2013年2月27日水曜日

近江の人には頭が下がる

  紅生姜を漬けていたのだが、黴を生やしてしまった。
  「塩が足らなかった」「紫蘇の一部が外に出ていた」と、妻は反省しきりである。
  ことほど左様に漬物といえども実際には難しい。
  それを・・・・・このように美味しい料理に仕上げるのであるから、近江の人には頭が下がる。

  義姉から湖北のお土産と言って鮒ずしをもらった。
  米粒は一旦除去し、酒粕を敷いた上にガーゼをかけ、その上に並べ直したという、少し「一般大衆」向きにマイルドにしたお土産ヴァージョンのものだったが、文句なしに美味しかった。
  テレビタレントなら「あま~い」と叫ぶところだろうが、鮒ずしが甘いはずもない。
 「この美味しさは何に一番近いやろ?」と妻と考え込んだが、塩辛よりもやさしいし、干物よりも香りが良いし、「やっぱり水産物加工品の中の雄やな」ということで一致した。

  熟れずしの起源は紀元前4世紀から3世紀の周から漢と言われている。
  しかし、塩漬けを行い、その後空気を遮断したうえで重石を掛けて、場合によっては2~3年飯で本漬けするのは他国にも例がないと、発酵学の権威小泉武夫先生は絶賛されている。
  それは清酒の醸造に似た繊細な管理によって初めて生まれる味らしい。
 だから、有史以前からの、この列島に住む民族の味である。
 発酵の味は大人の味である。
 だから、ハナから手を出さないのも、ガツガツ食べるのももひとついただけない。
 ゆっくりと味と香りを口中にころがして味わってみてほしい。

  食わず嫌いは人生を半分しか生きていないようなものだと私は思っている。
  ビバ鮒ずし。


2013年2月25日月曜日

お節介それとも

  私が息を殺して野鳥を観察していても、私の“ある種緊張したたたずまい”を一顧だにせずガヤガヤと人が歩いて来てジ・エンドとなることがしばしばある。
 あまりにしばしばであるから、全く怒る気もない。だいたい彼らに悪意など全くないのだから。
 ほんとうに怒っていない。ほんとうである。
 「カメラマンが息を殺して林の中を注視していたら何かある!と気を遣うのが社会人ではないか」などと決して怒っていない。
 
 先日も、近くの緑地で鳥を見ていたら、元気よく母子が散歩にやって来た。いつものパターンである。
 そこで私は、「シーッ」などという野暮なことは言わずに、小さな声で「ほら、あそこにキツツキさんがいるのわかるかなあ」と二人を無理やり私の世界に引きずり込んだ。
 『カラの混群』で、エナガ、シジュウカラ、ヤマガラ、コゲラ、メジロが賑やかなのだが、お母さんはただの一種も判らなかった。
 もちろん、それぞれを解説した。
 子供の方も、知らないおじさん(爺さん)から話しかけられて最初は文字どおりキョトンとしていた。
 これって、3.11の後よく流されたACジャパンの『親切それともお節介?』のCMそのものの図だなと我ながらおかしかった。
 まあ、世は孤独社会と言われているから、町内にお節介爺さんの一人や二人もいいのじゃないか。

2013年2月23日土曜日

続 戌亥の隅にどっさりこ考

 2月15日に「戌亥の隅にどっさりこ考」で陰陽道の神門の思想に由来がありそうだと書いたが、何か中途半端な感情が残ったので国立国会図書館関西館や各地の図書館に数日遊んだ。
四天王寺のいぬゐのやしろ

 すると、民俗学者柳田國男の「風位考資料」の中に、「元来、支那から輸入せられた方位説では、艮を鬼門として居る為に、書物の上では此方角の避くべきことを説きながら、我々の実際の生活では、乾を恐れて来た。 これも長い歴史をもった事柄で、屋敷の中でも乾の隅が怖い為に今でも鎮守を祀ったり、榎を植えたりなどしてゐる。 ・・・・・大体西北が日本に於ては一番恐るべき方角だったのである。 これを支那風に言へば鬼門といふことになるが、此方角の恐るべきものとの理由は、鬼が住む、害敵が住む処と言ふのではなかったろうと思はれる。 十万億土と言って西方を指す以前に、兎に角霊魂の帰り行く方角を西北と考へて居たのである。」とあった。

 そして、その弟子筋にあたる三谷榮一の「日本文学に於ける戌亥の隅の信仰」や「古事記神話の構成と本質:戌亥隅の信仰に関連して」という分厚な著作に辿り着いた。
 その分厚な内容を誤解を恐れず要約すれば・・・・、
 記紀の時代から、大和の朝廷にとって西北の出雲は「根の国」「食国(おすくに)」、つまり穀霊の居ます地、祖霊神の来向される方角と認識されてきた
  その思想は、その上に特別の名前を冠されてその害を怖れられ、その恵みを期待された、西北からの風、雨、「神ナリ」の素朴な信仰とあいまって、朝廷祭祀、出雲国造神賀詞、風土記、三代実録、宇津保物語、源氏物語、今昔物語、宇治拾遺物語、平家物語、お伽草紙、日本永代蔵まで脈々と繋がり、宴曲、謡曲、中世歌謡、説教、俳諧、山伏神楽、花祭等々にも広がった。
 つまり、戌亥(西北)の隅は、朝廷から各家まで、最も神聖な場所であり福徳や祝福がもたらされる尊い方角、神のいます場所という、祖先人の並々ならぬ深い信仰があった。・・・・と、詳細に論述されていた。

 実際には、その思想が陰陽道の「神門の思想」と習合して「発展」したのだろう。
 この陰陽道で盛んになった「神門」とは、道教の教える太白星=金星=大将軍の方角であり、平城宮の西北の秋篠の八所御霊神社の大将軍社、難波宮西北の明神池・大阪天満宮の大将軍社、平安宮西北の大将軍八神社の存在が示すように、非常に重視された方角の信仰であった。(当時の公家の生活は方違(カタタガエ)と物忌みに明け暮れていたと言って良いほどに重視されていた。)
 蛇足ながら、なぜ陰陽道=道教は西北に大将軍を求めたか。ズバリそこが隋唐の都長安にとってシルクロードの出入口であることを想像すれば思考の必要もない。

 また、柳田國男の限界をもっと遡れば、福永光司が「記紀神話は道教の思想で書かれた」と喝破したように、皇極天皇が行ない、その後記録の残っている平安の宮廷祭祀では特別に重要な祭祀のひとつであった「四方拝」(これ自身が100%道教の祭祀)では、古くは北に向いて天(皇天上帝)を拝み、西北(戌亥)に向いて地(国土神・地祇)を拝みそののち四方と皇祖の山陵を再拝したものであった。(内裏儀式)(江家次第)
 
 約めて言えば、それは隋唐時代に再編・集大成されたアジアの思想であり、大和の朝廷が抱いた前政権ともいえる出雲勢力への特別な意識であり、この列島では多く西北方向から変化し到来する雨、風、雷に対する素朴な畏怖と期待が習合した信仰、故に、祖霊や国土神の来訪若しくは帰去する、そして福徳をもたらす神聖な方角という信仰ではあるまいか。とまで言うと、誇大妄想と人は笑うだろうか。
 
 こうして、妻が「戌亥の方角は蔵を建てる大事な方角で清浄に保つべき方角」と思い込んできたことも、私が『節分の豆撒きの最後に「戌亥の隅にどっさりこ」と叫んでガシャンと戸を閉める』と伝え聞いてきたことも、なかなかどうして厚い厚い歴史の積み重ねに裏打ちされていたのだと我ながら感心して何となく喜んでいる。

 方角に吉凶があるというのも不合理な迷信だし、現代そのまま再現すれば差別や倫理の逸脱と思われる儀礼等もあるにはあるが、巷間「自国の文化を語ることのできない人間に国際的な交流はできない」と言われることなどに注目すれば、各種習俗に引き継がれてきた前時代の歴史全般を陳腐なものと考えるのも如何なものだろう。そういう接点に「しきたり」や「ならわし」があるのではなかろうか。
 世の中を見ていると、商業主義に支えられた形式主義やつまらぬ占いが濃厚にはびこる一方、千数百年の歴史つまり先人の生活力や思考の積み重ねが顧みられずに、いま次々と消滅していっているというそういう『歴史の瞬間』に立ち会っているような気がしてならない。

 と、偉そうなことを言えたものでなく、実は亡母は出雲大社の大黒様の信仰を持っていたが、私はそういうリアルな信仰が嫌で近寄らずにきた。そして今頃、豆撒きの掛け声の奥底に、大和の朝廷に抗い屈した遠い出雲の声を聞いて驚いているありさまである。
 「ただの豆撒きの掛声からそこまで言うか」とお笑いください。
 写真は四天王寺の乾社(いぬゐのやしろ)=現大江神社。愛染さんの隣。となると、実は思想史的にはすごい神社だったのでは・・・・。

2013年2月21日木曜日

ヒマジンと笑われた


  先日、現職の後輩から「退職したら何をして暮らそうかと悩んでいる。」「長谷やんは鳥を探してあっちこっち行ってはるんでしょ。」と、相当ヒマジンのように思われていることが判った。
 で、真実は指摘のとおりヒマジンなのだが、鳥の方はほとんどが我が家の半径数百メートルで、・・鳥の写真のためにあっちこっち遠出することはほとんどない。
 このイソヒヨドリの写真も、回覧板を回そうとドアを開けたら我が家の玄関前にいたもので、龍の髭の「青い目玉」を食べたり(2枚目)、アリッサムの花をついばんだり(3枚目)して、派手な衣装で暫し眼を慰めてくれた。

  冬枯れの木の枝に花が咲いたよう・・と言えば大袈裟だが、マヒワが小群(大群ではない。)で飛来してきたのをポケットカメラで撮影したのが次の写真。





 右の写真は別の場所のマヒワで、日陰では灰色に見えてしまうが、日が当たると鮮やかな黄色が美しい。
 細い枝先の木の実を逆さにぶら下がって忙しなくついばむのが可愛い。
  ついでに、その林の暗い奥の方の木にやって来たのはアカハラ。(と思う。もしかしたらシロハラ。)
 ケッケッというかキョッキョッというか、大柄に似ず可愛い声である。


  も一つついでに、空中のユスリカを捕獲するメジロのサンバ。(「メジロのサンバ」は私の造語)
  写真では美しいストップモーションだが、肉眼ではこのように美しく見ることはできない。
 
 写真はいずれも家から5分もかからない何時もの街路樹や歩道沿いの緑地。


2013年2月19日火曜日

何年振りかの緋連雀



 夕暮れに窓の外が騒がしいので覗いてみたら、電線に珍客が目白押しだった。目白押しだがメジロではない。
 最初は「またムクドリか。」と思ったが、そんなに汚い声ではない。
 強風のせいでもなく頭が派手になびいている。
 もしかして・・・、ドキドキドキ
 そう、光がなくキレンジャクかヒレンジャクかは判らなかったが、写真を拡大してみたら、尻尾の先がわずかに赤く見えるので緋連雀(ヒレンジャク)だろう。(もしかしたらキレンジャクとヒレンジャクの混群かも知れなかったが・・・・判らない)
 そう言えば、数年に一度、我が家を大群が訪問してくれる。
 「有朋自西比利亜来」(友ありシベリアより来る)との感動もつかの間・・・、
 あっという間に寒風に乗って去っていった。
 光量不足の写真に多いに不満は残るが、数年に一度のチャンスをよく残せたものだとやせ我慢を張っている。

 レンジャク類 レンジャク科 世界に3種 日本に2種
 日本には冬鳥として渡来する。スズメより少し大きくて太い。顕著な冠羽があり尾は短い。体はぶどう色で、翼や尾の先に赤(ヒレンジャク)や黄(キレンジャク)の斑がある。次列風切の先端には赤いろう物質の付属物がついている。繁殖期以外には群れでいることが多く、木の実や草の実を主食とする。渡来数や移動の範囲が年によって変化があり、日本にはほとんど来ない冬もある
・・・・・・・とフィールドガイドに書かれている。
 ヤドリギが好きで、以前に奈良公園の飛火野の大木のヤドリギに群れていたときには感動した。
 その時のような鮮やかな色彩を記録できなかったことが返す返すも悔しい。

2013年2月17日日曜日

みんな嘘だったんだぜ

 昨日、現職の皆さん方とOBによる餅つき大会に参加した。
 結構楽しい集いであった。
 だがしかし・・・・、そこで感じたことだが、この餅つき大会に限らず、近頃現職の皆さんからは愉快な話題が少なく、悲鳴に似た、どこか疲れた声が多いように感じられる。誤解なら良いのだが。
 
 というところで私の意識は桜ノ宮高校に飛ぶ・・・・・。
 第一に私たちは桜ノ宮高校についてどれだけ正確な情報を持っているのだろう。マスコミの豊富な情報で「それは解かっている。」という方は、松本サリン事件の時はどうだったのだろう。フクシマの事故と現状をどれだけ理解できているのだろう。
 そして、「それにしても一線を越えて行き過ぎていた」顧問(昨日までの看板教員でなかったの?)を「厳正に」懲戒免職したという美談で収束しつつある現状で良いのだろうか。
 あの顧問を弁護するのではないのだが、あのことは、教育の場の運動部の歪みの氷山の一角ではなかったのか。
 成績主義、結果主義を学校経営のウリにしてきた者たちに責任はないのか。
 それを煽りに煽ってきたマスコミに反省は必要ないのか。
 常識外に手におえない生徒や手におえない親はいないのか。(してはいけない体罰との線引きなどできるのだろうか。)
 教師という集団のチームプレイをズタズタにしつつある管理統制の教育行政やそれに加担してきたマスコミに責任はないのか。
 私は、「みんな嘘っぽい」という感情がぬぐえない。

 と、言うことと同じような対応が日々現職の皆さんの仕事の現場でも繰り返されているように私は思う。
 人員削減で、第一線の意識や努力ではどうにも対処できない体制である。
 それは誰もが知っている。
 そして、ひとたびミスが発生すると、末端の担当者が「厳正に」処分される。
 管理者たちはひたすら「自分の在任中に事故が発生しないよう」祈っている。恥ずかしながら私も五十歩百歩の歩幅で歩んできた。
 何もかもが嘘っぽい社会の中で、早期退職の話だけがリアルである。
 そうそう、内閣の進める雇用部門の規制緩和もリアルである。

2013年2月15日金曜日

戌亥の隅にどっさりこ 考

  息子と娘が帰ってきた日の夕飯時に節分の話になったが、どちらも豆まき、イワシ、恵方巻の行事はきっちりしたらしい。
  イワシも恵方巻も多分にスーパーの戦略めいてもいるが、二家族とも立春前日・年越しの行事として粛々と行なったと言っている。それでよい。
  その際、例の「鬼は外、福は内、戌亥の隅にどっさりこ」と我が家に言い伝えられてきた掛声について、「その意味は何やろう」と私が言ったところ、妻が「戌亥というのは蔵の方角やから大事なん違う?」「私は今までそう(大事な方角と)考えて納得していた。」と意見を述べた。
  義父や義母の実家や親戚は元々が農家であったため、妻に言わせれば戌亥蔵=つまり「蔵は戌亥(北西)に建てる」というのが文句なしの常識だったという。
  ということで、いろんな本をあたってみたところ、平安末期には主に丑寅の鬼門を強調する陰陽道と、戌亥の神門を強調する陰陽道があったらしい。
  そしてその神門は、鬼門の考え同様悪霊のひそむ地であるとともに、同時に福徳の訪れる方角とも考えられていたとあった。
  屋敷の設計としても北西に蔵をもっていくのはなるほど合理的であり、神門の思想=戌亥蔵の思想は農家や商家の常識として広がっていったのではないだろうか。
  そして蔵のことであるから、悪霊の方角というよりも福徳の方角という認識が凌駕していき、より濃厚に広まったのでは・・・。
  と、なると、鬼門に向かって「鬼は外」、恵方に向かって「福は内」、その最後に「戌亥の隅にどっさりこ」で万歳!、万歳!、万歳!・・・ではなかろうか。
  ちっぽけではあるが、こんな『大阪地方における鬼やらいの掛声について』とでもいうような民俗学に関わる結論を、我が家族数人だけで結論付けて納得してお酒を飲んだ。
  外泊で帰って来ていた、90を超えた義母が「そうやろうなあ」と言うので間違いなさそうだ。
  って・・・・・、ちょっと強引すぎかも。
 「ホンマでっか!?」という程度に読んでいただければ幸いです。

2013年2月13日水曜日

雪洞に灯りを点けて

  今は亡き義父は大阪の大企業の技術畑にいた人で、頭に何かが付くほど〇〇真面目で堅物であった。
 だから、いわゆる出世はしなかった。
  そして、精神的な気風は祖先の出身地である農村文化を色濃く受け継いでいた。
  だから、そう、だから、私の長男である初孫が生まれたときに、五段飾りの五月人形を幾つかの大風呂敷にまとめて、新幹線に乗って、当時私たちが住んでいた千葉県にまで来てくれた時には本当にびっくりした。
  当時の私たちの住まいは6畳3畳キッチンの社宅だった。ああ。
  長男のときにそうであったから、長女のときには「兄と比べて僻んだらあかん」と、さらに大きな七段飾りの雛人形だった。ああ、ああ。
  だから、ご推察のとおり、何年か後には最上段だけを飾ったり、ついには別のもっと小さな人形等で済ませてきた。(すみません。)

  しかし、時は移り今や我が一族の主人公はおんとし1歳数か月の孫の夏ちゃんとなった。
  そこで、何年振りかで七段飾りを全て飾ることと相成った。
  私たち夫婦が子供のために飾った時代は子育て真っ最中であったから、人形の優雅さをしみじみ味わうこともなかったが、いつか来る孫のために今こうして老夫婦だけの家の中に飾ってみると、義父・義母の暖かい気持ちが濃厚に漂ってくるのである。(保管場所にも困るから保育園にでも寄付しようかなどと考えたりしてごめんなさい。)
 そうか、節句の飾りは爺婆のためのものだったのだ。

  さてさて、写真の雛人形だが、これは縦横奥行各12㌢ほどのミニ雛人形。ドールハウスという範疇のものらしい。
  15年ほど前、仕事の同僚である若く美しい女性から戴いたもの。
  手先の器用な彼女の手づくりの作品で、雪洞(ぼんぼり)が灯る仕掛けまでしてあった。
 私の感覚でいうと、ドールハウスはジオラマのパーツのようなもので、彼女の作った古民家や居酒屋はアニメの世界に吸い込まれるのと同じような夢があった。その域は趣味のレベルをはるかに超えていた。
  そして彼女は、今ではその作品に値段が付く堂々たるプロの水彩画の画家になっている。
  だからというわけではないが、これは私の宝物。でも、やんちゃな夏ちゃんがこの後どうしてくれるかは分からない。

2013年2月11日月曜日

今日という日の復習

  記紀によると、筑紫の日向の高千穂に降臨したニニギノミコトの曾孫である神武(追号)の天皇即位は紀元前660年。逝去時の年齢は127歳。以下13代成務天皇までの各年齢は84歳、67、77、114、137、128、116、111、119、139、143、107。仲哀、神功を飛ばして15代応神111歳、仁徳143歳となっている。
  神武天皇は筑紫の日向を出発して東征した。大阪湾から河内湖に入るところはかった。その先でナガスネヒコと戦ったとき神武は盾を取り出して防戦した。その地が現東大阪市の盾津で、私は小さい頃ここで育った。(そんなことはどうでもよい。)
 転戦を余儀なくされた神武軍は熊野に迂回すべく大阪湾南部を航行し、兄のイツセが血にまみれた手を洗った。それでこの周辺を血沼海(ちぬのうみ)といい、私は思春期をここで暮らした。(そんなこともどうでもよい。)
  神武天皇陵は、古事記によると「畝火山之北方白檮尾上」、書紀は「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)と記しているが、江戸時代にはその場所が不明になっており、畝傍の北の方の塚山、平野部のミサンザイ(神武田)の地、畝傍山上近くの丸山の各説があった。

  幕末の孝明天皇はミサンザイ(神武田)を神武天皇陵と決定したが、記紀の記述の上からなら最も有力な丸山としなかったのは隣接する洞(ほうら)部落を移転させる時間的余裕がなかったためとの説がある。
  その後、ミサンザイ(神武田)の二つの土饅頭のような塚?は八角墳に、そして円墳に拡充、改造されたことは各時代の絵図に残っている。
  そうして、明治5年に「1260年ごとに大変革が起こる」という中国の讖緯説(しんいせつ)に基づいて紀元前660年を皇紀元年と定め、明治6年の太陽暦導入で即位日つまり紀元節を1月29日と定めた。なお、翌年からは2月11日とした。さらに明治23年に橿原神宮が建てられた。
 その頃から「神園拡充整備」計画が進み、大正6年から9年にかけて洞部落等は「神武天皇陵を見下ろし畏れ多いことだ」と強制移転させられた。
  この強制移転の話は、小説ではあるが住井すゑ著「橋のない川」第二部の「ふるさと」の章に書かれている。

  戦前の教科書は「さうして、一羽の金色の鵄(とび)がどこからともなく飛んで来て、天皇の御弓のさきにとまった。そのきらきらとかゞやく光に、わるものどもは目がくらんで敗走した。長髓彦はまもなく殺され、大和は全くしづまった。天皇は、皇居(くわうきょ)を畝傍山(うねびやま)の東南、橿原(かしはら)にお建てになり、はじめて御即位(ごそくゐ)の禮(れい)をお擧げになった。この年がわが國の紀元元年(きげんぐわんねん)である。さうして、二月十一日の紀元節(きげんせつ)は、このお祝ひをするめでたい日である。」と、これら全てを考察や質問さえ許されない史実として教えてきた。
 そして戦後は、科学的態度で歴史教育を行うこととなり、私などの世代は記紀にほとんど触れずに暮らしてきた。
 だが政府は、昭和30年代から徐々に、しかし確実に「神話を通じて古代の人々のものの見方」を教えるよう指導してきた。

  さて、いじめや体罰問題を取り上げて現在の学校や教員や教育委員会をほゞ全的に否定し、管理統制を徹底すべきだという声が出てきている今こそ、心静かに建国記念の日誕生の歴史を考えてみようと私は思う。

 歴史書が物語る一番の真実は、書かれている内容よりも編纂者の意図だと言われている。
 記紀等の神話は非常に貴重な文化遺産だと私は思う。そして、これを政治的に利用する人々こそ、一見愛国者のようで、実は先人を冒涜しているように思えてならない。

2013年2月9日土曜日

鏡に何を祈ったの

  知人のブログに奈良の「山の辺の道を黒塚古墳まで歩いた。」とあった。
  凡そその地は巨大な前方後円墳が誕生した地、つまり、大王(天皇)と国家が誕生した地と言われている。
  黒塚古墳は33面の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が埋納された状態で見つかったことであまりに有名である。

  その鏡の副葬だが、弥生時代の九州の墳墓や中国大陸の墳墓に全く副葬されていないわけではないがほとんどなかったものが、我が国の古墳時代(巨大な前方後円墳)の誕生とともに桁違いに爆発的に出現している。それまで近畿では全くなかったものである。
 これは、征服王朝説を唱えたいほどの大々大変化である。(唱えているわけではない。)

  それで、例によって、その鏡の副葬についてあれこれ空想の世界に遊んでみた。

  かつては、三角縁神獣鏡は邪馬台国の女王卑弥呼が魏から下賜され、それを卑弥呼なり卑弥呼の後継者が、各地の首長に服属の代償として分与(下賜)したもので、それほど尊い威信財であるから「あの世で困らないよう」副葬されたと書いてある書物が多かったように思う。
  日本書紀の記述から地方首長が服属する証に献上してきたものとの説も、結論は同様に、権威の象徴たる威信財と述べているものが多い。
 そういう説明を読んだとき、貧乏人の私は「遺産相続をせずに、本当にそんなもったいないこと(埋納)をしたのだろうか」と不思議であった。
 それには、古墳は単なる墓ではなく、葬送儀礼の会場、首長権継承儀礼の会場であったから、参列者に副葬を見せつけることに意味があったという説も読んだことがあったが、半信半疑の気持ちでいた。
 次に「武器庫(宝物庫)説」もあったが、発掘された状態からは一般論としては肯けなかった。
  それに対して、「道教では鏡は神仙界に昇る(昇仙)うえで必須の道具であった」から、黄泉の国でも首長たらんとする、神仙界へのパスポートだったという相当有力な主張もある。始皇帝陵もそのことを物語っていると言われると否定できない。
  さらには、道教に基づき不老長寿等現世利益を保証する鏡を供えて、亡くなって神に昇華した首長に、残された共同体の安寧を祈ったという説もある。これも有力だし猛き神を祀る神社への参拝を思うと感覚的にも理解できる。
  さらにさらに、「道教では鏡は魔除けの呪具」であるから死者が神仙界に昇り終えるまでに色々な妨害をなす悪霊を辟邪(へきじゃ)する機能を期待したとの説もある。これが現在一番多数説と言われている考えかもしれない。なるほどである。
  ところが、黒塚古墳では33面の三角縁神獣鏡が棺の外側に、鏡面を死者側に向けて並べられていたのである。
  これは、強大な呪術者でもあった棺内の大首長の霊に、「よみがえってくれるな!」とその荒ぶる霊力(荒御魂あらみたま)を封じ込めようとしたとしか考えられないと書かれている白石太一郎先生の説に私は今一番説得力を感じている。少なくとも黒塚古墳の三角縁神獣鏡に関しては・・・、鏡によって格が違い目的も異なっていたとして・・・・・?

  真実は解からない。証人は一人も残っていない。ひと口に古墳時代と言ってもその信仰にはバリエーションがあり、時代により変化がなかったと考える方がおかしいかもしれない。
  と、我が家のちっぽけな銅鏡を磨きながら早春の夜長を遊んだ。
 そして、天理参考館で三角縁神獣鏡に語りかけたが、仙人たちはただ微笑むだけだった。チャンチャン

2013年2月6日水曜日

気品がある

  立春を迎えたが、ツグミを見るとまだまだ「冬だなあ」と感じる。
  冬枯れの木にわずかに残った実を目指して、ケッケッと飛んで来たりすると、冬真っ只中を感じさせる。
  色合いからはスズメに、大きさからはヒヨドリに間違えられたりするが、写真のとおり、浩然とした姿勢にはスズメやヒヨドリが感じさせない気品が漂っている。と、私は勝手に思っている。
 絵に描いたように端正なスタイルだと思っている。好きである。

  そのように「気品のある鳥だ」と感じながら、私はどうしても伏見稲荷を連想してしまう。
  伏見稲荷の『寝覚め家』等のスズメの丸焼き、ウズラの丸焼き、ツグミの丸焼きである。が・・・ツグミは今はない。
  骨と脳みそと僅かな肉の何が旨いのかと聞かれると困るのだが、伏見稲荷参りには付き物の行事食であり野趣である。
雀の丸焼き ネットから
  もちろん、ツグミは捕獲禁止であるから今はもうない。あっても基本的には輸入物の肉らしい。ヒヨコとの説もあるが、すべて伏見稲荷のことであるから狐に騙されていればよい。まあ、堂々と養殖のウズラで楽しんでもらいたい。

  昔、スズメとウズラをわざわざ伏見稲荷まで買い出しに行って飲み会の卓上を飾ってみたが、やはりTPO、・・・参道で食べる野趣はなく空振りだった。

  近頃のツグミの激減ぶりを見ると、丸焼きはあきらめてバードウオッチングで満足するとしよう。

 なおスズメの方は、夏には虫を食べてくれるから益鳥と呼ばれ、秋には米を食べるから害鳥と呼ばれている。
 人間は勝手なものである。
 野鳥の会の人々に言わせると、差し引き圧倒的に益鳥だとおっしゃっている。
 しかし、秋の田から飛び上がる大集団を見ていると、農家の方の「害鳥駆除」の要望もわからなくもない。と、無責任な傍観者を決め込んで、「また伏見稲荷に行ったら食べてやろう」などと考えている。
 以前に肉の卸売店でスズメの丸裸のパックを見たことがある。そのパッケージにはSpainとあったので、少し偽善的にホッとした覚えがある。

2013年2月4日月曜日

戌亥の隅にどっさりこ

  2月3日、日曜、晴れ、節分。
  お祭りを見ると、祖先たちが何を恐れ、何を願い、どう祈ったのかが何となく理解できるときがある。
  立派な書物よりもよく解るときがある。
  そんな雰囲気が好きで、久しぶりに手向山八幡宮の御田植祭に行ってきた。
  さすが寺社仏閣がひしめく奈良。
 近鉄ニュースが各地の節分の行事をズラーッと並べている内には入っていない。このなんともいえない規模の小ささがたまらない。
  鼓と鉦をボンボン、カンカンと鳴らして世話役のような人々が謡いを謡うのだが、これが、「ええ加減にしなさい!」と言いたいほど下手なのも味がある。(鼓もポンポンではない)
  要するに能楽の形式で農耕儀礼をなぞりながらお祈りが進んでいく。
  クライマックス(と私が勝手に言う)は子供が扮した牛が「も~~~」と啼くところ。(上の写真)

  そして翁は、例えば「西の田に種を蒔こうぞ」と言って種をまく。
  その種である豆が私のところまで飛んできた。
  いわゆる豆まきの豆ではそんな気にもならないが、これはチョッとありがたい気になった。

  時間があったので、鬼(がごぜ)で有名な元興寺に廻ってみた。
  火気厳禁の国宝の境内で、そこまで燃やすか!というほどの柴灯大護摩供と火渡り秘供があった。
  やわな足の裏のため心配だったが、原発撤廃!、原発撤廃!と祈りながら火渡りに挑戦した。参加者が多くて私が渡るときにはほぼ完璧に冷えていた。フクシマもこうあってほしい。

  講堂跡かなんかの土檀の上で東北チャリティーの屋台が出ていたので、丸椅子に座ってカレーを食べていたら、その土檀の前に何かの供養塔のようなものがあったらしく、山伏の一行が法螺貝と錫杖を鳴らしながらやってきて、まるで壇上の私に向かって一斉に般若心経を唱えだしたので跳びあがった。(おいおい私はまだ佛になってないぞ!)これには本当にびっくりした。

  夜はもちろん、イワシを焼いて、恵方を向いて海苔巻をほおばって、イワシの頭をヒイラギに刺して表に掲げた。
  そして、大きな声で豆をまいたのは言うまでもない。我が家の慣わしにより、「鬼は外」「福は内」「戌亥(いぬい)の隅にどっさりこ」と大声をあげた。明日は春である。

2013年2月3日日曜日

気の早い訪問者

  まいど代わり映えもしない虫の話でお恥ずかしいが、2月2日は4月上旬並みに暖かくなった。
  と、「待ってました」とばかりに我が家を訪問してくれたのが写真のシジミチョウ。
  その華麗な衣装に、「もしかしてルーミスシジミ?」と胸が高鳴った。
  ルーミスシジミは春日奥山に生息?する天然記念物、絶滅寸前種。
  若い頃いくらか山登りをし、その関係で山の本を楽しく読んだことがあったが、ルーミスシジミはそんな山の本の中ではおなじみの登場人物だった。
  お察しのとおり、そんな夢のような出会いがひょっこりおこるわけはなく、もしルーミスシジミであれば然るべき報告が必要なぐらいの大事件であるから、やっぱりムラサキシジミというのが正解だろうが、素人の私には、正直に言ってルーミスシジミとムラサキシジミの見分けはつかない。

  それでよい。
  正月早々にブログに書いたが、今年初訪問をしてくれた鳥はルリビタキだった。そして今回、初訪問をしてくれた虫は、ユスリカには悪いがユスリカは除外して(申し訳ない)、それはこのムラサキシジミだった。
  二人とも、家主の老化と反比例して、揃って美しい訪問者だった。嬉しい。
  お坊さんに言わせれば「そんな良いことが続いた後にはよくないことも来るというのが諸行無常の意味である。」と言われそうだが、浅はかな凡夫は、「年の初めから綺麗な訪問者が続いたから今年は良い年になりそうだ。」と、ノーテンキに喜んでいる。
 だが気の早いムラサキシジミよ! 瞬間的な気温の後には驚くような寒気が下がってくるらしい。
 やはり諸行無常が真理なのだろう。

2013年2月2日土曜日

無視されてきた虫

  このあいだは厳冬のカマドウマの生命力に驚いたことを書いたが、私は常々この小さな羽虫にも感心している。
  風さえなければ気温8度はそれほど厳しくはないと言えば言えなくもないが、それにしても動いている虫はほとんどいない「寒中お見舞い」の季節である。
  だから、そんな冬空の下を、ゆらゆらと蚊柱を立てたり、弱弱しく飛び回っている姿は健気で感動的でさえある。(見ようによっては弱弱しくも女々しくもない。)
  私は小さい時からこの蚊柱の下で「う~~~~~~」と唸るのが好きだった。
  蚊柱が私の声に応じて降りてきて、顔の周りを回るのが、ペットを飼い慣らしているようで楽しかった。
  世間では、顔に近づく蚊柱は嫌悪の対象らしいが信じられない。(という私の感覚が信じられないというのが世の大勢ですか。)
  この主人公がユスリカであるらしいことは文献等で薄々は知っていたが、さりとて本当に確かめるようなこともせずに今日に至っていた。
  そこで一念発起して撮影してみようと思い、ようやく椿の葉に留まったところをパチリと撮ったら、なるほどやはりユスリカだった。(きっとそうだろう?)身長は約3ミリ。

 それにしてもいったい何処から湧いてくるのだろう。
 文字どおり湧いてくる感じである。 あの弱弱しい飛翔力で直近の川から飛んできたとは到底思えないし。

  その蚊柱をほとんどの人は知っているが、その名前はほとんど知られていない。
 もちろんその生態は言うまでもない。
 これほど徹底的に無視されてきた虫もいないだろう。
  ある本には「益虫でも害虫でもない虫」と書かれていた。
  無芸大食、何か身につまされる連想が働いた。