2013年7月31日水曜日

ベトナムの話から

  先日、ベトナムの文化遺産についての講義を受講した。
 講師は文化人類学の現役パリパリの教授だった。
 ということは私などよりも相当若い。
 この年齢差が問題である。
 講義内容は14世紀ごろからのベトナムの歴史や文化遺産、そして現代ベトナム人の文化遺産に対する感覚等で非常に面白かったのだが、私は講義の中に、トンキン湾、ハイフォン、ドンホイ、フエ、ダナン、サイゴンという地名を聞くたびに、ベトナム反戦運動の時代が古いアルバムのように頭の中を去来し、なぜか心がざわついた。

 研究者にとってはベトナム戦争もまた歴史学の対象になろうかというほど時が経った。
 ベトナム反戦運動もその1頁なのだろう。
 時を経る、歳をとるとはこういうことなのか・・・というもやもやとした感情が湧いてくるのを感じた。

 急がねばならない。
 空襲を知っている世代、戦争を知っている世代に話を聞いておかなければならない。
 私たちの経験したベトナム反戦運動を語らねばならない。
 そうでないと、『証拠隠滅』に書いたように、「そんなことがあったという証拠がない。」という不真面目な意見さえ出てきかねない。
 憲法を改正して軍隊を持とう。軍命に従わない者は死刑だ。と、私より若い首相や幹事長が真顔である。
 いや、戦争を知っている(戦時体制で儲けた)副総理も「改憲はナチスに学べ。」ときた。
 ご同輩諸侯、エンディングノートの書き方に悩んでいる場合ではなさそうですよ。
 先日の「風に吹かれて」は如何でした?

2013年7月29日月曜日

解除会(けじょえ)


  7月28日早朝に東大寺大仏殿で解除会(けじょえ)があった。
 夏の健康祈願の仏会で、宮中に始まり各地の神社で行われている「夏越の大祓」(水無月の晦日の大祓)の仏教版のようなものである。(結構大規模な行事であった。)
 そもそもが長い日本の歴史を眺めると、神社とお寺を分離することの方が無茶なのであるから、ことさら「お寺で大祓はおかしい」などと言わずにお参りしたらよいと私は思っている。
 奈良では、僧と神職と山伏が一緒に行う行事も全くもって珍しくない。

 「茅の輪」についても、素戔嗚(スサノオ)の蘇民将来子孫の神話もあるが、3~4世紀の江南道教の経典「抱朴子」が茅(チガヤ)の根茎を仙薬とし、「山中で幽鬼に出会ったときは茅を投げつけると即死する。」としていることの方に、より基本的なルーツがあるように思う。

 蘇民将来ゆかりの京都の祇園祭ではないが、夏は疫病の季節である。 
 疫病は鬼がもたらすものと考えられていたのであろうから、この季節に茅の輪をくぐって疫病除けを祈った先人たちの思いはよ~く理解できる。

 今月は家族が度々体調を壊したが、おかげで徐々に回復しつつあるので御礼を兼ねて茅の輪をくぐってきた。
 朝8時からの行事と言うこともあり、大仏殿は広々として涼しい風が吹き抜けていた。
 孫は元気よく何回も何回も茅の輪をくぐり、裏の柱の「大仏の鼻」も何回もくぐって喜んだ。
 今夏の健康は間違いないだろう・・・。

2013年7月27日土曜日

CMに二言三言

  ラジオでは近頃「生CM」と言うのが非常に多い。
 パーソナリティー(アナウンサー?)等が一人称で、例えばサプリメントならその効果を、パーソナリティー自身が毎日本当に服用しているかのように実感を込めて語るのである。ある意味、テレビCMよりもインパクトがある。
 そして、この生CMの多用というシステムは、パーソナリティーを事実上スポンサーが囲い込む効果をも果たしている。
 かくして、パーソナリティーが一見公平な顔(声?)をして、あるいは、ある種の知識人の顔(声?)をして、広い意味での広告主集団を番組の中で弁護するのである。曰く、「原発廃炉は現実的でない。」などと。ああ・・・・。

 こういうCMに洗脳されずに、冷静に判断を下していくためには、一人一人の理性が大切である。
 そして、その理性は教育によって育まれる。
 だが・・・・・、

  ハイジ「クララ、夏休みだけど勉強してる?」
  クララ「全然してない。」
  ヨーゼフを枕にしたハイジが涙を流して「絶対やってるよ。」

 コマーシャルは、好印象でも悪印象でも印象付けたら成功と言われているから、私などは製作者の狙いにまんまと引っ掛かった魚のようなものだろう。
 要するにこの家庭教師のテレビCMを見て、「ハイジにそんなことを言わせたらあかんやろ。」と不愉快になったのだが、その感情とセットになってCMを覚えてしまったのだから。
 何が不愉快かというとこのCMは、「(受験)勉強ではクラスメートは敵であり、油断をしたら敗けるぞ。」とハイジに言わせているからである。
 甘っちょろい。理想論だ。現実的でない。等々の批判は受けよう。でも、ハイジにはそんなことを言わせたくない。ハイジには理性的な大人に育ってほしい。

 とすると、ああ、何んとCMというものは怖ろしいものなのか。
 そんなことを絶望的に考えていると、ボブ・ディランの「風に吹かれて」がCM画像に重ねて流れてきた。
 そして70年代青年はその曲にメロメロになって、つい「天然水」を買ってしまいそうになっている。
 もちろん、CM画面にはその訳詩は表示されていない。

    ボブ・ディラン Bob Dylan の 「風に吹かれて」 Blowin' In The Wind
    (壺齋散人による歌詞の日本語訳)

    どれほどの道を歩かねばならぬのか
    男と呼ばれるために
    どれほど鳩は飛び続けねばならぬのか
    砂の上で安らげるために
    どれほどの弾がうたれねばならぬのか
    殺戮をやめさせるために
    その答えは 風に吹かれて
    誰にもつかめない

      どれほど悠久の世紀が流れるのか
      山が海となるには
      どれほど人は生きねばならぬのか
      ほんとに自由になれるために
      どれほど首をかしげねばならぬのか
      何もみてないというために
      その答えは 風に吹かれて
      誰にもつかめない

    どれほど人は見上げねばならぬのか
    ほんとの空をみるために
    どれほど多くの耳を持たねばならぬのか
    他人の叫びを聞けるために
    どれほど多くの人が死なねばならぬのか
    死が無益だと知るために
    その答えは 風に吹かれて
    誰にもつかめない

    
YouTubeは PPM の「風に吹かれて」






2013年7月25日木曜日

「伸子」の評論について

  以前に古い友人(先輩)から宮本百合子とその作品である「伸子」について、熱く話を聞いたことがある。
  ただ、私は宮本百合子をそんなに読んでもいなかったし、記憶に残った作品もなかった。
  どだい、文学者と議論できるような深い読みができない薄っぺらな感受性しか私は持ち合わせていない。
  それでも、彼がそれほどまでに語るにはそれなりの意味がありそうだと思って「伸子」を読み始めたが、ズバリ、途中で辛気臭くなって投げ出したという体たらくである。
  で、「伸子」を忘れていたところ、彼が執筆した文芸評論が掲載された立派な同人誌が送られてきた。
  2巻にわたる連載で、何はともあれ力作であることは伝わってきた。
 終章で彼の書いた文章を摘んでみると・・・
 これまでの「伸子」論では伸子の愛と結婚についての先進性、先駆性が語られてきた。・・・多くの読者は、それぞれの青春時代にそれぞれの「伸子」体験を経験しているのだ。・・・自分の体験に即してみれば、本当に身近な人々でさえその人と本気で渡り合っていない。表面的で妥協的でその場限りでの交渉である。深い人間理解にはいつの時代でも勇気が必要だ。
 とあった。
 私は「そこまで言うか。」と彼の人生への真面目さにタジタジするばかりである。
 描かれた時代は大正7年から13年。
 そこに現代に通じる「愛の多様性」まで含んでいたというのが彼の指摘なのだが、論評するだけの知識もなく、「そういう見方があったのか」と、ただ新鮮な興奮を覚えただけだった。

2013年7月23日火曜日

老朗介護は奥が深い

  夏風邪がマシになったので義母の入所している施設に行った。主治医の了解済みである。
  それでも、マスクを着用し、体中にアルコール消毒という完全武装で入っていった。
  何か冷たい飲み物をと思って『なっちゃん』という缶ジュースを持って行ったら、缶を見て喜んでくれた。 『なっちゃん』は曾孫の名前である。
  部屋の中の整理の後、共有スペースに移動したら、義母は私を何人かに積極的に紹介した。「娘の旦那さんですねん。」と。こんなことは今までほとんどなかったことだ。
  これは裏返して考えると、「私はこのとおり見捨てられた可哀想な老人なんかじゃない。」とアピールしているようだった。
  思い過ごしかも知れないが、チョッとそんな表情が表れた。
  これでもか、というほど妻は携わっているつもりだが、心のケアほど難しいものはない。
  もうすぐこちらが介護される身になるのだが、親の介護は自分のその時のための予備校だと思う。
  言うほど簡単なものではない。
  だが、介護の終了を指折り数えて待つのでなく、老朗介護というステージを精一杯楽しめるように努力してみたい。と言ってこれと言ったことは何もできていない。そして、つくづく「男はだめだなあ。」と日々思い知らされている。

2013年7月21日日曜日

温かいトマト

  体調を崩して籠っているうちに庭がジャングルのようになった。

(1) 天牛
 髪切り虫は天牛と書くがその立派な名に似ず庭木の害虫である。
 特に幼虫は何十年物の庭木さえ枯らしてしまう。
 これが何匹も我が家の庭を飛び交っている。
 深刻な事態ではあるのだが、実はこの虫を私は好きである。
 第一に簡単に捕まえられる。
 飛んでるヘリコプター張の様も悪くない。
 そして、髪の毛でも紙でも、噛ましてみると見事にカミキリムシである。
 ギーッギーッという鳴声?もちょっと玩具のロボットを思わせる。
 マツクイムシ(線虫)が付いているなど問題もあるが、来年あたりは思いっきり孫に遊ばせてやりたい虫である。

(2) 空蝉
 こんな狭い庭でも空蝉を二つ見つけた。
 その一つは、私の建てた道標の上の紫式部であったから、道行く人々に「このとおり」と蝉が得意げに見せびらかせているようだ。
 もう一つは、隣接するゴミステーションのコンクリートの壁だった。
 どう考えても我が家の庭で生まれて隣のゴミステーションの壁を歴史的な羽化の場に選んだとしか考えられない。
 何んと風流心のない奴か。

四葉
(3) 胡瓜
 去年は「馬鹿成り胡瓜」がいっぱいできたが、味も馬鹿だった。
 今年は、その反省から四葉、北進、半白にしたので味にも不満はない。
 ただ、あっという間に30㌢を超える大きさにまで成長する。
 そうすると、中に水が溜まって種の形もできてくる。
 妻は「大味になる。」と嫌うが、私はこれが大好きである。で、しばしば喧嘩になる。
 「若い胡瓜は店で買えばよい。30㌢の胡瓜こそ家庭菜園の醍醐味だ。」というのだが、同意は得られていない。
 かくして力関係どおり、ほとんどは若いうちに収穫し、うち1~2本を大きくすることで今のところ紛争は収まっている。

明日は真っ赤に
(4) トマト
 大玉、中玉、ミニトマトが盛りである。
 特に大玉は、「今日採ってしまおうか。明日にしようか。」と悩ましい。
 そして、ご想像どおり、明日にはヒヨドリにやられているのである。
 ちょっとハチドリに似たアタックのスタイルで、見た目はかっこよいが恨めしい。
 よく、テレビでも書物でも、「夏の夕にギンギンに冷えたトマトでビールを飲むのが旨い。」というような形容にお目にかかるが、私はいつも鼻で笑っている。
 炎天下でほわ~んと温かい完熟トマトのもぎたてを知らぬ都会人の半可通の典型である。
 温かい完熟トマト大好きという点では妻とも意見が一致している。
 要諦は、洗ったりせず、手の中でキュッキュッと転がしたなら即かぶりつくことである。

2013年7月20日土曜日

わが9条

  安倍首相は、ついこの前までは「憲法9条改正は先のことで、先ず96条を変えよう」と言っていたが、選挙予想の「躍進確実」に気をよくして、投票日直前に「9条を変える」と態度を変えた。
 選挙後に、「9条改正が信任された。」というためであろう。
 この人はよほど民主主義がお嫌いらしいし姑息だと思う。選挙開始時に言っておれば、マスコミ論調も少しは変わっていたのではないか。
 総裁も総裁なら幹事長も幹事長で、こちらは「軍法会議(審判所)で命令不服従は死刑。」と本音を言い始めた。
 「まさかそんな無茶は通らんやろ。」と多くの方々は思いながら、マスコミ予想どおりこの選挙は進むのだろうか。進ませてはならないと私は思う。

 さて、木のような話題を森のように語るのは正しくないが、私は以前、自衛官の大幹部のお方と全く私的に一緒に飲む機会が少なからずあった。そんなときに教えていただいたこと…。
 ■ 以前に三沢にいたときにミグ戦闘機亡命事件があったが、当時隊内では臨戦態勢が敷かれ、家族は全員実家に帰していた。とのこと。
 そこまで本気の臨戦態勢であったとは私は知らなかった。
 原発事故後の「メルトダウンはしていない。」「ただちに危険な状況ではない。」との報道ではないけれど、なるほどこの国の情報統制下では、庶民が気が付いた時にはもう遅いと思っておいた方がよいようだ。
 そして、話は「現にそんな事態に向き合った経験からいえば憲法9条は邪魔ですか。」という質問へと進んだが、その方は公式見解の態度でなく、「9条は絶対必要だ。」「現憲法があるから平和が守られているんだ。」と力説されたのを半分驚いて感心した。(これは私たち数人とその方の木のような話で決して森の話ではないが、いわばプロ中のプロが9条をなくすことの危険性を一番知っているのだろうなあと想像した一場面ではあった。)

 「まさかそこまで」という気持ちはそろそろ捨てた方がよい。
 自戒を込めて思い起こせば、「フセインは大量破壊兵器(核兵器)を持っている。」と言って始められたイラク侵略に自民党政府は自衛隊を派遣した。そして、場合によっては行政職の国家公務員も従事せよと言った。
 イラクの地のどこにも大量破壊兵器はなかったが、この国の多数の国民は、私も含め一時は本当に信じ込まされた。危ないところであった。
 戦争や軍隊のことを語るとき、人間は臆病で弱気な方がよい。強気で国益を語る者には気をつけなければならない。
 「オオカミが来た」ではないけれど、今度の参議院選挙は『憲法9条』の破壊を許すかどうかの選挙だと思う。
 だとすると、日本共産党への一票こそが平和憲法を守る道ではないだろうか。
 下の動画は沢田研二の『我が窮状』だ。これを歌うジュリーの根性は見上げたものだと感心する。同世代の関西人として見習わなければならない。 
 

 ※ ブログ上で直接的に選挙のことを書き込めるのは本日まで(投票日の前日まで)となっているので、明日のコメントの投稿には配慮をお願いします。

2013年7月19日金曜日

キリギリスを飼う文化

  売らなくなったから買わなくなったのか、買わなくなったから売らなくなったのか、私の生活圏ではキリギリスの売っているのを見なくなった。
 キリギリスが売るほどに捕れなくなったようでもなく、我が家から駅へ向かう歩道周辺の草むらでは炎天下うるさいように鳴いている。
 だからといって「捕れすぎるので」市場価値がなくなったようでもなく、事実、キリギリスを捕ろうとしている人や子供を見受けない。
 要するに、平安時代から愛でられ、江戸時代には大流行していた『鳴く虫を飼う』という日本文化が消滅しかかっているようだ。それはどうしてだろう。(カブトやクワガタは流行っているが)

 鳴く虫を飼う文化というのは、例の右脳左脳のこともあり、世界的には非常に珍しい文化だと言われているが、これもグローバル化なのだろうか、こじつけではないがTPP後の日本文化の先行指標のように思われる。
 
 私の小学生時代は、いわゆる戦後であったから、焼け跡の野原にキリギリスがうるさかった。
 そして、子供たちは貧しかった。
 それでも、夜店などでキリギリスを買い、あちこちの家からその声が聞こえていた。
 だが、鳴く虫を飼って増やすのは難しく、ちょっと飼育に手を抜くと共食いをしていたし、漂う蚊取り線香の煙で殺してしまったりした。
 このようなことを思うのは、ただの懐古趣味なのだろうか。
 近頃は、自民や維新等が日本文化を壊し続け、共産党が伝統文化を大切にしている。
 言葉としての保守や革新には実がない。ひっくり返してもよいくらいだ。

 なお、キリギリスの季語は秋らしいが、私の感覚ではどうしても夏である。
 テレビが「熱中症に注意」を呼びかけているのを嘲笑うようにキリギリスは鳴いている。
 いや、日本文化の衰退に異議申し立てをして鳴いているのかもしれない。
 日本文化の伝統を大切にしようとする方は、真の意味での保守?でもある日本共産党に一票を投じて欲しい。

2013年7月18日木曜日

鮭のお刺身

  義母のお好みはサーモンのお刺身なので、義母が泊まる日の夕食には必ずサーモンのお刺身を一品付けることにしている。
 私が鈍感なのかもしれないが、いつ頃からサーモンのお刺身がこんなに出回って来たのだろう。昔はなかった。それに、お刺身なのにほとんどが輸入もので、しかも養殖である。かつ安い。

 養殖といえば、養殖ブリと天然ブリが並んで売られていることがあるが、こちらは養殖ブリに天然ブリの倍以上の値段が付いている。
 私の頭の中の既成概念では、大量飼育の養殖ものが質より価格ということで安いというイメージであったから、知らない間に「世間の常識」が180度変化していたらしい。この理由は今のところ私は知らない。
 近頃の大型スーパーでは肉や魚の素材売場よりも総菜売場の方が断然広くなっている。そして、魚売場の魚よりも大きな煮魚、焼き魚が素材よりも安い値段で売られている。
 全ては科学技術のおかげで出現した低価格、あるいは美味なのだろうか。それ程単純でお人好しでいてよいのだろうか。

 狂牛病騒動の折に、草食動物である牛にトウモロコシ(これ自身草ではない。)プラス牛の骨粉を食べさせていたことを知って驚いたが、養殖魚の健康管理といえば聞こえは良いが、抗生物質漬けや成長ホルモン投与はないのだろうか。アメリカでは遺伝子組み換え養殖魚が出回っているという。

上は遺伝子組み換えサーモン。
通常の2倍のスピードで成長する。
かつ巨大である。
TPPでこんなのを食べさせられたらたまらない。
  私などは、サッカリンを食べたり、どぎつい食紅を食べたり、頭からDDTをかけられて育った世代であるから、今更どうでもよいかと思わなくもないが、これから育っていく孫を考えると、電化製品がブラックボックス化したように、今やブラックボックスと化した魚や肉や野菜を冷静に吟味しなければならないようにつくづく思う。

 食材に関しては、アメリカ産と中国産には信用ならないところがある。
 「㈱貧困大国アメリカ」(岩波新書)は、現代人必読のテキストだと思っている。騙されたと思って購入してほしい。心配性の人なら眩暈を覚える食の現実がルポされている。
 TPPというのは要はアメリカ基準に従えというものだろう。そのアメリカは、いま音を立てて崩壊していっている。その音が聞こえにくいのは従属国の悲しさである。
 子や孫に食の安全を残したい方々は、TPP絶対反対でブレのない日本共産党にその思いを託してほしい。

2013年7月17日水曜日

ボサノヴァに酔う

ネットから
  ボサノヴァは、サンバなどのブラジルの伝統的な音楽をもとに、中産階級の若者たちや学生たちによって洗練された、直訳すれば「新しい感覚」のサウンドと言われているが・・・、
 その出来事は1950年代60年代のことで、現代では、新しい感覚というよりも、半ば懐メロ扱いされているらしい。
 その半ば懐メロ的感覚は私にも文句なしによく判る。
 だから半ば懐メロ的感覚で、息子に「ボサノヴァのCDを持っていたら貸して」と言って借りていたことを、5月25日付けの「うめきたのBGM]で少しふれたところである。
 
 さて、貧すりゃ鈍するという言葉がある。また、忙しいという字は心(立心偏)が亡ぶとも例えられる。
 ・・ということを頭の片隅に置いて、久しぶりにライブに行ってきた。 
 小野リサのジャポンツアー2013~日本の名曲とボサノヴァの夕べ~である。
 実は夫婦ともキツイ夏風邪?をひいており、妻は毎日熱があり、私は咳が出るという最悪のコンディションだったが、結果的には楽しい2時間半だった。
 終盤に取っておいてほしかったがオープニングが「黄昏のビギン」で、ここですでに、ふ~っと眠りに落ちそうだった。眠ってはいかん。眠ってはいかん。
 特にサビを効かさない小野リサの囁くような歌い方は、半病人の二人には心地よかった。
 半病人でなかっても、誰もがうっとりするような、そこには大人の時間が流れていた。
 心の薬膳料理だったと自分で納得している。

 ブラジルをはじめ中南米は、いま「反米大陸」と呼ばれるような様相にある。
 それはもう国家ではないかと思われるほどの力を持ったアメリカの多国籍企業から主権を守ろう、対米自立をしようという、精神的にも政治的・経済的にも素晴らしい運動が進行している。
 その進歩の方向を評価できない自公民等の政治では、それこそ世界に『取り残される。』ことだろう。
 中南米の記事が抹殺されるマスコミに対して、彼の地の動きを正確に伝える『赤旗』には言い知れぬ先見性があると思う。
 ボサノヴァを好きな人士が、そんなことにも思いを巡らせ、日本共産党に支持を寄せて欲しいと願っている。

2013年7月15日月曜日

飛鳥を歩いて思う

稲淵の雄綱
   「飛鳥は7世紀の歴史の表舞台だった。」とは岩波新書「飛鳥」を著した和田萃(あつむ)先生の言葉である。
 激動する東アジア情勢を背景に、「日本」や「天皇」を創り上げ、全国から人々を呼び集め必死になって建設した「首都」である。
栢森の雌綱
  6月の梅雨の合間に、そんな奥飛鳥=稲淵・栢森(いなぶち・かやのもり)を歩いてみたが、そこはただただ山村というか棚田の拡がる田園風景で、かつての「ミヤコ」とは程遠い風が吹いていた。

 飛鳥川には勧請縄(稲淵に雄綱、栢森に雌綱)が渡され、3か所ほどに飛石が残されていた。
 話はそれるが、勧請縄は、邪気に対する結界だから、「ノーパサラン」という言葉を連想した。
 ノーパサラン(やつらを通すな)は、フランコ反乱軍のとき、スペインのラジオが呼びかけた言葉であるが、私などは、公正な選挙で誕生したチリのアジェンデ政権に対して、CIAとともに軍事クーデターを起こしたピノチェト軍に対する抵抗の合言葉としての記憶の方が強い。
 いま、選挙公約に憲法改正、原発再稼働・・・ええっ! 
 ノーパサラン、こんな言葉を大声で復活させたいような大切な選挙が始まっている。
 ・・・・ちょっと脱線した。
 奥飛鳥の勧請縄は、飛鳥人そのままの息吹を今も感じさせる。
 飛鳥川沿いの道路は整備されたが、辺りには祈りの霊気が漂っているようだ。
 雄綱と雌綱も、おおらかな道教の残照だろう。

 飛石、これは機能的には橋であり、たもとに万葉集の歌碑が立っていた。
     明日香川 明日も渡らむ 石橋の
      遠き心は 思ほえぬかも 
 この歌、上野誠先生の解説では・・・、
 石橋は飛石のこと。明日香川を渡って女の家に通い続けた男の歌である。
 男は、女から気持ちを疑われたのであろう。最近、ご無沙汰ではないかと。
 対して男は、明日香川の飛石のように、遠い気持ちは持っていないと弁解しているのである。
 してみると、「明日も」の「も」がよく効いていることがわかる。明日も来るよということなのである。
 ・・・いろんな大先生の解説があるが、上野誠先生の解説ほど判り易いものはない。

 さて、飛鳥時代等の古代史を読んでいると、思いつきのような説が山のようにある。つまらぬ本は絶対に買わない方が良い。買ってから後悔した本がいっぱいある。
 大先生と言われる方々の説にしても疑問が残る場合も多々あるが、これはこれでよい。
 そんな中で、小笠原好彦先生の論の組み立て方は好きである。
 例えば、ここ稲淵川西岸に建物と玉石敷広場の遺構が発見された(今は広場に石碑だけが建っている)。
 発見当時は「低地の舗装」説が大先生方による定説であったが、小笠原先生は低地でない場所でも玉石敷広場が見つかっていることから、難波長柄豊碕宮で中国式の立礼が採用されるまで、推古12年から、宮門を出入りする際に跪伏(きふく)、匍匐(ほふく)することとの礼法が採用されていたため、前夜の雨にも支障なく儀式が行えるための宮殿(朝廷)の舗装だと解説されている。
 そしてこの地は、万葉集や日本書紀の記述から、弓削皇子の倭飛鳥河邊行宮(やまとのあすかのかはらのかりみや)だろうと勇気をもって推定されている。(論拠の詳細はここでは省略)

 言いたいことは、今現在の一見「定説」は必ずしも真実とは限らないということ。これを言いたい。
 自民党は、庶民が増税を受け入れ、その一方で大企業に減税すれば、廻り廻って庶民も幸福になると説く。
 トリクルダウン「おこぼれ、したたり落ち」論で、新聞やテレビはそれを、アベノミクスとか言って経済の「定説」であるかのように持ち上げる。
 しかし、歴史的な事実に目をやれば、大企業は「したたり落とさず」、賃下げ、リストラ、非正規雇用化で内部留保金だけを増やしてきた。消費不況・デフレの原因はここにある。
 内部留保260兆円の1%を使うだけで月に10000円の賃上げができ、本当のデフレ対策が可能である。
 そういう共産党の政策は、非常に冷静に問題を分析して現実的に提言していると私は思う。
 古代史を語りながらも、この時期はどうしても現代の矛盾に頭はいく。ご勘弁を。

2013年7月13日土曜日

維新と大砲

 先日、奈良町の徳融寺の住職から、徳融寺の檀家であった「奇人吉村長慶」についての講義を受けた。
 そこで、「大仏殿の前に長慶の寄進した「大砲を踏んづけた石灯」がある」と教わった。聞きはじめであった。

 明治時代を理想国家のように捉える司馬遼太郎のような主張があるが、ここ奈良の地においては、特に明治の廃仏毀釈については評判が悪い。当然だろう。

 で、大砲の話だが・・・・・、維新のとき大和國鎮府総督が廃仏毀釈の音頭に乗って、大仏殿をブッ飛ばしてやろうと大砲二門を置いたとき、近くに住んでいた中山忠愛朝臣が「我は中山大納言なり、先ず我が身より撃て」と立ちはだかったところ、勤王藩士は公家の名を聞くや恐懼して退散した。・・・らしい。
 現代の大阪のいろんな話とオーバーラップしないだろうか。

 この逸話に因んで長慶が、大砲を踏み押える石灯を東大寺に寄進したのだが、太平洋戦争敗戦時、進駐軍基地の設けられた奈良において「大砲付きの石灯は不適切だろう」と東大寺が石灯の下部を土中に埋めて今に至っているという。だから知らないはずである。

 ということで確認に行ってきた。
 上の写真が大仏殿の正面にあるその石灯で、柱の文字も一部が土中に切れているし(寄進者も「吉村長」で切れている)、台座の石は全く埋められている。
  すぐ左隣に普通の燈籠があり、比べてみると異常さがはっきりする。
興福院の大砲石灯(ネットから)
  ただ、長慶は同形の石灯を興福院にも寄進したので、下の写真のとおり頭の中で再現が可能である。

 日本維新の会の英語名は「王政復古党」で諸外国ではあきれ果てられているようだが、昭和維新をウィキペディアで見ると、その主旨は「戦前の軍部急進派や右翼団体のスローガン。「昭和維新実現」を唱えて数々の「討伐」や「天誅」があったが、結局のところ、連続殺人テロが繰り返されただけだったともいえる。戦後においては「右からの変革」を主張する民族派の右翼の基本路線でありスローガンとなった。」と書かれている。
 こういうネーミングのセンスは人それぞれだろうが、私は好きでない。
 
 奇人吉村長慶を評価するほどの知識を私は持っていないが、維新の象徴ともいえる大砲を踏んづけた石灯には興味が引かれる。
 東大寺は、千数百年の歴史も素晴らしいが、近現代史の1頁を彩るこの石灯の下部を露わにすることも意味があるように私は思う。

2013年7月11日木曜日

恒産なくして恒心なし

  小泉「行政改革」のとき、推進会議の席上で松﨑労働基準局長が、竹中平蔵氏や八代尚宏氏に代表される市場原理主義者の「労働力は商品だ」という強烈な主張に対して、「労働力は商品ではない。労働力は人間だ。」と渡り合った(議事録を読んだ)ことをこの頃思い出す。
 なぜなら、安倍「成長戦略」の「労働規制緩和」は、この小泉「行革」の亡霊の復活であり「進化形」であるからだ。

 ■ 多くの問題点を含みながらも、「臨時的・一時的」と(タテマエ上は)されてきた労働者派遣法を改正し、限定されていた職種・業務の限定を撤廃し、派遣期間の制限も取り去る。
 ■ 労働条件が差別的に低く解雇もしやすい「限定正社員」の制度化。
 ■ サービス残業、長時間過重労働を公認する労働時間規制の適用除外や裁量労働制の拡大。
 ・・・・こんなことが参議院選挙後の安倍政権で実施されようとしている。
 一見地味な争点だが、本当は大問題だろう。

 勤労者の生活の充実なくして国の発展はない。
 職業生活の基礎を培う時期にスキルアップの研修もない非正規雇用を渡り歩き、幸せなことに常用雇用にありつけたら過労死と過労うつ病や自殺が待っている。
 本当にこれでいいのか。
 国民が投機やカジノに明け暮れて国が成り立つはずがない。

 『恒産なくして恒心なし』は孟子の言葉である。
 清貧に甘んじる心構えは貴重であるが、孟子は現実を喝破した。「一定の安定した職業が良識や道徳を支えるのだ。」と。
 世界中で起こっているテロや犯罪も、深部では若者の失業、不安定雇用に根ざしていることが多い。
 故に、労働政策は国が責任を持つ重要政策なのである。
 『恒産なくして恒心なし』は、以前にハローワークに勤めていた友人に教わった格言である。
 共産党の労働規制改革反対の政策は、現代に生きる孟子の教えである。と言ったら、あまりに古くさすぎますか。こういう言い方、私は好きなんです。

2013年7月9日火曜日

言霊思想を乗り越えて

  どうしても悪い方の心配を考えたり言葉に出したりすることが躊躇われる。
 頭の奥の方に言霊思想があるのかもしれない。
 原発のことである。
 私はいまだにあの原発の核燃料が何処にどのような状態で存在しているのかがわからない。
 政府や新聞は「収束した」と言っているが、誰も一切核燃料の現状を説明していない。
 15万人を超える避難者が帰られる目途は全く立っていない。
 次の大地震に耐えられる保証は全くない。
 もう一つは汚染水である。どのように計算をしても漏れているとしか思えない。事実、高濃度の地下水がいくらも見つかっている。
 魚介類の問題がテーマになる頃には、手の付けられない事態が起こっていないか。
 にもかかわらず電力会社は昨日再稼働を申請し、自民党は選挙の公約で原発再稼働を公言した。
 我が家の電気製品を見渡してみても40年前の電気製品で使用しているものはない。一般の工場の機械だってそうではないだろうか。
 フクシマ以外の原発は世界一の安全水準で事故は絶対に起こらないらしい。
 だから、緊急時の指揮所がプレハブの会議室でも問題がないとか。
 ちなみに、元東電社員の蓮池透氏はツイッターで「再稼働の前提は防災計画の策定だったはず。柏崎刈羽原発の周辺は全く整備されていない。原発から3kmのところに住む両親は、避難手段、避難場所すら知らされていない。」と述べている。

 普通に教養のある人なら、政府や電力会社の言い分を、誰もそんなことは信じてはいないのではないだろうか。
 ただ、「避難者は帰ることができないだろう」とか、「魚も危険で食べない方が良い」とか、「事故は必ず起こり新たな避難者が出るだろう」とか、そんな悪い心配をしたり口に出したりするのは、現地の人々に対して申し訳ないとか、悪いことが起こるのを歓迎しているかのように誤解されないだろうかとか、皆がそう言えば実際に起こりそうで・・・嘘でもよいから「収束してるんだ」と信じ込みたいとか・・・そんな言霊思想におびえていないだろうか。

 21世紀の私たちは、今こそ言霊思想を乗り越えて事実を直視し語らねばならないと思う。
 そうすれば、 ■原発の安全性は保証されていない。
  ■原発は実際には非常にコストが高くつく。
  ■各種のエコエネルギーの開発で電力をまかなえるし、それが日本経済のためにもなる。
 これは、原発利権に無縁な人々の絶対多数の考えになると思う。

 電力会社や電力会社の労働組合から献金や支持を受けている自民党、民主党。
 利権のためなら倫理もくそったれという人々(地方のボス)。
 そして、莫大な広告料という賄賂をつかまされた新聞(大宗教団体の有名な新聞も含む)、テレビ、ラジオ。
 怖ろしいのは言霊ではなく、そういう利権共同体だと思う。
 その種の政治献金を一切受け取らない日本共産党にブレがないのは納得できる。
 孫子の代に原発(含む核廃棄物)のツケを残していいのか。
 お金で放射能が除染できるなら、チェルノブイリは大都会になっていていいはずだ。
 澄んだ眼で眺めてみれば、今度の選挙が自共対決と称されるのも肯ける。

 かつて大阪の空は真っ黒だった。それでも関経連の大企業は「公害規制をしたら企業はつぶれる」と反対した。それを乗り越えたのは共産党の推す黒田革新府政だった。
 「再稼働しなければ企業活動に支障が出る。」の主張は、あの公害の時代を知っている者にとっては笑止千万だと思う。彼らはいつもそういう嘘を言って庶民を脅すのである。

2013年7月8日月曜日

皆保険制度で助かった

  この春、貧乏神は何の前触れもなく突然やってくるものだということを実感した。
  世の中で日々起こっていることは当然自分たちにも起こり得るものだとは頭では判っていても、いざその場に直面すると情けなくうろたえる。
  結果的には世間から見れば取るに足らない1週間程度の入院と手術であってもそうである。

  そこで言いたいこの話のテーマは、その折に「国民皆保険制度はありがたい。」とつくづく実感したということである。
  制度が後退し、お世辞にも優等生とは言えない国民健康保険であるが、高額療養費が予想されるため「限度額認定・標準負担額減額認定証」を病院に提出しておいたので、月をまたがったりして翌月分は上手くいかないところがあったとしても、治療費として支払ったのは当該月5日間の分で8万4千円程度であった。無保険ならこの月5日間で50万円程度となる。
 制度的には、100万円の治療費でも約9万円の負担で済む。

 事実上頓挫したオバマの健保制度創設の主張に対して「オバマは社会主義者だ。」と大反撃したアメリカの保険・金融業界、製薬業界からすればこれは苦々しい制度だろう。
 マスコミはTPPを農業問題に矮小化しがちであるが、TPPに参加すれば、こういう政府の関与した日本の健康保険制度はアメリカの自由な保険業界、製薬業界の商売を邪魔する障壁だとして崩壊させられる。

 ちなみに、日本の労災保険(業務上災害・通勤災害)の場合は基本的に自己負担はゼロ円である。(通勤災害で休業給付を受ける場合(第三者行為災害を除く)のみ1回だけ一部負担金200円が減額されるが)
 アメリカは先進国だとの大きな大きな誤解があるが、アメリカには連邦政府所掌の労災保険制度はなく、州ごとに民間保険等を活用した制度があったりなかったりである。
 自民党政権下でも民主党政権時代にも、規制緩和の掛声の下「労災保険制度の民営化」が主張されたことがあったが、日本の政治のことは、日本よりもアメリカのことを見る方が「どこからそんな主張が出て来たのか」がよく解かる。
 みんなの党の主張がそうである。この党の危険性は軽視してはならない。

 TPPはアメリカの市場拡大戦略だという、こんな単純な事実を、「乗り遅れる」「アジアに取り残される」「鎖国でいいのか」というような三文芝居以下の扇動と脅迫で覆い隠している。
 いま世界は、アメリカ政府ですら制御できない多国籍企業(資本)の欲望のままに「国民国家」が壊されていっている。
 民主党にがっかりしたのでやっぱり自民党・・では済まないと思う。(TPPについては全く同じ穴の貉だろう。)
 堤 未果著の岩波新書「貧困大国アメリカ」の3部作を読むと、怖ろしい日本の未来が想像される。
 政府というのは、国民の生活と平和を守るために働かなければならない。こんな当たり前の事柄のために大声を上げる必要があるところまで危機は迫っている。
 医師会や農林漁業団体を始め、かつて自民党の票田と言われていた層から日本共産党への期待が広がっていることは理由のないことではない。

 いまアメリカでは、一般新聞はあまり報じないが、一流企業を退職した市民が病気=医療費のために音を立てて自己破産等に転落していっている。これは他人事ではない。
 3週間ごとに通う医療費と薬代を見ながら、日本の皆保険制度はありがたい、TPPは絶対に許してはならないとつくづく思う。でも、国保税も介護保険料も高すぎる。年金生活者にはキリリと痛みが刺し込んでくる。
 「軍事費を削って福祉と教育に回せ!」は、核心をついたスローガンだと思う。
 「福祉充実のための消費税」は全くの嘘である。屁理屈でなく、消費税導入後の歴史的事実が明瞭にそれを物語っている。

2013年7月6日土曜日

卑劣な人々と少年H

  6月28日付け朝日新聞によると、朝日新聞の投書欄「声」に掲載された、自民党安倍総裁の改憲姿勢に疑問を呈した投稿者等に対して、脅迫めいた組織的な嫌がらせがあるという。
 朝日新聞東京本社声編集長は、「投稿した人の個人情報をネット上でさらし、嫌がらせの電話などをするのは卑劣です。」「実名で安心して意見を言える場、そして社会を守っていくことが大切だと考えます。」と述べている。同感だ。
 7月1日付けの「声」には、「あなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを言う権利を私は命をかけて守る。」との18世紀フランスの思想家ボルテールの言葉を引いて、言論や表現の自由を守ろうとの投稿が掲載された。
 4日にも、「私も経験がある。」等々5人の勇気ある「声」が掲載された。5日にも。

 ところで、現憲法12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とあるが、自民党の改憲案12条は・・・、
 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」となっている。
 百姓読み(差別語だとの批判もある。申し訳ない。)なら「よく似た言葉の入替え」に見えるが、本質は、公益や公の秩序のためには国民の権利や自由が制限されて当たり前だと言うことである。
 この思想は、一言で言って全体主義、ファシズムの思想である。

 近頃は白昼堂々と「朝鮮人を殺せ」等と叫んで(ヘイトスピーチと言う)デモをする集団がある。レイシストと言うらしい。
 そんな面々が、国会で問題にされるまで長い間、安倍首相のフェースブック上で同様の主張を叫び交流し、それが拡散されるのが放置されていたらしい。
 私はこれは、安倍氏が政治的には共犯関係にあったとみるのが妥当だと思う。
 橋下維新の市職員思想調査といい、時代の逆ネジは憲法や法律の改正を待たずとも相当進んでいる。

 私は、戦前のあんな無茶苦茶な戦時体制がどのように確立されていったのかについて考えることが度々あるが、ファシズムは「明日から全体主義にします。」などと言ってやってこない。

 特高警察をベースにして、情報統制、学校教育、マスコミから町内会の場などなどで、じわりじわりとやってきて、「何が何でもそれはおかしいのでは?」と思った段階では誰も何にも言えない社会が作られていた。
 そのことは、難しい論文を読むまでもなく、妹尾河童著「少年H」を読めば解かる。 
 民主党に愛想が尽きたからといって、自民や維新が伸びたのでは取り返しのつかない結果が待っている。共産党の躍進なくして権利も自由も守れない。
 私は、「少年H」を読みながら自民党改憲案を読まれることをお勧めする。この本は文句なしに面白い。講談社文庫、新潮文庫、講談社青い鳥文庫等で文庫本化もされている。

 『Hは、実際に大正筋の薬局裏の小父さんが捕まったのを知っていた。
 うわさでは、近所の子供たちに、「天皇陛下というても、御飯も食べるしウンコもする。普通の人間と同じや」といったことが、警察に知られたからだそうだ。
 誰が密告するかわからないから、「天皇陛下」には気をつけようと肝に銘じた。』

2013年7月4日木曜日

蒲黄(ほおう)

 
  平城宮跡に蒲の穂が顔を出し始めた。
  見てのとおり、蒲穂子(かまぼこ)=竹輪蒲鉾の語源であることを理屈抜きで納得する。。
  この後、穂は綿のように変化する。
  大黒様の歌に言う「蒲の穂絮(ほわた)にくるまれば」である。
  余談であるが、因幡の国には白兎神社も白兎海岸もある。

  ・・・だから、こういう神話の授業を一切受けてこなかった私は、神話の内容が「白兎(しろうさぎ)が穂絮(ほわた)に包まった」ということだと信じていた。
  ところが、リタイア後、暇にあかして古事記を読むと、その字は「素菟」であり「蒲黄(ほおう)」で、あの歌とは微妙に異なっていることが判った。
  「素」が素顔の素だとしたら「素菟」は皮をむかれた兔かもしれない。その昔、白毛の兔は日本には居なかったという説もある。
  「蒲黄」は蒲の穂絮ではなく、その上にヒューッと出ている雄花の花粉を粉にしたもので、明らかにこれは穂絮ではない。
  「蒲黄」が止血やスリ傷の薬であるとは、道教関係の医薬書である梁の「神農本草経」や唐の「備急千金要方」にある。現代でも漢方薬として認められている。
 古事記や、日本の古代の思想に道教が大きな影響を与えていることは、明治維新政府が絶対に認めたくないと非常に嫌ったことだった。神国ニッポンの神話や天皇制が中国の道教に基づいていたなんて・・・。
 そうか、大黒様の歌も単なる勘違いだけではなかったのか。
 自民党改憲案はこんな時代の再来を予想させないだろうか。
 私だけかもしれないが、「白兎(しろうさぎ)が穂絮(ほわた)」のように・・・・、実は、私たちは結構情報を知っているようで知らされていない。
 「みんなが期待すれば景気はよくなる」という、こんな低レベルの理屈に高い支持が集まっているのも同じことではないだろうか。

 今回の参議院選挙からブログ等で選挙の主張、応援、依頼等をすることが解禁された。
 読者の皆さん、コメント欄を活用して良質の情報交換を行いませんか。
 マスメディアに対抗した良質のソーシャルメディアの構築のために試行錯誤をしてみませんか。

2013年7月2日火曜日

信号は青だけど

  富士山が世界文化遺産に登録された。
 我が国政府が「富士山は信仰の対象であり貴重な文化的価値がある。」とロビー活動をした結果らしい。
 しかし、その言葉にはいつも通りの誇張と二枚舌がある。
 つまり、この地はそんなに素朴な信仰の地ではなく、もっと俗な観光地という顔も併せ持っている。
 だから信仰の聖地にふさわしく入山者を制限しようとなると、5合目あたりの大規模な駐車場&土産物店が困るし、富士五湖の動力船を廃止するのは当該業者を絞め殺すようなことになる。
 かつて、尾瀬沼の観光船が廃止された歴史があるが、あれは限られた業者でかつ山小屋の山男たちであったから、富士五湖の現状にはあてはめにくい。
 といって、文化遺産にふさわしい対応を取らないと登録が取り消される。
 当該の各公務員は頭が痛いことだろう。

 尾瀬沼ではないが、かつて、奈良でも同じような歴史があった。
 若草山の南端から奥に行くと有名な料亭の『月日亭』があるが、そこからさらに奥に延びる道は結構しっかりした道路になっている。春日山周遊バス道路であった跡である。
 しかし、天然記念物、春日奥山原生林を傷つけるのはやめようという良識によって周遊バスは廃止された。(残念ながら市民がそうしたというよりも一部の知識人のおかげであったが。)
 今は若草山頂上へ向かうハイカーとマウンテンバイクの愛好者だけが贅沢に楽しんでいる。それでよい。

 奈良の景観保存等の取り組みはそんなに立派なものでもないし、あちこちに傷跡を残しているが、それでも、このような一定の歴史の積み重ねは街の思想の中に残されていることもある。

ネットから
  奈良市の県庁前の幹線道路。
 信号は青だけど大型トラックをはじめ多くの車がすべてストップしている光景はちょっと感動的である。
 御推察のとおり、鹿の親子が悠々と横断中だから。
 自分の足で確かめたわけではないが、47都道府県中、県庁所在地でドライバーにこれだけの心の余裕を自然に与える県はないのではないか。
 私は奈良にはテーマパーク型の平城宮跡整備は不必要だと思う。徹底してホンモノで勝負することが一番の道だと思う。
 残念ながら、予算にたかって私服を肥やそうという者たちは原発立地県以外にも多い。