2013年9月29日日曜日

山の動く日来る

  今夜は、堺が生んだ歌人与謝野晶子の詩の中から抜粋させていただきたい。
  『青鞜』創刊号の巻頭詩の冒頭部分である。

  山の動く日来(きた)る
  かく云へども人われを信ぜじ
  山は姑(しばら)く眠りしのみ
  その昔に於いて
  山は皆火に燃えて動きしものを

 眠れるかのように見えていた堺の山の動くを私は見た。嬉しい。
 いっしょに心を合わせた人々、陰に陽に励ましていただいた人々とこの気持ちを分かち合いたい。

 どうして、こんな古く仰々しい詩を選んだかと言えば、近頃私は不快な低周波公害のように民主主義の危機を感じるからである。
 維新の橋下大阪市長はよく「民主主義とは多数決である。」故に「選挙で多数を得たということは白紙委任を受けたこと。」と主張し、現に問答無用で悪政を実行している。
 しかし「多数決」というのは民主主義の一側面を説明するにすぎず、民主主義の根幹は議論を通じてより良い結論を探ること、そのためには異なった意見の尊重がなければならない。
 ヴォルテールの「私は貴方の意見には反対だ、だが貴方がそれを主張する権利は命をかけて守る」である。
 堺市長選挙は、そういう精神で保革を超えて、あるいは神を信じる者も仏を信じる者も信じない者も市民が力を合わせた勝利だと思う。
 1970年代の社共共闘を軸にした革新自治体の太平洋ベルト地帯の誕生(これは当時、主に部落解放同盟の蛮行を擁護する社会党の脱落等で徐々に消滅)を経験した私たちは、各党が今回の経験から前向きに教訓を導きだしてほしいと願っている。もちろん、多くの不十分さもあっただろうし、まだまだ今後の典型となるような一点共闘の形ができたわけではないだろうが。
 そんな考えから、今日の、山の動いた日を、私は記憶に残したいと思っている。

2013年9月27日金曜日

ものの始まり、みな堺

  私が堺市長選挙に注目している理由は、この選挙を通じて、ほんとうに「維新」が瓦解に向かうだろうと(期待を込めて)思うところにある。
 全国的には、先の都議会議員選挙と参議院議員選挙で「維新」の凋落は明らかになったが、それでも大阪選挙区では第一党である。侮ることはできない。
 他府県の皆さんにはそれ(大阪での第一党)がどうしても理解できないことのようだが、この状況を作り出した影の主人公が関西マスコミにあるのは間違いない。

  「維新」に投票した多くの人々は「維新」の政策など何も知らない。ただ知っているのはテレビで毎日お目にかかる能弁な橋下氏の画像から受けた印象だけである。
 たまには関西のテレビは橋下氏を適当に「イジル」のであるが、結局それも視聴者に彼を疑似「友人」のように思わせる親しみを植え付けていることにもなっている。
 メディアの中の意図的に橋下氏を推すグループ以外でも、「数字が取れる」故に頻繁に登場させるテレビ局の弱点は、闇の勢力と繋がった芸能人や霊感商法の占い師を多用してきた過去と同じである。 
 不況、就職難、非正規不安定雇用等で先の見えない視聴者の閉塞感には、このテレビ発の、彼の勇ましく口汚い「口撃」が心地よい側面を持っている。その「口撃」が決して本当の強者ではない弱者間の足の引っ張り合いであることが薄々解っていてもである。

 マスコミは橋下氏の広告塔を買って出ているだけでなく、大阪人をも誘導している。
 マスコミは大阪人を評して「本音で語ってバイタリティーがある。」と繰返し言う。
 それは「知性に欠けて礼儀知らずだ。」ということと同義語で、全国の視聴者はそれが解っていて嘲笑しているが、当の(少なくない)大阪人だけはそれを知らずに「褒められている」と誤解している。
 その誤解は、大阪の街頭インタビューでよく見る「政治なんて誰がやっても同じなんちゃうん。」という冷笑をはびこらせ、「何かやってくれそう」な強者にそれを期待する。
 下卑た声でそう繰り返すビデオだけが「大阪らしい」と選択されている。
 これを繰り返している限り大阪の品格はますます低下し、「品(ひん)より金や」と言いたい人々の期待も裏切って経済は沈滞するだろう。
 そして、政治への冷笑と英雄待望は、歴史の教えるところファシズムの土壌である。
 橋下氏と「維新」が大阪府や市で行ってきた、思想調査アンケート、教員と教育委員会攻撃、「ピース大阪」の展示内容への攻撃、職員労働組合への不当労働行為等々の数々は、それが遠い昔の歴史的教訓で済まないことを物語っている。

 繰り返しになるが、橋下維新を支えているのは政策ではなく橋下氏のマスコミ登場と、100万人を超えるフォロワーを持つ彼のツイッターの力である。それは「風」とか「世論」と呼ばれたりもしている。
 これを打ち破るのは、対抗する良識ある世論だろうし、堺ではそれがいま市民運動型の選挙運動になって盛り上がりつつあるように思っている。
  平日毎日堺市内27駅頭で配布されている「日刊堺はひとつ」(写真)には驚嘆して言葉もない。
 「ものの始まり、みな堺」は追憶のことわざではなく、現代民主主義の形容としてよみがえることだろう。
 ツイッターに関して言えば、「維新」の先行きに不安と危険を感じている市民側のネット上の発言はまだまだ多くないようだが、「パソコンは苦手だ」と誇らしげに語るのを止め、一人一人が「市民メディア」になれば、その力を併せれば、例えば10万人がそれぞれ20人のフォロワーを持てば200万人になるように世論が変わる時代を迎えている。キング牧師ではないけれど、夢は広がってゆく。

2013年9月26日木曜日

十七夜盆踊り

  盆踊りというのはお寺で行うのが似合っている。
  ほんとうかウソかは知らないが、関西で最後の「踊り納めの盆踊り」だと奈良県や奈良市の観光協会の文書にある。
  ということで、東大寺二月堂の「十七夜盆踊り」に息子ファミリーと行ってきた。報告が遅れたがあったのは9月17日。

  ところが孫の夏ちゃんは、ラッシュアワー並みのあまりのスケールの大きさにたじたじ。日頃の自己流盆踊りをなかなか見せてくれなかったが、自分では十分に踊った気でいるらしい。
  去年はまだ赤ちゃんだった。今年はデビューした。来年は浴衣だと爺婆は決めている。

  私は、人ごみの中でも荷物係として判るよう、そして少しの気合を込めてショッキングピンクのポロシャツを着ていったが、踊り子連中はそれぞれ赤やピンクの揃えの衣装が多く、だから「全く目立たない」と妻からクレームを受けた。いやはや。
  さて、踊りのことだが、河内音頭系と江州音頭系の音頭取りが次々に登場し、見物席よりも踊りの輪の方が多いぐらい。そして、男性の数も少なくない。さらに、グループごとに微妙なアレンジと競争意識があったりして、テレビで見る各地の観光パレード型の踊りではない、盆踊りらしい土の匂いのする盆踊りだった。(あのセミプロ的というか、創作ダンス教室的というか、否定はしないがあれはちょっと盆踊りではないと私は感じている。)
 そして、その浴衣や法被の背中には南河内の「道明寺」や「柏原」の文字も。「これはもう病人だ!」と感心した。

 途中で東大寺が出店している屋台?の椎茸たっぷりの「小そうめん」1杯100円も2杯ずつ食べて堪能した。夏ちゃんはポプコーンとかき氷。これも100円。
 十三夜の月が煌々と会場を照らし、鹿の鳴く声が遠くでする。考えてみれば贅沢な環境であった。・・・・と満足して、二月堂にお参りもせずに帰ってきた。「この罰当たりめが」となどと言わずに今夜は観音様も許してくれるだろう。

2013年9月24日火曜日

堺の街で古事記を読む

  ご存知のとおり、古事記の最冒頭に、「神はまず最初に淤能碁呂島(おのごろじま=淡路島)を作った」と記されている。
  そして、そのことについて、つまりなぜ古事記を生んだ王権の中心地の畿内ではなく淡路島が第一に生まれたのかについて、それは海洋民であった記憶であるとか、重要な御食つ国(みけつくに)=天皇の食材を献じる国であったためとか等々、多種多様で大きな議論が専門家によってなされている。

 しかし、堺の市街地で育った私には、何となく稗田阿礼等、伝承してきた人々の気持ちが素直に判るような気がするのである。
 それは、1960年代の高度成長が始まる以前、堺市街の東には大山古墳(伝仁徳天皇陵)がそびえており、西の海の向こうには毎日淡路島がそびえていたからである。ほんとうに近くに見えていた。
 そこは、つまり、はるか北九州から韓半島及び大陸を臨んで西に伸びる瀬戸内海は、大和の首都、そして大阪湾の副都(正式あるいは事実上の。そして一時的には首都でもあった。)にとって、新しい文物の入口であったからである。

  我が国の国道第1号線は、難波宮(なにわのみや)から大道(だいどう)を真直ぐ堺に向かい、堺から東に飛鳥に向かった竹内街道(たけのうちかいどう)であった。
 だから、この国道や大物流経路の大和川を行き来した畿内の王権にとって淡路島は、毎日すぐそこに見えている正門の城壁に見えていたに違いない。
 となると、もう一方の大山古墳(伝仁徳天皇陵)を筆頭とする百舌鳥古墳群は、上海やドバイが競ってタワーや高層ビルを建てたがっているように、「どうだ。」と見せつけることを非常に意識した人工的構造物の性格が強いことが、これも素直に理解できる。
 上海やドバイ(に限らないが)の都市設計思想は、古墳時代の堺のそれとよく似ていると、私は一人笑っている。

 今般の堺市長選挙の中で、大阪府知事でもある維新の会松井幹事長は、伝仁徳天皇陵にイルミネーションをつけて世界遺産に認めてもらおうと主張している。
 恥ずかしくて批評する気も起らない、ついていけない意見である。実現性も100%ない。

 ともあれ、政令指定都市になった堺という大都会で、古墳や歴史的建造物等を保護し整備するのは困難ではあるが、竹山市長の政策の重要な柱に、「自然と歴史の再生」という項目が建っているのは嬉しい。
 竹山市長を応援する人々が、「堺はひとつ 市民のマーチ」と銘打って伝仁徳天皇陵をぐるっと一周する大行進を23日に行った。息詰まるような選挙戦のさなかになんと愉快なことだろう。

2013年9月23日月曜日

曼珠沙華

  今年の夏は異常な猛暑が続いたので、開花が彼岸よりも遅れるのではないかと心配していたが(何も彼岸花が彼岸に咲かなかっても世の中はいっこうに困らないが)、見事にきっかり彼岸に開花した。

  球根に毒があることや、それ故にモグラやネズミ除けに畦や墓の周りに植えたせいで、葬式花、墓花、幽霊花、死人花、火事花、捨子花、狐花等々マイナスイメージの別名が多い中で、かろうじて天蓋花とか曼珠沙華という孤高の別名を持っているのが救いである。

 また、さらに別の名が「葉見ず花見ず」で、晩秋から晩春まで冬枯れの庭を緑の葉で覆うが、その旺盛な葉が「度が過ぎる」と言って妻が昨冬相当数抜いて捨ててしまったが、写真のとおり残った球根から今秋も律儀に咲いてくれた。

 歳を重ねると庭仕事も大儀になり、針葉樹や常緑樹の日本庭園が楽ではないかと思ったりするが、四季の変化を楽しまないで何の日本人かと思い直し、電子カレンダーよりも正確な曼珠沙華に目を細めている。
 何年か前までは、季節ごとに我が家の花々を論評してくれたお婆さんが近所に3人おられたが、近頃は3人とも全く姿を見なくなった。季節の移ろいよりもそんな変化が少し寂しい曼珠沙華の季節である。

2013年9月21日土曜日

お月見団子

  今年の仲秋の名月はすばらしかった。こういうのを良夜というのだろうなあと心に噛締めた。
  夕方、野原でススキを採って来て、孫のところに持って行った。
  孫はススキもお月さんもそっちのけで、お月見団子をパクリと食べた。
  これは何回もブログに書いたことだが、京、大阪のお月見団子の基本形は下の写真のものである。(写真のものは一つ一つに薄い紙が敷かれているが)
  水滴の形を少し長くしたようなお団子に、こし餡を腹巻のように巻いた形である。
  「里芋のキヌカズキを模したもの」という説があるが、里芋は同時にお供えしたりするから私は???と思っている。

  そして、根拠はないのだが、団子が月で餡が叢雲(むらくも)、行事にかこつけて「月に叢雲、花に嵐」の例えを子供に諌めた説・・・を採用している。根拠はない。ただの心配性である。

  和菓子店に行くと、ヨモギ団子のものやヨモギ団子に粒餡のお月見団子もあった。「どれにしましょう?」と言うから「お月さんは白でしょう。」と答えたが、私が古いのだろうか。私はヨモギ団子のお月見団子はお月見団子らしく思わない。

 孫のところに行ったとき、お母さん手作りの団子を反対にもらってきた。小粒で白くて円盤状に丸い団子だった。
 子供のためを思って甘さ控えめであったので、私は醤油をつけてお酒のアテにした。いい月見酒になった。

2013年9月19日木曜日

異常気象の夏は過ぎたが

  16日の朝は携帯が警報を鳴らしたので「地震だ!」と跳び起きた。地震ではなく「大雨特別警報」だった。
  台風18号が予想以上に北西の進路をとったので、桂川、鴨川、木津川、大和川など身近な川の氾濫情報にヒヤヒヤした。
 気分でしかないのだが、近頃は何となく自然も荒れているような感じがする。

  さて、先月末、我が家の前の歩道に突然7センチ程の段差が出現した。

 ゲリラ豪雨のせいか、地震のせいの陥没か判らないが、普段まっすぐと信じている歩行者道路に段差ができると7センチでも馬鹿にならず、けつまづく人も現れた。世は高齢化社会であるので軽視できない。
 すぐに自治体に電話をして応急措置をしてもらったが、土木課の専門家の言うのには、原因は連日の高温によるタイルの膨張ではないかということだった。
 だとすると、やはりこの夏は異常気象だったのだと再認識した。この道路ができてから数十年は経っているはずである。

 この夏の異常気象といえば、大雨洪水のニュースの後の今頃語るのは間が抜けているかも知れないが、四国の水がめ早明浦ダムをはじめ、日本国中あちこちで深刻な水不足が発生した。生活用水、農業用水、工業用水どれも深刻であった。
  断水が最低限の生活を奪ってしまう恐ろしさは阪神淡路大震災で身に染みた。馬鹿に出来ない。
  ところで、ニュースはその(夏の)頃、一方で大雨の災害を連日報じていた。

  で、素人は、そのテレビを見ながら「その水、どうにかならんのかい。」と釈然としなかった。
  水争いの歴史は知っている。上水と下水を同一水系で行う原則も知っている。
  しかし、各地の水道事業は緊急時のために隣接する水道事業と接続できるようになっているのではないのか? もしかしたら・・なっていない?
  そういうネットワークが成っているなら、厚生労働大臣がコンピューターで弾き出したネットワークで一定量の水を隣の水道事業、隣の水道事業へと送ればよくないのか。そんなことすらできないなら、それこそ「悪しき地方分権」ではないだろうか。

  地球は砂漠化に向かっているとも言われている。
  水は戦略物資にもなるとも言われている。
  しかしこの国は、「官から民へ」とか、「小さな政府」だとか言っているうちに、ほんとうの国民生活を守る国力が落ちていっているように思えてならない。
  新幹線網や高速道路の路肩に超広域緊急用水道管をつけたらどうか、事実上の空母・護衛艦「いずも」を造るより、海水を真水化する「真水製造艦」を造ったら世界中の災害被災地で喜ばれないか。そしてそれは、何よりの「防衛力」にならないか。

  素人の夢は膨らむが、ニュースは給水制限と給水車ぐらいしか報じない。
  だから、がっかりしながら、安倍清明や空海の雨乞いの本を読むしかない。
 そこには、大がかりに護摩を焚いて雨乞いをするのは科学的で合理的だとの説もある。(空中の水蒸気を水滴に変える核を提供しているのだと・・・)

  なお、私は写真のとおり、ささやかながら雨水の有効利用をほんのちょっぴり試みている。
  草木の水やりに利用している。震災時のトイレの水にも使うつもりである。

 ※ ここに書いた渇水対応方針案は全く素人の思いつきである。 どなたか、専門の方がコメントをいただけるとありがたい。専門でない方も。

 追伸  
 特別警報について、新聞、テレビは京田辺市ほか3町が全住民への周知をしなかったと、大きく批判的に報じている。
 しかし、私も地元自治体からの周知は受けていない。(京都府下の他の自治体だが)
 そこで、批判的に報じているメディアはいったいどのような周知を想定して記事を作ったのだろうと不思議に思った。
 「公務員を減らせ」「役所を小さくしろ」と繰り返してきたメディアの皆さんのご意見を賜りたい。
 大風、豪雨の中を広報車が廻っても聞き取れるはずもない。全戸訪問せよと言っているのだろうか。その外の周知方法ができているのだろうか。
 全戸に有線放送が施設されている小さな自治体以外の都会でそれは可能なのだろうか。
 なぜこんなことを言うかと言えば、多くの自治体でそんなことは無理で、できていないのではないかと思うからで、そういう現実を直視した上で今後の対策を検討しなければならないのではないかと考えるからである。
 嘘というか、タテマエというか、多くの自治体の現実はそうではないのではないのか。
 そして、京都府も国も、そんなことは知った上で正直すぎた京田辺市を「困ったことだ」と言って胸をなでおろしているのではないだろうか。
 近頃、こういうメディアや行政の嘘っぽさがこの国を蝕んでいるように思えてならない。

2013年9月17日火曜日

スパイスは人それぞれ

  同じ釜の飯を食った何人かで、大阪ミナミの外れにある『故郷羊肉串店』なる店に行ってきた。
 何を食べたかは店の名前を見ればお判りいただけよう。
 そこのテーブルスパイスは、唐辛子の粉とクミンの種だけだった。
 先ずその唐辛子だが、これは見た目ほどというか、ほとんど辛くなかった。
 昔何かの本で、「大陸には辛い唐辛子はなかった。」「辛い唐辛子は日本から大陸(特に半島)に伝えられた。」と読んで、キムチを思い浮かべながら「へ~~」と思ったことがあったが、そうだとすると、これが元々の大陸の唐辛子スパイスなのかもしれない。要するに、辛みよりも香りなのだと理解した。
 ただ、・・というほど香りもしなかったが…???。

写真はネットからだが、こんな感じで
思いっきり炭焼きされていた。
  次にクミンであるが、これは粉にせず種のままお皿に入れておいてあった。
 クミンは、息子が「肉料理にクミンを使うと何でも中東料理になる。」と勧めたので我が家でも常備するようになっている。つまり我が家では慣れたスパイスである。ただし、粉。

 しかし、スパイスの好みに個人差はつきものだから、私がラムチョップ(というよりもマトンの骨付きバラ肉という方がピッタリのヒネかただった)にクミンの種をたっぷり振りかけたら「ちょっとちょっと」と待ったがかかった。
 そう、好みは人それぞれである。
 
 キッシンジャー回顧録を読むと、「ああ、これから魚臭い日本に行かなければならない。」とか「日本の首脳と会談するのは魚臭くて嫌だった。」とあったような気がする。お互い様である。
 翌日、いつまでも顔のテカリが取れなかったし、汗からはモンゴル高原の香りがした。
 「次もここにしよう」と言う声もなかったので、次回は磯の香たっぷりの店を探そうかと思っている。
 

2013年9月15日日曜日

天平の甍

正倉院の天平の甍
  少し前に息子夫婦が家のリフォームを行ったが、築30年の家の屋根瓦は業者に言わせれば寿命らしく、結局葺き替えではなく元の屋根瓦の上に新しい屋根瓦を重ねて葺いた。その方法が一番廉価だった。
 近代から現代の、とくに現代のこういう思想は現実的と言えばよいのかどうか、「屋根瓦などは30年ももてばよいだろう。」というもので、そういう思想は頭の半分で納得しつつ、あとの半分で釈然としないところがある。
 というのも、奈良の街に漂う時間はそんなせっかちではないからで、先日ちょうど正倉院の整備工事の現場公開があったが、正倉屋根南面左右端に再利用される瓦は文字どおり『天平の甍』である。
 正倉院の宝物は、天平勝宝8年(756年)に光明皇后が聖武天皇の四十九日に献納した品々が始まりであるから、正倉院はそれ以前に建てられている。その時の瓦が今回も更新されるのである。
 ちなみに元興寺などは、588年に着工し596年に創立された我が国最古の本格寺院飛鳥寺(法興寺)が平城遷都に伴って移築されたものであるから、現存している屋根瓦の一部は天平の甍以前の「飛鳥瓦」である。
 正倉院に話を戻せば、今回の工事で平瓦の24%、軒平瓦の50%が再利用であり、天平瓦から修繕工事ごとに、鎌倉瓦、室町・慶長瓦、江戸瓦、明治瓦、大正瓦とあるのだが、最も新しい大正瓦は焼があまいためほとんど再利用されない。
 同じような話は法隆寺の工事現場公開でも聞いたことがあり、現代に近くなるほど瓦の質が落ちているらしい。
 1300年、1400年以上を経過した瓦を見ながら「30年瓦」を考えると、現代人は古代人よりも精神性が豊かに進歩してきたのだろうかと首をひねりたい。
 ついでに、写真の平瓦と平瓦の上にいわゆる丸瓦が乗るのだが、瓦の下に壁土がないのが意外だった。ほんとうに1300年前と同じように修繕するのだ。
 
  余談ながら、正倉院の校倉造りは、「雨の日は木が膨らんで湿気を避け、晴れた日には隙間が開いて風を入れたので宝物が傷まなかった。」と昔、習ったと思うが、これは全く不正解らしい。
 校倉造りの壁はツーバイフォーの壁のように壁自体が天井を支えており、隙間が開く余地など全くない。
 そして、部分的に空いた隙間は銅や漆喰でその都度埋められており、今回も埋め木で閉じられる。(開いた隙間は次の工事までは基本的にはそのままだった。)
 だから、こういうのを「見てきたような嘘」というのだろうが、しかし、ほんとうに学校で習ったように覚えている。もしかしたらテレビで信じ込まされた風説だったのだろうか。

2013年9月13日金曜日

晶子からの伝言

  どんな立派な物を造っても売れなければ何の値打もないということなのだろう、確かにCMの役割は小さくない。だから、CMすべてが悪者だとは決して思っていない。
  ということで、いわゆる秀才が集まってバカバカしいCMに、大袈裟に言えば命をかけているように想像するキンチョーに代表されるそんなCMを私は好きである。

 「バカバカしい派」の作品ではないがテレビCMで美女が「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」と詠っていた。
 本歌取り狂歌の精神なのだろうか、きっと「このクルマに触れもしない君は・・・」と言うのだろうが、映像が美しすぎて晶子の歌がBGMに終わっている。
 それでは、与謝野晶子の生家のすぐ近くで育った私としてはちょっと寂しい。
 私は中学校時代、ちょっと肩に力を入れて3年間を過ごしてきた。
 だから柔道部顧問でもあったいかつい国語の先生が、「海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女(をとめ)となりし父母の家」を私に当てたとき、私が先生の予想に反して感情を込めて詠ったので驚かれ、ちょっとツッパッテいた分、反対に自分が恥ずかしかったことを覚えている。
 「潮の遠鳴り」と言えばそのとおりで、朝早く布団の中に聞こえてくるのは焼玉エンジンのポンポンポンポンという出航の音だった。それが旧堺市街の高度成長以前の普通の音風景だった。かろうじて私は、晶子と同じ音風景を共有したのが自慢である。
 
 晶子と言えば、「君死にたまふことなかれ」の詩がある。
 その歌碑は晶子の母校、現府立泉陽高校の庭にも建っている。
 この詩を「反戦歌」というように単純に言うのは好きではない。
 ただ、明治37年という時代に、いわゆる公序良俗、安寧秩序、男尊女卑に一切怯むところなくこの歌を発表した勇気はいくら称賛してもしすぎることがない。とまれ、すめらみことさえ難詰しているのである。
 竹山堺市長が中世の自治都市が堺のDNAだと言われたりするが、晶子の歌の精神はもう一つのDNAだと思う。
 そういうDNAが今般の市長選挙で「維新はダメ」という形で発揮されるに違いない。それが晶子からの伝言である。

 この詩は大好きな詩なので、講談社版で以下に掲げてみたい。
 明治37年という背景を頭に描いて読み直すと、長いものに巻かれろと繰り返す現代の風潮に抗う勇気が湧いてくる。私たちは晶子の何分の一かの勇気さえ忘れてはいないか。

    君死にたまふことなかれ
 (旅順の攻圍軍にある弟惣七を嘆きて)

 ああ、弟よ、君を泣く、
 君死にたまふことなかれ。
 末に生まれし君なれば
 親のなさけは勝りしも、
 親は刃(やいば)をにぎらせて
 人を殺せと教へしや、
 人を殺して死ねよとて
 廿四(にじふし)までを育てしや。

 堺の街のあきびとの
 老舗(しにせ)を誇るあるじにて、
 親の名を繼ぐ君なれば、
 君死にたまふことなかれ。
 旅順の城はほろぶとも、
 ほろびずとても、何事ぞ、
 君は知らじな、あきびとの
 家の習いに無きことを。

 君死にたまふことなかれ。
 すめらみことは、戰ひに
 おほみづからは出でまさね、
 互(かたみ)に人の血を流し、
 獸の道に死ねよとは、
 死ぬるを人の譽れとは、
 おほみこころの深ければ
 もとより如何で思(おぼ)されん。

 ああ、弟よ、戰ひに
 君死にたまふことなかれ。
 過ぎにし秋を父君に
 おくれたまへる母君は、
 歎きのなかに、いたましく、
 我子を召され、家を守(も)り、
 安しと聞ける大御代(おほみよ)も
 母の白髪(しらが)は増さりゆく。

 暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
 あえかに若き新妻を
 君忘るるや、思へるや。
 十月(とつき)も添はで別れたる
 少女(をとめ)ごころを思ひみよ。
 この世ひとりの君ならで
 ああまた誰を頼むべき。
 君死にたまふことなかれ。

 晶子ほどの根性はないが、昨日、上のような手づくりの紙袋を下げて堺の街を歩いてきた。

2013年9月11日水曜日

四世代カラオケ大会

  和道おっさんのブログhttp://wadou.seesaa.net/category/5457653-1.htmlに「自身のパーキンソン病のリハビリとしてカラオケが有効だ。」とあった。
 そのために、週に1度ぐらいご夫婦でカラオケをされているらしい。

  そこでなるほどと思い、義母のリハビリを主目的に、義母の外泊時に義母、義姉、我々夫婦、嫁、孫の6名で「四世代貫通カラオケ大会」を開いた。
 だが何ごとも机上の方針どおりにはコトは進まず、義母が知っている古い歌をかけても、疲れているのか半分目をつぶったままである。
 ちょっと当てが外れた感じもしたが、しかし、よく見ると小さな声で、というか、心の中では十分に歌っているようだから立派なリハビリのようだと思うことにした。

 ところが、炭坑節をかけた途端、打って返して歌うどころか踊りだし、それにつれて孫も大喜びで、というよりも、我々の手を引いて「みんな踊れ」と催促するので、カラオケルームは盛大な盆踊り会場となった。
 何回も繰り返したので我々でさえ疲れたが、それよりも、後の反動が心配になるほど義母は興奮状態で、その後クールダウンさせるのが大変だった。
 
 孫の方は・・・、童謡をいくつか入れたのだが、どうしたわけかこの日はあまり乗ってこず、選曲の端末機器の操作の方に興味津々だった。想像するに、目下の彼女の目標はスマホやパソコン等の機器を思いどおりに操作したいということらしい。置いてあるスマホの電源を入れ、動画を思いどおりに再生するぐらいは朝飯前になっている。
 で、そういう中でも、「何を歌うのん」と尋ねた結果、何回も孫がリクエストしたのが「潮騒のメモリー」で、・・・
 こんな歌がキチンと新曲で入っているのもすごいことだが、孫はこの歌をだいたい七割方は歌うのである。もちろん2歳チョッとの孫は文字は読めないし、ほとんどは意味も判っていないと思う。
 そういえば私も小さい頃全く訳も分からず「バッテンボー」(ボタンとリボン)って歌っていたなあと思い出した。そういうものだろう。
 祖父ちゃん祖母ちゃんは、“持ち歌で孫に追い抜かされた”ので口をあんぐり、曾祖母(ひいばあ)ちゃんは別世界に眠っている。
 だから、みんなが曾祖母ちゃんのリハビリはそっちのけで孫を囃し立てて盛り上がった。
 そう、曾孫の歌以上のリハビリはないのである・・・といいながら。
 えっ、この記事のラベルは「老朗介護」でなく「爺ばか日誌」ですか。

2013年9月9日月曜日

ディオバンを服用した日々

  今年の2月頃、京都府立医大の教授が高血圧治療薬ディオバンのデータを改竄していたというニュースが新聞に掲載されていて驚いた。その薬は私が毎日服用している薬だった。
 次の通院日に主治医に「信用ならん薬は替えて欲しい。」と言ったが、医師は「教授が怪しからんだけで薬の効能は間違いないんだ。」と答えるので、その日はそれで終わった。
 その後も、通院ごとに「ディオバンは信用できるのか。」と尋ねたが、「日本で一番使われている高血圧治療薬で効能は間違いない。」というので続けてきた。
 5月からは、「そんなに嫌なら替えてもいいよ。」と主治医が言ったが、「好き嫌いでなく客観的な評価を主治医としてどう思うのか。」と聞き直しながら続け、結局、8月初めに「やっぱり替えてくれ。」と言って替えてもらった。
 薬を替えたのが真夏であったり、いろんな誤差があるので一概には言えないが、私の場合は薬を替えた後の方がコントロールができている。前回の診察日は主治医が私の毎日のデータ・グラフを見て、「替えた薬の方がよく効いているなあ。」と感心した。ということは・・・・・・

 さて、高血圧治療薬データねつ造事件の根はほんとうは深いと思う。
 その一側面を言えば、国が「小さな政府」「行政改革」の名の下に大学教育の予算や各種研究費用の予算を全く削り倒し、産学連携という大義名分?で、研究費用は企業頼みということを大前提にしている癒着構造を作っていることである。かの原子力村もそのとおり。

魯迅
  話は飛ぶが、中国では秦の滅亡(前207)の後は少なくとも清の時代まで、基本的には小さな政府の国だった。
 3年に1回の科挙で広い意味の進士でさえ300名弱であったから、実際の行政は科挙及第のエリート官僚が私的に雇用する胥吏(しょり)や幕客に任されていた。つまり、行政を彼らに外注、下請けに丸投げしていたので、胥吏、・幕客の収入の大半は税などとは別口で人民から巻き上げたものであった。・・・・ということを関西外大山口久和先生の講義で聞いた。
 先生は、「魯迅は、科挙は中国民族の健康な精神の発達を損なった元凶であると批判している。」と引いて、そういうシステムが中国近代化阻害の一要因だとも言われている。
 私は単純に大きな政府を叫ぶものではないが、「小さな政府」は福祉を家族責任(歴史的中国では宗族)に捨て去り、安全すらも企業まかせにする道ではないかと・・・・ディオバンを服用続けた日々を振り返りながら再認識するのだった。

2013年9月7日土曜日

月見草

  確かにこの国は豊かになった。・・・といっても経済の話ではない。
 植物の「政権交代」(遷移)のことである。
 なぜこんなことを書こうと思ったかというと、私が小さい頃住んでいた堺市の(当時の)中心部から海側は、堺大空襲があった地であったから、小さい私のイメージで言えば、「地球というものは住宅(地)と焼跡で成り立っているのだな。」という印象だった。
 そしてその焼跡・・荒地というのは、夏には「月見草」で覆われるものだった。
 だから、「月見草」を見ると私は、野村克也氏以前に、小さい頃の堺の風景を思い出すのだった。

 ところが、現在住んでいる私の街には多くの宅地やその他の緑地、空地がいっぱいあるのに、また、少し近辺には田圃の畔や農村風景がいっぱいあるのに、この「月見草」が全くないのである。
 そのため私は、誰に教わったわけでもなく、『月見草というのは荒地の先駆(パイオニア)植物で、土地が豊かになれば消え去る可哀想な草なんだ。』と思っていた。おおむね間違っていない。
 で、このあいだから「どこかにひっそり咲いていないか。」と探し回っていて(ほんとうに探し回っていて)、ようやく見つけたのが写真の花である。
 土地によっては今でも群落がみられるのかもしれないし、「な~んや、そんなんいっぱい咲いてるで。」とおっしゃるのだろうが、我が家では、私がそんな話をしていたものだから、「あそこに咲いてたで。」と妻が見つけてくれてようやく撮影できた花である。
 ただそれだけの、つまらない話である。

  余談ながら、「月見草」という野草はほんとうは別の白い花の野草で、こちらの方は「待宵草」(雌待宵草メマツヨイグサ)が正しい。だから、このタイトルはほんとうはペケなのだ。また、記憶の花は大待宵草で写真のよりももっともっと華やかだった。
 そういう誤りの上にさらに、竹下夢二作詞の「宵待草」が有名すぎるので誤って「宵待草」と広く誤解もされている。
 「宵待草」ほど情緒はないが、別名の「荒地待宵草」はその可哀想な性格を的確に表しているようだ。
 昨今の阪神や楽天の成長ぶりを見ると、なるほど野村監督は現役を引退してからも「荒地待宵草」だと一人納得している。土壌が豊かになったら去っていくのだ。

 いつの頃からか息子夫婦の家の庭にオシロイバナ(白粉草)が咲くようになった。これも夜に咲く花で、それゆえだろうか「夕化粧」との別名がある。夜に咲く花の別名には美しいものが多いようだ。

2013年9月5日木曜日

大化改新から学ぶこと

  先日「大化改新の前と後」という吉川敏子先生の講義を聞いた。
  「大化改新と聞いてどんなことを思い出すか?」と尋ねられ、「強大な実力を持ちすぎた蘇我一族に対して、中大兄皇子と中臣鎌足らが謀って蝦夷、入鹿を滅ぼした。(645乙巳の変)」だけでは不十分だということから話は始まった。

 大切なことは、翌646年の改新の詔の発布にあり、それは・・・、
 ① 部民制廃止と官人給与制(公地公民制と官僚制)
 ② 行政区画制定など
 ③ 戸籍・計帳・班田収授など
 ④ 新たな税制
・・・・などの、いわば施政方針演説であった。そしてそれは、四半世紀かけて実行されていった。そういう大改革だったのだと強調された。
 では、なぜそのような大改革を断行しようとした動機は何かで、ズバリ、それは東アジアの動乱であった。
 618年に隋が亡び唐が成立して朝鮮半島に外圧。
 高句麗で泉蓋蘇文のクーデター。
 百済が新羅の40城を奪取。
 新羅が唐を頼る。
 644年唐の高句麗征討開始・・・である。
 ・・・隋の滅亡を見たり、唐の軍事力を見た留学生たちをはじめとする改新派は、いつまでも氏族ごとに職務を分掌し、実際の人民支配を各豪族に委ねている場合か、と立ち上がったわけで、それは・・・・、

 アヘン戦争で清の敗れたのを知り、黒船・ペリーに脅される中・・・・、
 大政奉還・王政復古、
 戊辰戦争、
 版籍奉還、
 廃藩置県、
 壬申戸籍、
 徴兵令・地租改正・・・・に突き進んだ明治維新と(が)瓜二つで、こういうのを「歴史は繰り返す」というのだという話であった。
 (講義は非常に詳細なものであったが、私が特に心に残った部分がここだった。)
 
 つまり、山積する外交課題に何一つ有効に対応できないまま政治の閉塞感が強まり、国民生活が明確に低下を続ける今日は、蘇我の時代や幕末とあまりに似ていないかということで、だとすれば、行き過ぎた地方分権の主張や、感情的な「官から民へ」というような「小さな政府」の主張は、全く歴史に学んでいないのではないかとの感想を強く抱いた半日だった。

 言いたいことは、国の行政の在り方、地方自治との関係、公務員の数や労働条件、そして、財政を冷静に議論しようということである。
 行政機構や公務員は減らせば減らすほど善なのか。絶対にそんなことはない。
 例えば、ブラック企業を監督する労働基準監督官は全国600万事業場に対して2000名弱でしかないが、結局そのツケは労働者が払わされていることになる。
 ハローワーク職員の6割が非正規雇用で雇い止めもあるというのはブラックジョークで済まされない。
 もういい加減冷静な議論がされなければならない。
 かつての自民党政治は、国民の財産である税金を公共事業にばらまき、その見返りを政治献金や利権にして私腹を肥やしてきた。
 今の自民や維新やみんなの主張は、国民の財産である公共の土地や公共施設や公共事業そのものを売り払い、その見返りを政治献金や利権にして私腹を肥やそうというものである。これを「新自由主義」と言っている。
 私は、そういう主張が、それぞれの時代の豪族や大名たちのそれと重なっているように思いながらこの講義を聞いていたのである。

2013年9月3日火曜日

堺の文化

  大層な話をするつもりはないが、その街の文化度というのは曰く言い難いものがある。単純な経済的指標では言い表せない。
  以前のことだが吉野本葛粉の黒川本家の主人の話を聞いたとき、その高級な本葛粉は圧倒的に京都と金沢に卸していると聞いた。余談ながら、昭和天皇が最晩年に口にされたのが黒川本家の葛湯だったらしい。
 京都で有名な卸先は「ちまきの川端道喜」さんという。

  そこで考えると、金沢という街にも、現代的な経済的指標では語りつくせない文化の蓄積があるということなんだと思う。
 私はご縁があって金沢のお菓子をいただくことが多いが、見事に上品で洗練されたものが多いのには驚かされ感心させられる。先日味わった菓匠髙木屋の『紙ふうせん』もそのひとつだった。

 同じように考えると、堺のお茶と和菓子の文化の厚さも決して大阪にひけをとらないと思っている。それは(つまり堺の街の文化は)お茶や和菓子に限らない。
 
 『軽薄な人間がいるように薄っぺらな都市もある。着飾って豪華そうだが尊敬されない人間もいる。都市だって同様だ。』とは、都市の文化性、都市の品格を大事に考えたいと言う木津川 計氏のことばである。
 氏の著作中には『〈文化〉にルビをつけるとしたら、はにかみである。・・太宰治の言葉である。』ともあった。

 こういう、この堺という文化の積み重ねを分割して大阪都(正確には大阪府)に吸収しようとするのは文化人の想像し得る許容範囲を超えている。
 恥ずかしげもなくそんなことが言えるのはエコノミックアニマルというか、下卑た言葉で他人をののしることが政治家だと勘違いしている野蛮人の所業だと思う。
 私は今、橋下氏は「読み間違えた。」と思っている。データ化し難い堺の文化度を彼は読めなかった、理解できなかったと思っている。彼の企みは失敗するだろうし、させなければならない。
 かつて西欧の世界地図の日本列島には、OSAKAがなかったときにもSAKAIはあった。
 その街を己がほら話のついでになくそうという話を堺の良識と伝統が許すはずがないだろう。

 ・・・と、ここまで書いて幾らか筆が走り過ぎているかも知れないと反省する。
 政治や戦争などの歴史では文化が暴力に敗れた例はいくらでもある。
 物心がついてから以降この国で「何もいいことがなかった」と呟く青年たちに、つまり、いささか没論理的に維新に投じた人々に、「一緒に明日の堺を造ろう」という具体策の提示も大切だろう。
 一つ覚えで「反独裁」を繰り返した失敗も学ぶ必要があるが、(といいながら)ここは許していただこう。
 「堺のことは堺で決める。」も、よい標語だと思う。

2013年9月1日日曜日

バットボックス

  8月24日に約束したとおり(えっ、誰も約束された覚えがない?)、・・・少し涼しくなったので蝙蝠の巣箱を作った。
 調べてみると外国ではちょっとした作業小屋ぐらいの大きさのバカデカイ巣箱?もあり、そういう大きなものも含めて一般にバットハウスと呼び、そのうちの小型のものをバットボックスと呼んでいるようだ。
 私の作ったのは、縦約60センチ弱、横約30㌢、奥行き約8センチ弱といったところ。小鳥の巣箱よりは相当大きいが、まあ、バットボックスで間違いない。
 6センチ幅の出入口は真下にあり、部屋の中には棚のような棒や線を張ってある。蝙蝠のために念のため「出入口」と表示した。$%&???

最終的には相当
高い位置に設置した
  ご近所に、瓦の隙間に蝙蝠が巣をつくって度々業者や自治体の職員を呼んでいる家があったから、「住宅街に蝙蝠を飼っている者がいる。」と問題にされはしないかとヒヤヒヤしているが、正直に言えば蝙蝠が使ってくれる可能性はわずかだろう。
 問われれば、「人家に棲まないようにと誘導する目的で作った。」と答えることにしよう。
 だから、「あっ、蝙蝠の巣箱がある!」と道行く人々が笑いながら歩いてくれればそれでいい。
 もし、その場に私がいたら、コメントで教えていただいたことを100%パクリ、「えへん、蝙蝠と鹿と霊芝で福禄寿を表す。」「ことほど左様に蝙蝠の飛来は吉兆である。」と賜わってお賽銭でもいただこうか。

 孫には、A4の写真を数枚とスマホのムービーを見せて「可愛いねえ。」と教え込んだら、「蝙蝠さん大好きな人!」と言ったら手を上げてくれるようになった。
 読者の皆様も好きになっていただけただろうか?