2012年9月30日日曜日

仲秋の嵐月

  少し本を齧っただけのことなのだが、月そのものを(男の神ではない)女神としたり、そこに女神が住んでいるとする神話・民話は世界中のあちこちで共通しているそうである。世界的な普遍性なんてチョット感動的で何処か可笑しい。
  思うに、月の満ち欠けは古人に生と死と再生を悟らせたのではないだろうか。そして、この世での再生のドラマ・・つまり妊娠と出産の主人公である女性・・つまり女神を想像したのでは・・・・。
  東欧の狼男は満月の夜に変身するが、この列島では満月の夜に狸ですらが踊りだす。この感覚も好きである。
  仲秋の名月・・・・であったはずが、見事に台風に直撃され、無月、雨月どころか、嵐月という造語がふさわしいような稀有な経験をした。旧暦8月15日の宵に台風が直撃するなんて統計的には『すごい』ことではないだろうか。猿沢池の采女祭も当然中止だ。ただ、ブログ掲載の21時段階では「台風って何のこと?」というような『台風一過』であるが月は見えない。
  それでも写真のとおり我が家には満月を顔を出し、楽しくお月見を行なった。
  月は、私が撮影した満月を印刷したものなのだが、印刷をしてみたらまったく兎の影がとんでしまって「私の作品(写真)だ」というのを家族に信じてもらえなかった。
  月見団子は「衣被き(きぬかつぎ)に似せた」とか「月に群雲」とか諸説はあるが、関西の月見団子はラグビーボールの胴を餡で包んだ形である。
  近所の大型ショッピングモールの和菓子屋は関西系ではないのでこの形の月見団子は置いていなかった。同じショッピングモールの中華料理店で「月餅(げっぺい)はありますか」と尋ねたら若い女性店員が「ゲッペイ?%$#?それ何?」という顔をした。
  日本を代表するような・・先ごろの中国の「暴動」のニュースで度々映し出された巨大スーパーだが、いつの間にかこの国は私の常識が通じない社会へと遠ざかってしまっているようだ。
  それでも良い、・・誰がなんと言おうと、少なくとも孫にはこの豊穣と再生の行事を引継ごう。
  庭の紫式部に再生のシンボルでもある空蝉を見つけた。
  蝉や蝶や蛇の脱皮に再生の力を信じた古人の発想が近頃いやに良く判る。思考方法が即物的になったのだろうか。自分の感性が変ってきたその理由は解らない。まさか「老い」ゆえだとは思いたくない。

2012年9月28日金曜日

古代史の言葉尻

  宮(みや)とは、建造物の「や(屋・家)」に尊敬を現す「み(御)」が形容されたもので、王・天皇や妃・王子が居住する建物を意味する。
  この宮が設置された場「こ(ところ・処)」が都(みやこ・宮処)である。「こ」は、「ここ、そこ」という場所の意味を表す「こ」と同じ。つまり、都とは宮のある場所であり普通には天皇が居住する所在地となる。当然ながら墓の所在地ではない。
最古の巨大前方後円墳・箸墓古墳

  巨大な前方後円墳(鍵穴形古墳)が古代国家の大王等(一部有力地方首長も含む)の古墳であることについては議論の余地はないが、その主要な築造場所が奈良盆地内の各地を巡り、そして大阪平野等にまで移動していることに関して、それを盟主権の移動あるいは王朝の交替と見るかどうかについては大議論がある。
  議論の中には「河内王朝」という言葉も出てくるが、その説に乗ったとしても、古墳(墓)は南河内や和泉(堺)にあるにしてもその幾つかに対応する難波京は摂津(難波津)にあったのだから、その説を展開するならその名前は「摂津王朝」ではなかろうか?

  この巨大古墳について、すでに多くの世界遺産を実現した奈良県は余裕で放っておいている?が、大仙陵を抱える堺市等は「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産登録を目指して必死の様子である。
  その熱の入れようの違いなのか、羽曳野市等に対する堺市の大国主義かは知らないが、ここも歴史の記述の常識からすると古い順に「古市・百舌鳥古墳群」でなければおかしい。

  また大仙陵については出土品の年代測定から「仁徳天皇陵ではない可能性が高い」といわれているから、百歩譲っても小さく「伝仁徳天皇陵と記すに止め、神話と歴史をごちゃ混ぜにして軍国主義教育を推進した戦前の『歴史』を反面教師として学ぶことが大切だろう。ここを考えれば、「近現代史の両論併記」などという某市長の主張の危険性もまた明らかだと思う。

  歴史学者千田稔先生は、「都(みやこ)とは天皇の宮のあるところ・・というのが大前提の常識であるから「大阪都」などと言うお方は政治を語る前に先ず歴史と国語の常識を勉強してもらいたい」との旨を朝日新聞紙上で述べておられた。

2012年9月25日火曜日

これが拳?

  辛夷(こぶし)の実が色づいて膨らんできた。
  私が「いくらなんでもこの果実が拳(こぶし)には見えんよな」と言うと、「いや、掌(てのひら)側から見た拳に見える」し「名前の由来として納得している」と妻は言う。
  なるほど、拳にした示指から小指の近位指節間関節(PIP)及び中手指節関節(MP)をデザインとして眺めるとそれらしくもある。
  私は、あえて言えば「蕾の形が幼児の拳に似ている」との名前の由来説を支持しているが、より精確には、辛夷とは元々は木蓮を指していたから、木蓮の蕾は「団結がんばろう」に似た拳の林立をイメージさせないか。
  また、果実はこのあと秋の深まりとともに「拳」を通り越していささか醜悪な形状になる。それが名前の由来なの?と私はわだかまっている。
  広辞苑には解説がなかった。主婦と生活社の庭木事典は両論併記だった。そして、wikipediaは「果実の形状」派だった。
  さて、読者の皆さまは蕾派?果実派?

  紅辛夷の木を2本持っているが、蕾から開花の時期に毎年ヒヨドリに花弁を喰われている。
  花弁みたいなものを食べずとも外に食べるものはいっぱいあるだろうにと思うが、余ほど美味しいのだろうか、此の頃は毎年やられている。
  それでも逸早く春を告げる可愛い花木である。
  その季節感が名曲「北国の春」をぐぐっと持ち上げている。
  「北国の春」は老朗介護の音楽療法の代表曲というのが乏しい経験から導き出した私の実感である。

2012年9月22日土曜日

土臼をご存知ですか

  以前の「こうつと大学」のブログに書いたが、私は「こうつと大学教授」(義母)から初めて土臼(どうす・つちうす)というものを教えてもらった。
  昭和の初期に子供であった義母が籾摺り(籾から籾殻を取って玄米にすること)を行なっていた道具である。
  そこで、その耳学問で得た(見たことのない)土臼をこの目で確認したくなって、京都府立山城郷土資料館を訪れたが、・・・そしてそこは結構「農山村」の地にある資料館だったのだが、残念ながら土臼は展示されていなかった。
  そのため「こんな田舎の府立資料館でもないのか」とがっかりし、正直に言って土臼の実見は半分以上諦めかけていた。
  だから今度は、あんまり期待をしないで・・・・避暑を兼ねて奈良県立民俗博物館を訪れたところ、写真のとおりきっちりと土臼が展示されていた。入館者もほとんどいなかったので妻と歓声を挙げ、係に申し出て撮影を行なった。
  考えてみれば、奈良県下の古い農機具を探していたのだから真っ先にここに来るべきだった。何をトンチンカンな時間を過ごしていたのだろうか。
  ここには、唐箕(とうみ)等の古い農機具や莚(むしろ)織機等の「こうつと大学」で聞いたことのある品々も並んでいた。
  そして屋外には、水車小屋も、主要部分が茅葺で軒先が瓦葺の「大和棟の民家」も、へっついさん等もそのままに移築されていた。
  後日、もしかしたら少しは喜ばないかと「こんなのを見てきたよ」と、この日の写真集を義母に見せたところ、予想した以上に懐かしんで道具や家屋の写真を喜んだ。そして、その道具にまつわる幼い思い出を、莚織はこんな風に髭を取るとか、水車小屋へは遊びの途中でも搗き過ぎてないか見に行ったとか、いろんな道具について「ここをガシャンとこう引っ掛けますのや」等々、訥々ではあるが手振りも添えて語りだした。
  90何歳相応というか、それ以上に「進行」している義母だが、幼い日々の記憶は全く別の箇所から湧き出てくるようだ。そして、娘婿である私に・・「尋ねられている」・「教えてやらねばならない」・・という使命感がその原動力になっているようだ。
  博物館には、小学校の先生らしいグループが校外学習の下見(らしい雰囲気)に来館していたが、「小学生もええけど老人施設のリハビリに活用したらええのに」と妻と言い合った。
  しかし、それには人手が必要だ。
  いつの間にかこの国では、社会保障や公的な人件費を「無駄」だとして、削減することこそが善であるかのような歪んだ論調が為政者やメディアによって流布されている。困ったことである。

  さて、小学校区に田圃がなく、農業をまったく知らずに育った私であるため、こうつと大学で教えてもらうまで、脱(脱皮)(だっぷ)=籾摺りというものを考えても見なかったし知らなかった。
  漠然と、戦時中の芝居や映画で一升瓶に入れた米を棒で突いていたのがイメージとしては浮かんできただけだった。ご存知の方からすると、軽蔑したくなるだろうほどの物知らずである。
  調べてみたところ、現代は、回転率の異なる二つのゴムロールの微妙な隙間に籾を通す機械が主流らしい。
  それ以前、江戸中期から昭和10年代までが土臼で摺る時代。
  それ以前は臼と杵で搗くのが普通だったらしい。
  昨年、実母の入所していた施設で、たまたま稲刈り後の稲を手にしたが、私もスタッフ全員もどうしていいのか解らなかった。ネットで調べて、一升瓶方式よりも効率のよさそうな擂り鉢と軟球方式で試してみたが、基本的には成功したが、気の遠くなるようなしんどい作業だった。
  私は小学校の社会の時間に何を学んでいたのだろう。

2012年9月20日木曜日

熊楠を真似る

  和歌山出身で名前に楠の字がついた先輩がおられる。
ごく近所の楠の地衣類
  私を含めほとんどの人は「変った名前だ」と思っていたが(失礼!)、熊野三山の一の鳥居にそびえる有名な楠の老神木にあやかるもので、だから紀州では楠のつく名前は珍しくない。
  もちろん、清酒「世界一統」の酒造家の息子であった大天才・南方熊楠(くまぐす)しかりである。
  その気になれば数々波に乗ることのできた恵まれた環境をことごとく自分で飛び出し、キューバをはじめ世界中を渡り歩き、大英博物館の嘱託となるも殴打事件で追放、帰国後は神社合祀令に反対し「鎮守の森を守れ」と同令推進の会議場に殴りこみ拘留、その拘留中に新種の粘菌を発見、数々の粘菌類の世界的発見等の後、昭和天皇にキャラメルの箱に入れた標本を献上して御進講。
  すべて小説もどきの本で読んだ事々だが、その痛快な人生に興奮したことを思い出す。

  その熊楠が発見し、分類し、研究したのが「動物でも植物でもない?」粘菌や地衣類で、現在でも新薬のヒントが詰まっている打ち出の小槌のように思われ、世界中(特にアマゾン)で研究されているのをテレビで見たことがある。
  粘菌は変形菌と言われ、地球上で唯一の『運動する多細胞陸上植物』らしい。動物と植物の分類の基準については幾つもの学説があるようだが、何かそういう必死に分類しようと悩んでいる人類をあざ笑っているかのような生物である。
  おまけを言えば、粘菌が餌に向かって迷路の中の最短経路をつなぐ能力に着目した北大や東工大の先生による「粘菌コンピュータ」なるものの研究がイグノーベル賞を受賞し、新聞紙上でも大きく報じられたことがある。
  かように、なんとなく・・偉~い・・けれど、トボケタ生物である。

  ということで、カメラを提げて熊楠を真似て地衣類の撮影に出掛けた。
  たいそうな話ではなく、家から数百メートルのいつもの道を5分間ほど歩いただけ。
  10数年間毎日のように通勤していた道で、平均的な通行人よりは木々や季節を眺めながら歩いてきたつもりだが、この地衣類だけは「所詮苔(こけ)か黴(かび)」程度に考え、まったく注目したこともなかった分野である。
  そして、この写真を撮ったからと言って、いまさら地衣類の研究をして見たいとも思わないが、できれば少しずつ自分の記憶のコレクションに追加していきたいと思っている。
  ちょっとキクラゲに似て美味しそうな気もするが。

2012年9月18日火曜日

十七夜

櫓は右側にあり、そこにも輪ができていた
  陰暦、陽暦の話は置いておいて(それについては八朔のブログで呟いた)、月遅れの8月17日に東大寺二月堂では観音様の法要が行なわれ、続いて二月堂下の広場で盆踊りが行なわれた。
  十七夜盆踊りと言われ、ほんとうかどうかは知らないが「関西の踊りじまい」と言われている。
  奈良公園にはあちこちに広い広場が幾つもあるが、会場は足の便が悪くそれほど広くもない二月堂下である。
  町内会の盆踊りなどでは、アニメ関係の音頭が流され子供が中心になったりするが、ここは生の河内音頭、江州音頭だけの、子供の付入る隙がないほど大人の男女の世界である。
  瞬く間に五重六重の輪がひしめき合って壮観という言葉が似つかわしくなった。
  私だけの感想かも知れないが、それだけに、かすかに「先祖供養の盆踊り」というか「奉納」というか、盆踊りの原点を感じさせるものだった。
  民衆の楽しむ顔を見て神仏は喜ばれるのだ。
  主催は東大寺であるし、周りは国宝だらけである。それもまた愉快愉快。
  私は久しぶりに盆踊りらしい盆踊りに来て見たが、各地のグループごとの衣装も華やかだし、踊りのアレンジも素晴らしく、阿吽の呼吸だろうか、河内音頭が変るたびに右回りの踊りが左回りの踊りに変るなど、驚嘆としか言いようがない。楽しい一夜だった。

2012年9月15日土曜日

鹿政談は微笑ましいが

  奈良の鹿を殺すと死罪であった頃、正直者の豆腐屋の六兵衛さんが野良犬と間違って殺してしまう。
  検事役の鹿の守役・塚原出雲(が犬と異なる鹿の特徴を説明)に対してお奉行が・・・・・、
  「だまれ!奈良の奉行を務むる身が、鹿の落し角を心得おらぬと思いおるか。鹿には上より年に三千石の餌料をば下しおかれある。しかるを、ちかごろ、その餌料のうちを金子に替え、奈良の町人、百姓どもに高利をもって貸しつけ、役人の権柄にて厳しく取り立つるゆえ、難儀いたしおる者あまたあること、奉行の耳にも入りおる。二百頭余りの鹿に、三千石の餌料ならば、鹿の腹は満ち満ちておらねば相ならぬ。しかるを、ろくに餌を与えざるまま、鹿はひもじさに耐えかね、町中をうろつき回り、豆腐屋においてキラズなんどを盗み食うに相違あるまい。いかに神鹿たればとて、盗みをするにおいては、これ賊類にして神慮にかなわず、打ち殺しても苦しゅうないと心得る。その方、たってこれを鹿と言い張るならば、犬か鹿かはさておき、餌料横領の儀より吟味いたそうか、どうじゃ」
・・・・「これは犬に相違ございません」
・・・・と、お奉行が「待て、六兵衛、待て。その方は豆腐屋じゃな。キラズ(切らず)にやるぞ」
「マメ(豆)で帰ります」
------は、米朝お得意の『鹿政談』。(注:キラズ=おから)

  その鹿、平成24年7月現在1,079頭で、1年間の交通事故死亡者?数は91頭だったらしい。
  だから奈良公園周辺には「鹿の飛び出し注意」の交通標識がいっぱいある。
  私は、鳥や虫を探しに奈良公園を歩くことが少なくないが、奈良公園ビギナーの方に是非ともお伝えしたいことがある。「鹿の飛び出し」ではなく「鹿に注意」のことである。
  それは・・・、見た目はペットのように可愛いけれど、奈良公園の鹿はやっぱり野生だということ。
  9月から11月は発情期で、人間界の不可解な事件同様、妖しい牡鹿が徘徊している。ほんとうである。
  そして、気のいい(人間の)母親が目を離したすきを狙って小さな(人間の)子供をドーンと突き飛ばす。もちろん怪我をする。(自然に親しむことなく成長した大人は皆なペットと思い違いをしているので、幼児から目を離す)
  場合によっては、大人であっても前脚を高く掲げて殴ってくる。
  中には牛や馬のような感じの牡鹿もいるから文字どおり馬鹿にはできない。
  このブログで奈良の鹿を怖がってもらっては困るのだが、ほんとうにこの時期の牡鹿には気をつけてもらいたい。
  ただし、ほとんどの鹿は優しいものなので誤解なく。
  世の中が訴訟社会になって、やたらに管理者の責任逃れのためのような「禁止」や「注意」の看板が街中に乱立したせいだろうか、「発情期の牡鹿に注意」の看板を誰も見ていないようだが、私は何度も「キレた牡鹿の蛮行」を目撃している。
  恋に狂った男は度し難い。
  それが解っている人は被害に遇わない。

2012年9月13日木曜日

初秋の菜園

  我が家では、・・・と言っても夫婦二人だけの話だが、庭のトマトなどの収穫を頼むとき「ちょっと献血してきて」と言い合っている。
  そんな『蚊天国』の菜園にも秋風が吹いてきて、これで少しは献血も少なくて済むのではないかとホッとしている。

1 菜園の女王

  薄紫でマメ科特有の姿をしているササゲの花も結構美しいが、菜園の女王といえばオクラである。
  今年はどういうわけか、オトシブミみたいな、毎年悩まされていた「葉を丸めてしまう虫」がつかなかった。
  嬉しいような・・・そして、もしかして良くない環境変化ではないかという心配なような・・・、複雑な気持ちである。
  オクラは、この美しい花の後に美味しい実をつけるので、菜園の優等生とも言えるが、暑さと献血が嫌で横着になりチョット収穫を忘れているとアッという間に10㌢から15㌢に成長する。見た目は立派と言うか豪華でさえあるオクラである。
  が、こうなると、齧ってみるとまるで材木のように堅くなっていて、炊き合わせにすら使用できない「独活の大木」と化している。この夏も何本パーにしたかわからない。

2 土手かぼちゃ

  肥料にでもなるかと昨年かぼちゃの種の部分を庭に捨てておいたら、文字どおりの「土手かぼちゃ」が今年生えてきた。
  引っこ抜いても良いのだが、面白そうなのでそのままにしておけば、なんと15mを超えてしまった。ものすごい生命力である。(15㌢ではない)
  それを道路側のブロックに引っ掛け・引っ掛け這わせてある。
  道行く人々は「何か新しい花だろうか」「最新の栽培方法だろうか」と驚きながら通っていかれる。
  堂々と飾るように植えておくと、まさかそれが「土手かぼちゃ」だとは誰も思っていない。
  だからだろうか、妻は私が大阪に出て行くのに「堂々と着たら誰も判らへん」と480円の上着を着て行けと言う。

3 狩人あっぱれ

  3枚目の写真は、我が家の菜園での狩人のお食事風景。
  この狩人を大嫌いの方もおられるようなので小さく掲載する。
  お好きな方は写真上でクリックすればアップに出来る。
  生きているクマゼミをよく獲ったものだと狩人に感心するが、この狩人は生きているものしか食しない。
  撮影の時、クマゼミは齧られながらもまだ生きていた。 
  ちょっとした自然のアルバムだと思って感動して眺めていた。
  空の上では秋の狩人(百舌鳥)が高鳴きの練習をし始めている。
  夜はアオマツムシがリーリーリーと、情趣を突き抜けた五月蝿さである。

2012年9月11日火曜日

キワーノを食べました

  今春、緑のカーテンの苗の中に面白そうだからキワーノなるものを植え込んだ。
  説明では、デパ地下で1個1,000円の高級フルーツ、ミネラルたっぷり、高血圧予防、便秘予防、マグネシウム№1果物、
味={(ライム+バナナ)/さわやか}×ゼリーとあった。
  見た目は見事な南国フルーツと言ったところ。
  期待に胸は膨らむ。

  写真1は8月下旬の収穫時。
  写真2は収穫後2週間以上熟れさせたもの。
  写真3は二つに割って、これをスプーンでいただいた。
  いらない説明抜きで結論を申し上げると、公取法違反スレスレの誇大広告だと私は思う。


  ひねた胡瓜の種のところを少し酸っぱくしただけの味である。
  かすかにライムと言われればそうかも知れないが、マッカの種でももう少し美味しいと思う。
  食べ方の説明には、ヨーグルトと混ぜる、焼酎を入れて呑む、ドレッシングに加えるというのもあったが、試してみる意欲が湧いてこない。
  文字どおり初物だから孫に食べさせてやろうかとも思っていたが、先に試食しておいてよかったと思っている。
  味の嗜好ほど個人差のあるものはないから断定するものではないが、私は来年の緑のカーテンに植え込むことはない。
  「カタカナに弱い日本人」と言われたりするが、もしかしたら私はその典型?
  調べてみたらキワーノの日本名は「角(ツノ)ニガウリ」だった。 エエカゲンニシナサイ!!

2012年9月8日土曜日

八朔は雨?

ネットから
  堺などの、蒲団太鼓(ふとんだいこ=太鼓台)を担ぐときの唄の中の「それゆえ八朔(はっさく) 雨じゃいな」というのがよく判らない?
  当り前だが旧暦の八月朔日(ついたち)・・今年は9月16日・・頃は台風シーズンだから雨が多いというのであれば味もシャシャリもない。
  八朔というからには元々八朔祭の唄だとしたら、堺の中心部の開口神社(あぐちじんじゃ)(大寺さん)の八朔祭の蒲団太鼓がルーツかと思われるが、ここは古くからの都市のド真ん中であるから刈入時の天候への期待とも思われないし、だいたいが晴天祈願の歌詞とは思えない。刈入時に雨乞いはないだろうし。
  国性爺合戦の和唐内から中山清閑寺と言葉を掛けてきてこうなっているので、歌舞伎か人形浄瑠璃あたりの当時の庶民の「常識」に乗っているのだろうが、その「常識」が私には判らない。
  ご存知のお方にご教示を賜りたい。

  泉州において教員生活の経験がある宮本常一氏の著「ふるさとの生活」によると、大阪平野などでは半夏生から八朔の間は太鼓を叩いたりして全員昼寝をすると決まっていた・・・とある。
  また別の書物には、近畿一帯では八朔のことを「日の辻の取り上げ」と呼んでいた・・・とあり、日の辻とは正午のことで、八朔は昼寝の終了イコール夜なべ仕事の開始日だった。つまり、この日から秋の厳しい労働が始まる日だったので、この日の食べものを涙飯、泣き餅、涙饅頭などと呼んだ・・・とある。広辞苑にも一部(日の辻、日の辻の取上げ、涙飯、涙饅頭)登載されている。
  吉川弘文館の「日本の年中行事事典」には、「大阪泉北地方では八朔の苦餅(にがもち)として牡丹餅を奉公人に食べさせた」とある。
  とすれば、祭りの囃し唄らしくはない??が「それゆえ八朔 涙雨」の意だろうか。判らない。

  今日では八朔祭も前後の週末に開催されるところが多い。有名な百舌鳥八幡宮は月見祭であるが同様に「八朔~」と唄っている。他の神社でも八朔でなくても同様である。
  なかには現暦の8月1日や月遅れの9月1日前後に八朔祭をするところも多い。
  いうまでもなく旧暦(太陰暦)の朔日は絶対に新月である。当り前である。
  8月末に満月(望月)を見ながら外出先から帰ってきたら、テレビが「明日は松尾大社の八朔祭です」と言っていた。う~む難しいことである。

      牡丹に唐獅子 竹に虎
      虎追うて走るは和唐内
      あとないお方に知恵貸そか
      知恵の中山清閑寺
      清閑寺のおっさん 坊さんで
      それゆえ八朔 雨じゃいな
      ベーラ ベーラ ベラショッショイ

          どんどんどん ヤーエ
          どんどんどん ヤーエ
          ヨンヤマカッソコジャイナ
          ヨーンヤセー
   
  う~む 何から何まで難しい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  出島の同窓生の言うには、出島の太鼓ではその歌詞は歌わず、もっともオーソドックスな・・・
  石山の 秋の月  月にむら雲 花に風  風の便りは 阿波の島  縞の財布に 五両十両
  ゴロゴロ鳴るのは ナンジャイナ  地震 雷 あと夕立  ベーラ ベーラ ベラシャショイ
だという。
  それにしても夕立だ・・・・・・・。#$%&? なんでやろう?
  お便りありがとう。

  御陵前の同窓生は、「ルーツは大寺さん(開口神社)の八朔祭やろう。経験的には八朔祭は必ずと言って良いほど雨が降る。だから太鼓を担ぎながらヤケッパチで「それゆえ八朔 雨じゃいな」と歌ったんと違うやろか?」と言う。
  結局一番それらしいが・・・。ご返事ありがとう。  

2012年9月5日水曜日

さりげなく


  時代は閉塞感に包まれている。
  中流社会の崩壊、不安定雇用と、底の抜けたセーフティーネットという自公政治はもうまっぴらだと思って政権交代に期待した「世論」は、民主の見事な裏切りっぷりにうんざりしている。

  そこでメディアが新しい第三極としてセールスに努めているのが、古くて粗悪なネオ小泉構造改革路線の、「維新」という名のタカ派なのだから嫌になる。
  嫌ではあるが現実に、彼等(彼?)のイジメに似た下品で過激な発言が、出口の見えない鬱憤という「世論(気分)」の受皿になっている。

  よくイジメの報道の中で「イジメを止めようとしないのはイジメに手を貸しているのと同じです」的な話を聞かされるが、理念的にはそうだろうと思う。しかし、現実社会でこの姿勢を貫くのは極めて難しい。


  そこで私は「出来る範囲のことを」「さりげなく」意思表示しようと思っている。
  そんなたいそうな話ではない。
  例えば、愛用の鞄にさりげなくネームプレートを下げている。
  ネームプレートは2つで105円。
  中には6月30日の「燕が珍しくなる日」のブログに掲載した写真に「NO NUKES」と入れてある。
  ただそれだけである。
  自分で言うのも何だが、そんなにダサくもない。
  なぜ子燕たちがNO NUKESと叫んでいるかは6月30日のブログを眺めていただきたい。
  このブログ、生恵幸子師匠なら「それだけかい!」と言われそうだが、それだけである。竜頭蛇尾ですんまへん。

2012年9月3日月曜日

駄金のために金魚鉢を買う

  義母の老人施設の夏祭りで「金魚すくいをした」と言って、妻が数匹の金魚を持って帰ってきたので、その辺に転がっていた壷などに入れておいたが、1~2日で死ぬかと思っていたのが予想外に元気なままなので、市価でも全部で数十円だろうが、要するにタダ(0円)の駄金?のためにホームセンターで浄水器付きの金魚鉢(水槽)と金魚の餌を買ってきた。

   後日、あまりに水槽が寂しいので、小石と若干の掃除道具も購入した。
  水草も購入したが、これは枯れて汚くなるので人造水草もどきに交換した。
  すべては駄金のためで、浄水器は24時間動かしている。

  観光地で、無料で配られた「くじ」のようなもので「おめでとうございます。宝石が当りました。」とか言って『ネックレスとかイヤリングの加工賃?』(と称する代金)を払わせる悪徳商法があるが、「どこか似たような間抜けな話」だと、話を聞いた息子は笑った。

  飼ってみてから判ったことは、金魚が朝晩餌をねだること(池の鯉を想像すると当り前か)と、そして徐々に大きく成長することだった。そして、何よりも孫の夏ちゃんが金魚を指差してとても喜ぶことだった。「ああ、このことだけで金魚鉢を買った値打ちがあった」と爺婆は微笑んでいる。

  近頃水族館で、自然界そっくりな循環型の展示が好評だと報じられているが、確かにこれにハマルと湖や海を再現したくなる気持ちも判ってくる。だから、あえて高価な魚を買いたい衝動を今は抑えている。(金魚の餌を買いに行くと、綺麗な魚に目がいくが・・・)
  ただ、「田舎の小川」を造ってみたい気持ちや、以前、本とネットで調べてみた蛍の飼育も頭の隅を横切らなくもない。
  昔、職場の先輩で釣果を使って「大阪湾」を再現して有名な方がいたが分る気がする。

  ついでに・・・、長男が小さかった頃、金魚の産地大和郡山市に近い富雄川で鮒釣りをしたことがあったが、鮒とも鯉ともいえない赤く色づいた魚がたくさん釣れた。味はまあ鮒だった。