2012年8月31日金曜日

つくつく法師

  子規の句に、ツクゝゝボーシツクゝゝボーシバカリナリ というのを見つけた。載っていたのがちょっとした本であるので名句なのだろうが門外漢にはその好さが判らない。
ネットから

  8月末になって蝉も見事に役者が代り、つくつく法師が主役になると、いくらテレビが熱中症の注意を呼びかけていても晩夏から初秋の空の青さを感じるようになる。
  その鳴声をほとんどの書物はオーシイツクツクと書いているが、私は素直にツクツクボーシと聞いている。
  鳴声についてのこの大きく二種類の表記のうち、どちらがより真実に近いかの論争は昔から今も賑やかだが、絶対的名解答にはお目にかかっていない。
  それよりも、100%に近い書物が「最後にジーと尾を引くように鳴き終わる。」に近い書き方であるが、この地のつくつく法師は「ギューオウー」とでも書くしかないような、機械の軋んだ様な悪声で終わる。
  法師蝉という有難い名前に似合わないこの「ギューオウー」という悪声の悪口を誰か(例えば清少納言)が書いていないかといろんな書物をひっくり返してみたが出てこなかった。
  あまりにカスリもしないので、自分の耳が信じられなくなった。
  しかし、確かに最後は軋んだ悪声で終わっている。

  で、この下書きをここまでで中断中に、書物を横に置いてお手軽にネットを開けたらWikipediaに「ツクツクボーシツクツクボーシの鳴声の後にウイヨース!と鳴く」と書いてあった。拍子抜けとはこういうことだろう。ただウイヨースよりももっと悪声であるとの感覚は譲れない。
  皆様方の地方のつくつく法師は何と言って鳴き止んでいますでしょうか?

  朝日文庫の「四季の博物誌」によるとこの蝉は、ツクツクヨンス(宮城)、ツクシンボ(福島)、オーシンチョコチョコ(千葉)、スットコイーヨ(新潟)、オーヒッツク(長野)、ツクンヨーシ(和歌山)、トキシラズ(島根)、ツクツクボー(高知)、ズグッショ(天草)、ツクツクムシ(鹿児島)、オーシーツク(各地)とも呼ばれているらしい。

  「ギューオウー」は悪声であるだけに夏休みの終了宣告にはとてもふさわしい。 

2012年8月27日月曜日

鼬堀ではなかったか

  8月21日の「ペットではないのです」のブログに、スノウさんから「大阪の立売堀(イタチボリ)の地名の由来は、もしかして鼬堀?」との主旨のコメントをいただいた。

ネットから
  調べてみると「そういう鼬堀説もある」とのことだが、大阪市立図書館等の最も有力な説は、「大坂冬の陣・夏の陣の折に伊達家の陣が置かれ伊達堀と呼ばれていた」「後に堀が改修され木材の立売が許可されたので町名が変ったが〔読み〕は昔のまま残った」というものらしい。
  しかし、それでも残る疑問が二つある。

  その1、そもそも旧名が何故「ダテボリ」でなく「イタチボリ」?ということ。
   天下の台所を預かる大坂人が誤読したとも思えない。
  それよりも、「わてはダテボリのなになにだす」「ダテボリってどこですねん」「イタチボリってかくあそこです」から、・・・「わてはイタチボリって書くダ テボリのなになにだす」を経て、それなら最初から「イタチボリだす」というような大坂人の合理主義ないしはシャレでそうしてしまったと考えるのが納得しやすいかも・・・・・?
  ・・・・・などと想像しながら調べてみると、伊達家の読みは、もともとイタチ→イダテ→ダテと訛ってきたものらしい。政宗のローマ法王あて親書にもidateとある。だから、大坂人が原則に戻ってイタチと読んだ・・・・・と、そこまではチョット想像しにくいが、普通に江戸初期の伊達の読みはイダテであって、東北弁のテとチの微妙な近似性からすると、耳で聞いた分にはイタテやイタチだったのだろう。
  なんと言うことはない、当時は普通にイタテボリというかイタチボリと言っていたのであって、この件は何の疑問もないようだ。

  その2、その後、町名が「立売堀(タチウリボリ)」と変更されたにも拘らず〔読み〕を「イタチボリ」のまま通したのは何故?ということ。
  お上が変えた地名などに捉われず旧地名を語り続けた町人文化か?
  タチウリボリもイタチボリもタチとかボリとかよく似た音だからそのままにしたナマクラ精神か?
  シャレ言葉が好きだった大坂では、漢字をそのまま読まずに隠語のように読むのを好んだ?・・そして隠語は往々にして時を経て表の言葉になったのか?
  それとも、〔イタチボリ〕を自分たちで枕詞?に昇華させたのか??? 「立売堀をイタチボリと読んで悪かったら飛鳥、春日、長谷、日下はどうすんねん」・・・と。
  この件は、結局はよく解らない。・・・ただ歴史ある地名をブルドーザーのように踏み潰した昭和の地名変更の暴挙をくぐり抜けて、平成の御世に「立売堀」が堂々と「イタチボリ」である奇跡を喜びたい。
  これ以上は、このあたりの事柄に詳しい「ひげ親父さん」のコメントを待とう。

  なお、以上のとおり大阪人の「イタチボリ」の〔読み〕を肯定的に書いては見たが、京都のお人は「大阪のお方は中立売通りをナカイタチドオリてお言いやすよってかなんわあ」と言うのであるし、京都か奈良で古代史の講義を受けていた際に先生が、「大阪市や堺市にある遠里小野の地名に大きく〔オリオノ〕と書かれているのであきれ果てた」「あの地は〔とほさとをの〕という万葉からの由緒ある地名なのに・・」と深く深く嘆かれたのを思い出したことも付け加えておきたい。

2012年8月25日土曜日

こうつと大学の鳴石学


義母に「鳴石(なるいし)」のことを尋ねてみたが、「こうつと・・」の言葉の先がなかなか進まなかったので、少しリアリティーに欠けるが、義母の話を基にいろいろ文献を調べてみた結果も含めて書いてみたい。
我が家の鳴石
「鳴石(なるいし)」は、生駒山の奈良県側の標高200250mあたりで出土する独特の形をした褐鉄鉱の珍しい石である。
  15千万年前の地層から出土するもので、多くは球状で内部が空洞になっており、中の小さく固まった粘土塊により土鈴のように音を発するので「鳴石」「鈴石」と呼ばれ、そしてその形状からは「岩壷」「壷石」などとも呼ばれている。
  「生駒の鳴石」は天然記念物に指定されている。
奈良県生駒郡平群町福貴畑に「鳴石(なるいし)」という小字があるのはこの「鳴石」が出土したためで、義母の生家はその地からそれほど遠くない。それでも「鳴石」は滅多に出土するものでなく珍しいものだった。
  写真の「鳴石」は義母の生家の玄関横の崖から「義母の父」が昭和初期に見つけたもので、長らく床の間の花瓶になっていた。
  こういう花瓶のような利用方法もこの地では普通にあったらしく、そういうものは「鳴石」というよりも「岩壷」と呼ばれている。
その義母の生家の「岩壷」が、どういうわけか義母の嫁ぎ先つまり私の妻の実家に移動してきたらしい。その経緯・詳細は義母に聞いても今では不明である。
  そして、義母が生家から持ってきた?その「鳴石」が、妻の実家の庭に無造作に捨てられてあったので、孫(これは私の長男のこと)が貰ってきたのが今ある我が家の「鳴石」である。
 同様のものは、全国的には岐阜県土岐市や北海道名寄市などなどでも出土するが、いずれも天然記念物である。
唐古・鍵遺跡
 さて、実はこの「鳴石」が、ヤマト王権発祥の地に遠くない「唐古・鍵遺跡」の弥生時代中期の地層から出土した。
  ここでは「鳴石」が容器(宝石箱?)として、その中に2個の非常に良質の翡翠(ひすい)の勾玉を収納した形で出土している。翡翠は新潟県姫川産と考えられている。
 道教の神仙思想に基づく方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)の銘文に、「神仙界を訪ねて、玉を食べ黄金を摂れば、官位は昇進し子孫は繁栄する」とあり、道教の原典的文書である「抱卜子(ほうぼくし)」には鳴石(褐鉄鉱)及びその中の石(土)が「太乙(一)禹余粮(たいいつうよりょう)」という名で不老長寿の仙薬と記されている。
 「太一禹余粮」は後の正倉院御物の中にも薬として保管され現存もしている。
  これらのことから、弥生時代にすでに道教が伝播していたことが推定されるが、一方、勾玉は日本列島オリジナルの文化・思想と言われているから、弥生人が何故「鳴石」の容器に勾玉を収納したのかは今のところ不明である。
  唐古・鍵遺跡の「鳴石容器入り翡翠」の出土を、考古学の泰斗森浩一先生は「僕はこの50年間で最大の地下からの贈り物だとみている。」と感激されている。
  JR信太山駅近くの「池上曽根遺跡」の復元された高殿を見ても解るように、弥生時代を馬鹿にしてはならない。
  「唐古・鍵」の人々は最新の中華文明である道教を信じ、高い精神世界を共有していたのだろう。
  そんな想像を膨らませると、何げなく貰ってきたこの「鳴石」の向こうに楽しい古代史が踊りだす。
  この「鳴石」、正直に言えば長い間我が家でも庭に適当に転がしていたが、今回いろんなことを調べてみてちょっと驚き、屋内展示?にまで出世させることにした・・・私もゲンキンなものである。 
  いずれにしても「鳴石」は弥生の昔から文字どおり貴石であった。よって、本日このブログを閲覧された貴方にも幸いあること疑いなし。あなかしこ、あなかしこ。 

2012年8月21日火曜日

ペットではないのです

  もう30年近く前になるが長男が小さかった頃に「あらいぐまラスカル」のアニメが流行り、その影響であらいぐまが「カワユ~イ」とペットにされ、そしてお決まりのとおり飼育に手を焼いた挙句そっと捨てられ、今、国宝の指定もなんのその、京都や奈良の寺社仏閣がその被害にあっているという。

  国宝や重文ではないが泉南の友人の旧家でも天井裏で狸やイタチが夜な夜な集会を開催していたのを、半年ぐらいのイタチゴッコの末どうにか駆除できたらしい。
  総じて、経済成長神話に基づいて自然環境を破壊してきた現代人が逆襲されているの図とでも言えるかも。

  「先生、子リスたちがイタチを攻撃しています!」という小林朋道氏著の楽しい本があり思い出したが、昔は都市の町家にもいっぱいイタチがいた。
  さすがに鶏を家で飼っている家は都市ではそんなに多くはなかったが、鶏小屋の周囲には必ずイタチ除けにアワビの貝殻が幾つも吊るされていた。(小学校の鶏小屋ももちろん)
  ちなみに義母は(少し意外だったが)「鶏を襲ってきたのはイタチやのうて狐やった」そうである。(昭和初期までの生駒谷の話)
  そんな記憶からすると、いわゆるニュータウンの自然は公園と街路樹以外はある種貧弱で、近頃はイタチをほとんど見かけなくなっていた。

  そんな折、ニュータウンではないが、義母のお世話になっている施設の駐車場の奥で、写真のとおり偶然イタチを発見した。
  近くには草原、溝、水田、畑、ため池があり、遠くないあたりに古い人家のある場所だ。そして、観察していると、どうも施設のゴミ箱(残飯)を覗っているようだった。
  イタチと聞くと拒否反応が起こるかも知れないが、先入観なしで写真を見てみると、これはまったく可愛いペットと変わらない。事実、イタチ科のフェレットなどは臭腺を取ったうえで立派なペットになっている。
  イタチっ屁を掛けられるのも嫌だし、というよりもあまりに警戒心が強くすばしっこいので少し離れた自動車の窓ガラス越しに撮ったものだが、義母はすぐ裏手に出没しているこのペットの写真を「可愛いなあ」「可愛いなあ」と非常に気に入ってくれた。

  24日(金)追記
  一番下の写真をA4に印刷し「私は庭のイタチです」とテロップを入れ、お茶などをこぼしてもいいようにポケットファイルに密封して義母のところに持って行ってもらったら、妻が言うには、義母が私のことを「こんなんを作るのはボケないためにええこっちゃ」と心配してくれてた・・・というものだった。親というものはいいものである。

2012年8月18日土曜日

浮世を離れた授業も楽し


  少し前に、ツイッターの「ついっぷるトレンド」で面白い知識を得た。
  ツイッターには文字数140字という制限があるが、アルファベットも漢字も1字は1字となっている。だから、アルファベットのような表音文字の言語に対して表意文字たる漢字を含む日本語の情報量は5倍以上になるとのことで、至極納得。(ただし、大阪弁を「てぇ~(手)」「めぇ~(目)」と記述しないとして。)
  いま世界中で独裁政治に反対する民主主義の運動がツイッターを武器に広がっていると伝えられるが、我が国の市民がこれを使えば、表音文字文化圏(要するに日本、中国、台湾以外のほとんどの世界)の人々の5倍以上の力を発揮する勘定になる。事実、主にツイッターで発信されている脱原発の新しい運動がこの国でも広がっている。(ネット社会の負の側面はあるにしても)
  ただ惜しいことに、善良な市民の一部に「ツイッターなんか苦手や」と公言し、自分の時代遅れぶりを自慢すらする傾向があるのは如何なものだろうか?(ちなみにツイッターは30分もあれば無料でスタートできる。)

  さて、日本語は文字数に比して情報量が多いと述べたが、音節・・・(英語のstreet1音節、日本語のストリートは5音節)を単位とすると情報量が極端に少なくなる。だから、一般に日本の歌の歌詞の情報量は非常に少ない。民謡や古い唱歌~歌謡曲のまだるっこさはここにあると思う。しかし、歳がいくとそのまだるっこさが味わいに感じられるから不思議だ。
  若い頃は「思い出のメロディー」的な番組の存在理由が生理的に理解できなかったが、この頃では「近頃の歌は情緒がない」などと呟きながら、思い出のメロディーの歌が懐かしい。
  以上は本日のブログのまくらである。

  (まくらの「思い出のメロディーの歌が懐かしい」を受けて・・・・)8月真っ盛り、学生向けの公開授業に参加した時、「心の歴史は歌で伝わる」と万葉学者上野誠先生はおっしゃった。

  平城京から越中に国司として赴任した大伴家持、
  天平勝宝2年(750)の春・・・赴任して4度目の春、
  柳の葉を引っ張って、彼は何を思い出したか、

  「2日に柳黛(りゅうたい)を攀(よ)ぢて京師(みやこ)を思ふ歌一首」

      春の日に
      萌(は)れる柳を 取り持ちて 見れば
      都の大路し思ほゆ (巻十九の四一四二)

          春の日に
          芽吹いた柳を 手にとって 見ると
          都の大路のことが思い出されるなー

  平城京の都大路には柳、
  都の街路樹を思い出した家持、
  当時の流行・・・かき眉、
  柳の葉のようなかき眉は美女の例え
  家持になったつもりで復元された朱雀大路の柳を見てください。・・というのが授業の一こま。
  教養のない私などは、先生の解説する万葉歌のひとつひとつの奥深さにいつも驚くだけ。
  そして先生は学生に「夏休みに、文学部の学生は恋をして旅に出なさい」と命令。
  MBSラジオ毎日曜日朝540分からの「上野誠の万葉歌ごよみ」同様、楽しくて心に残る授業だった。

2012年8月15日水曜日

これも夏の音楽

  一昨日昨日と、お寺とチャペルと神社に参ってきた。
  誤解しないでいただきたいが、宗教や宗派をチャカしているのではない。
  それぞれにご縁があって時期が重なっただけで、私としてはそれぞれに感謝している。
  そして、この3箇所を巡る中で、月並な言い方だが、音楽は心を癒してくれるなあとしみじみと感じたお盆であった。

  その1.お寺での読経。これは比較的若くして父親を亡くした私なので、長く身体に染み付いた馴染の音楽とも言える。
  だから、お盆のイメージに直結する形式美の美しさがあり、お盆の行事をやり終えたというホッとした感じを与えてくれる。
  哲学ではないこのホッとする感覚が実は宗教なのかもしれないと、近頃思うようになっている。

  その2.ミサの聖歌。これはもちろん、小学校から一貫して教えてこられた洋楽だから違和感は何もない。
  というよりも、先日、「また会う日まで」のブログを書いてからいろいろ調べてみて気づいたことだが、我が国の唱歌のスタートはほとんどが賛美歌の替え歌であったのだから、感覚としては唱歌である。
  そして、歌詞が現代語に近いだけ胸にこみ上げるものもある。

  その3.南都の雅楽。ヒグラシが鳴き始めたのを始業ベルのように始まった1300年前のままの音楽。原生林に吸い込まれるような演奏は文句なく心地よい。
  余談ながら、西洋では単音の歌唱がようやく始まったばかりの頃に、管楽器、弦楽器、打楽器がリズムとメロディーとハーモニーを奏でていた中華文明とその端っこにいた列島人には脱帽する。
  
  このように、それぞれが私のお盆で、そして心が癒された音楽だった。
  私なりに充実したお盆だと思っている。
  写真は、その3の「春日大社万燈籠」。舞楽は「万歳楽」だった。

2012年8月13日月曜日

「うちわ」は盆菓子のホームラン王

  近頃では少し小洒落た盆菓子も登場しているが、やはり盆菓子の主流は蓮や茄子などを模ったちょっと毒々しいあれであろう。
  申し訳ないが、お下がりをいただく気にもならないので購入していない。
  ただ、私は、昔から「うちわ」だけは好きだったので、お盆の準備用品の中にそれを見つけたときは少しわくわくしてして購入しておいた。
  決して上品とはいえないが下品でなく、美味くもないが不味くもなく、歯ごたえ・食べごたえはまったくないが、懐かしいお盆の味の一つである。(要するに上等でない最中(もなか)の皮だけを食べた感じ)
  お盆の前にファミリーが揃ったが、子供たちは「そんな安物の菓子をなんで食べなあかん」と馬鹿にして食べなかったが、孫と義母は喜んだ。
  孫には、その大きさといい見事な薄味の薄さ加減といいピッタリで、柄を抜いて手に持ってかじる様は何よりの爺婆孝行をしてくれた。
  また義母は何が気に入ったのか幾つも食べ、お盆が本格的に始まる本日現在、結局1枚だけになってしまったがそれもよし。
  親鸞はお盆の行事など説かなかったが、凡人は、少しばかり教えられた習わしをなぞることで、世俗を超えた精神生活を豊かにすることが出来ると思う。
  今夕は玄関でオガラを焚くことにしている。

2012年8月11日土曜日

大浜海水浴場があった

  私は小学校時代、「中世の堺の繁栄を壊したのは秀吉と大和川だ。」と教わった?
  秀吉は堺の商人たちを大坂に引き抜き、付替えられた新大和川が堺の港を埋めてしまったのだと。
  この話は精確な意味で授業ではなく、話の脱線部分だったが妙に覚えている。
  だから、私の古い友人がその後小学校の先生になり、その、大和川付替え工事の積極面を掘り起こす「大和川かるた」づくりの教育実践や関連する民衆史等々を取り上げる取組みが度々新聞等で報じられるたび、学問的には肯定的ではあるが、理屈ではない複雑な感覚が私には湧くのだった。 
  ともあれ、新大和川の運び込んだ大量の土砂が遠浅の海水浴場を作り、後の埋立工事を準備したのは事実。


  つまり、堺泉北臨海コンビナートの埋立が始まるまで、私の地元・堺の大浜海水浴場は浜寺に劣らない素晴らしいリゾート地だった。
  現代堺人には信じ難い方もおられるだろうが左の図を見てハハーっと頭を垂れてもらいたい。
  妻は「ウチの小学校にはプールがあった。」と自慢したが、私が「私の小学校にはプールは要らなかった。」 と返答したらハハーっと言った。

  もちろん、私は夏休みには毎日のように家から海パン姿で海に行き、ラジオから「♪ぼっぼっ 僕らは少年探偵団~」の歌が流れる夕方には「もち貝」を持って帰り、網の上で焼いて醤油をたらして食べるのが日課のようなものだった。

  ブログなどで、この「もち貝」(鏡貝?)を「美味しくない」と書いてあるのがあるが、余所は知らず、大浜の「もち貝」はほんとうに美味しかった。
  ブログで「不味い」と書いておられる方は焼いて食べなかったのではないだろうか? 食材に適した料理法を採用せずして何をかいわんや!というのが私の感想。
  よく鳥羽などで「大アサリ」の貝焼きが美味しそうな匂いを振り撒いているが、あれを見るたびに私は、「大アサリなんか比ではない」「大浜の「もち貝」の美味しさは桁違いやったなあ」といつも思っていた。

  しかし、一般に「海水浴はお盆まで」が基本で、・・・ 「海坊主や亡者に足を捕られる」ではないが、実際にお盆以後は土用波が発生し、確かに危険性を増していた。
  それよりも、私の地域あたりではお盆の最後に市(いち)小学校近くのお寺(一光寺?)にお盆のお供えや飾りを持って行って、経木(卒塔婆)等といっしょに川に流してもらう行事があったから、お盆の後は海水浴場にもいろんな漂流物が漂着するのだった。(他の川からも流されていて・・)
  だから、「お寺から流して貰うとあの世に到着する」というのは物理的な意味では現実ではないと小さい頃から思っていた。
  こうして、お盆以降は海はいっぺんに汚れ、昆虫採集をしようとすると「お盆に殺生はあかん」と祖母に言われ、夢のような夏休み前半を折り返し、そろそろ宿題の残量が気になるのが私の記憶の底のお盆の印象である。
  もう海水浴に行く勇気もないが、かんかん照りの空を見ると大浜の潮の香がよみがえる。
  掲載の図は、友人たちが編集して評判の『歴史たんけん堺』から転載。
  今は他府県に暮らす昔堺人や堺が好きなお方には、是非ともこの本(歴史たんけん堺)を購入されることを心からお勧めする。

2012年8月8日水曜日

夏は蝉捕りでしょう

  「ちょっと孫が来ますんで」「孫のためですねん」と、朝の犬の散歩のご近所の方々に言い訳をしながら(何も言い訳をする必要もないのだが)、そして、失敗するたびに散歩の方々に笑われながら蝉捕りに挑戦した。
  いつもの道の早朝は、犬の散歩組とシニアの健康志向の散歩組で賑やかだ。
  もちろん、網と虫かご姿のシニアは私以外にはまったくいない。というよりも、夏休みの朝の絶好の虫捕りタイムにもかかわらず、虫捕りボーイにすら会わない。 この国はいったいどうなっているんだ。
  蝉時雨を聞くと寝ていられないのが正しい子供であった世界(時代)はどこに行ってしまったのだろう。
  バードウォッチャーの一部も含め、虫捕り(昆虫採集)が自然破壊だという主張もあるが、私は不同意だ。寄り道ながら、自然エネルギー先進国であるドイツは昆虫採集禁止らしいが、さて、その実験結果はどうなるのでしょう???これは寄り道。
  絶滅の危機に瀕しているのは昆虫ではなく昆虫少年である。リアルなホンモノの生命と向き合う情操教育であると私は思う。虫捕りをせずに成長?した人々が日本株式会社の企業戦士や公僕となり、意図するとしないとに拘わらず自然破壊を推進もしくは幇助しているのだと私は睨んでいる。 

  そして、「いやはや、こんなに蝉捕りは難しかったん?」とため息をつきながら、空振りを繰返した末に、アブラゼミを数匹ゲットしてお爺ちゃんの面目を最低限保つことが出来た。
  孫はまだ1歳ちょっとである。いわばヨチヨチ歩きに毛の生えた程度である。だから私がホームセンターで網と虫かごを買ってきて裏に隠しておいたのを、「孫にかこつけて自分が遊ぼうとしている。」と妻は冷たい目で言い放ったが反論の余地はない。

捕り逃がしたのと同じクマゼミ
  昼前に孫(女の子)がやってきた。
  こわごわプレゼントしてみたが、虫かごの蝉に拒絶反応はない。
  次に、蝉を虫かごから出してカーテンに止まらせ、ジージージーと鳴かせたが、孫は怖がることなく遊んでくれた。お爺ちゃんはホッとした。
  養老孟司先生に言わせると、虫好きは虫嫌いの何百倍も人生を楽しくするという。

2012年8月5日日曜日

真夏の夜のトマト

  食べものの嗜好に正解も不正解もないが、眠れぬ熱帯夜にトマトに関るどうでもええ話を一席。


  その一、イタリアントマトは皮をむいて種子周辺のゼリー質を捨てるのが一般的な調理法とされているが、普通の日本のトマトをサラダ風に食べるには「それはない」と私は思う。白胡瓜のブログにも書いたが、種子周辺の美味しいジュースを味わわずしてなんとしよう。何なら私のトマトの果肉だけをあげようか。皮を向いて種子を捨てるのが上品な食べ方との昔々の誤報に踊らされていないか。

  その二、世界的には砂糖をまぶして果物として食する国もあるようだがあまりイメージできない(私がその美味しさを知らないだけ?)し、比較的賛同者の多い塩を振って食べるのも本来の味を損なっているように私は思う。塩やウスターソースというのは戦後の青臭い品種であった時代に食べた経験や、そういう親から引継いだ生活様式の「刷り込み」ではないだろうか。・・・と言う私は、理屈ではなくマヨネーズを時々つけたりするのも同じ理屈か???

  その三、トマトの旨味は日本料理の出汁に匹敵するらしい。私はカレーの隠し味にトマトを相当入れている。私のカレーの味は妻や子供たちにも評判だが、溶けてしまったトマトの隠し味は言い当てられたことがなく秘かに自慢している。お爺ちゃんは日々研鑽しているのだ。

  その四、慣用句のように「シンプルで美味しいのは冷えたトマトをそのままで」と言いたいところだが、あえて言おう。「完熟トマトを常温でかぶりつく」が一番である。もっと言えば太陽に温められた常温だ。畑でほかほかに温まった完熟トマトにはアンデスの風が吹いている。これについては妻も積極的に同意している。このためには最低限プランターででも栽培しなくてはならない。その努力をしない者にアンデスの風は吹かない。

  余談だが、我が家の二人の子供たちの離乳食はトマトだった。四六時中大きなトマトをかぶりついていた。今は爺婆が余計なことを言うといけないから黙っているが、孫がトマトをかぶっているのを目を細めて喜んでいる。

  皮むき派、種取り派、塩ふり派、ギンギンに冷えたトマト派の反論コメントを乞う。食べものの嗜好に正解も不正解もないが、こんな与太話も可笑しくないだろうか。

2012年8月3日金曜日

白馬岳の登山バッジ

  先日のブログのとおり、夏祭りの準備・設営のために真昼間から作業を行なうこととなったので、「これは大変だ」と思い、急遽いわゆる「麦藁帽」を買いに行った。百均で105円であった。

  有名な衣料品店にしても百均にしても、単なる消費者としては有難いが、デフレに悩む日本経済はどうなるのかと考えると悩んでしまう値段である。

  さてこの帽子、シンプルでいいのだが、そして「大阪人は安く買ったのが自慢」とは言うのだが、どうしても105円という意識が頭をよぎり、どうも胸を張って被ることができない。

  そこで昔々の登山バッジを探してみたら白馬岳のいいのが出てきたので着けた次第。で、エヘンと胸を張って歩いている。

  登山記念バッジは麓でも売ってはいるが、やはり自分にとっては山頂近くの山小屋で買った貴重なもの、しかも、これは鳥の羽根つきのちょっとしたレアもので値段はつけられない。
  私的な記念=思い出としては、家族で登った日本アルプス登山の初期のもので、水芭蕉の栂池・白馬大池・小蓮華山から登って落石のカラーンカラーンカランカランカランと響く大雪渓を下った思い出の詰ったもの。
  105円の帽子に着けるのはもったいない・・といって、空き缶の肥やしであっただけだから、これでいいのだ。

  余談ながら、100%近いガイドブックは白馬大雪渓を登るルートを指導しているが、私は大雪渓は下るというルート設定が正解だと思っている。落石に当たれば一巻の終わりである。落石をよける体力を保持した下りがよかったとつくづく思っている。ただし、全ては35年ほど前のこと。登る人は自分で考え抜いて自分で責任をとってもらいたい。