の文化や景観を守ってほしいと思っている」、「若草山に登りたいという高齢者や障害者には、移動支援、同行援護、外出介助の制度を手厚くすることだ」と主張されている。的を射ている。

 そういう指摘も含めた運動の結果、奈良県は議会において、「今後は本来の目的である若草山の賑わいづくりの手法や効果について(モノレールの可否も含め)じっくり慎重に議論していきたい」との主旨で答えるように変わってきた
 あれれれれれ・・・・、そうであるなら、奈良県は本来の目的であった観光政策のために、社会一般に反対しづらい「障害者のためのバリアフリー」という言葉を利用し弄んできたことになると私は思う。
 まるで生駒山の西の方の市長のような、そういうことは党派や立場を超えて、人としてしてはならないことではないだろうか。

 世界遺産春日山のコアゾーンから数百メーターの場所にモノレールを建設するなどという非常識を撤回し、奈良の観光策を考えるのなら何の異論もない。
 私見だが、二月堂・手向山八幡宮の南、若草山北の地点までは電気自動車のバスを春日大社から延長する方が良いと、これは小さい孫を連れての実感だ。
 若草山一重目まで登りたいお年寄り等には金毘羅さんのように駕籠が良い。
 何よりも土産物店が集まって、B級グルメでもよいから美味しい食べ物を開発するがよい。
 二月堂、手向山八幡宮、春日大社で御朱印のようなスタンプが貰えるようにするのも一案か。
 その気になったら多くの人々がアイデアを出すだろう。
 奈良はホンモノで勝負すべきである。

 そも若草山は、古墳時代中期(5世紀)以前にその頂上に鶯塚古墳を戴いていた。(現存している。)
 標高300メートルを超える地の古墳としては最大級で、彼の清少納言も「みささぎは うぐひすのみささぎ」(枕草子)と称えている。
 養老元年(717)、遣唐使は神祇を御蓋山の南で祭った(続日本紀)。つまり周辺は神域であった。
 故に仲麻呂は「天の原・・・御蓋の山にいでし月かも・・」と涙したのだ。
 承和8年(841)、春日山は狩猟と伐採が禁じられ今日に至っている。
 その地(春日山の北隣)にモノレールというのである。
 私はあえて言いたい。「罰当たりめが!」

2014年3月19日水曜日

彼岸の入り

ネットから
  お彼岸の初日(18日)の朝にお寺詣りに出かけた。
  日本霊異記風に言えば「念仏を想って不思議なことが起こった話」とでもなるのだろうか、出かけてすぐに聞きなれない鳥の声が降ってきた。
 天候も悪く、ムクドリの群れのようにも思えたが声が全く違うので、もしやと凝視すると連雀(レンジャク)の群れだった。
 レンジャクは1年に1度出会うかどうかの野鳥だから、これは「好い志で出かけた結果」だと素直に仏に感謝した。
 しかし、こんな時に限ってカメラは持っていない。
 もたもたとスマホを向けた時には飛び去って行っていた。
 とかく現世とはこういうものだろう。
 シャッターチャンスと神仏とは関係がない。
 その代わりにネットにあった写真を掲載する。

 出かけたついでにお寺詣りのダブルヘッダーだとばかりに四天王寺さんにも寄ってみた。
 経木を書く店が数えきれないほど並び、引導鐘はひっきりなしに鳴り続け、四天王寺のお彼岸は上方落語の「天王寺詣り」そのままの賑わいで、初詣のような、十日戎のような、夏祭りや秋祭りのような雰囲気が充満していた。
 お詣りもそこそこに、がらくた市を見て回り、つまらん木の台を数百円で買い求めて帰ってきた。

 がらくた市の延長で、いつもの古書店へ寄ってみようと上六まで行ったところ、目的の「天地書房上六店」は閉店になっていて、これには本日の行程の最後にがっかりした。
 新書、古書を問わず書店の減少ということは文字離れのせいだろうか。
 古本屋はその町の文化を表すバロメーターだと言われていないか。
 なので、大阪の文化が劣化していっている証左のように思えてならない。
 それとも、庶民の懐が冷え切っているせい?
 私は大阪府市政を顧みて、大阪の中心街から大学を郊外に移転させたこと、留めるための有効な対策を打てなかったことが街づくりの上で大失敗だったように感じている。
 この地(上本町)には、司馬遼太郎も在籍した大阪外大があった。

2014年3月18日火曜日

先ず咲く

  近所にマンサクの花が咲いていた。春になると「先ず咲く」からマズサク→マンサクとなったという説は真否は別にして私の好きな説だ。
 高血圧症と言われるようになってから一段と冬が苦手になった。
 その終わりを告げるマンサクは気分を「やれやれ」というかホッとしてくれる。
 後ろにはサンシュウの花も。
 
 この時期、あちこちの造成された宅地には紅梅、白梅が満開だ。
 梅の木を植えておけば宅地ではなく農地の税率が適用されると聞いたことがある。
 私には無縁な知識だが、近所に綺麗な花が多いことはよいことだ。

 身近なところでは庭のあちこちにヒナソウが満開だ。こぼれ種で広がっている。
 スミレもいっぺんに花が増えた。
 去年の種から自生してきたアブラナ、ハクサイ等々の黄色い菜の花も少しずつ咲いている。
 花粉症のことを横に置けば、冬よりも春が良い。生き返ったような気分がする。
 日足の延びた公園あたりから子供達の賑やかな声が一種のBGMのように聞こえてくると、子供も虫もみんな一緒だなあと思えてくる。

2014年3月16日日曜日

ことり(アクセントは_| ̄|_)

 山椒大夫のことや
南蛮人による日本人奴隷貿易の
ことを書くつもりでないし、
拉致問題を論じるものでもない。
  この狭い列島の中で、当然意思が通じ合えると思っていた事柄(ことば)が結構通じ合わないということに驚いたという他愛ない話を書く。
 そんなことは「秘密のケンミンSHOWを観ていれば当たり前だ」ということかも知れないが・・・・・。

 先日、何人かでビールを飲みながらの与太話のようなものから「小さい頃は、夕方遅くまで遊んでいると『ことりが来るぞ』と言われたもんや」「そやそや」ということになったところ、その場の多数が「ことりて何?」と聞いてきたので驚いた。(アクセントは_| ̄|_と、が低くが高い)
 えっ、「ことりにさらわれてサーカスに売られる」というのは全国共通の常識ではなかったの??
 (サーカスの皆さんごめんなさい。その時代(私の小さい頃)のリアルな描写とご理解ください。)
 早い話が「ことり=子取り」とは「人さらい」のことである。
 それが、近畿以外の方はもちろん、丹波の方2人も「知らない」ということだった。
 話が通じたのは小学校を堺で過ごした私、八尾で過ごした友人、吹田で過ごした妻(これは家に帰ってから確かめた)だった。
 後日、その話を思い出して家にある広辞苑や国語辞典、古語辞典を開いてみたが載っていない。
 これには、私の方が「ええっ!」となって、近くの図書館に自転車をこいだ。
 あたってみた辞書は、小学館日本国語大辞典、広辞苑、大辞林、大辞泉、字訓、三省堂国語辞典、旺文社国語辞典、新明解国語辞典、小学館古語大辞典、古語大鑑、日本方言辞典、日本俗語大辞典、日常語の意味変化辞典。で、どの辞書にも全くない。これには「ええっ!」「ええっ!」。
 最後に、念のため牧村史陽編「大阪ことば事典」をめくってみると、ここにはしっかり書いてあったのでホッとした。
 コトリ【子取り】(名)子供を誘拐する男。〔例〕晩遅うまでかどで遊んでると子取りが来るで。
 標準語だとばっかり信じていたが大阪弁だったらしい。
 がしかし、よく考えると私は自分の子供たちにこんなことを言った覚えはないから、現在の大阪周辺の人々もええっ!となるかも知れない絶滅危惧大阪弁だろうか。
 ということで、こんなブログであっても、この時代に文字にしておくことは全く意味がないことでもなかろうと思って書いてみたのだが、それなら、この言葉の発信源はどこだろう。
 親の時代までの大阪中に伝播させた(現に大阪ことば事典には採取されているのだから)のは、当時の学校教育や子取りの遊び? JOBK(NHK大阪放送局)? 寄席? ・・・解らない。こんなつまらないことでも考えてみれば不思議なことばかりだ。
 今大阪では、子取りまがいに大阪市民の財産をさらっていこうとしている男が大きな顔をしている。これも不思議だ。

 「夕方遅くまで遊んでるとことりが来るぞ!」・・・・この言葉を知っている方、そんな言葉は知らない方、子供時代の地域とその年代を添えてコメントをいただければ幸いです。

2014年3月15日土曜日

薄情な式辞

 安倍首相は、Wikipediaを引用して言えば、日本共産党の吉井英勝衆議院議員(当時)が、2006年12月13日に「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危機から国民の安全を守ることに関する質問主意書」を提出して危険性を指摘し、当時の安倍内閣に見解を質したが、政府答弁はおざなりであり、実際には何もなされなかったため、それが悲劇的事故を回避できなかった原因として指摘されている・・と、Wikipediaが述べている、・・・という原発事故のその当事者である。
 私は、京大原子核工学科卒の吉井議員の指摘が的確であったということを宣伝したいわけではない。
 そうではなく、安倍晋三氏とはこのように、さらには年金問題でも「最後のお一人まで年金をお支払していく」と言っていたように、そしてIOC総会での「汚染水は完全にコントロールされている」のスピーチのように、その場限りのはったりを公言し責任を取らない人だということを指摘しておきたい。 
 さて、3.11の追悼式があった。以下にメディアでも話題に上がった3つの式辞とお言葉を並べてみた。言葉尻をとらえ揚げ足をとる気持ちはないが、安倍首相は故意に確信をもって原発事故を避けたように思う。
 それは「言葉の綾」などではなく、被災者を含む国民への挑戦状のように私は感じた。
 各自それぞれが素直に読み比べてほしい。


安倍首相式辞

本日ここに、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、東日本大震災三周年追悼式を挙行するに当たり、政府を代表して、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
 かけがえのない多くの命が失われ、東北地方を中心に未曾有の被害をもたらした東日本大震災の発生から、三年の歳月が経ちました。
 この震災により最愛の御親族を失われた御遺族の方々の深い悲しみに思いを致すとき、今なお悲痛の思いが胸に迫ってまいります。ここに改めて、衷心より哀悼の意を捧げます。また、今なお行方の分からない方々の御家族を始め、被災された全ての方々に、心からお見舞いを申し上げます。
 被災地に足を運ぶ度、営農の再開や水揚げに湧く漁港、災害公営住宅に入居された御家族のお姿など、復興が一歩一歩前に進んでいることを実感いたします。しかしながら、今なお、多くの方々が不自由な生活を送られています。原発事故のためにいまだ故郷に戻れない方々も数多くおられます。
 復興を更に加速し、被災者の方々が一日も早く普通の生活に戻られるようにすることが、天国で私たちを見守っている犠牲者の御霊に報いる途です。同時に、大震災の試練から我々が得た貴重な教訓をしっかりと胸に刻み、将来の様々な災害から、国民の生命、身体、財産を守り抜くため、倦まずたゆまず、災害に強い強靭な国づくりを進めていくことをここに固くお誓いいたします。
 復旧、復興の前進も、地元の方々の御努力、関係機関の尽力はもちろんのこと、全国各地から多くの支援に支えられてのものです。この震災では、本日ここに御列席の世界各国・各地域の皆様からも、多くの、温かく、心強い御支援を頂きました。改めて、感謝の意を申し上げたいと存じます。
 我が国の先人たちは、幾多の困難を克服し、その度に、より逞しく立ち上がってきました。今日を生きる私たちも、それに倣い、手を携えて、前を向いて歩んでいくことを改めてお誓いいたします。
 御霊の永遠に安らかならんことを改めてお祈り申し上げるとともに、御遺族の皆様の御平安を心から祈念し、私の式辞といたします。


伊吹衆議院議長式辞

天皇・皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、東日本大震災三周年の追悼式が行なわれるにあたり、謹んで追悼の言葉を申し述べます。 
 3年前のきょう、東日本を襲った大地震と津波により、東日本の国土は破壊され、多くの尊い命が失われました。犠牲となられた方々と、ご遺族のみなさまに改めてお悔やみを申し上げます。 
 そして被災された方々、また福島での原子力発電所の事故により避難を余儀なくされた方々のお気持ちを思うとき、月並みなお見舞いの言葉を申し上げることすら憚られるのが率直な心境です。 
 多くの関係者のご努力により、復興に向けた歩みは着実に進んでいます。
 震災後、被災地の惨状に心を痛めた方々が、被災地を支援するボランティア活動に参加して下さり、多くのきょうお見えの諸外国からの温かいご支援を頂いたことは、物心両面で、復興の大きな助けとなりました。ご支援いただいた皆様に対し、深く感謝申し上げたいと存じます。
 
 一方で、震災から3年が経過し、被災地以外では、大震災以前とほぼ変わらぬ日々の暮らしが営まれております。
 しかし、被災地では仮設住宅等で、ご不自由な生活を余儀なくされている方々もなお多く、震災前の生活を取り戻すことは容易ではありません。特に原子力発電所事故のあった福島県では住み慣れたふるさとに戻ることができず、今なお放射性物質による汚染に苦しんでいる方々が多くおられる現状を、私たちは忘れるべきではないでしょう。
 
 そういった方々の事を思うと、電力を湯水の如く使い、物質的に快適な生活を当然のように送っていた我々一人一人の責任を、全て福島の被災者の方々に負わせてしまったのではないかという気持ちだけは持ち続けなりません。 
 思えば、私たちの祖先は、自然の恵みである太陽と水のおかげで作物を育て、命をつないできました。
 それゆえ、自分たちではどうすることもできない自然への畏敬と、感謝という、謙虚さが受け継がれてきたのが日本人の心根、文化の根底にあったはずです。
 
 科学技術の進歩により、私たちの暮らしは確かに豊かになりましたが、他方で、人間が自然を支配できるという驕りが生じたのではないでしょうか。そのことが、核兵器による悲劇を生み、福島の原発事故を生んだのだと思います。 
 3年目の3.11を迎えるに際し、私たち一人一人が、電力は無尽蔵に使えるものとの前提に立ったライフスタイルを見直し、反省し、日本人として言行一致の姿勢で、省エネルギーと省電力の暮らしに舵を切らねばなりません。 
 主権者たる国民より選挙を通じて主権を委ねられている我々国会議員は、被災地の復興に全力で取り組むとともに、震災で得た教訓を元にエネルギー政策の在り方について、現実社会を混乱させることなく、将来の脱原発を見据えて議論を尽くしてまいりたいと存じます。 
 結びに、震災で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、追悼の言葉と致します。 


天皇陛下お言葉

本日、東日本大震災から三周年を迎え、ここに一同と共に、震災によって失われた人々とその遺族に対し、改めて深く哀悼の意を表します。
 3年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波は、2万人を超す死者、行方不明者を生じました。今なお多くの被災者が、被災地で、また、避難先で、困難な暮らしを続けています。さらにこの震災により、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため、多くの人々が住み慣れた地域から離れることを余儀なくされています。いまだに自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと心が痛みます。
 この3年間、被災地においては、人々が厳しい状況の中、お互いの絆を大切にしつつ、幾多の困難を乗り越え、復興に向けて懸命に努力を続けてきました。また、国内外の人々がこうした努力を支援するため、引き続き様々な形で尽力していることを心強く思っています。
 被災した人々の上には、今も様々な苦労があることと察しています。この人々の健康が守られ、どうか希望を失うことなくこれからを過ごしていかれるよう、長きにわたって国民皆が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。そして、この大震災の記憶を決して忘れることなく子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を築くことを目指して進んでいくことを期待しています。
 被災地に一日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。

2014年3月13日木曜日

金柑は大人の味

  放ったらかしにしていた小さな金柑の木に実がなっている。
 まだ少し青みが残っているがほゞ熟してきた。
 孫のために収穫を止めていた実だったので、孫の来た日に一緒に収穫した。
 そして、皮をこのように食べるのだよと教えながら渡したが、少し齧ってすぐに返してきた。
 完熟でないということもあるが、この酸味と苦味は幼児の敏感な舌には強すぎるようだ。
 ということで、つらつらと振り返ってみると、私も金柑が美味しいと思うようになったのは大人になってからのように思う。
  また、このごろのように甘い金柑は昔はなかった。?ように思う。
 そう、金柑は大人の味なんだ。
 「金柑皮食て実い残す」と歌ったが、今の私は酸っぱい実の部分も好きで、種以外は全部食べる。
 同じように、義母も美味しい美味しいと果肉まで食べてくれた。

 金柑に見向きもしなかった孫は、勝手知ったる何とかで、我が家の冷蔵庫を開けて、イチゴ、ブドウ、ブルーベリーを持ってきた。
 息子からは、「我が家は無防備すぎる。」「お菓子と果物は分からんように隠しておいてくれ。」と言われているが、祖父祖母は勝手に引っ張り出してくるのを半分期待して目を細めている。
 ひいばあちゃんの綿菓子を見つけ出して「食べていい」と目で語ったので、「いいよ」と言うと、大人たちにも少しずつ配ってから自分が食べた。
 これは100%自分のものではないなあと小さな頭で考えたのだろう。
 後で見ると、袋の底にはひいばあちゃん用のカケラがちゃんと残してあった。

 以上、可愛い孫の爺ばか日誌を書いたが、別の日、両親が風邪でダウンしたので孫を預かった。
 昼ご飯の時、ご飯だからとビデオを消したら怒りだした。
 新聞と本を投げつけてくるのは序の口で、ついには私の眼鏡とパソコンを床に投げつけた。
 これも、「可愛い可愛い赤ちゃん時代」を脱しようとする証拠だろう。なかなかやるな!
 そのあと、自分でやりすぎたと後悔したように泣きじゃくったので抱いてやった。この程度で済むのは何時頃までだろう。

2014年3月11日火曜日

あれから3年

 3年が経った。
 福島県の避難者数は今も13万5906人。除染も進まず、何よりも事故現場の正確な情報すら解らないまま今日に至っている。避難者の人生再出発の目途はたっていない。
 福島県が実施した当時18歳以下だった子供の甲状腺検査で33人が甲状腺がんと確定している。


 琉球新報は「安倍首相は・・「状況はコントロールされている」と強調していたが、相次ぐ汚染水漏れは、首相の的外れな認識と欺瞞性を証明していよう。」と10日の社説で述べている。
 そのとおり、2月の高濃度汚染水漏れでは、警報が約10時間放置されていた。
 2012年の衆議院選挙で自民党が掲げた「原子力に依存しなくてもよい経済・社会構造の確立」という公約に違反して安部首相が原発再稼働とその輸出に前のめりだということは、各紙も批判している。
 しかし、テレビは「そんなことが何時かあったよな」という風に、お笑い芸人を雛壇に座らせて大笑いを続けている。一緒に笑っている自分がいる。偉そうなことは言えない。でも、これでいいのだろうか。
 そう、情報は完全にコントロールされている。
 私は、再稼働しない、原発は止めるといったところから、経済政策も含め新しい日本が再出発できるし、子や孫の時代が開けると信じている。クリミヤ半島の暗いニュースを聞きながら。

2014年3月10日月曜日

原発ゼロしかない


  あれから3年、このまま風化させてはならないという思いで「さよなら原発3.9大阪集会」に参加した。
 集会は、再稼働を企む「原発利権共同体」に向けての抗議の性格もあるが、同時に、まだ参加には至っていない幅広い市民に向けての呼びかけの場でもあると私は考えている。
 だから、参加者が自主的にアピールの方法を工夫することが大切だし、そういう参加者が増えれば楽しいのにと願っている。
 ということは、言いだしっぺは何かしなければならないわけで、今回、私は『鹿の角のカチューシャのプラカード?』を考えついた。
 そのアイデアを身近な友人に尋ねたところ、4人中3人は「恥ずかしい」といい、1人だけは「つけてもええで」ということで、少々めげてしまっていた。(この1人がいなければこの企画はボツになっていた。)
 それでも、「解ってくれる人はいるはずや」と思い直し、『鹿の角のカチューシャ』を遠慮して8個だけ作って参加した。
 作ったと言っても大層なものでなく、出来合いの鹿の角のカチューシャ(実はクリスマス用のトナカイの売れ残り)に鉢巻風のメッセージを書いただけだ。
 「廃炉しかない」「原発0しかない」という文句で、「しか」の部分をイラストにした。
 結果は、披露した途端はみなさん「??」という感じだったが、すぐに「ほしい」「ほしい」と好評で、また、周囲に対する効果も大好評だった。(決して無理強いはしなかった。)嗚呼、もっと作っていくべきだった。
 さらに、友人が持参してくれた綺麗な写真入りのプラカード兼紙袋も好評で、明るい隊列になったと思っている。
 ただ、スマホのユーチューブと超小型ハンドマイクでジョーンバエズのウィシャルオーバーカムをパレード中に合唱する企画は、我が家のテストでは「いける」と思っていたのだが、大阪市内の騒音にはコテンパンに打ち負かされ大失敗に終わってしまった。これは次回への宿題である。
 フクシマから避難された方々の悲しみを思うとこんな企画の話はふざけているように思われないかとの心配もあるが、一番大切なことはまともな世論を広げることだろう。
 その場合に大切なことはおおらかな訴え方だと思う。「怒りの言葉」は心には届き難いものなのだ。

2014年3月8日土曜日

雪害(橋下徹氏の6億円選挙ごっこ3)

 
  2月14日の雪でご近所のカーポートの屋根が歪んで天井が抜けていた。
 我が家はエンドウ豆が数本折れただけだと思ったまま、相当日にちが経過した。
 そして、どうもミモザの枝振りがおかしいと気付いたのは半月も経ってからだった。
 凝視して初めて折れているのに気が付いた。
 ミモザは冬でも葉っぱと花をいっぱい付けていたから、非常にしなやかな枝ではあるが積雪には弱いようだ。
 裂けて折れた先を剪定してはっきり見えたのが上の写真。
 雪害の記憶のためにそのままにしておこうかと思っているが、こういう場合、ミモザはその枝全体が枯れる可能性も高い。悩んでいる。

 私に関してはこのように大したこともない雪害で済んだが、ニュースは関東近辺の孤立した住居等の様子を伝えていた。
 思うに、平成の大合併で自治体の危機対応能力が低下しているように思えて仕方がない。
 もうええ加減に「役所は無駄」「公務員は無駄」というような、キャンペーンに踊るのはやめたらどうだろう。
 橋下維新のキャンペーンに賛同した挙句の大阪市が行ったのは、後援会幹部の子の秘書採用、めったやたらの参与等の採用と手当の大盤振る舞い、不祥事続きの校長や区長の公募、そして、大義名分のない6億円選挙ごっこだ。
 彼が知事時代に黒字にしたはずの大阪府はすぐに大赤字だ。彼の大法螺は粉飾決算そのものだった。
 今の大阪市は、住民サービスだけが確実に劣化している。
 「新自由主義」などというからプラスのイメージが付いたりするが、正しく「市場原理主義」というのがよい。
 昔の自民党政治は、無用の公共投資に群がって私腹を肥やすパターンだったが、新自由主義者は、公共の土地、建物、設備、地下鉄、病院等を、「官から民へ」というような訳の分からないスローガンでそっくりいただこうとするものだ。
 橋下市政は、その両方の悪いところを強引に突っ走っている。

2014年3月7日金曜日

真田の抜け穴2(秀吉の大坂城)

  写真の大坂城天守閣は結構見栄えが良いので一般には半ば歴史的建築物扱いされているが、昭和6年に竣工したコンクリート製のものである。
 それに比べると石垣は本物の歴史的構築物だが、それとて元和6年(1620)に工事が始まった徳川の大坂城である。
 天正11年(1583)に秀吉が着手し、慶長20年(1615)に大坂夏ノ陣で落城した「三国無双」の大坂城はその片鱗すら見つけられないが、一般観光客は天守を見上げて「さすがは太閤さんや」と感心している。
 大阪が好きな私などは「それもよし」と黙っている。
 
 秀吉の大坂城の石垣は、昭和34年の調査と昭和59年の調査で、今のお城のおおよそ10m近い地下にそのまま残っている、つまり、埋められていることが解ったが、調査後はまた埋め戻されていた。
 それを再び掘り起こして公開する取り組みが進んでいる。
 その現地説明会があったので行ってきた。

  場所は現天守閣の南東で、豊臣大坂城の「詰ノ丸」(本丸)の角になる。
 自然石を多用した野面積み(のづらづみ)で勾配には反りがない。
 徳川大坂城の石垣に比べてなんと素朴な感じがするものだ。
 1583年から1620年までの37年間の間の技術の進歩には驚嘆するし、家康、秀忠の徳川の力を再確認する。

 今回の現地には自然石に交じって石臼や寺院等の礎石もあった。
 もしかして難波宮の礎石の一部ではなどと想像が膨らむ。
 秀吉は天下統一の過程で自治都市堺の環濠を埋め立てるために近くの古墳を壊して土砂を確保した可能性がある(中井正弘著「仁徳陵」)と指摘されているから、全くないこともないだろう。
 最後に、三光神社の「真田の抜け穴」は自然石ではなく切石だった。
 さて、その真相や如何に。

ネットから

ネットから


2014年3月6日木曜日

学習するもの しないもの

  先日、一般の解説書では「カラスは人に懐かないしカメラを向けると飛び立つ」と書いてあるが、奈良公園のハシボソガラスは「観光客はおとなしい」と学習していると書いた。
 スズメについての同じ経験は東京の日比谷公園でも体験したが、そこの松本楼ではオープンテラスで食事をしているとテーブルにまで雀が飛んでくるし、指先のご飯粒さえ啄ばむ。(ヨーロッパのスズメとは種類が異なり日本のスズメは懐かないと本にはある。)

 さて、奈良公園でいつも感心するのは例の鹿で、鹿煎餅の店の前にたむろしているが、商売物には手を出さず、観光客が買ったとたんにすり寄っていく。(おじさんに聞いたところでは、油断をすると商売物を食べられることもないことはないとのことだが、普通には見事に売れる前と売れてからとを峻別している。)
 奈良公園の鹿がお辞儀をすると煎餅がもらえるということを知っているということは、誰もが見た光景だと思う。
 あれは、鹿は元々お辞儀の動作をしたのではなく、角を下から上へ「こじ上げる」ように相手に対する基本動作をしたのだと思うが、それは結果として、お辞儀だと勘違いした人間によって「わあ可愛い」と煎餅をくれることや、また別の結果として女性客を後ろから「スカートめくり」するような動作になっていて、すると、キャーッと煎餅を落としたり手を下げたりするから餌にありつける・・とこれもまた学習したに違いない。
 奈良公園に行くのにスカートは要注意である。
 
 さらに驚いたことは、少なくない鹿が信号を守っているという事実である。
 奈良公園一帯は鹿の方が優先だから、堂々と車道を渡る鹿が多いが、県庁前の鹿の何頭かは明らかに信号を守っている。嘘ではない。
 観察した私の理解では、道の向こう側の歩行者が止まっている時にはこちら側で止まり、向こうの歩行者がこちらに向いて歩き始めると対向して歩き始めている。あるいは、道のこちら側で止まっていた傍らの人間が歩き始めるのに応じたのか知れないが。
 そういう場面を何回か目撃した。(赤信号で止まっている鹿を)
 あれだけ鹿の交通事故があるのだから、鹿社会でも話題になり学習したのだろう。
 戦後民主主義が積み上げてきた憲法解釈を何人かの意見で変えてしまうというニュースを聞くたびに、彼の人たちには奈良公園の鹿並みの学習とルールの遵守が欲しいと思ってしまう。

2014年3月4日火曜日

鶴橋での宮廷料理

  いつの時代でも年長者は若者のことを「近頃の若い奴は」というものだが、私などは上の世代に対しても下の世代に対しても、溶け込みにくい端境期の気がしている。
 少し上の世代というのは小説でいえば「青い山脈」的で、映画では「日活青春映画」の吉永小百合だし、下の世代は文字どおり団塊の世代の本隊そのもので、この世代のことを論じている著作物は山ほどある。
 そのような私などが十代後半だった街にはあちこちに戦後の匂いが残っており、同時に、高度成長初期の高揚感が漂っていた。
 今のテレビの中のように幼いことを可愛いとか肯定的に考える余地はなく、可愛いなどという言葉は青年にとって侮蔑の言葉だったし、みんな「もう自分は子供ではないぞ」という主張が当たり前で、背伸びするのが当たり前だった。
 そんな高校生が食べたホルモン焼きは、屋台を少し大きくしただけのカウンターにコンロが並ぶ店で、そんな店に勇気を持って入った自分達が誇らしかった。
 ホルモン焼きは「放るもん」と言われていた。
 これが私の心の中にある焼肉の原風景である。
 
 さて、近鉄鶴橋駅は個性のある駅である。
 夕方以降、ホームの東の方から西の方を見ると霧にかすんでいるように見える。それはすべてホームの下に広がる焼肉店の焼肉の煙である。もちろん、ニンニクがダメな人は卒倒しそうな・・、好きな人はお腹が鳴るような匂いを伴っている。
 そして、ここのホームの北の壁に大きな徳山物産の看板があるのだが、1950年代60年代を知っている年齢層には国を超えて「わかるわかる」という、そんな50年代60年代のいわく言い難い郷愁を思い起こさせる写真(映画の写真?)である。
 この大看板、天野祐吉さんがご存命なら「CM天気図」あたりに取り上げてもらいたいような名作だと思う。(写真上でクリックすれば拡大されます。)
 先日その鶴橋で、「放るもん」ではない「宮廷料理の焼肉」を何人かで囲んだ。

ネットから
  そして、そこ白雲台のメニューを見ると「一頭盛り」というのがあったので注文をしたところ、牛の形をした鉄皿に盛られて肉が出てきた。
 そこで、まあお子様ランチ風のお皿の一種かと見過ごしていたのだが、実はそのお皿の牛の顎の位置にはアゴの、心臓には心臓、足にはアキレス腱というように盛られているのが判って、そのアイデアの的確さに感心した。丁寧に、肉の下には部位の(肉の)名前も書いてあった。一頭盛りのネーミングに大納得。

 ただ昔青年は、宮廷料理の美味しい焼肉や、2月にも拘らず氷の入った本場の冷麺を食べながらも、あの「放るもん焼き」が懐かしかった。

 この記事を書いているうちに、どうしても徳山物産の看板の写真が欲しくなって、そのためだけに鶴橋まで行ってきた。

2014年3月2日日曜日

真田の抜け穴(橋下徹氏の6億円選挙ごっこ2)

  万城目学の小説「プリンセス・トヨトミ」の大阪国総理大臣は「空堀ど~り商店街」の真田幸一だが、『真田』が総理大臣という設定はさすがは万城目学だというか的を射ている。
 子供のころ、貸本屋の「真田十勇士」は人気本だったし、その頃の大人は講談の「難波戦記」が好きだった。400年前の大坂冬の陣、夏の陣の話である。
 幸村の作った出城「真田丸」は今も「真田山」として地名に残っているし、大阪市内を掘れば織豊期の石垣などが顔を表す。ちょっと隧道みたいな跡もあったりする。空堀通り周辺にもそんな場所がいくつかある。

  そうした場合、新聞などはすぐに「真田の抜け穴か?」と見出しを振る。
 大坂城の地下に通じる秘密の通路だと。
 万城目学の小説もそれを踏まえている。
 その一つが天王寺区は真田山近くの三光神社境内にある『真田の抜け穴』で、私にはどう見ても行き止まりのように見えるが、それも信じる人には「敵を欺く偽装」なのだろう。
 歴史というと京都や奈良の専売特許のように思われるが、古代史の首都や副都であったり、それこそ石山本願寺の寺内町、豊臣の大坂城等々と大阪は重厚な町である。
 にもかかわらず、そういう積み重ねられた歴史や文化が軽視され、銭勘定だけの下卑た街のように思われているようで仕方がない。

  残念ながら、「金の儲からない文化は意味がない」という橋下市政の下で文化の衰退はさらに激しい。
 だが、少なくとも終戦までの大阪商人は決してエコノミックアニマルではなかったし、事実、江戸・東京ではお上が作ってきた多くの公共設備も、ここでは市民の寄付で造られてきたことはあまりに有名だ。
 大阪人が野卑で打算的だというのはテレビと花登筺と吉本が作り上げたステロタイプの虚構である。
 ・・・・ということを大阪人は実証する必要がある。
 「大阪人よ大義に生きよ」と、「信濃一国」との徳川の懐柔を拒否をした(難波戦記)幸村のうめき声が抜け穴の奥から聞こえてきそうである。

2014年3月1日土曜日

南はどっち

もちろん、南から北を向いて撮っている。
  悪天候でコンパスのない時にどのようにして方角を知るかという話は、昔ちょっとだけ山登りをしていた頃に読んでいた「山と渓谷」や「BE-PAL」等いろんな本に書いてあった。
 その中に、コケは樹木の北側に付くからそれで方角を知るというのがあったような気がする。
 「そんなことは常識だ」とおっしゃる方々もおられるが、そしたら何処にそんな木があるかと尋ねられると実際にはなかなか見つけにくい。

 写真の数本の楠の木の街路樹はいつも歩いている近所の遊歩道だが、あまりにドンピシャの模範解答なので、感心するというか笑ってしまう感じでいつも歩いている。
 おいおい、ちょっと出来すぎと違うか・・と。
 ちなみに、その近くの木々を見る限り、粘菌の付き様にはコケの様な方位による特徴は見られない。北にも南にも付いている。
 おまけとして、樹木にワラ巻をした場合、虫は南北どちらに集まるかという記事に、樹木のワラ巻を外したとき虫は北側に集まっているとあったが、残念ながらそういう現場に居合わせたことがないので私は確認していない。
 本には「南側は昼夜の温度の変化が激しいため虫は反って嫌がる」と書いてあった。
 どうでもいい話だが、見慣れた風景にも木や虫の不思議な世界があるのが面白く味わい深い。
 
 この樹木、清少納言なら「あはれ」と言ってくれるだろうか。