2013年4月29日月曜日

セイヨウカマツカ

  「殿様蛙という名前ですが殿様ではありません。」というようなCMがあったが、西洋鎌柄という名前ではあるが、鎌の柄にはなりそうもなく、細くてどちらかというとヒョロヒョロと弱々しい木である。
  それが4月下旬から満開で、よく見ると可愛い花が小手毬のように寄せ集まってなかなかに風情があるのだが、如何せん、この時期一斉に咲き誇っている町中の派手な木々の陰で、どちらかというと目立たないのが可哀想に思う。
  しかし、花には子孫保存のための重大な目的がある。「控えめな立ち居振る舞いを好んでくれる昆虫(むし)さんだけに判ってもらえればいいの。」などとお淑やかに構えてはいられないはず。
  ということなのだろう、窓を開けるとムッとするほどの蜂蜜の匂いがする。と、私が思ってしまうのも逆立ちをした認識で、花の蜜が集まって蜂蜜になっているのだから、蜂蜜の匂いではなくストレートに花の蜜の匂い・・・・・・と、判ってはいるがやっぱり蜂蜜の匂いである。そして、どういうわけか些か官能的である。
 そう、臭覚というものは原始的というか本能に近いものであるらしく、理屈では分かっていても「蜂蜜の匂い」と脳の別の部分が倒錯して認識するらしい。

  そして私が見ている限り、椿をはじめ蜜いっぱいのこれらの木々をいちばん利用しているのは、蜂や蝶や小型の小鳥でなくて何となく好きになれないヒヨドリで、木々の蜜を食べ廻りながら、花の芯まで齧って捨てまくっている。
  だから、そんなときは愛鳥家のネームプレートを横に外して、ヒヨドリだけはチョッと脅かして追っ払っている。
  えこひいきかも知れない。

 ムッとする蜜の匂いをお届けできる筆力がないのが口惜しい。

2013年4月27日土曜日

執念を味わう

  一昔前までは、「弥生以降日本人はもっぱら米を食べてきた。」という日本文化論が当たり前であったが、詳細な史料から、それが如何に暴論であるかということを私に教えてくれたのは網野善彦氏の「日本論の視座」をはじめとする諸論であった。
  この列島の先人は、考えられないほど多くの植物を主食に、あるいは準主食にしてきている。
  その多くは稲作の困難な山間部や水不足、温度不足の飢饉に関連したものであるが、五穀以外に、そのままでは有毒である栃の実や、はては彼岸花まで、その毒抜きの加工技術の苦労の痕は、森浩一氏編「日本の食文化に歴史を読む」等の本を読んでいても心を打つ。
  ところが、そういう貧しい物語とは別種の『毒抜き技術の最高峰』が我が国には存在する。
  「食に知恵あり」(日経ビジネス人文庫)の中で小泉武夫先生は次のように断言されている。
  「これまで食べた世界の食べ物の中で最も奇怪な食べ物は何でしたか」という質問をよくされる。私はちゅうちょもせず「それは石川県のフグの卵巣のぬか漬け。あれにかなうものはない。何せ猛毒を持った卵巣を食べてしまうのですからね。地球広しといえども、これにまさるものなどありません」と答える。・・・・と。
 フグの卵巣はそれ1個で25人相当の致死量がある。
 それを3年以上の年月をかけて発酵によって解毒・・・と言われているが、解毒に至る詳しいメカニズムは今でも不明とされている。ほんとうである。
 それでも「経験則に基づく結果よし??」で、全国で石川県だけで製造が許可されている。(寄り道だが、フグの肝は大分県(別府)では調理提供が禁止されていない。)
 私には、栃の実加工への先人の努力は理解できるが、このフグの真子(まこ)解毒にかけた先人の執念には半分は感心するが半分以上あきれ返ってひっくり返る思いがする。

  息子のお嫁さんは「加賀の女(ひと)」である。
  帰省から戻って来た時に「お爺ちゃんが好きらしいので」と、これを提げて帰って来てくれた。
  糠をとると「表面は魚の内臓を包んでいる薄皮」である。当たり前である。このままでは(見た目は)あまり食欲は出てこない。
  しかし、それをお刺身のように切ると「山吹色の粒々」(小泉先生の形容)が浮き出てくる。
  食感は鯛の真子(卵巣)や明太子に近いが、「へしこ」に似た強い香りが鼻をくすぐる。(糠漬なのだから当たり前か)
  鮒ずしの香りよりも上品?な芳香で、ワインを飲みながら、「日本酒に合う!」「日本酒に合う!」と何度もつぶやいた。
 妻は「アンチョビみたいにピザに乗せたら絶対いける!」と断言した。
  提げて来たお嫁さんは「う~ん」と言って一口食べたが、老夫婦は「もったいない、もったいない」と何回も繰り返しながらパクパクといただいた。
  もちろん、その報告をこうして書いているのだから、テトロドトキシンは完全に分解されていた。
  聞くと、目玉が飛び出るほど高価なものではないらしい。
  だからみなさん、機会があればお酒のアテに一度入手されることを心から推薦する。ほんとうに美味しい。
 私はあと半分を冷蔵庫に隠している。
 今夜、義母にも食べてもらおうと思っている。いったいどんな感想を言ってくれるだろう。 
 詳細は http://www.aburayo.jp/  をご覧あれ。 フグの子はほかの商店にもあるし、YouTubeにも少なくない情報がある。   

2013年4月25日木曜日

裏見葛葉

葛之葉稲荷大神
  先日、陰陽師の世界にタイムスリップして暫し楽しんだことを書いた。
  で、陰陽師といえば・・・、そのトップスターが安倍晴明であることには誰も異論はないものと思う。
  父は現大阪市阿倍野区に住んでいた安倍安名。母は和泉の国信太の森の狐であった(浄瑠璃 蘆屋道満大内鑑)が、正体のばれた母は、「恋しくば たづねきてみよ和泉なる 信太の森の うらみ葛のは」と障子に書きつけて去っている。
  私は、この阿倍野区で働いていたこともあるし、信太山は青春時代、キャンプやピクニックによく遊んだ懐かしい地である。

  さて、この浄瑠璃の元となった、一般に「信太妻」と呼ばれる昔話がどの様に全国に広まり内容が豊かになっていったのであろうかという考察はいろいろされているが・・・、
  先ず、清少納言が例によって「森は信太の森!」と言い放った信太の森は、その地の聖神社の森である。
  そこの神官藤村家が宝暦5年に禁止されるまで販売していたのが「泉州暦(信太暦)」である。
 中央から没落して、それ故に後には「民を惑わす不届者」と賤視されるようになったアウトサイダーの陰陽師なのだろう。
  もしかして、その暦を売り歩いていたのは、近在の、舞いや説教節や説教人形に長けた放浪と語りの芸能集団だったのではないだろうか。

 暦の販売は別にしても、この地の説教節等の芸能集団が、全国に散在していた「きつね女房」の話を「信太妻」に練り上げ、そして全国に広めたのではないか。
 ここから阿倍野の地までは「蟻の熊野詣」で有名な小栗街道で一直線だから話にはリアリティーが増してくる。
  そして、自分たちに繋がる(気分の)陰陽師のトップスターが主演であるから力が入る。
 さらに、多々見聞きしたであろう結婚差別と離縁にまつわる情念で脚色されていったのでは・・・。
 加えて、近郷・堺の三味線に西宮の戎舁きという芸能の存在・・・・となると、漂泊の門付芸(説教節)が練り上げられながら最終的には都会の浄瑠璃や歌舞伎にまで成長する要素は十分であったと想像する。
  (以上、沖浦和光氏、松本芳郎氏、篠田正浩氏らの所論を参考にしながら思ったことを書いてみた。)
 
 この神社は、普通には「葛之葉稲荷」とか「信太森神社」と呼ばれている。
・・が、その「森」は小さく小さくなっている。
  これだけの由緒である。もっと観光のPRをすればよいのにと歯噛みする思いだが、近くのJRは熱意がなさそうだ。
  蛇足ながら・・・、葛の葉は風が白い葉裏を見せることから、裏見=恨みにかかっている。

2013年4月23日火曜日

地名は史料

  先日、巧みな「法話」で超有名な奈良のお坊さんのお話を伺った。
  今年が癸巳歳(みずのと み)に当たることから、特に巳に関わって話が進み、(巳さんで有名な)「三輪山の麓から出る雲を出雲といい、ここが出雲の国の原点だ」とおっしゃった。
  確かに、伊勢よりも歴史が古いと言われ、オオモノヌシを祀る三輪の信仰と記紀神話を考えると肯(うなず)かされる相当有力な一説ではあるが、奈良には出雲以外にも吉備、石見、丹波、但馬、丹後、上野、武蔵、上総、伊豆、三河、美濃、飛騨、土佐、豊前、薩摩等の地名があるので、ここは(・・・地名を根拠にする論は)「後の律令制下の諸国の徴発民の住居より生じた」という直木孝次郎説の方に説得力を感じる。
  それにしても、字(あざな)を含め地名というのは歴史の生き証人であり、考古学的物証と地名から「ここは〇〇であった。」と推論を展開されている大論文も多い。
 事実、奈良には記紀や延喜式に見える地名や人名がいたるところに残り、ミヤ、ゴショ、ミカド、ミササギ等々に関連する名も数多い。そもそも、現在、平城宮大極殿が復元されているが、彼の地は「大黒の芝」と呼ばれていたらしい。
  我が家のそう遠くない場所に「石のカラト古墳」があるが、この地を「佐保」と呼んでいたなら藤原不比等の墓である蓋然性が非常に高い。ただ、現在の佐保の地から数キロは離れているので、もし「ここまでの広範囲を佐保と呼んでいた」とか「ここも佐保と呼ばれていた」という記録が見つかれば書き換えられることになると、白石太一郎先生が(そういう記録を見つけられないのが)悔しそうに語っておられた。そういう進行形の話を聞くのは楽しい。

  このように地名というのは非常に重要な史料であり、京都や奈良が古い地名を残してきたのは、その地に蓄積されてきた教養の結果であろうか。
  それに比べて、大阪市が過去に大幅な地名変更をしてしまったことや、平成の大合併等で安直な自治体名が全国に出現したことは肯けない。
  そんな思いをぼんやりと抱いて奈良町を歩いていたら、陰陽町という町名を見つけて嬉しくなった。おまけに、その地に鎮宅霊符神社が鎮座・・なのだから、中世の、ズバリ陰陽師の世界にタイムスリップしたようだ。
  そんなヒマジンのタイムスリップを大歓迎してくれているように、ここの狛犬はどう見ても大笑いをしておった。

2013年4月21日日曜日

別れの挨拶

  ■別れの挨拶■ まもなくバードウィークがやってきてキビタキなど夏鳥の求愛の合唱が始まるが、その前に、冬鳥たちが北へ、あるいは高山へと帰っていく。
  また、南北に旅をする旅鳥がひと時顔を見せる。今はそんな季節である。

  路を歩きながら、ここによくいたシロハラも居なくなったなあ!と思ったりしていたが、突然シロハラが我が家に飛んできて、積み上げてある枯れ草をバサッバサッと掻き回した。
 旅行前の栄養補給に必死なのだろう。
 窓の内側から「ほらほら旅立ちの挨拶に来た」と言いながら夫婦で感激して見守った。

 翌日、ベニカナメの植込みの中や土の上に忙しなく動く影を見つけた。
 色合いと背中の模様からビンズイも挨拶に来たのかなと思ったが少し違う。
 ビンズイは植込みの中をウグイスのように動き回らないように思う。
 念のためカメラを引っ張り出しに走った。
 という間に、歩道上のケヤキの枝に止まって、今度は見事に美しい声で囀りだした。聞いたことのあるようなないような・・・・。 あわてて写真に切り取った。

 それから、「これは確か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」と、去年のブログを探してみた。
 あった。 2012年4月13日の記事に『柳上のアリアの主は』と題してアオジのアリアを書いていた。 間違いない。
 もしかしたら同じ個体だろうか。
 野鳥たちは人間たちより律儀に挨拶してくれるようだ。

 ■出会いの挨拶■ 5月下旬の気候の翌日に3月の気候になった。私も体調が変だった。可哀想なのは彼女である。
 我が世の春のつもりで羽化したところが木枯らし紛いの浮世の風。
 「がんばれキアゲハ」とエールを送ったが、「同情するなら暖をくれ」と言いたそうだった。




2013年4月19日金曜日

叫び

  小学校1年の参観日に「コメ作り」の流れを紙芝居風に絵に描いて発表したことを思い出した。
  田植えの場面を描くのに困って、悩んだ挙句、真ん中に田圃を描いて、周囲の人々を正面向きのまま、左右の人々は左右に90度寝かせて、手前の人は頭を下にして描いた。
  『佐原真の仕事3「美術の考古学」:岩波書店』を読むと、これは「幼児の多視点画・展開描法」というものらしく、ヨーロッパの旧石器時代から、古代エジプト、メソポタミア、ギリシャ、そして我が国の縄文、弥生の絵にしばしば見られるものらしい。
  だから当時の私の絵画の能力は、よくいって縄文土器か銅鐸の絵画レベルだったのだろう。

銅鐸の絵
左や上の鹿は半回転している
  この本では「子供の絵の発達段階」についても述べられているが、美術教育の研究者(らしい)トムリンソン、ローエンフェルド、東山明、大谷恵子、東山直美等の諸氏(申し訳ないが門外漢のため諸氏のことは全く存じ上げないが)は、何れも「2歳ぐらいは『なぐり書きの時期』」だと規定されている。

  話はここからが本題となる。
  写真は、2歳前の夏ちゃんが「お父さん」を描いたものである。
 お母さんが、「お爺ちゃんが一番喜ぶだろう」からと額に入れて持ってきてくれた。
  それでお爺ちゃんは確信した。「これはもう写実主義を突き抜けてムンクに並んだ!」と。
 もちろん我が家の特等席に飾ってある。

2013年4月17日水曜日

菫の花筵

  今年、家の前の歩道に突然スミレの群落が出現したので驚いたが、近所の田圃にそれ以上にびっくりするようなスミレの「花むしろ」を見つけた。
スミレの花むしろ。全景はこれの20倍以上。
  写真を撮りながら田圃のお向かいの小父さんに聞くと、「たまに草だけ刈りにきやはる休耕田です」ということだ。
  このスミレというもの・・・・見事に美しい典型的な虫媒花中の虫媒花らしい花にもかかわらず実を結ぶことが少ないらしい。その代りに閉鎖花といって初夏の頃から花びらのない蕾を作り自家受粉して実をつけるという。
  モノの本によると、その実には蟻の大好物のエライオソームというものが付いており、蟻がその実を運んでくれることになっている。そう言えば、確かに、歩道橋のてっぺんのアスファルトの切れ目などからスミレが咲いていたりして、「どうしてこんなところに?」と不思議であったことが多々あった。
 というよりも、そう言えば、今年、家の前に突然出現した群落の場所は、私が草引きをしたときに大きな蟻の巣のあった場所だった。私がそうして大規模に土を混ぜ返した場所だった。思い返せば感動的に納得できる解説である。
  こんな見事なメカニズムを考えると、単純な進化論を疑いたくなり(というほど最新の進化論を知っているわけではないが)、スミレ一族が会議を開き、「進歩への冒険(春先の虫媒花)と、保険としての閉鎖花という二段戦略を選択し、その上に蟻を利用しての確実性の高い新世界の開拓」をかんかんがくがくの議論の末、満場一致採用したと信じたくなる。
  この話を妻にしてみたが、草花をよく知っている妻でさえ「スミレの閉鎖花」は知らなかった。
  植物の生態は奥が深い。

東大寺天皇殿紫鷺苔
  東大寺の天皇殿特別拝観があったとき、お庭の枝垂桜も素晴らしかったが、ここも一面の「スミレの花むしろ」・・・と一瞬思ったが、説明書きでは「紫鷺苔(ムラサキサギゴケ)」らしい。屋内からのため詳細に見ることができなくて残念だった。
  帰ってみると、渡辺一枝著「草の絵本」(講談社カルチャーブックス)には載っていた。
  というように、知っている方は昔からご存知だったのだろうが、私は初めて知った草花である。
  ほんとうに草花は園芸品種でなくても奥が深いと痛感させられる。

2013年4月14日日曜日

枚方宿 くらわんか舟

  東海道五十六次目の枚方宿のハイキングに行ってきた。
  ここは京街道(東海道)の宿場町であるとともに三十石船最大の港であり、その船に小舟で引っ付き「めしくらわんか」「さけくらわんか」と商売をした「くらわんか舟」でも有名である。
  江戸時代、幕府の許可書(過書)を持って淀川を上下した船を過書船(かしょぶね)という俗説を学芸員が説明していたが、今も昔も歴史をねつ造するものが多いのは困ったことである。
  そもそも歴史書は勝者が書いたという大前提を忘れる者が多い。
  真実の歴史を言えば、大坂夏の陣の折、家康が真田幸村に追い詰められ最後は後藤又兵衛の槍によって絶命したのは天下公知の事実で、家康の墓は有名な堺の南宗寺にある。
  そして、大久保彦左衛門と家康の替え玉(身代わり)がほうほうの体で逃げる途中、ここ枚方の葦原で鍵屋の小者に助けられて命拾いをして江戸に帰って幕府を開いた。
  その小舟の底にかくまってもらった折り、偽家康は「恩賞は望みに任す」とお墨付きを与えたので、天下統一後、鍵屋たちに飲食物販売舟(くらわんか舟)の権利と「不作法天下御免(河内弁おとがめなし)」の特権を与えたが、その折、「恩賞望みどおり」とは書いては見たが、「それなら副将軍にしてくれ」と言われればしなくてはならなかったので偽家康は冷や冷やしたと言われている。
  で、「恩賞望みどおり」とは『書き過ぎた』と反省したので、淀川の許可船を過書船というようになったというのが歴史の真実である。
  という正しい歴史を、確か三代目旭堂南陵や桂米朝に教えてもらったことがある。
  そのため、アカデミックなガイドさんの説明を聞きながらも、「どこかに難波戦記の片鱗が転がっていないか」と探しながら歩いている自分がいた。

2013年4月12日金曜日

言葉の海

  私は無趣味が趣味のようなものだが、あえて言えば、唯一、乱読が趣味である。
  ところが、けち臭い話で、ここに文字にするのがはばかられるが、小説は単行本で買うのがもったいなくて(例えベストセラーと言われておろうが)文庫本になるのを待つのを常としている。
  そんな中、単行本が文庫本になる前に、三浦しをん著「舟を編む」が映画化され、この13日から上映されるという。なんということだ。
  自称活字派としては読書の前に鑑賞というのは許せないし、それに映画はシニア2人で2000円だから、この本の場合、単行本といっても1575円。それならとりあえずは「単行本を購入するのも可」と蔵相の許可が出た。(けち臭い話でお恥ずかしい。)
  で、スキップをしながら本屋に行った。
 キャッチコピーは「辞書編集部で織りなされる個性的な面々の人間模様」で、その昔、少し関連する書物であった赤瀬川原平著「新解さんの謎」を読んだときほどの驚きはなかったが、「本屋大賞」を裏切らない肩の凝らない楽しい小説ではあった。(欲を言えばもうちょっと肩こりを覚えたかったが・・)

  さて、言葉の海へ漕ぎ出すと言えば・・・、私は戦後一期生である。
  私が小学生であった時代は、ほんの数年前が戦中であったのだし、そのため、私の小学時代は国中が民主主義を模索していた渦中であった。
  だから私の好きな教頭先生は、軍国教育を支えた麗々しい漢文調が嫌いで「漢字廃止ひらがな主義者」だった。
  そして、4,5,6年担当のH先生は、戦前教育の反省から、文語体、美文調、常套句を徹底して嫌う「生活綴り方(詩を含む)教育」を礼賛した。
  そして私はというと、魅力的なこういう先生方の忠実な教え子だった。
  だから、私は今でも比較的自由な発想に戸惑いがないし、それは小学校の教育のおかげだと喜んでいるし恨みはない。
  だがしかし、客観的には、大人になってからも世間で常識とされる文章が書けず(それは中学以降の怠惰のせいだが)、少し上の世代からは「ボキャブラリーの乏しい奴だ」と嘲笑われた。
  そんな私が、近頃はテレビに向かって「なんというボキャブラリーの貧困か」と呟いているのもおかしなもんだが、今では「亀の甲より年の功」などという紋切り型の決まり文句で居直って呟き続けている。

2013年4月9日火曜日

ブラックボックス漂流

源平枝垂れ花桃を知ってますか
  先日、何人かが集ったとき、「今どき携帯を持っていないなんて」と上から目線で笑った人が、「運転免許持ってない人に言われたないわ」とお返しされていたが、社会の中の技術の変化はいったいどこまで向かうのだろう。そして私は、どこまでついていけるのだろう。

  一昨日、ケーブルテレビのBSのチャンネルが動かなくなったので、昨日、新しい機械と交換してもらうことになった。
  ところが、来た人は我が家の機械を見て、「どこも壊れてません」と言う。
  「そんなことはない。こういうことが以前にもあった。」
  「その時間にBSの録画をしてませんでしたか?」
  「BSの録画中にその機械を通じてはチャンネルを変えられないことぐらいは知っている。」
  「おかしいですねえ」
  で、録画の記録を表示すると・・・・
  「昨日電話された時間に録画していた記録がありますね。」
  「・・・・・・・・・・・・・#$%&」
  結局、リモコンをあれこれ動かしている途中で知らない間に録画予約をしていただけのことだった。
  ・・・・年寄りの早とちりを丁寧に詫びて帰ってもらった。

  そのあと、携帯が壊れたので機種の変更のため販売店(ショップ)を訪れた。
  ケーブルテレビと光電話とセットにした料金の割引制度があるはずなので申し出たが、「固定の光電話はどんな契約ですか?」と尋ねられても判らない。それは、向こうさん同士で確認してもらうことになった。
  そして、簡単な説明書をもらって帰ってきた。
  その説明書には「先ずIDを登録しましょう。」とあるが、今度はそれがなかなか判らない。
  そのため、もう一度販売店に引き返すと、「それは済んでいます。」という。ああ。
  今日は電話とメールの仕方がわかったからこれでよい。疲れた。
  あとはじっくりとこの小さな玩具と付き合うことにした。ああ、ああ。

 妻は落ち込んでいる私を見て、「デジタルのことが判らなかっても花や鳥のことはよう知ってる。」と慰めた。*▽@???

2013年4月6日土曜日

これもこれも花見

  「4月6日の天気予報の詳細は如何」と友人を介して気象台の専門家(友人)に問い合わせたところ、「昼前から雨が降り出す」(裏返すと午前中はOK)とのことであったので、「それなら前倒しで開始すれば」と、かねてから予定していたお花見は「小雨決行」とあいなった。
  主催者側の一員となると数日前から購入等を行うから、決断した限りは「それをどう成功させるか」しか選択肢はなく、朝8時過ぎに鶴橋駅ですでに雨ではあったが「川の中で鞍替えするな」はリーダーの鉄則と言われている。(と言うほど大袈裟なものではないが。)
  で、写真のとおりブルーシートを張ってのお花見となったのだが、このブルーシートの屋根は完璧に雨を遮断して快適で、向こう側は大阪城天守閣を借景に満開の桜であるから、中で酒盛りをしている限りは雨など信じられないというほどに、・・・・きっと誰もが「記憶に残る」であろうお花見となった。
  参加者は、「爆弾低気圧との予報に迷った」とか「駅に運行中止もあると張り紙があった」とか「お早めにお帰りくださいと車内アナウンスがあった」とか笑いながら、・・・・それでもやって来たお人好しばかりである。
  参加者のみなさんありがとう。

  天気予報というと、・・・・1941年12月8日、真珠湾攻撃の日から、いわゆる天気予報がなくなった。報道管制である。
  そして、その間、それがために多大な台風被害が発生したし、関連して大地震の被害も闇にほおむり去られた。これこそが学ぶべき歴史である。
  先日、維新の会の代表が「日本は軍事国家になるべきだ」と朝日新聞の紙上で堂々と主張したが、一将功成りて万骨枯る」風景が脳裏をよみがえる。
  天地予報は大切である。歴史は大切である。そして、春にはお花見も大切である。

2013年4月4日木曜日

これも花見

  月曜日、家からそんなに遠くない、ほんのちょっと車で走った川沿いの桜並木に義母を連れだした。
 「土日は俗人どもに開放したのでウィークデーは私たちで楽しませていただきましょう。」という若干萎びたご同輩たちしかいないので、静かな花見を満喫できた。
 そんな大層な親孝行をしたということではないが、満開の桜並木は、義母にはひとときの夢の世界だったようだ。
 現職の皆さんは年度替わりで大変だろうが、要介護認定を受けておられる親がおられるお方は、ウィークデーにお花見がおすすめだ。
 修身の教科書的で写真の掲載を迷ったが、素直に私たち夫婦が母を連れて楽しい花見をしたと、報告することにした。
 

2013年4月1日月曜日

ネギマを伝承する

  若い頃、東京で、「やきとり」という暖簾の掛っているお店で「焼鳥」を注文したら「豚のもつ」だったので驚いたことがあるが、当時の東京の人々がそれを全く不思議がらないこともさらに驚きだった。(という状況は今も基本的には変わっていないようだ。)
  そんな昔話を子供たちに話していたところ、子供たちが「ネギマ」というと「白ネギと鶏を串に刺した焼鳥のこと」と思っていることが判ってショックを受けた。(そう言えば、大手スーパーの総菜売り場にはそのように表示されている。だから全くの頓珍漢ではないが・・・ああ)
  しかしこれはスーパーの責任ではなく、・・・つまりは親の責任である。
  正当なネギマを正しく伝承してこなかった世代が若い世代をけなすのは天に唾するものである。猛省。

  という自戒を込めて、孫のやってくる日に「かんとうだき」をつくり、「ネギマ」をつくって入れることにした。
  こうなれば罪滅ぼしに隔世伝承に務めるのが我が夫婦の責任であろう。
  ネギマのマは当然マグロのマだが、適当な素材がなかったので上等なお刺身用の柵を使用した。もちろん贅沢なものだから誰もが美味しいと見直してくれた。・・・で、所期の目的は達することができたようでホッとした。(しつこいようだがネギの字はグロのの字だ!)

  さらに、こうなりゃ昔飲み歩いた経験を無駄にせぬよう、ポツポツ思い出しながら「かんとうだき」の各種材料を増やしてみた。

  え~っと、昔の「かんとうだき」で思い出すのは「さえずり(鯨の舌)」だったが、私の住んでいるこんな中途半端な田舎では手に入らない。で、ここは泣く泣く「コロ」にした。(ここで驚いたのは「コロ」が結構な高級食材になっていることだった。そして正直に言うとコロはサエズリよりも少ししつこい。私はその味が懐かしくて万々歳だったが、妻は「もひとつなあ」とダメを出した。)

  次に、遠い記憶の「たこ梅」の「蛸」に挑戦した。柔らか煮のレシピには叩いて柔らかくするとか、重曹で煮るとかいろいろあったが、なんか邪道のような気がしたので、ここは、ただひたすら沸騰させない鍋でことことことこと煮込んだ。(柔らかく美味しくなったが、ただ見かけは少しモロモロになる。これも難しい。)

  あとは日頃の基本形以外に何か楽しませてやれと思って「巾着ラーメン」を作ってみた。
 近頃、奈良の餅飯殿で有名になった「巾着きつね」の盗作で、小型の「巾着ラーメン」・・薄揚げの中に生ラーメンを詰めたものである。(これがショックなことに、生ラーメンどおしが引っ付いて半分団子の感じになった。「いやいや巾着餅の美味しいヴァージョンや」と家族は私の顔を見て同情して慰めてくれたが、チャレンジャーとしては悔いの残る結果であった。皆様にはつるつるの細うどんでの挑戦をお勧めする。)

  あとはホタテやギンナンや、日頃の我が家の「かんとうだき」では入れないようなものも足してみた。この辺になると、まあ、どうでもよい男の遊びである。

  という爺ちゃんこだわりの「かんとうだき」だったが、孫が一番喜んだのは「りらっくまの蒲鉾」とコーンであった。とほほほほ。