2013年12月30日月曜日

蝋梅の香り

  歳末の諸ニュースには腹の立つことも少なくないが、1年の最後のブログになったので、我がブログのコンセプトどおり、些末でかつ美しい話題で締めくくりたい。
 私は庭木については、いつ、どこで、どんな気持ちで購入して植えたのかほとんど覚えているが、この蝋梅だけは、いつ植えたのか記憶が定かでない。
 というのも、ほんとうに雑木扱いをして、他の木の下に適当に植えて放っておいたので、実際成長も悪く、長い間さっぱり目立っていなかったからである。
 それを、周囲の木を思い切って選定してから、ここ数年だんだん花が増えてきて、ついに今シーズンの蕾は新年早々の素晴らしい満開の兆しを感じさせてくれている。
 さらに、その香りをブログでお伝えできないのが残念だが、蝋梅の英名は、Winter sweet で、文字どおり冬空に甘い香りを漂わせる花である。だから、その香水もあるという。
 季節は五感のそれぞれで感じることがあるが、私だけかもしれないが嗅覚で得る季節感には特別のものがある。
 春3月下旬の沈丁花は、新しい仕事への不安と重なった人事異動の季節とぴったり連動する。
 初夏のニオイバンマツリはうっとうしい梅雨の合間の清涼剤だ。
 秋の金木犀は「気温が高かろうが季節は秋。夏は終わった。」との宣告のように毎年感じ、若い頃はギンギンに生命感あふれる夏の終わりが寂しかったが、この頃はへとへとになった猛暑のゴールが見えてホッとする。
 そして、この時期の蝋梅は、冬至を越えた光の春を実感させ・・・新春の新たな決意を自覚させる。
 ああ、この香りをお届けできないのが口惜しい。
 で、その香りに乗せてどんな決意をしたのか?
 それは来年のブログでおいおい綴りたい。
 では皆様よいお年をお迎えください。



2013年12月28日土曜日

箸袋をつくる

  タイトルにするほど大層なことではないが、お正月用の祝箸を(正確にはその箸袋を)つくった。
 重ねて言うがそんな大層なものではない。
 つくろうと思い立った動機は二つある。
 一つは私が悪筆で墨痕鮮やかな習字ができないこと、・・・・だから皆の名前が正月早々貧相になってしまうのが辛いこと。兼好法師は「手のわろき人の、はばからず文 書き散らすはよし」と言ってくれるが、当事者は辛い。

 もう一つは、この街のショッピングモールでは、売っている祝箸の全てが『上からお箸を差し込む関東型』で、『下から差し込む関西型』の祝箸を全く置いていないからである。
 昔、多くのスーパーでは「鶏レバー」と表示されていたのにダイエーだけは「きも」と表示していたのは有名な話だが、それは懐かしい昔話になってしまい、関西経済の衰退(関西文化の地盤沈下?)はここまで(つまり関西型の箸袋が全滅するところまで)来たのかと気持ちが沈んでいる。
 ISOだとかグローバリゼーションだとか、画一的で東京的なものが地域や文化を駆逐していっているようだ。
 関東型を置いているのが悪いわけでないが、関西型がゼロはないやろう。

 ということで、それなら『下から差し込む関西型』の箸袋を自分でつくろうと決意した次第。
 で、・・・始めてみると非常に簡単で、A4縦を縦に四等分して、その端の四分の一を切り捨て、残りの紙を折りたたみ、上のほうをまとめて裏に折り返したら基本的には終了する。
 後は、箸を差し込む下の方の左右を三角に切り込むと形の基本は終了する。
 そして、その形を想定して、寿の文字や鳳凰の図をあしらい、親族の名前を書き込んだ。(書き込んだというかパソコンで印刷した。)・・・順序としてはこれが先。
 いわゆる取り箸は関西ではふつう「組重」と書くらしいが、我が家は「山海珍味」と書く。そして、お供え用に「神仏」と書く。「山海珍味」のいわれは判らない。代々のしきたりとしか言いようがない。
 ・・・・・・・名前をパソコンで印刷することについては、いろいろご意見もあるだろうが、実際、毎年毎年この時期、新聞の投書欄などでは「パソコンの味気ない年賀状より手書きが良い」という決まりきった投書が必ず掲載されてゲンナリするが、それだけに、そういう負い目を背負って、手書き以上の年賀状にしようと毎年努力している。で、箸袋の印刷もここは容赦願いたい。
 金色の「水引もどき」で飾り、孫の分にはシールを貼って完成した。
 「水引もどき」だが、それらしい水引をつくるのは難しく、妻と二人で悪戦苦闘して「もどき」にした。
 妻は、「よう次から次へといろんな物を手作りしようとするもんやなあ」とぼやきながら手伝ってくれた。
 元日からスーパーが開いている現代、お正月の準備なんか止めようかという気持ちが無くもないが、以前にスノウさんから教わった「告朔の餼羊(こくさくのきよう)」という教えを思い起こし、最小限の準備をしつつある。
 そうして、少しずつお正月が近づいてくる。

2013年12月26日木曜日

ネットオークションは"重かった"

  堺の住職から「ネットオークションで石臼と杵がこんな値段で出ているのやけどどうやろう?」と電話があった時には、「その値段やったらお買い得やと思うで」と答えておいたのだが、先日、お寺での恒例のお餅つき大会に行ったときにはほんとうに驚いた。
 石臼と聞いただけで「ある種の大きさを、・・当然そういうものだろう」と思い込んだ私が軽率だった。
 写真のとおり4升ぐらいはつける大きさで、その石の底の分厚いこと。
 (ホームセンター等で展示されている石臼を実見すればその分厚さがお分かりいただけるだろう。)
ひげ親父さん 撮影
  核家族の家庭では途方に暮れるに違いない。
 私をはじめ口ばっかりの熟年組が主力になってきたお餅つき大会では先が思いやられる大きさだった。
 つまり、設置するのも片づけるのも身体頑健な男手が3~4人は要る代物だ。
 青年の参加を勧奨するのが喫緊の課題だということを合意したのが成果である。
 
 それは何もお餅つき大会だけのことではない。
 私の感じている感想を言えば、「維新にやらせてみたら」とか、聞くに堪えないヘイトスピーチとか、間違えばネオナチズムに向かう心情が非正規不安定雇用で先の見えない青年層に広がっていると思っている。一種のペシミズムだろう。
 朝日の紙上で作家の星野智幸氏は、「長年の経済的な停滞と労働環境の悪化、それに伴う人間関係の破壊、いつか人生を転落するんじゃないかという恒常的な不安などがつのっていたところに、大震災と原発事故が起こった。・・・・これ以上悲観的なニュースや将来像は見たくないと心身が悲鳴を上げ、現実から目をそらす。そうして無関心が広がっていく。「日本人」(偏狭なナショナリズム)信仰は、そんな瀬戸際の人たちに、安らぎをもたらしてくれるのである。」と分析されている。
 だから年寄りが、この現実を直視せず、「インターネットは苦手や」などと言って、旧態依然とした「集会待ち」ではいけないのではないか。・・・・これはちょっと寄り道。

 当日は寒波であったがそれこそ「お餅つき日和」。
 「お餅をつくのは最小限に止めよう」とか言いながら、結局は震えながら10臼程ついた。 
 皆のお餅つきの技量も相当アップした。
 ご住職の「たこ焼き」もプロの域である。
 東日本支援バザーも回を重ねている。
 継続は力である。
 未来は決して暗くない。
 会場や道具を提供してくれた堺の調御寺のおっさんにはお礼の言葉もない。

2013年12月24日火曜日

ハッピークリスマス

  今日はクリスマス イブ。
  和風に言えば・・歳末。
  この1年を振り返って見て、自公政権の暴走に暗い気持ちが晴れないが、民主主義を求める運動の歴史的な広がりに希望も持てた。
  ただ、就職難や非正規不安定雇用の下で、青年に広がっているアナーキーな感情が心配だ。
 それは青年の責任ではなく、全有権者に問われていることだ。
  だから、年寄りは口が動き手が動くうちに、その経験を語らなければならないのでないかと痛感している。
  そんなときに、こんなクリスマスソングを見つけた。
  ジョン レノンのハッピークリスマス。
  これは遥か昔や遠い世界のことではない。
 「積極的戦争主義」を掲げる私たちの国の指導者が現在進行形で進めている道である。
 クリスマスの馬鹿騒ぎから一歩退いて歌と動画を見ている。

2013年12月22日日曜日

マートルの実が香らない

(1) ご近所から「香辛料になるよ」と言ってマートル(銀梅花)の実を妻がいただいた。

 花はそのままサラダに、枝は肉料理の香りに、そして実も同様に使うと教えていただいた。
 そのため、教えていただいたとおり? よ~く乾燥させて、妻がすり鉢で擂ってペッパーミルに入れ、ポークのステーキにいっぱい振りかけた。が、仄かに、ほんとうに仄かに香りがするかな・・という程度で、私なりのギリギリいっぱいの合格ラインには到達しなかった。
 その上に、乾燥させすぎと擂りつぶし不足で固い固い粒々が口に残った。
 カレーに入れたときも、弱った歯と歯の間に粒が挟まって、赤点どころかマイナス点だった。
 この1年も、いろんな香辛料やハープに挑戦したが、これほど肩透かしを喰らったものもない。
 どなたか、マートルの実の利用方法をご存知のお方はご教示ください。

(2) 二月ほど前のことだが、今は沖縄にいる古い友人と旧交を温めた。
 その時に彼が持参してくれた土産が豆腐餻(とうふよう)。
 豆腐を発酵させたもので、腐乳とか乳腐とか解説されているものだからゲテモノ扱いされたりしているが、実は上品な高級食材である。
 
  見事な紅麹の赤が反って視覚的に人を驚かせているのかも知れない。(着色料ではない。)
 文句なしに高級チーズ料理と言えよう。
 「写真を撮っておこう」と思ったときにはこのとおりほとんど残っていなかった。
 以前に沖縄で食べたことはもちろんあったが、「こんなに美味しかったのか」と首をひねっている。
 そのまま食べてもいいし、肉料理等に塗って食べてもよい。
 こちらはマートルと違い良いほうに番狂わせだった。

2013年12月21日土曜日

千手観音は胴長短足?

  先日、和歌山県立博物館伊東館長による「東大寺の千手観音像の制作年代等に関する講義」を聴く機会があった。
  話は、古い情報が得られていない東大寺の通称四月堂に安置されていた千手観音菩薩立像(重文)のことで、四十二臂を説く経典の渡来時期や木彫像の技法や材質、他の仏像との比較検討から、奈良時代後期から平安初期の作品ではないかということを丁寧に説明された講義だった。
 ただその話の隅っこに、「この像は残念ながらデザインが悪いので評価されていない」という言葉があったことに私は興味がそそられた。
 写真(1)のとおり、一言で言えば「胴長短足」である。
 しかし、そのようにデザイン力、構成力が稚拙な仏師にしては上半身の彫刻はしっかりしていないか。なら、上半身を、つまりは千手をデフォルメしたのではないか。
 あるいは、前のスカーフ(天衣)のあたりを膝だと思うのが早合点で、下腹に帯を締めてすっくと立っているなら日本人の体型そのものではないのか。・・・などと思いをめぐらせた。

  そして、この像は実は元々は東大寺のような大伽藍に安置されたのではなく、もっと小さなお寺用に彫られたのでは・・・などと想像を膨らませた。
 もし、そんな想像が許されるなら、小さなお堂の中で丈六半(266.5cm)の観音を写真(1)のように見ることはなく、実は足元に座り込んで写真(2)のように見上げたのではないのか・・・などと・・・。
 そうだとしたら、深い深い構想力、デザイン力といえよう。
 この像は、今般、修理に伴う調査が行われたようなので、そのうちに調査結果が発表されるだろうが、私としては「胴長短足の1.5級品」という評価はかわいそうだと思っている。
 あえて言えば、前の下のほうの手が低すぎるのが・・・そのあたりを丹田と思わせてしまったのが弱点で、その点だけが惜しいものだと思っている。(前の下の手がなかったらよかったのに・・・、それでは千手観音にならないのか・・・、などと素人は自由に無茶苦茶考えるのだった。)

 ※ 現在は四月堂ではなく、東大寺ミュージアムに安置されている。

2013年12月19日木曜日

五十年の月日

ネットから
  12月17日は祝祭の日だった。
  といって、南都最大のお祭り、「春日若宮おん祭」(17日)のことではない。
  阪神電車の「ドーム前」駅直結のイオンは祝祭参加者であふれ返っていて、軽食のお店も、女性用トイレも長蛇の列で、私はドームに入る以前に、すでにここでドドーッと相当圧倒されていた。
  それは、44年ぶりとなるオリジナルメンバー5人による The Tigers のコンサートに向かう人々で・・・・。
  グレーやベージュのダウンコートの波波波・・。 
  95%が大阪のおばちゃんで5%がおっさんだった。
  そして、紛れもなく私たちも同類項だった。
 それにしても、世のおばちゃんたちの元気さはどうだ!

  ステージは期待を裏切らない夢の幕開けだったが、5人の外見は見事に観客同様に歳を重ねていて、時間はすべての人々に平等なのだとあらためて実感。
  5人中4人がシルバーグレーで、中でも沢田研二は真っ白な「老人ひげ」なのには驚いた。
  私は、観客の上にも、そして5人の上にも流れたおよそ50年の人生の山や谷を想像し、祝祭会場に似ず感無量になった。
  それでも歌は一挙に歳月を巻き戻してくれ、この私でさえ20歳代の気分になったのだから、音楽療法の世界とはこういうものだろうか。
  瞳みのるがステージを駆け、森本太郎、加橋かつみ、沢田研二、岸部一徳が足を前に振り上げるコサックダンス風の例のラインダンスを踊ったのには参った。もちろん、そのあと息は上がっていたけれど。
  その上に、会場側の、シーサイド・バウンドに『ゴー ゴー』と片手を振り上げる何万人というおばちゃんたちの波にもついていけず、私はステージの上と下から大きな落伍感を感じたのだった。
  それでも、まあ、The Tigers のコンサートに行っただけでもキチキチいっぱい落ちこぼれていないかと自分を慰めつつ「これではいけない」と強く思い直した。(このことだけでもアンチエージングの効果があった。)

  「色つきの美女でいてくれよ」とのステージ上からのアピール(歌)におばちゃんたちはうっとりし、おっさんたちは混雑に疲れ肩を落として会場をあとにした。
 それが、あれから50年後の現代ニッポンの事実であり現実である。

2013年12月17日火曜日

執金剛神立像

  1年に1日、12月16日(良弁の忌日)しか公開されない秘仏なので一度は見てみたいと思っていた。(なお、去年と一昨年は公開されておらず3年ぶり)
 それで、東大寺開山堂の良弁像にお参りしたあと三月堂(法華堂)に足を運んだ。、
 それは三月堂の本尊?執金剛神立像(しゅこんごうじんりゅうぞう)で、かの有名な不空羂索観音像の裏に後ろ向き(北向き)に安置されている。

 衆生を救うという仏教、あるいはそういう思想以前の国家仏教にしても、普通に考えれば立派な仏像を「どうだ」と見せることによって教えを広めたいと思うように思うのだが、どういう理屈で『秘仏』という制度を先人たちは考えたのだろう。
 「出し惜しみした方が市場価格が上がる」というような打算だとは思いたくない。
 ただ、そういう制度のおかげで、極めて劣化が少なく保存状態のよい天平仏を見ることができている。ありがたい。

 さて、 執金剛神像の髻(もとどり)の元結(もとゆい)紐の端がないのは、平将門の乱のおり将門誅討の祈願を行ったところ、元結が大きな蜂になって飛び去り将門を刺して乱を平定したためと言われている。
 祈願した、・・将門が敗北した、・・という事実からこんな創作をしたのは誰だろう。
 大昔にもブロガーみたいに「何か言いたい」人がいたのだと想像する。

 今、戦後民主主義を総決算するという晋三の乱や徹の乱が起こっている。
 執金剛神さん、秘仏なんていうのに安住せず、出番ですよ。

2013年12月15日日曜日

問ん直し

   東大寺二月堂北東の『まんなおし地蔵尊』のことは2012年10月26日の記事などで度々書いてきたが、この、近頃はほとんど耳にしなくなった「まんなおし」と言う言葉や、比較的簡単なお祈りで?運気を開こうというあまりにストレートな発想に、私は返って興味を感じていた。
 そこで、大阪市内にも『まんなおし地蔵尊』があるというのを知ったので、真田山の心眼寺にお参りに行って来た。
  すると、山裾にひっそり野ざらしで祭られていた東大寺の『まんなおし地蔵尊』に比べると、こちらの方は大都会のど真ん中らしい立派なお堂の中に鎮座されていたので、その、いろんな意味での格差に驚いた。
 歴史の向こうに忘れ去られたような方(地蔵尊)が好きか、現役バリバリの方(地蔵尊)が好きかは個人の嗜好だろうが、私は心眼寺のその立派さには少したじろいだ。
 私の乏しいボキャブラリーの中には「まんなおし」という言葉はほとんど死語であったが、ここには堂々と息づいていたのも新鮮な感覚だ。
 というようなことを感じていたとき、突然に、ほんとうに突然に、先日、三輪山に登拝に行ったとき、JR三輪駅を出たら『旅館 万直し』という旅館兼食堂の看板が目に飛び込んできたので再び驚いた。

  「まんなおし」という言葉は死語ではないんだ!と、何か民俗学的な発見をしたような興奮でシャッターのボタンを押した。

 私は迷信は全く信じない超のつくほどの近代主義の下で育ってきた。かつ、私の好きな親鸞も「迷信はナンセンスだ」と明快だ。
 そして、現世利益や「罰が当たる」と信者を誘導する宗派もあまり好きではない。
 しかし、科学が未発達な時代に素朴に神仏にすがった先人たちの気持ちに寄り添ってあれこれ考えて見るのは大好きで、それが今回「まんなおし」を少し追っかけた理由である。
 3.11フクシマ以後、今般の秘密保護法まで、「まんなおし」をしたい事柄は山ほどあるが、「自分ひとり位行動してもしなくても大勢に影響はないやろう」というような臆病で卑怯な言い訳に逃げていたのでは「まんなおし」ができるはずもない。
 「まんなおし地蔵尊」は自分の心の中におられると考えるのがいいのだろう。

 ちなみに私は、戌亥の角の鬼門というような迷信も信じてはいないが、我が家の北東角には思想史を楽しんで猿の置物を金網に入れて飾っている。
 道行く方が「なんでっか?」と尋ねられると、「夜中に近所にワルサをしに出かけんように網に入れてまんねん」と笑って答えている。

 ■ 牧村史陽編『大阪ことば事典』(抄)
 まんなおし 【問直し】 運直し。景気づけ。不運を転換する意にいう。また、ゲン直し。
 ■ 民俗学辞典(孫引)
 漁村で不漁が続いたときマンナホシと称して氏神におこもりしたり、酒盛りをしたり、豊漁の船に酒をやり貰った魚を網にこすり付けたりする。

2013年12月13日金曜日

バーチャル体験

  天平時代の大仏殿、東塔、西塔のバーチャル復元と地下の僧坊跡の透視の実験に参加した。
 奈良先端科学技術大学院大学と慶應義塾大学が研究開発したものである。
 タブレット型コンピュータをそこにかざすと創建当時の景色に代わるのは「なるほど」と思わされるものだったが、「どのシステムが一番臨場感がありましたか」と尋ねられても、マンがよいのか悪いのか、ちょうど実験中だけ『晴天』に見舞われて、画面が見ずらいのなんの・・・あまり的確な意見を述べることができなかった。(私たちがすべて終了した頃にどんよりとした冬空に代わり、絶好のテスト日和になったが後の祭り。)
 私が今回の実験に参加したのは平城宮祉のことがあったからで、奈良県と国土交通省は平城宮祉をテーマパークのように「復元」することによって観光客を呼ぼうとしていて、実際にコンクリ舗装工事等が始まっていて、このまま行けば、ウルトラ級に学術的価値の高い地下の木簡等が朽ち果てるし、復元する建物等も学術的な正確さよりも、身びいきの勝った派手なものになろうとしているからである。
 それよりも、このバーチャル復元の技術で学術と観光が両立できないかと考えたからである。
 だが、正直に言えば、このタブレット型コンピュータでは、見易さという入口でずっこけてしまうと思う。 がんばれ、両大学。

 観光シーズンも峠を越して大仏殿も比較的すいていた。
 これなら途中で詰って騒いだとしても恥ずかしくないと、妻が大仏様の鼻の穴に挑戦した。
 少しバタバタしたがどうにか抜けられて鼻高々だった。

2013年12月11日水曜日

深刻でない私の難病

  その治療薬ができたならノーベル賞ものだ・・と言われる難病がある。
 そして私はその難病患者である。
 ただし、命には別状ないので深刻ではないが、当事者は60有余年結構苦しんできた。
 傷病名は「凍瘡」で、いわゆる「しもやけ」である。
 その治療法がよく紙上やネット上に書かれているがみんな嘘である。
 今でも専門医と称する医師が、「風呂で熱い湯と冷たい水に交互にさらすとよい」というようなエエカゲンなことを書いていてあきれている。
 60数年の経験からはっきり言うが、そんなことで症状が改善することは一切ない。
 偏食はしていない。ビタミンEは摂っている。卵も肉も牛乳も好きだ。ユベラも塗った。・・・・・・・
 大人になったら治る子供の症状と書いてある本もある。エエカゲンにしなさい。
 要するに金にならない医学分野は放ったらかしだと実感している。(振動病も同様だろう。)
 重ねて言うが、予防法だとか治療法として書かれてきたものは嘘ばっかりである。
 結局、ホモサピエンス20万年の歴史の中で南方系ルートをたどったDNAが、寒さによって命を落とすことを防止するために末梢の血流を止めてしまうという体質を獲得したなれの果てなのだろうと勝手に解釈してあきらめている。
 これで毎年命を落とさないで済んでいるのだと。
 予防と治療の答は「汗や寒風で冷えないようにする」・・・これしかないが、浮世暮らしはそうは言っておられない。
 今年も耳と足趾(あしのゆび)に発症している。
 で、「山道具屋」で耳当てのついた帽子を買ってきて少ししもやけを楽しんでいる。
 シャーロックホームズ探偵愛用のポーランド製の「鹿打ち帽」(ディアストーカー)が欲しかったが、頭部が温かくなる分懐が寒くなるので手が出なかった。

2013年12月9日月曜日

お餅つき

  ちょっとしたイベントが無事終了したので少しホッとしている。
 「12月8日を空けておいてください」と頼まれたのは5月のことだった。
 町内会のお餅つき大会だが、役員会でお餅つきを知らない者どおしが「ああでもない、こうでもない」と議論する中で担当役員が心細くて尋ねられてきた。
 「昔々から普通のおじさんおばさんがやってきたことだから心配はいらない」と答えたが不安げだった。
 そして、だんだんその日が近づいてきた。
 消防署は「薪コンロを何処においてどのように消火用バケツを置くか図面に書いて計画書を出してほしい」という。
 保健所は「お餅は素手で丸めず健康な担当者を特定するよう」という。
 おいおいおいおい。福知山の花火大会のガス爆発事故もあり、注意するに越したことはないが、それぞれの役所も「聞かれたらそう答えなしゃ~ないがな」と言ったところだろうか。
 いつも学校行事の事故などでマスコミが裁判官面をしてなじっているニュースなどを見ると、この社会は、何もせずに責任回避すればするほど正しく、ある種自己を犠牲にしても前向きに取組んだ者が何かの事故を起こしたときに叩かれるというのが社会の常識らしい。
 くだらない国になったものである。(決して安全対策を軽視しているものではない。)
 薪コンロ3台、臼2台をおいて、250人ぐらい参加し、20臼以上搗いたのだから結構なイベントだった。
 お餅の出来よりも遊びを優先して子供たちにいっぱい搗いてもらった。
 大勢の人の輪の中心になってお餅をつくのを恥ずかしがる子もいたが、孫の夏ちゃんは、私の作った幼児用の杵を使って「もっとやる、もっとやる」と駄々をこねた。
 『ダンドリ八分』の言葉があるが、どんなイベントも準備(ダンドリ) と後始末が八分か九分である。
 それを報われない役務と思うか、そういうものだと自覚するかで面白さも変わってくる。

2013年12月8日日曜日

ワイルドライフ

  「違憲状態であるが違憲ではない」などという訳の判らない日本語が大手を振っているが、いや、そういう指摘をするのは恥ずかしいほど私も乱れた日本語を多用しているのだが、よく言われる誤用の例に「情けは人のためならず」というのがある。
 「情けをかけるとその人が甘えたり反省しなくなるから結局その人のためにならない」という誤用である。
 そんな誤用的新解釈をしたくなる事件が起こった。

 身近な冬鳥の代表はジョウビタキではないだろうか。
 雄の頭は白髪で、衣装はまるで紋付のようであるから「尉」。
 ヒーッ ヒーッ ヒーッ ヒーッ と鳴いた後、カチカチカチと火打石で火を焚くように鳴くから「火焚き」。
 で、「尉火焚き」。
 綺麗な鳥だし声も悪くない。そして、人家近くに定期的にやってくる。

 私は小さな庭に野鳥のための水飲み場を作っている。といっても、使わない生け花用の水盤を置いているだけだが、ここに野鳥が水飲みと水浴にやってくる。
 窓の内側から見ていて楽しいものである。
 
 そして例年どおり、北風に乗ってジョウビタキがやってくるようになり、水盤の縁にとまって水を飲んでいた。
 すると突然、ヒューッ バタバタバタとモズがジョウビタキを襲ってきた。
 暫しの空中戦の後ジョウビタキは逃げおせたが危機一髪であった。
 私が置いた水飲み場のせいでジョウビタキは危うく私の目の前で殺されそうになったのだ。
 そのとき私は、「水盤(情け)は尉火焚き(人)のためならず」という日本語の誤用を頭に浮かべながら、暫し冬空を憂鬱な気持ちで眺めていた。
 大きな声では言えないが、そんな気持ちを、バッタや芋虫がモズに食べられているときには湧かなかったし、モズだって生きていくためには必死なのだということは理屈では判るのだが・・・・。人間(要するに私)は勝手なもんである。
 それ以来、モズは(待ちぼうけ)の「守株」よろしく我が家の前の電線で縄張りを宣言し、毎日、定期便のように挨拶をしていてくれていたジョウビタキは来なくなった。

 PS  「違憲状態だが違憲でない」は流行語大賞にノミネートもされなかった。
     それどころか、テレビドラマが二つとCM、それにIOCでの誇大広告とい
    う4つだった。
     これが現代の文化状況だろうか。
           ちょっと批評のセンスまでもがこの国では劣化していないか。
     読者の皆さん、こうなったら私たちの流行語大賞を選びませんか。
     よかったらコメントをお寄せください。
     私なら「汚染水の報道は完全にブロックされている」ですね。
     誰が言ったかって、私です。  

2013年12月7日土曜日

ちょっとしたことで体調不良

  5日の夜、大阪市内で飲んで帰るとき、近鉄奈良線で踏切事故が発生した。
 そのため、遅れに遅れて走っていた急行電車が東花園駅で運行中止。
 それなら途中の乗り換えのきく駅で停車させればよいものを、ここの駅で降ろされても生駒山を越える術がない。
 もちろん、末端の駅の社員に詰め寄ってもらちがあかない。
 トイレの長蛇の列を見ながら他人のことに同情しつつ思案した。
 放送の限りでは電車やレール等のトラブルはなさそうだ。なら、そのうちに再開は可能だろう。
 しかし、次々に入ってくる電車もすべて打ち切りで車庫に向かう。
 ということは停車した電車内で暖をとることもできない。
 そこに有料の特急電車が入ってきた。そして、降車を希望する方々のためだろう、ドアが開けられた。
 そうだ、近鉄電車は関西の私鉄の中で際立った金儲け主義で有名だ。
 だから、一般乗客を放ったらかしにして再開後は特急だけを走らせるに違いない。・・と考え、特急内で暖をとって処理を待った。
 この予想は見事に的中し、その後、全くその通りに再開された。が、それまでに体は芯まで冷えていた。(こんな日に限ってやや薄着で出て来ていた。)
 そんなせいで6日は一日中悪寒がする。
 これしきのアクシデントで体調を壊すなんて情けないが、これが年齢というものだろうかと気弱になっている。
 もっと寒風の下、国会前で抗議している方々がいるというのに。

2013年12月6日金曜日

こんな紅葉も

  家の前は街路樹がケヤキで、ちょうど落葉(らくよう)の真っ最中だ。
  上の方の葉っぱが順番に下の葉っぱに触れながら落ちてくる音は結構大きく、風もなく道路上の落葉(おちば)が舞っているわけでもないのに カサ カサ カサ  カサ カサ カサ と植物とは思えないような音を立てて動的に冬支度を急いでいる。
 私は四季折々に姿を変えるこのような落葉樹が好きである。
 とはいうものの、その落葉の量は半端でない。
 さらに、どういう訳か風の癖で、そのうちの圧倒的多数が我が家の前に吹き溜まる。
 そうなると、「マナーの悪い愛犬家?」が後始末もせずに去って行く。
 だから、週に2回、45ℓのゴミ袋を5袋ずつぐらい出しているが、まだ写真のとおり残っている。
 終いには「嵐のような木枯らしが早く落としてくれないか」と祈ってしまう。

  柿の複雑な紅葉も終わった。
  それこそ真っ赤に染まっていたアメリカハナノキも丸坊主だ。
 そして、素晴らしい紅葉を期待して庭の主木たる一等地に植えたレインボーメイプルは、今年も数枚だけ紅葉させただけで、面白くもなんともない色合いで「のそーっ」と立っている。
 そんな庭で結構頑張っているのがセイヨウカマツカ(写真)で、誰にも注目されないにもかかわらず健闘しているようで「ウイな奴」だ。
 ただその実は、全く甘くなく楽しくない。
 それでも冬枯れの頃になるとヒヨドリが盛んに啄ばんで飛んで行く。

2013年12月5日木曜日

「取り違え」の訴え

  事実を正確に知りもしないで論評するのは避けなければならないのだろうが、ぼや~っとテレビのニュースから聞こえてきた程度の事柄について、独り言を言う。
 ニュースは、産院で取り違えられた60歳ぐらいの男性が産院に損害賠償を訴えていたものが一定程度認められる判決が出たというものだった。
 確かに、その歳になって実は実の親子ではなかったと判ったショック、そのときには実の両親はもう亡くなっていたというショックは慰謝料に値すると同情する。
 しかしニュースは、男性の訴えの主張として次のように述べていた。
 「育てられた家庭は貧しく進学もできなかったが、実の親の家庭は裕福でその子供たちは進学もできていた」と。
 なるほど、民事訴訟の稼得できたであろう収入の差が「取り違え」によって発生したというのだろうが、ニュースの続きを聞く限り単純にそうではなく、私には「実の両親の裕福な家庭で育てられたなら得られたであろう幸せを償え」と言っているように聞こえた。
 というニュースを聞きながら、私は何か釈然としないものを感じたまま今日に至っている。
 重ねて言うが、私は事実そのものを正確には知っていない。だから、私の抱いた印象が誤解かもしれない。しかし、とりあえず私の抱いた印象で感想を続けたい。
 私が心の中で抱いた疑問は次のことである。
 第一は、「幸せ」とは何だろうということで、裕福な家庭の子は幸せで、貧しい家庭の子は不幸せなのだろうかという疑問である。きれいごとを言うな。そんなのはそうに決まっているではないか。少なくとも幸せになれる確率は何倍も違うのが現実ではないか。・・・という声は知った上で、何かが違うという思いが私には残る。
 例えば、裕福な家庭に取り違えられた子の方が、ある種上流階層にある学歴社会に落ちこぼれないようにと駆り立てられた「失われた青春」や、一流大学を卒業して一流企業に就職して心を病んだ多くの例のごとくになって、「私は裕福な家庭に取り違えられたことによって不幸せだった。」と訴えればそれは通らないのだろうか。
 男性は非常に苦労されたようでそのことを茶化す気などは全くないが、「幸せの代償」というようなものを全て貨幣価値で論ずることが正しいのだろうかと私は悩む。
 第二は、育ての親のことがほとんど論じられていないことが気にかかる。「感謝している」とのコメントはあったようだが。
 育ての親は、早くに母子家庭となって生活保護を受けていたという。そこまでして育て上げた育ての親は、「私を幸せにしなかった親」なのだろうか。
 もし裁判所が彼の「不幸」を認定するのであれば、その論理の帰結として、貧しさゆえに進学を断念する子が生じないよう、即時、国家が憲法の保障する健康で文化的な生活を保障するよう指摘し、真の被告は国家であることを宣言すべきだろう。
 それにしても、「幸せ」を裁くことができるのだろうか。結局私は解からない。
 私は青春時代、「貧乏人のぼんぼん」とあだ名されていた。

2013年12月3日火曜日

昨日の続き

  巨大与党の幹事長が「デモはテロに通じる。」とのたまわった。
 いみじくも特定秘密保護法案は「テロ対策は特定秘密で、知ろうとしたら重罰に処す。」としている。
 この法案の本質をポロッと垣間見せたものだろう。

 ただ、こんな不当な石破発言とタイミングが合ったものだから、私のデモンストレーションへの昨日の提言(というほど大げさなものではないが・・)が否定的な印象をもたれたかもしれないと心配するのでチョッと続きを書いてみる。

 国会や官邸前行動ではない御堂筋パレードのようなデモのことである。
 私が思うには、少なくない市民は「あれは公務員や新聞記者のことで私には縁遠い法案だ。」という感覚で今もいると思う。
 そういう人々の前を私たちは歩くのだ。
 そのとき、「秘密保護法ハンタ~イ」と唱和するだけで、私たちの思いが人々の「胸に落ちる」だろうかと思うことがある。「ああ、反対している人がいる。」で終わってしまわないだろうかと。

 だから、「市民の皆さん、フクシマ原発の事故のとき、私たちは『メルトダウンはしていない』『メルトダウンはしていない』とどれだけ騙されたことでしょう。」「秘密保護法はこういう嘘を制度化するものです。」とか、・・・
 「スピーディーの情報が秘密にされたおかげで、危険な地域、危険な地域に非難した方々も少なくありません。」「だから秘密保護法は庶民の安全に直結している問題です。」というような、
 ・・・一捻りしたスピーチと言うか、そんなアピールがよくありませんか?と私は言いたいのです。
 内容も方法も、みんなが考えて工夫しませんかと・・・昨日の記事では言いたかったのです。

 そして、沈滞した現状を変えようと思う人々が、デモンストレーションひとつ改善し工夫しようと思わないで、どうして明るく楽しい時代を用意できるのでしょう。
 まあ私の提案は往々にしてスベッテばかりいますが、どんな意見も最初は少数意見だとも言いますから、めげずに試行錯誤を続けたいと思っている。 チャンチャン。

2013年12月2日月曜日

御堂筋パレードで不評を買う

  12月1日は、実は義母の外泊の日だった。
 リハビリを兼ねた家族カラオケ大会も用意してあった。
 しかし、今のところ義母の方は2週間後にやり直すのも可能だが、秘密保護法は待ったなしの情勢に思えた。
 ということで、カラオケ大会は妻と妻の姉に任せて、秘密保護法反対の御堂筋パレードに参加した。天候は「集会日和」だった。
 金曜日に集会の情報を得て、何の指示も動員もないのにたくさんの市民が集まった。
 3時半に終了の予定が、私たちが流れ解散したのが5時近くだったから、自覚した市民の底力に確信を持つべきだろうと私は思う。
 用意したオールドファッションのプラカードは知らない参加者からも「いいですね」と好評だったが、私がパレードを飾ろうと用意したシャボン玉は「泡が服に付くとシミになる」と大きなブーイングだった。
 そして、ミニハンドマイクでそれぞれが市民にアピールしませんかという試行も、「音が小さい」とか「私はいいです」というように、今一つだったかもしれない。
 しかし私は、どうしたらデモンストレーションが市民に広がるだろうかと悩んでいるのだ。
 例えばシュプレヒコールとミニハンドマイクのアピールのことだが、一見したところ、大きなマイクでシュプレヒコールを唱和した方が確実に市民の耳には届くと思う。しかし私が言いたいことは、それが心に届いているかということだ。(国会前集会や官邸前集会ならそれもよい。)
 まだ試行錯誤の段階だが、40年前と全く変わり映えのしないデモをしていていいのだろうか。
 小さなマイクでもいい、一人一人が思うところをアピールし、周辺の参加者20人ほどでもそれに楽しく合の手を入れる。これって結構いいんじゃないのだろうかと自惚れているが、友人たちにも理解は得られていない。
 それに、マイクの音量や唱和の形を「費用対効果」のように考えるのも如何だろうと思う。
 そんなことを言えば、共感を得られるようなアピールもせずに交通を遮断しているデモなどしない方がいいことになる。
 重ねて言うが、市民の心に響く工夫を参加者それぞれが努力してみるべきではないだろうか。

 友人が自家製の柿のお菓子を持ってきてくれた。
 私もちょっとだけラムネとシャシャンボを持参した。
 ミニハンドマイクも何人もが使用してくれた。
 こういうのを「萌芽」というのかもしれないが、運動も新たな躍進を準備しつつあるように思っている。

 






  2日(月)の朝日朝刊社会面は、半面を使って御堂筋パレードを明るく報道していた。
 1面の「天声人語」も味のあるいい文章だった。

2013年12月1日日曜日

洋酒喫茶のオリーブの記憶

  遠い昔、何につけても背伸びをしたい頃、私たちが飲みに行っていたのは『洋酒喫茶』だった。ああ、なんとも懐かしい名前である。
 そのカウンターで、カクテルの名前を教えてもらったり、おつまみを教えてもらったりした。
 そのおつまみの中にオリーブの実があったが、当時は何とも変な味だと思っていた。遠い遠い昔の話である。(そういえばアブサンを飲んでひっくり返ったことも思い出す。)

 今、あまり深い訳もなく庭にオリーブの木を植えている。
 目隠し代わりの安い常緑樹ということで植えたものだ。
 だから、あまり大きくならないように乱暴に剪定したりして、放ったらかしである。
 その木に去年ぐらいから実が成りはじめた。
 本によると実を成らすためには2本以上植えなければならないそうだが、近所に植えておられる家があるので、異株で受粉したのだろう。
 数はそれ程でもないが、それでも数えてみると予想以上に多く、ざっと100粒ぐらいは収穫できた。(去年は全てそのままにして収穫していない。今思うともったいない。)
 それを、単純素朴に塩漬けにして3週間ほど経過した。

 遠い遠い記憶の味と比較してみるのだが、こちらが齢を重ねたせいか、今では全く変な味ではなく、とてもおいしく感じられた。作ってみてからわかったが、赤く色付く前の青いうちに収穫した方がそれらしく仕上がった。(写真は赤い方)
 安物の肉料理がいっぺんに引き立つ感じがする。
 安物のタスマニアビーフである。自家製の山椒の粉を少し掛けて焼いた。その上にこの自家製のオリーブを乗せて食べた。付け合せは、庭のルッコラとサラダ水菜である。
 読者の皆様は「なんと質素な食事だろう」とお笑いだろうが、我が夫婦はこれで結構満足している。

 追伸  
 孫の夏ちゃんがやって来た。
 早速、例の誰も採らないしゃしゃんぼ刈りに連れて行った。
 大喜びで7~80粒は食べた。
 古臭い、田舎くさい素朴な味だが、そういう野趣の判る娘である。
 また、爺ちゃん特製のクヌギのドングリグラッセを、「食べる~?」と見せたところ、美味しい美味しいと止まらないのでこちらが心配になった。なんと爺ちゃん孝行の孫だろう。
 孫の食べ物の嗜好はなかなかのものである。通である。
 食事時は、爺ちゃんの赤ワインに指をつけて「美味しいなあ」としゃぶっている。
 成人病になったら困るので、オリーブの塩漬けは見せていない。

2013年11月30日土曜日

あす御堂筋パレード

作成中のポテッカー
  秘密保護法の審議状況を見ていると、ありきたりの言葉かもしれないが、民主主義の危機だと感じる。
 同時に、従来の組織や政党の枠を超えた連帯が広がっていることは、未来の展望を照らしている。
 大阪でも、明日12月1日午後1時半から中之島の女神像前で集会が開かれ、御堂筋を難波までパレードすることになった。
 呼びかけたのは、大阪憲法会議、おおさか女性9条の会、大阪宗教者9条ネットワーク、憲法9条の会関西、憲法を生かす会大阪、護憲大阪の会、しないさせない!戦争協力関西ネットワーク、とめよう改憲!おおさかネットワーク、大阪弁護士9条の会である。
 この情報を得て私も一市民として参加しようと思う。
 民主主義は指示や動員で守るものでなく、自発的意思の連帯こそが力になるはずだと思うからである。
 これから、ポスターのようなプラカードを作るつもりだ。
 参加者が、パレードに相応しい工夫を持ち寄れば世論を替えるに違いない。
 今朝の朝日新聞の「声」欄に創価学会員が公明党に強い批判を行っていた。
 現に世論は大きくうねっていると思う。

2013年11月29日金曜日

三輪山登拝

三輪山から見る畝傍山、耳成山
  大神神社(おおみわじんじゃ)には本殿がなく拝殿だけだということは有名なことで、拝殿の先の「三ツ鳥居」の奥のお山(三輪山)がご神体である。
 この形は縄文の信仰にも通じる古式で、日本国中に大きな神社は数々あるが、そういう意味では伊勢神宮をしのぎ、日本で一番古い神社と言えよう。
 神の名は大物主神で、端折って言えば大国主神であり、天孫の天皇族に国を譲った先の大王である。

 歴史を学ぶ人々とともに、そのご身体のお山の頂上にある奥津磐座(おきついわくら)まで、「参拝証」の襷(たすき)を首にかけて登拝してきた。登山ではなく登拝である。
 だいぶ以前にも登拝したことはあるのだが何十年も前のことである。自信以前に心配が先立つ。
 標高は467.1mではあるが「直登」に近い。
 それに心房細動の発作の経験のある身には、息の上がる辛さと同時に恐怖感が頭をもたげる。
 その横を裸足で登られる信仰の女性が追い抜いて行かれるが、その女性の深刻な思いにまで心を巡らせる余裕はこちらにはない。
 下山まで3時間弱であったが、脱落しなかったことにホッとするとともに、体力の低下をしみじみと実感した登拝であった。
 いっしょに参加した職場の先輩は、登る途中早々に気分が悪くなってリタイアされた。紙一重だった。
 登拝口の摂社・狭井(さい)神社の万病に効くという薬井戸の聖水を飲んで生き返ったが膝の笑いは止まらない。

  歴史講座であるから、三輪の信仰、記紀神話、出土品、考古学的遺跡、神宝、建築様式、大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ・実は廃仏毀釈で廃止された大御輪寺だいごりんじ)等々豊富な話を学んだのもよかった。
 ちなみに、大物主の子孫の大田田根子が茅渟縣の陶邑(ちぬのあがたのすえむら)、現堺市の百済系の渡来集団に居た(書紀)というのも興味深い。また、大御輪寺の本尊は現在聖林寺にある、かの有名な国宝十一面観音像である。
 翡翠の子持勾玉のお守りを求めて、快い疲労感と知識の満腹感に気分よく帰ってきた。
 2日後にふくらはぎが悲鳴をあげたが、孫守に忙しくしているうちに忘れてしまった。
 孫守は薬の神様狭井神社以上に霊験あらたかであると言ったら失礼か。

2013年11月27日水曜日

知らないことは罪では?

共産・民主・生活・社民が反対、
自民・公明・みんなが賛成、維新が退場
  秘密保護法案が衆議院を通過した。
 通説に言う「由らしむべし知らしむべからず」で、民がお上のことを知ろうとすること自体を罪とする、前世紀の悪法が化けて出たものだ。(通説は論語の誤用とも言われているが)
 それ故に、歴史的と言っても過言でないような広範な人々から反対の声が上がっている。
 マスコミも遅ればせながら「懸念」を表明している。
 ところが、その中でテレビ、とりわけNHKの反応の悪さが特徴的だ。露骨な経営委員の恣意的任命が見事に効いている。
 これもあまりにワンパターンなのだが、テレビのニュースは法案通過と併せて『街の声』なるものを放映している。
 賛否をほぼ半々にして、「知らない」「判らない」という声でお茶を濁している。
 この声はマスコミが製作した街の声ではあるが、その原材料たる「知らない」「判らない」の声があるのも事実だろう。
 しかし、犯罪者が犯罪を犯している場に居たのに「知らなかった」人というのは、『事情を知らされなかった被害者』なのだろうか。
 この国に原発が造られていったとき、多くの庶民はその危険性を知らなかった。
 そして、フクシマの事故が発生した。
 「私は知らなかった」から責任はないのだろうか。
 あえて言いたいが、未だに帰る目途のない避難者たちに対して、「知らなかったから何もしなかった」人々は反省しなくていいのだろうか。
 百歩譲って、フクシマ以前ならいざ知らず、あの経験を共有したこの国で、テレビの向こうで「知らない」「判らない」という言葉を被害者然として語り、旧態依然とそのような波長で報道する現状にあえて異議申請を行いたい。
 「知らないことは罪ではないですか」と。
 私は「総ざんげ」のようなことを言いたいのではない。
 かつて大宅壮一氏は「テレビは1億総国民を白痴化する」と言ったが、「知らない」「判らない」という言葉を恥ずかしげもなく語る人をノーマルな庶民のように描き、結果として体制にすり寄るマスコミを「テレビというものはそんなものだ」というように達観したように語るのを止めないかと、私は言いたい。
 国会会期末まで、廃案目指して努力したいと思っている。

2013年11月25日月曜日

里の秋

  主に列島の東西で、囲炉裏文化圏と掘り炬燵文化圏に分かれていると書いてある本が少なくない.
 しかし、関西の中の関西である奈良県の吉野地方にも囲炉裏があるから、これについては、単純にはよく言われる列島の東西の文化の違いではなさそうだ。
  いずれにしても、関西の平野部に囲炉裏は少ないのは明らかであったから、私にはまったく馴染みが薄かった。
  だから、ほんとうに小さい頃は「里の秋」を聞いて、『囲炉裏というのは栗の実に似た形をしているのだ』と思っていた。♪栗の実似てます囲炉裏端だと。

  先日、老人施設の歌の行事のお手伝いをした。
  私の狭い経験から見ると、男性の入居者の多くは脳梗塞・脳出血の後遺障害のある方が少なくないように思う。
  そんな先輩方と、最後は『みんなで歌おう』になって、その中に『里の秋』が入っていた。
  私は、左右の方々に歌集を配り、その部分を指で示しながら誘うように歌を歌った。
  言葉の不自由な男性にも心の中で歌ってもらおうと、顔を見ながら歌ったが、その先輩が歌詞を追いながらくしゃくしゃに涙ぐまれたので、私は声が詰まって歌えなくなった。
  きっと、心の中で『里の秋』(ああ母さんとただ二人~)を歌いながら幼い日を回想されたことだろう。

 さて、私の知っている老人施設の入居者の比率で言えば圧倒的に女性である。男性は入居以前に浮世をリタイヤされているのだろう。平均寿命の性差は歴然だ。
 だからかもしれないが、この日一番声の出ていたのは『ここに幸あり』だった。

 どういうわけか老人施設を訪れるボランティアの方々は『故郷』だとか『里の秋』だとかを歌いたがる。「おばあちゃん! お父さんやお母さんが懐かしいねえ」と言わんばかりで、私はあまり好きではない。私が介護される未来を想像してみてそう思うのである。ただ、感想文などでは「故郷や里の秋がよかった」という家族の方(女性)が多い。
 このように、私の意見は少数意見でみんなに笑われているが、「老人施設で一番の音楽療法は恋の歌である!」と本気で信じている。ご同輩には共感していただけるだろう。

 ただ冷静に考えてみると、これはお婆さんが素直なだけであって、爺さんというのは、ボロボロになってもエエカッコをしたがるというだけのことかもしれない。

2013年11月23日土曜日

マロングラッセを作る

   マロングラッセを作ろうとしていて、最後の水分を蒸発させる段階を「ちょっと頼むわ」と妻に代わってもらったら、栗きんとんのように潰されてしまった。あ~あ、以心伝心で分かり合えていた時代は遠い過去。
  気を取り直して友人たちと会う場所に持っていき、「グラッセのつもりで作り始めたがきんとんになったわ」と食べてもらった。
 誰も「色が汚い」等のケチを付けずに食べてくれた。
 少しだけ小難しい議論をしながらだったので、「ちょっと味がおかしいな」とは皆んな言いそびれていたのだろう。
  実はこの「グラッセきんとん」、・・・1か月半、毎日毎日手を掛けた、語るも涙の特製中の特製品なのである。

  10月12日の「秋」という記事の最後に「私は食べようかどうか迷っている」と書いたのが、そもそもの始まりだった。
  ズバリ、材料はクヌギのドングリなのだ。
  調べてみると、クヌギはドングリの中でも一番アクが強く食用に適しない部類に分類されていた。
  しかし、地球規模で言えば私たちには今、かつてない環境の危機、食料の危機がそこに迫っている。
  そして考古学の本には、縄文土器の底からクヌギのドングリも見つかったとある。☀
  そうであるなら、試してみる価値はありそうだ。いや、試してみなければならない。・・・と、素直な私は考えた。

  先ず、縄文の先輩たちには申し訳ないが、手抜きをして重曹で煮た。水は直ぐに驚くほど真っ黒くなった。これを数回繰り返した。色は全く変わらない。このときは、ほんとうに食べることができるのだろうかとくじけそうになった。
  その後は、至ってシンプルに水にさらして毎日水を替えることにした。まあ、重曹という近代兵器も使ったことだし、2週間もすれば澄むだろう・・・・・と。
  しかし、3週間たっても水は茶色い。コーラのようである。1か月たっても澄んでは来ない。とうとう1か月半、毎日毎日、日に2~3回茶色い水を替えてきて、そのたびに試食してきては吐き出してきたが、どうにか許容できる範囲の渋味にまで落ちてきた。
  それを砂糖とコニャックでグラッセにしたものである。この段階も手抜き中の手抜きで10数分の調理だったが、写真のようなものが出来上がった。

  食べてもらった友人たちには材料を一切語らずに帰ってきた。
  このブログを読んで「偽装の極みだ!」と怒るだろうか、それとも1か月半の苦闘に涙腺を熱くしてくれるだろうか。
 一昔前の「山の生活」の再現というイメージで、この記事のラベルは「民俗」にした。

2013年11月21日木曜日

しゃしゃんぼ の熟れるとき

  2011年3月に義母の昔語りを書いた。
  「お菓子なんか買ってもらったことがない。秋なら山で、こしきかがみそかちはじき・・・というような木の実を採って食べていた。」と言うのだが、それぞれが標準の和名でいう何の木だか判らず調べまわった。
  結局、遠い遠い昔の記憶となかなかマッチせず、半分私の独断で、義母の言うこしきは、(和歌山ではカマツカのことをコシキというとあったが)カマツカではなくシャシャンボ、かがみそはガマズミ、かちはじきはナツハゼのことだろうということで一見落着としたのだが、真相は霞の彼方である。
  それぞれを義母に食べてもらったのだが、「こんな味やったかなあ」ということでジエンドだった。

  その「しゃしゃんぼ(小々坊)」が、いま近所の歩道脇の小さな木に稔っている。
 調べて見ると、ツツジ科スノキ属らしいが、8メートルにもなる中高木と書いてあるものもあり、低木と書いてあるものもある。私の見ているこの木は超低木である。
  私は通るたびに二粒ほど口に放り込んで歩いているが、私以外に採る者がいないのだろう、いつまでも稔っている。
  市場で商品になるほどの味でもないが、遠い昔に義母が口に放り込みながら学校に通っていたのかと思うと、何とも言えず味わい深く感じる。

  しゃしゃんぼの直ぐ近くでは鳥が運んできたグミ?が花を咲かせている。(ナワシログミは開花が10月とある)来春が楽しみだが剪定されてしまいそうだ。

 10月の頭の、まだまだ夏の陽の暑い日に毛馬の閘門近くの与謝蕪村公園で稔っている木の実を食べた。友人の「チヌの海」さんが「しゃしゃぶや」と教えてくれたので食べたもので、ジューシーで美味しかった。
  しかし、あの味とこの味はどうも異なる。季節も違いすぎる。
  で、調べて見ると、しゃしゃぶしゃしゃんぼは違うもので、しゃしゃぶの方はグミ科グミ属の秋グミの四国地方での別名らしい。でも、まだ真夏のような10月始だったので、秋グミとは別のものかとちょっと半信半疑だがきっとそうだろう。
 しゃしゃぶも食べた、しゃしゃんぼも食べた、楽しい秋だった。

2013年11月19日火曜日

古代国家と天皇

   先日、佐藤宗諄先生による「門脇先生と日本古代史」という講義を聴いた。
  最初に佐藤先生が、「門脇先生の研究の出発点がここにある」と言って、門脇先生の「古代国家と天皇」という著書の「はしがき」を読まれた。
  そこの言葉が私の心に突き刺さったので、早速その本を購入した。
  1957年発行の定価160円の新書版のような本だが、ネットの中古本で約1500円で購入した。
  折角なのでご紹介する。

  第二次大戦の末期、郷土の兵営から陸軍二等兵として戦地へ送り出される日、ひじょうに悲しかったことが忘れられない。そのとき、わたくしは十九歳であった。・・・・・・・・
南中国の最前線で戦闘をやり、戦病者となり、部隊が上海へ撤退するとき本隊にはとりのこされて俘虜になって、俘虜のまま終戦を迎えてようやく日本に帰ってみると、「祖国」はすっかり変わっていた。もう誰にもだまされないぞ、と思って病床で、逆の意味、逆の意味にとりながら、戦時中の新聞を貪り読んだ。・・・・・・・・
わたくしは、わが「日本」が戦争に敗けた今でも、どこの国よりやっぱり一番好きだが、国民を戦争にかり立てようとする人や無関心な人は大嫌いだ。わたくしたちは「国家」についての知識や、自分の国をありのままにみる勇気が足りない点が少なくないと思う。国家は突如としてできたものでもなく、あるいは最初からあったものでもない。国家も天皇も歴史の産物なのである。だからわたしは、国家が成立してきた歴史をたどってみようとしたのである。・・・・・・・・・

  ここには、戦後史学界を先頭にたって切り開いてこられた先生方に共通する信念が表されていると思う。
  嘘で塗り固められたというか、学問とは異次元の狂信的なまでの皇国史観を信じ込まされ、多くの友人知人の戦死を見つづけ、アジアの人々を蹂躙してきた戦争の反省から、現代と未来を見据えようとした歴史学を打ちたてようとする気概が感じられる。

  「記紀編纂1300年」と銘打って、戦前のように記紀の記述を無批判に歴史的事実であるかのように語る風潮が台頭したり、専門分野、例えば正倉院文書なら正倉院文書だけを微細に研究する風潮があり、一方に、高齢者が趣味的に、現代社会問題にフィードバックして思考することのない歴史の講座を楽しむ風潮を、これら戦後第一期生の史学者、とりわけ古代史学者は遠い場所からどんな思いで見ておられることだろう。

  皇国史観の反省から、戦後の歴史家には「記紀は学問の対象ではない」というような傾向も一時はあったが、今は、考古学の成果と照らし合わせながら実証的に記紀も研究されつつある。
  そういう古代史研究は、文献内の世界をほじくってよしとするのでなく、否応なく近現代史を歪めようとする現代的諸課題(神話の教え方、道徳教育、教育委員会、公募校長、教科書検定、教科書強制、戦争の展示方法、等々々)に結びついていくと私は思っている。

 「古代国家と天皇」のあと、井上光貞著「わたくしの古代史学」定価1300円を、こちらは古書店で100円で買ってきた。
 祖父が井上馨で、その世界では井上皇帝(光貞=皇帝)とあだ名された泰斗で、門脇先生より少し年長だが同時代の東(東大)側の代表バッターである。
 しかし、その私などには想像もつかない貴族的な環境からでも、戦前の上司であった平泉澄氏の皇国史観や戦後の「逆コース」には徹底して批判をされていて、歴史の真実に迫ろうという真面目な学者の姿勢は感動的で一気に読み終えた。
 二冊の本は、胸に満腹感を覚える読書だった。

2013年11月17日日曜日

衣もとりあへず 手向山

  このたびは 衣(きぬ)もとりあへず 手向山 もみぢのにしき 神のまにまに

  こうなることは七割がた予想していたことだが、ほんとうにそうなった。
  13日の記事で七五三用の草履をネットで購入したことを書いたが、予想どおり孫の夏ちゃんは「大人の気まぐれなんかに付合っていられるか」と、草履はおろか着物の着付けさえ断固として拒否をした。
  現地で気が変わったらと、一式を車に積んで出発したが、この娘は言い出したらきかない子で、窓の外を指して「あの子も着物を着ているねえ」「この子も着物を着ているなあ」「着物を着ないと千歳飴をもらえないらしい」と誘導したが、「ナツキは着ない」とピシャリと言い返す。
 ということで、「幣(ぬさ)もとりあへず」どころか「衣(きぬ)もとりあへず」、紅葉真っ盛りの手向山八幡宮に向かった。
 もう一度言うが、三割に期待しつつ、七割がたこうなるのではないかと思っていたので、それほど落胆もしなかった。
  結局、ワンピースで通したのだが、これがお母さんも着ていたワンピースというのだから、記念すべき七五三として全く不満はないし、本人もいたって機嫌がよかった。

 大混雑の春日大社を横目に通り越して手向山八幡宮に行ったのだが、早かったせいもあり、単独でお祈りをしていただいた。贅沢なものである。神職にシャッターまで押してもらった。
 親の躾だろう、手水(ちょうず)もするし拍手も見よう見まねでしっかりする。仏前でも手を合わす姿が爺バカにはたまらない。
  その後、境内の『菅原道真公腰掛石』に腰掛けてパシャがこの写真。
 さらに、隣の三月堂、二月堂、まんなおし地蔵尊の石碑を巡り、二月堂下の恵比寿様等の各社の鈴を鳴らして回ってきた。
  千歳飴を頬張る姿に西洋人がハロー!ハロー!と喜んで呼びかけてくれたりして楽しい七五三だった。
 ただ、これが着物姿だったら、外国人にモデル料を貰わなければならないほどもっと脚光を浴びていただろうと、祖母(妻)は少しだけ残念そうだった。

2013年11月16日土曜日

紫ご飯

  私は、毎年ほんの少しではあるが「ササゲ豆」を植えている。そして今年も植えて収穫も終了し乾しておいた。
  それをこの間、脱穀というのか豆を取り出したら圧倒的に豆が黒いのでびっくり仰天した。
 なお、一部の豆は例年どおり「あずき色」である。
 そういえば、「あずき色」の豆と黒い豆とでは莢(さや)の色も異なっている。黒い豆の方は莢が白くて薄くて豆を取り出しやすい。だから「あずき色」が乾燥しすぎて黒くなったものでは決してない。
 どうも春に蒔いたのが「黒いササゲ」だったらしい。そうとしか考えられない。調べてみるとそういうの(黒いの)があるらしい。初めて知った。そして、「あずき色」の方は去年自然に落下していた種から生えていたものらしい。
 今から思い返すと、夏に莢ぐち食べていたときも、そういえば豆の色が例年よりも黒ずんでいた。そういえば・・・。しかし、今度本格的に脱穀するまで気付かなかったという自分自身の注意力もええかげんなものである。

  我が家のササゲは「赤御飯」=「ササゲご飯」に使うのがメーンである。
 もち米を半分ぐらい加えると美味しく炊ける。
 『関東では赤飯は小豆(あずき)ではなくササゲを使用した。小豆は豆が割れるので切腹を連想させるのに対してササゲは割れないためである。』とモノの本にあったが、このことは直接的には我が家とは関係ない。
 容易く作れ(栽培)て、夏には莢ぐち料理に使えて、秋には豆として収穫できて、赤御飯が炊けるからである。
 そうして、ササゲご飯を炊いたのだが、予想どおり赤くはない。
 「黒御飯」と称する御飯も世間にはあるようだが、種蒔き時の不注意をその都度思い出すようで面白くない。
 そこで我が家ではこれを、「紫ご飯」と呼ぶことにした。
 紫色は儒教では卑賤の色とされているが、道教とそれに立脚した我が国の多くの文化、例えば太子の冠位十二階では最高位の色とされている。故に「紫ご飯」のネーミングに文句はない。・・と、自分で言って自分で納得している。
 もちろん、味に遜色はない。我が家の紫ご飯は孫も含めみんな大好きである。

2013年11月14日木曜日

お国自慢

  先日、奈良、京都、鎌倉三都市の文化遺産を守る市民運動をしている人々のフォーラムがあった。
 そして鎌倉からは、「武家の古都・鎌倉」を世界文化遺産に登録させようと努力してきたが、現在いささか挫折感を味わっている・・・というような発言があった。
 その中で発言者が、鎌倉幕府成立の意義に触れ・・・・・、
 「都の貴族たちから東夷(あずまえびす)と馬鹿にされてきた坂東武者は、西国とは桁違いの開墾を成し遂げ、これを正当に安堵してくれる政権を望んだんだ。」
 「鎌倉幕府と武士による文化は、都から蔑まれていた東国の全く新たな時代の幕開けだったのだ。」
・・と鎌倉の都市と文化の歴史的意義を力説するのだが、その熱弁ぶりが、まるで現在の京都に対する関東の耐え忍んできた独立宣言のようで、反対に言えば、この場が中世の終わりの場面で、京都や奈良の参加者が公家の代わりに被告になって弾劾されているような、あまりに熱っぽい発言だったのが可笑しかった。(というような可笑しがり方をしていたのは私だけかもしれないが。)
 これも一種のお国自慢なのだろうし、その郷土愛こそが文化を守っているのだと私は思う。
 私もこのブログで、飛鳥時代や奈良時代のことを度々書いているが、読者の皆さんには「何がそんなに面白いのん」「それが現代社会の直面している諸問題と何の関係があるのん」と軽蔑されているに違いない。

 とまれ、奈良県では今、平城宮跡がコンクリート舗装されテーマパーク的に「復元」されようとしている。(地中の木簡腐朽の危機である。)
 若草山にモノレールを這わして観光客を呼びたいと言っている。(春日山原始林のバッハゾーンにである。)
 何れも私は反対である。観光政策推進には全く反対ではないが、その観光政策の各論の発想が下品だと思うからである。
 お国自慢の精神でこの都市の品格が堕落するのを看過できないと思うことは、極めて現代的課題だと考えている。

2013年11月13日水曜日

挫折した草履製作

  七五三を満年齢で行うか数え年で行うかは諸説いろいろだが、息子夫婦は「楽しいことは早くしたい」ということだろうか、「数え3歳の今年する」と我が家に通告があった。
 「衣装は(私たちの)娘のときのものがあるからそれを使おう」ということになった。
 しかし、探してみると着物はあったが草履がない。その理由は解からないがないものはない。
 ということで妻が草履を買いに大型スーパーに行ったのだが、「値段が数千円もする!!」と言って、「記念写真に一瞬写るだけやろうから」と、100円で青色のビーチサンダルを買ってきた。
 そしていつものとおり私に、これを数千円の和装の草履のように加工せよ!と命じた。
 ということで、先ずは水性ペンキで白く下地を塗ってみたのが写真のもの。
 記念写真にチラッと写るだけならこれでも支障はなさそうだ。
 しかし、他の家族と一緒に神社で脱いだらその差は歴然だろう。
 それならと、生地や鼻緒や底などの材料や接着剤を試算してみると、結局、数千円ぐらいはかかりそうだ。
 と、いろいろ逡巡した結果、今回限りなら写真の一瞬に数千円かもしれないが、未来の孫たちに使いまわしをしたら高くもないだろうと、一番安い草履をネットで注文した。どう考えても、自作はその完成品以上の材料費がかかるだろう。
 とはいえ、自作をあきらめて購入に切り替えるとは何たる軟弱か!と自己嫌悪に陥るが、もう自分の娘ではない、孫つまり息子夫婦の娘の時代である。
 中途半端な作品でも、お嫁さんもお嫁さんの実家のお祖父ちゃんお祖母ちゃんも口では笑ってくれるだろうが「孫が不憫だ」との心も去来するに違いない。
 「そんなアホナことができるのは自分の子供までやろう」と夫婦で言い合って草履の自作をあきらめ購入を納得した。

2013年11月11日月曜日

秘密保護法に反対する

  少年Hの映画では、神戸の洋服屋であったHの父が、アメリカに帰国した顧客からいただいたニューヨークの絵葉書を持っていたために警察に引っ張られて拷問を受け、少年Hは机にスパイと書かれた。原作は妹尾河童氏の自伝だ。小説ではない。

  私は、早逝した私の父が戦時中松下飛行機㈱で働いていたので、少し父を偲んで松下飛行機㈱のことを知りたいと国立国会図書館関西館に行って相談したりしたが、答えは「終戦前の軍需産業の記録は全く残されていない」ということだった。
  甘っちょろい私は、「戦前」というものがそこまで酷いものという実感がなかったので頬を張られたというか、目を覚まされた感じがした。
  私はこのごろ、特定秘密保護法はあの時代を再現するだろうという恐ろしさを感じている。

  普通、法律が成立すれば、それを実際に施行するために政令や省令(施行規則)が作られ、運用通達や本省課長内翰・事務連絡などが作られるが、現場の公務員の実務態度としては、内翰、事務連絡や解釈例規に従って公務を遂行し、そのレベルで不明な点は省令へ法律へとさかのぼるのである。
  こういう態度はオカシナことではなく、実務というものはそういうものである。
 だから、「特定秘密保護法の運用に当たっての留意事項」というような内翰(表向きは私信であるが実際は現場を束縛する)で、「この法律の立法趣旨は〈政権の秘密は国民の知る権利に優先する〉との趣旨であることは明らかなところであるから、政権に不利益を生じる恐れのある情報は全て特定秘密に該当すると理解して遺漏なきよう期されたい。なお、この内翰自体が特定秘密に該当するものであることは言うまでもなく、この内容及び本内翰が存在することを漏えいした場合も同法により罰せられることとなるので念のため申し添える」というような内翰が出されれば、現場はこの趣旨を最優先にして動くことになる。
  国会でいくら「正当な取材は認める」とか「国民の知る権利は尊重する」とか言ったとしても、汚い言葉で申し訳ないが屁のツッパリにもならない。
  事実、戦前の軍機保護法でも国会では「危険な運用はいたしておらぬ」と言い続けてきたのである。

  自衛隊による市民生活のスパイ活動が訴えられた裁判で、今年5月仙台高裁は自衛隊情報保全隊長を証人喚問したが、証人は一般論と言いながら、反戦平和の歌を歌う行為やプロレタリア作家の展示会、春闘の街頭宣伝等が対象になり、機関誌や広報誌、インターネットから集めたと言った。  この裁判は内部告発に基づいて始まったもので、仙台地裁では市民が勝ったが、特定秘密保護法下であれば、原告側が引っ張られることになるだろう。
 重ねて言うが、この法律は公務員や報道記者を縛るものでなく、国民全員を縛るものなのだ。

  安倍首相等は、北朝鮮や中国の悪口を嬉々として語っているが、彼らの人権感覚は北朝鮮や多くの独裁国家の水準と変わらない。
 それは世界中がお見通しのことであり、先日「フォーブス」が世界で最も影響力のある人物を発表し第一位がオバマからプーチンになったとマスコミは報じたが、安倍首相が57位だということはあえて報じなかった。
 57位ということは、習近平の3位、金正恩の46位よりも低く途上国首相以下である。
 国際的には、この国はいま泥船だと理解されている。乗員だけが最新艦だと誤解している。

2013年11月10日日曜日

歪めて建てるメンタリティー

  全く勉強したり調べもせずに述べるのだが、東大寺大仏殿の回廊も春日大社の回廊も、地面が傾斜しているとおりに傾斜して歪めて建てられている。そのメンタリティーの淵源がどこにあるのだろうかと常々不思議に思っている。

 大仏殿で言えば、本殿と同じように地面を真っ平にして回廊を造ることは可能だろうし、その方が技術的には簡便だと思う。
 古墳時代の石棺なども徹底して加工しているし、技術の問題ではないと思う。
 土地の神に遠慮したとも考えられない。
 あのように地面に沿って歪める方が美しいというか有難いというか、そういうメンタリティーだと想像する。
 それは奈良時代の感覚なのか、室町以後の建てなおし時の感覚なのか、法隆寺の国宝部分の建物を調べれば何かが解かるかもしれない。
 
 ただ私は、このように自然(地面)に遠慮して、土地の歪みのままに折り合いをつけて建てさせていただいているという感じは好きである。

 私の若かった頃は一言でいえば高度経済成長の時代で、自然を加工し征服するのが進歩であるかのようなメンタリティーが主流であった。
 建物や製品のデザインも素材も、人工的でシャープで工業的なものが尊ばれた。
 振り返ってみると、それは普遍的な近代主義でもなんでもなく、ただただアメリカのプラグマティズムに毒されていたんだと今でははっきり解かるのだが。
 その結果、「人類は自然を制御できるんだ」というような傲慢で大間違いの意識を持ったように思う。
 その帰結が原発ではなかっただろうか。
 原発推進論者は脱原発の主張を「情緒的主張だ」と言う。
 それに対して、私は真っ向から論理的に反論できるが、あえて「情緒的で何が悪い」と居直ろうかとも思っている。
 この国の文化は自然との共存であり自然に対して遠慮するのがこの国のメンタリティーであるのだと。

2013年11月8日金曜日

レインボーラムネ

  朝日新聞大阪本社版夕刊のシリーズのひとつに「まだまだ勝手に関西遺産」というのがあり、イコマ製菓本舗のレインボーラムネが9月に載っていた。
 パート5人の町工場の製品で、かつては卸売業者に買いたたかれ在庫の山で倒産寸前であったらしいが、じわじわと口コミで人気が広がり、我が家には息子夫婦が持ってきてくれていたりしていた。
 奈良県北西部では、知らない人は知らないが、知っている人はみんな知っている、隠れた大人気商品だ。
 そのため金融機関から工場新設を勧められるまでになったが、「仕上がりは自分でチェックしたい」と増産していない。
 そのため、今では、年2回の申込制で、2万人ぐらい申し込みをして1000人ぐらいしか購入できないそうで、幻のラムネにまでなってしまった。

  ということで、その記事を見て早速申込みしておいたのが抽選に当たって10月末に届いた。
 それがなんと、段ボール一杯の量で驚いた。
 そうか、それで注文の案内に「小分け用の小袋あります」とあったのか。
 ちょうど観ていたテレビの「家族に乾杯」の中の神主さんが「神社のタオルを少し注文したら2年分も届いてしまった」というようなことを困った顔もせずに言っていて此方が笑ったが、「お父さんのラムネも同じことや」と妻が横からツッコミを入れた。
 ところが、「知り合いに配るから貰って帰るわ」と息子夫婦、娘夫婦がどっさり持って帰ったので、・・・さらに妻が友人に配ったりして結局私が配る分は残らなかった。読者のみなさんごめんなさい。
 味はというと素朴そのもののラムネだが、それでは面白くなければ、思春期入口の初恋の味とでも書いておこう。
 記事には、「死の床にあった父が美味しいと食べてくれた」「紛争地域で活動するNPOに差し入れたい」「NASAの土産に持っていく」という申込者の声が載っていた。

2013年11月6日水曜日

こんなところに葛木神社

  大雑把に言えば卑弥呼の次の次の時代、5世紀「倭の五王」の時代は巨大前方後円墳の時代であった。
伝磐之媛陵
  その時代に、奈良盆地南部の磯城・磐余(しき・いわれ、桜井市・橿原市)を本来の基盤としていた(当時の古墳の多くは大阪に築造されたが)天皇家と・・・、
 奈良盆地南部を二分して、金剛山・葛城山東麓(御所市、葛城市、香芝市、北葛城郡)に権勢を誇っていたのが葛城(葛木)氏で、その葛城氏の娘、磐之媛(いわのひめ)が仁徳天皇の皇后となったが、天皇家一族以外からの皇后は異例中の異例だった。
 記紀によれば磐之媛は強烈なヤキモチ焼で、仁徳の女癖に怒って旅先から仁徳の元に帰らず、淀川から木津川を上り、奈良県北部の那羅山(ならやま)から葛城を望んで歌を詠んだあと、筒城宮(京田辺市辺り)で暮らしたという。
 そして、没して後は那羅山に葬られたといわれ、現在、その地である平城宮大極殿のすぐ北の佐紀楯列古墳群の中に伝磐之媛皇后陵はある。
 それはなかなかに立派な前方後円墳で、私はしばしば野鳥の撮影のために訪れている。

 権力との関係で巨大古墳はどのような場所に築かれたのかということは、いわゆる「王朝交代説」と絡んで論争のあるところで、4世紀中葉頃までの奈良盆地東南部の「やまと」の地から奈良盆地北部の「そふ」の地である佐紀楯列古墳群の地に築造場所が移動したことについても多くの意見がある。
 ナマクラな私などは、大先生方の本を読むたびにナルホドと思い、結局頭の整理がつかないままである。
 巨大古墳の築造地が顕著に移動(変化)しているのは王朝が代ったせいだ・・、いや、同一王権内で影響力を発揮した氏族の変化だ・・、墳墓の地は王権の宮とは関係ない・・、元の地が過密になったからだ・・、政治的効果を考えた位置だ・・、土地の開拓を考えたものだ・・、育てられた母系の氏族の地だ・・、途中から意味合いも変化したのだ・・、等々等々・・・・。

葛木神社
  ところが、伝磐之媛陵には30年近く訪れていたのだが、此の度初めて、その古墳の近くに葛木神社のあることを知って驚いた。間寛平なら「な、な、なんと」と叫ぶところである。
 有名な葛木神社は金剛山の頂上にある。そこに祀られている「一言主神」は御所市の葛木坐一言主(かつらきにいますひとことぬし)神社にも祀られている。そして、同じ葛木神社がこの那羅山の麓にあったのだ。
 何を驚いているかといえば、きっとここは葛城の領地だったのだ。だから、葛城の娘がそこに埋葬されたことに何の不思議もないのだと納得できたことである。
 というようなキーワードで他の皇后陵などが解けるのかどうかはわからないが、おいおいと考えていきたいと思っている。
 ちなみに、神功皇后(息長帯比売 おきながたらしひめ)は神話的装飾が著しい皇后で「架空の人物」と実在が疑われているが、私は実在したと考えている。父の息長宿禰は近江の息長氏とは別らしく南山城に勢力を張っていたらしい。とすると、伝神功皇后陵も実家の領地に葬られたことになり、全くの空想でもなさそうに思っている。
 葛木神社の社伝には「仁徳天皇が磐之媛のために建立した」と書かれているが、私は違わないかと思っている。
 葛城一族が、自分の領地に氏神を祀ったと考える方が素直ではないだろうか。
 「そんな誰でも思いつくような当たり前の想像が、何が嬉しいのん」と言われれば身も蓋もない。

 歴史の定説と言われているものも自分自身の五感で納得することが大切だ。
 秘密保護法など現在進行形の社会問題についても、それが定説であるかのように発表する政府見解や報道されるニュースを無批判に信じることはよろしくない。
 山本太郎議員が天皇に手紙を渡した件も、憲法第4条の「国政に関する権能を有しない」規定を踏みにじって天皇制を政治の舞台に引っ張り出す役割を果たすであろうことから私は反対ではあるが、園遊会が私的行事なら手紙も私的行為だろうし、天皇に対する請願なら(先の論から私は反対だが)提出先を間違えた問題だろう。それを戦前の不敬罪の脈絡で「懲罰だ」などという叫ぶ不見識をそのまま垂れ流す報道も報道だと思う。

 先日は奈良の頭塔について「復元の姿がしっくりこない」と書いた。そして、「史跡頭塔」のFacebookに質問を送ったところ、「屋根の形は裏付け資料が少ないため復元は断念した。」「この屋根は復元ではなく石仏の劣化を防ぐためにつけたもの。」と返事を戴いた。
 このことからも、いわゆる権威に盲従するのでなく、素直に考え議論することの大切さを痛感した。
 談論風発がいいですね。コメントお願いします。

2013年11月4日月曜日

大阪府の蝶に推薦する

  大阪府の木はイチョウ、花はサクラソウとウメ、鳥はモズだが蝶は定めていないようだ。それなら、このツマグロヒョウモンを大阪府の蝶に推薦したい。
 理由は、写真のとおり、そして名前の褄黒豹紋蝶のとおり、その衣装の豹柄は大阪の〇〇ちゃんにぴったり・・との連想からである。

藤袴にやって来た褄黒豹紋の雌
  実母の老朗介護をしていたころ、外界の四季の移ろいを感じてもらおうと、度々野鳥の写真などを持参したが、そんな折、「鳥は嫌いや。雄の方が綺麗で雌がパッとせんのが気にいらん」と言ったことがあって大笑いをした。
 「人間は女の方が格段に綺麗やからええやんか」と答えたが、自然界では鳥も虫も圧倒的に雄の方が綺麗である。(両方地味な者も居るには居るが。)

 そこで、多くの蝶や鳥の世界では何故雄のほうが派手なのかという疑問については、「雄と雌、どうしてこんなに違いがあるのかを考え始めたら解らないことばかりです」と、ダーウィン以降の豊富な学説を披露しながら、奥本大三郎・長谷川眞理子著「男と女・・二つの性がある理由」にはある。いろんな説や反論があって面白い。一番面白いことは、「虫や鳥の雄は何故雌よりも美しいか」ということを疑問に思って研究した人がほとんどいないということで・・・そういう疑問を解きたいと思う私は超少数派なんだと解ったことである。

  ところが、ところが・・このツマグロヒョウモンだけは雌の方が断然派手で綺麗で、本には「毒をもつカバマダラに擬態した」と書かれているが、生息地にズレがあったり、雄がそのまま地味だったりで、ほんまかいな・・と思っている。
 結局、何故ツマグロヒョウモンだけ雌が派手なのかはさらにさらに解っていない。
 微生物の寄生など何らかの理由で雄が極端に減ってしまったときに雌が必死になって「変身」したのだろうか。(という考えもダーウィン時代の相当時代遅れの学説の裏返しのようだが)
 ともあれ、数ある蝶の中で「うちらは女の方が派手なのよ」と豹柄を見せびらかせている超個性派のこの蝶ほど「大阪府の蝶」に相応しいものはないと私は信じている。

 なお、このように昆虫の世界などを覗いてみると解らないことだらけである。
 科学は自然界の全てを解き明かしたというような態度で原発を信じる気がしれない。

2013年11月3日日曜日

謎のピラミッド 頭塔

  「東大寺南大門の真南約950mに方形七段の謎のピラミッドがある」と、よくテレビのクイズ番組などにとり上げられている。
  奈良時代最大の事件であった藤原広嗣の乱で殺された広嗣の怨霊が仇敵僧玄昉を空の上で八つ裂きにして都にばら撒いたが、その頭が落ちてきたところがここで、故に頭塔というと巷間信じられてきたが、神護景雲元年(767)に東大寺の僧実忠が土塔(石塔)を築いたとの記録もあり、伝説よりも面白くはないが、行基さんの造った堺の土塔(地元の人々は「どうと」と呼んでいる)と同じ仏塔である。

  妻は「あれが仏塔やというのは当たり前のことやろう」と即肯定するのだが、私はなかなか納得できなかった。
 仏塔といえば我が国では三重塔や五重塔が一般的であるし、767年の平城京の外京といえば、東大寺、大安寺、元興寺、興福寺等々の堂塔の文字どおり甍の波であったはずである。
 その中に新たに塔を築いたにしては失礼ながら些かちゃちではないかと不満であった。
 だから「ほんとうに仏塔なの?」という疑問がなくはないのだが「そしたら何や」と問われると答えはなく、きっと、留学僧や渡来してきたバラモン僧の知識から、仏教の原点に返れという、・・・ストゥーパや甎(せん)塔に返れという思想なのだろうと想像する。

  さて、奈良時代の石仏で現存しているものは珍しいらしいが、七段の奇数段に石仏が計44基配置されていたらしい。今は、現存している石仏の部分に屋根がつけられて風雨から守っている。
 奇数段に長い屋根があったのか、なかったのか、石仏の部分にだけ屋根があったのかについては諸説あり未確定らしい。
 ただ、復元された『石仏の部分にだけ屋根があるデザイン』は私にはどことなく違和感がある。
 ある一説に基づいて石仏のところだけ屋根を付けるというような復元が許されるのだろうか???
堺の土塔
  普通にこれを見たら、奈良の都にこんな形の土塔があったと人は思ってしまうだろう。
 堺の土塔のシンポジューム関係の本に土塔と頭塔の復元図があるが、そこでは頭塔の奇数段の上に端から端まで屋根が葺かれている。すっきりしている。
 現状の復元案は奈良文化財研究所と奈良県教育委員会の判断らしいが、そして、発掘された瓦の数が少ない等の理由があるのだろうが、それにしても復元ということは怖ろしいものだとしばし考え込んでしまう。
 発掘調査直後の写真がパンフレットに残っていたが、この形で残しながら複数の復元案を別途展示する方法はなかったのだろうか。私にはその方がしっくりくる。

 少し余談だが、今この国の政府は秘密保護法だ国家安全保障会議だと突っ走っている。再び大本営発表の報道で国民を善導したいらしい。
 「そんな簡単には国民は騙されへんやろ」と多くの国民は思っているだろうが、こんな復元を見ていると(この復元が全くの誤りだと言っているのではないが)、性格の穏やかな庶民を善導するのはわりと容易いような気がしてくる。

 なお、この夏に堺の土塔を見に行ったが、復元された土塔は基壇も瓦敷きで全体が約67000枚の瓦で葺かれた十三重塔で、立派なものである。
 指導者行基さんと、河内・和泉の大古墳群を造り守った土師氏集団の高度な技術に圧倒された(土塔町の隣が土師町である)。一見の価値がある。
 堺の土塔に行かれる方は、バスのアナウンスまでもが「どとう」ではなく「どうと」であるからお間違いの無いよう気を付けていただきたい。

 追録  堺市発行「史跡土塔講演会録」に掲載の復元想像図