2012年4月28日土曜日

救世主待望ではないけれど

   磯鵯(イソヒヨドリ)の新居?になったショッピングモールは、谷底を走る線路の上の道路よりもさらに高い高台の上に建てられているので、ちょっとした断崖の趣がある。・・と、何回もブログに書いてきた。
 だから、その方向から風が吹くと、春のそよ風であっても上昇気流が発生しているものと思われる。間違いない。
 風が強い日などには、その上昇気流に「飛び込みジャンプ」するようにカラスの群れが舞う時があるが、あれは「ほんとうに遊んでいるのだ」と何処かで読んだことがある。
 しかし、上昇気流に一番似合うのは帆翔(はんしょう=ソアリング)する鷹であり、事実、タマにではあるが鷹が輪を描いて上っているのを見かける。 
 (寄り道ながら・・、夏鳥である鷹の中の数種は春と秋に集団で「鷹の渡り」を行なう。秋には、知多半島に集合して中央構造線に沿って西に向う。その際、そびえる山に発生する上昇気流で高く高く舞い上がり、その後はグライダーよろしく、すこぶる経済的な省エネ飛行をする。三重と奈良の県境の高見山は、集団で鷹が旋回して柱のように上っていく「鷹柱」で有名である。)
 その上昇の速度は、優雅な姿に似ず結構速く、あっという間に高く上ってしまうからシャッターチャンスはあまりない。
 だから、この写真も「あっ!鷹だ」というような『出会いがしら』のようなものであるが、ハヤブサ類のチョウゲンボウだと思っている。正確には判らない。

 でも、私はチョウゲンボウだと信じたい。
 なぜなら、その名前の由来は、・・・、昔、凶作に苦しむ村に「長元坊」というお坊さんが来て断食をして祈ってくれ、そして・・・亡くなった。
 すると、翌年は大豊作となり、お坊さんが修行していた山の上から稔りを確かめるように飛んでいる鷹がいた。
 村人たちはその鷹を「長元坊」の生れ変りだと信じ「長元坊」と呼ぶようになった・・・というのだから。
 よく考えると、この種の救世主待望の思想はポピュリズムの土壌かも知れないが、目くじらを立てずに言えば、「長元坊」の名前の由来はほのぼのと好きである。

 ただ前節で触れたとおり、近頃は、大阪の状況やフランス大統領選挙でのル・ペン候補の得票率などを見ると、ポピュリズムの彼方から、微笑みながらやってくる「民主的(選挙的?)なファシズムが気になって仕方がない。
 朝ドラのカーネーションでも、「この非常時に」とミシンの供出を迫る国防婦人会のおばちゃんに存在感があったが、「市民が節電目標をよう達成しなかったら原発再稼動だ」と、まるでヤクザの恐喝・言いがかりまがいのプロパガンダ(情報戦)を展開する坊ちゃんを「脱原発派市長」と持ち上げるマスコミを見ていると、何か「いつか来た道」のような同種の危険性を感じるのは心配性だからだろうか。

2012年4月25日水曜日

鏡作部 失格

    森浩一氏が【倭人伝を読みなおす(ちくま新書)】の中で「東アジア全域を見渡しても、日本列島ほど銅鏡を愛用した土地はない。」と指摘されていて、それを否定する考古学者はいないように思う。
 では、「倭人が、何故これほどまでに銅鏡を愛用し大量に古墳に副葬したのか」となると百家争鳴の感があり、読めば読むほど、聞けば聞くほど夫々に一理がある。これは後日のブログへの「お楽しみ」の宿題である。

 そういう倭人の血をひく我が家にもご多分にもれず神棚に小さな銅鏡がある。
 ただし、ものの見事に曇っているというか錆びていて、子どもたちも「これが鏡である」と認識していなかった。
 もう一つの文鎮にしている銅鏡も同じ状況である。
 だから、ふと、もう一度磨きなおして、子や孫たちに「これが銅鏡だよ」と見せてやりたくなったのが半月ほど前のこと。
 そこで・・・、先ず、仕上げ砥石とクレンザーで錆落しをしてみたが、大きな錆びは落ちたものの反対に鏡面が傷だらけになってしまった。
 その上に、「一度やってみてやれ」とハイターを使ったら、再び強力に錆びてしまって元の木阿弥。

 それ故・・・・、だいたいが銅鏡の復元に近代兵器に頼ろうとする根性がよくないと反省し、田原本町に鎮座まします「鏡作神社」に参って来た。
 この神社の祭神の一人は石凝姥命(いしこりどめのみこと)で、社伝によると岩戸隠れでお馴染の神器・八咫鏡の製作者。宮中にある形代(かたしろ)(レプリカとは言わない)の鏡も此処で製作されたという。この地周辺の鏡作部(連)の祖神。延喜式内大社。

 作業再開後、庭の木賊(とくさ)を採ってきて磨いてみた。これはサンドペーパー以上の効果があった。すばらしい。
 ということは・・・、錆は落ちたが、やっぱり相当傷がついてしまい、金属としては輝いてはいるが、鏡というものとは程遠い。
 次に、カタバミを採ってきたが、仕上げによいことは解ったが木賊の傷を消すのは何ヶ月(何年?)かかるやらといったところ・・・・。こんな試行錯誤に10日間ほど費やした。
 というように、古代人の真似をするだけで正直なところ「ネ」を上げた。

我が家の銅鏡
 で、結局軟弱な倭人の子孫は、石凝姥命に「面目ない」と謝りつつ、再びホームセンターに足を向けた。
 購入したのは『#4000(3ミクロン)超精密研磨フィルム』というびっくりするほど細かいサンドペーパーらしからぬサンドペーパー。これで大きな傷は目立たなくなった。
 さらに、石凝姥命に「ごめん」と謝りつつ、「ピカール」(仏具などを磨く近代兵器・・・といっても私が小さい頃から存在していて、仏具磨きをよく手伝った折の懐かしい練薬?)で1週間ほど磨いたのが写真の銅鏡。
 いろいろ寄り道をして3週間ほど経っている。まだまだ未完成だが、とりあえず中間報告をできる程度には輝いた。
 映っているのは文鎮にしている鏡の裏面(模様のある面)。こちらはまだまだ木賊の傷のまま。

 このように、博物館で見る古代の出土品の技量には驚かされることが始終ある。
 薄く均一に鋳出された銅鐸なども近代工場でも製作するのが至難と聞く。
 当初は、「今回の研磨の経験が上手くいけば、鋳型作り、鋳造から全工程をやってみたい」と思っていたが、今はやや挫折感に覆われている。
 椋の葉やカタバミの葉で気長に磨き続ける自信もなく、戦意を喪失している。
 鏡作部のみなさん、ごめんなさい。
 ピカールの会社のみなさん、ありがとう。

2012年4月22日日曜日

海なし県の磯鵯(イソヒヨドリ)

   海なし(奈良)県の磯鵯(イソヒヨドリ)の続報なり。
去年の初対面時の写真♂
 
 直近の大阪湾からでも生駒山を越えなければならない奈良の北端で磯鵯を見つけたとき(昨年)には、その名前である「磯~」とのあまりのギャップに驚いたが(だから長い間大型ツグミ類のアカハラだと誤認していたが)、磯鵯という事実を直視させられてみると、たしかに川底を走る電車道に沿って立つショッピングモールは海岸縁(べり)の断崖に似ていなくもない。
 特にその立体駐車場のゴツゴツ感を見ていると、磯鵯が臨海コンビナートよりも『よりまし』と判断したのも一寸うなずける。 
今年はペアで登場(左が♂ 右が♀)
(イオン屋上)

 だから、バードウィーク(求愛の季節)を目前に控えた春の日に磯鵯のペアがいたっておかしくはないが(ペアでは初見)、このまま子育てまで進めば、「海なし奈良県」での磯鵯の繁殖事例の発見第一号ではなかろうか????。(と、勝手に自慢する。)

 そういうデリケートな季節のせいだろうか、それとも単なる縄張り意識だろうか、普通の鵯(ヒヨドリ)が「ちょっと変わった奴がいる」という感じで近くに留まりに来ると、「あっちへ行け」というように追っ払っている。真意は解らない
(注 : ヒヨドリはヒヨドリ科、イソヒヨドリはヒタキ科ツグミ亜科)
声も美しいが飛ぶ姿も悪くない
(シャッター高速)
 
 さえずりは、ガイドブックには「ホイピーチョイチョイ、ツツピーコー等」と書いてある。文字での表現は難しいがとても美しい。
 おまけに立体駐車場の中でさえずったりするものだから音響効果抜群で素晴らしい。・・・が、その声に聞きほれている人は全く見かけない。

 忙しいという字は心が亡ぶと書くそうだ。む~ん納得。
 今回は、飛翔と採餌の瞬間をカメラに収めることができた楽しい散歩だった。



 (右)ただし、実際には、こんな一瞬をストップモーションで味わうことは困難
(いずれもシャッター高速)


(左)そして餌を目指して滑空して 


 (右)襲いかかる直前にブレーキをかけ


(左)見事にバッタ?をゲットした。
(拍手!)  
 





【撮影日は平成24年4月19日午前 
 於:奈良市右京 近鉄高の原駅&イオン周辺】

2012年4月19日木曜日

タイムスリップしてきた包丁

   物置を整理していたら包丁が二つ出てきた。
 (上の)一つは見てのとおりの中華包丁。
 この包丁で豚肉あたりをぶつ切りにして、大口径の都市ガスで中華なべをガランガランと操るのが夢であったが(欲を言えばコークスのコンロであるが)、諸般の事情で(妻の大反対にあい)そんなキッチンは作れずじまいで、中華包丁はひっそりと物置で眠っていた。
 昔、仕事帰りに天神橋筋商店街の天2の角にあった廣記商行でよく皮蛋(ピータン)を買って帰ったが、この包丁はそんな折にここで買った記憶があるが正確には憶えていない。もしかしたら、当時よく開催されていた中国物産展かも知れない。
 「何でも始める前に道具を整えようとするのが悪い癖や」と鋭く妻が突っ込んでくるが、こういう(物置に眠ったままという)事実を突きつけられると、一言も反論できずに小さくなっている。

 二つ目の刃渡り30cmを超える包丁は、我が家で100年は経っていると思われる餅切包丁である。
 カチカチになった鏡餅を開くときや、ねこ餅から切餅やおかき(かき餅)を作るときに体重をかけて切る包丁で、昔のカチカチのお餅はこれでもしんどかった。
 なお、関西のお雑煮は絶対丸餅だが、お雑煮以外ではねこ餅を切った切り餅も食べている。念のため。
 それがそれが・・・・、近頃の我が家では、我が家用の餅搗きはようせずに、結局飾った鏡餅はというとプラスチック製で、開くと個装された丸餅が出てくるという便利なものだから、この伝家の宝刀も出番がない。
 このままだと孫などは、鏡餅とはプラスチックでカッコをつけたものとしか理解のしようがないだろうから、来年あたりは、ほんとうの鏡餅と鏡開きを見せてやらなければならないと思わなくもないのだが。
 となると、ここ数年ほどでヘロヘロに低下した体力を回復させなければならないと反省している。ふ~。

 お餅がらみで余談ながら、越後製菓が佐藤食品工業に勝訴した「切餅の側面の切れ込み」は製造禁止と約8億円の賠償金だからすごいものである。
 こういう後から考えると何んと言うことのない切れ込みを、最初に考えて特許をとるというアイデアには脱帽する。

 特許侵害がらみの余談の余談だが、吉本興業が訴えられている「面白い恋人たち」。この案件に限っては私は吉本に手を挙げる。これは、どう考えても詐術ではなくパロディーだと思っている。
 えっ! その甘い許容力があんな首長を生んだんですか?
 いいえ、あれはパロディーではなく詐術です。

2012年4月16日月曜日

リラの花咲くとき

   庭の小さなリラ(ライラック)の花が咲いた。
 だからと言ってシャンソンの「リラの花の咲く頃」(宝塚でお馴染のスミレの花の咲く頃)を唄ってみたわけではないし、シャンソンについて書くわけでもない。

 実は、この花を見ると私は毎年「ホイットマンの詩にライラックの花があったなあ」と思い出していた。精確には「最後のライラックが戸口の庭に花開いたとき」という題なのだが・・、と言って、情けないことに私はこの詩を一行たりとも思い出すことができない。なんということだ。

 そこで、一念発起して書棚のあちこちを探してみたら、若い私が買い求めたホイットマン詩集がやはり出てきたが、う~む 読み返してみて共鳴するナイーヴさは何時の間にか何処かに置き忘れてきたようだ。

 しかし、それでもいいのだ。
 たしかな事実は、二十歳そこそこの私がこのホイットマン詩集を買ってみたいと思ったこと、そして買ったという事実だ。そしてそして、幾ばくかの共鳴するところがあって書棚になおしたという事実である。
 「もう読み終わった本、読み返すこともなさそうな本は処分したら」と妻は常々言うのだが、そんなとき私は「子どもたちがこの書棚の前を通る時、読まなくても子どもは賢くなるのだ」という超論理的な言い訳をしてきたのだった。

 だから、内田樹氏の『街場のメディア論』に、『書棚は僕たちの「あらまほしき知的・美的生活」を図象的に表象するものたりうる』という叙述には、思わずありがとうと呟いていた。

 それにしても、この詩集には奥付の紙が貼られていた。なんて懐かしい体裁だろう。
 詩集は、読まなくても、手にとっただけで心を豊かにしてくれることを実感する。
 きっと、「書棚の中に詩集があるはずだ」と思うだけで、満足していたのかもしれない。
 そんなことを言うと、「そんなんは唯のええかっこしいや」と又妻に叱られることだろう。
 事実、詩集はあったが詩心は全く私の中に育たなかった。あ~あ、「リラの花言葉は初恋の情緒」と聞いても今では心は騒がない。あたり前か。

2012年4月13日金曜日

柳上のアリアの主は

   先日から家の周囲で聞き慣れない声がしていたので気になっていたのだが、なかなか美声の主にはご対面できなかった。声の限りでは、ちょっとしたプリマドンナだな・・となんとなく思われた。

 そんななか、隣家の柳の木から例のアリアが聞こえてきたので、バードウォッチングとは似ても似つかぬ真っ赤なウィンドブレーカーとスリッパといういでたちで覗きに行った。
 パッと見たところはカワラヒワのようであったので、「カワラヒワがこんな鳴き方もするのか?」と思ってみたりしたが、「いやいやそんなはずはない。念のため」と考えて家に駆け込んで眼鏡をかけてカメラを持ち出した。
 もちろん望遠レンズに交換した。
 で、撮れたのが掲載の写真。
 写真を見て驚いたが、どう見てもこれはアオジの♂。ガイドブックとにらめっこをしても間違いない。
 本には『チョッピーチョッ、チチクイチリリ等とゆっくりしたテンポでさえずる』とある。そう言われればそうかなあ。この辺の表現は難しい。ただ、プリマの唄うアリアの趣は十分にある。♂でこの表現はおかしいかも?
 『本州中部では標高1,000mぐらいの明るい林、林縁等で繁殖。秋冬には暖地へ移動』と解説されている本もあるから問題ないが、私の感覚からするとカラマツ林の高原のスターに街中で出会ったような感動モノ。

桜前線に乗ってツバメもやってきた
 ただ、桜も咲き季節はいっぺんに春になった。
 4月10日には大仏殿でツバメを初めて見た。
 ということは、このアオジはすぐに山へ帰るということだろう。
 とすると、我が家でアオジに出会える最後のシャッターチャンスを『もの』にできたことになる。
 今度出会えば、しっかりと綺麗なさえずりを記憶しておきたいが、その可能性は桜前線とともに北へと遠ざかっていくようだ。
 振り返ってみると、この冬は十分に寒かったにもかかわらずお目にかかった冬鳥たちが少なかった。学術的な統計ではなく私の生活圏内の印象である。
 この印象が文字どおり『坑道のカナリア』(※3月23日のブログのコメント)でなければよいがと願っている。
 野生の動植物が死に絶えようと人様だけは快適な人工の環境の下で繁栄できると考えるのはある種の神話だと思うのだが。

2012年4月10日火曜日

孫からのSOS

   先日、孫から妻に電話がかかってきた。たしかに孫の声である。
 携帯の着信の表示から、お母さん(長男のお嫁さん)の携帯であるのは明らかだが、孫は「あうあう」と言うばかりで要領を得ない。

 「お母さんと代わって!」と言ったり、お嫁さんの名を呼んでみても「あうあう」と言うばかりなものだから、妻はとっさに『これは、お嫁さんが倒れて孫が緊急の電話をかけてきた*#$???』と仰天して、「どうしたの?どうしたの?」と孫に繰返したらしい。
 しかし、冷静に考えると孫は未だ1歳にもなっていない。
 落ち着けば当り前のことであるが、孫が携帯電話を玩具にしているうちにリダイヤルされただけのことである。
 大人が楽しそうに利用している携帯電話は赤ちゃんの興味の的で格好の玩具である。
 現に、玩具売り場には玩具の携帯電話がいっぱい並んでいる。
 たしかに、玩具も世につれ・・だ。
 この子たちが大きくなった時分の機器対応力と、それに反比例した機器のブラックボックス化は私の想像の外である。
 そういう時代の到来を、孫は【そのときに腰を抜かさぬよう】爺婆に教えてくれたのかも。

 子どもは、大人の「予想」を裏切って驚かせて成長するのだ。
 それは解っている。解っているが、爺婆はあたふたするのである。
 孫が絡んでくると、その異常な成長の早さ、つまり、(その比較の対象は成長も進歩もない私なのだが)、それゆえに一瞬に冷静さを失い「もう孫が電話をかけてきた」と思い込むのである。
 「あほかいな」と心配性の妻を笑ったが、私なら直ぐに救急車を呼んでいたかもしれない。

2012年4月7日土曜日

寂しい滝桜

   樹齢1000年以上の紅枝垂桜の古木、国の天然記念物、福島・三春の『滝桜』を見に行ってきた。
 えっ 何かおかしいですか?
 その子孫樹はオーストリアをはじめ国内外に広がり、我が家から歩いて3分の所にも麗々しい説明板付きで植わっている。だから『三春の滝桜』である。
 しかし、植えっ放しで手入れをしていないものだから、なんとも痛々しい。
 当初は上段の棚を覆ってさらに上空から咲き誇っていたものが、結局、二周りも三周りも小さく貧相になっている。

 もちろんお花見客もおらず、国内外の子孫樹の中で一番可哀相な木ではないだろうか。
 しかし子孫樹よ。親は放射能に耐えて、1000年余の命の中で一番悲しい時代を見つめているよ。
 歳時記に、桜咲きらんまんとしてさびしかる・・細見綾子を見つけた。

 私のちっぽけな経験からすると、関東のお花見は関西とは比べものにならないほど盛り上がっているように思う。頭にネクタイを巻いて踊るような下品さも好もしい。???
 だから現代版お花見の由来は、内裏や公家の花見の宴や秀吉の有名な花見ではなく、直接的なルーツは江戸に桜を植え花見を奨励した吉宗にあると感じている。
 お花見は世界中で、ブラジルにおける日系社会を除いては日本列島だけの庶民文化(白幡洋三郎氏指摘)らしい。結構なことである。
 今日は、義母の施設でもお花見である。楽しい行事は最大のリハビリだと思う。雨の降らないことを祈るのみ。

2012年4月4日水曜日

きれいな花には毒がある

   昨年5月31日のブログで「風情も香りも申し分のない楝(おうち=センダン)の花」と書いて、淡い紫色の花が一面に咲いている写真を掲載した。

 それが冬になると右の12月の写真のとおり、たわわに実をつけ、今度はその輝くような実で寂しい冬空を飾ってくれた。 
 そして今は、ヒヨドリ、ムクドリ、カワラヒワたちが盛んに残りの実をついばみ、センダンは新しい開花の準備モードに入りつつある。 
 ただ、ちょっと不思議なことには、ヒヨドリたちが毎日樹上で宴会を開いている割には結構その実が地面に落ちていることで、もしかするとあまり美味しくないのかもしれない。

 そこで、いつものとおりその実を採って食べてみた。
 う~ん、不味くもないが美味くもない。
 種が大きくて果肉は少ない。
 心なしかちょっとした苦味もある。
 しかし、ほんのりと甘く、食べられないものではない。写真の中の一番下のは食べた残りの種。

 そして、このように大量に収穫可能であるのに楝の実の食べ方等についての話を聞かないのが不思議だと思い、帰ってから樹木の本を開いてみた。
 すると・・・・、妻には「言うことやない。ええ歳をしてええかげんにしなさい」と叱られたが、本には『この実は有毒で子どもなら6個ほど食べると48時間以内に死亡する』とあった。アチャ~!
 『症状は2~4時間で現れる』とある。このブログは摂取後2時間時点で書いている。
 このブログが絶筆にならなければ・・・・

 ・・・5時間経ったので執筆を再開した。
 本を読むと「木の実のうちの半分は有毒」とあった。
 そういえば、実母のお世話になっていた施設で「きれいでしょう」と言ってテーブルにピラカンサが飾ってあったときがあり、私が「有毒だから気をつけてね」と教えてあげたことを思い出し、なぜ同じ想像が頭をよぎらなかったのか、我ながら間抜けだなあと反省した。

 世の中は不思議なことばかりだ(と言うより私が無知なだけだが)。
 葉っぱや花や根に毒があるのは、人間のあとづけの理屈かも知れないがなんとなく理解できる。
 しかし、実に毒があったら種族保存にマイナスでは・・・。
 いや、たしかに食べている鳥もいるのだから、鳥にだけ無毒(微毒)な毒なのだろうか。解らない。
 自然界は不可解極まりない。
 自然を制御できたなどというのは人間のおごりだと近頃はしみじみと実感する。

 「そんなんは食べなんだ」ときっぱりと峻別する義母の「こおつと大学」は偉大である。

2012年4月1日日曜日

ミモザ祭り

 アカシアの花というと、私たちの世代は(と勝手に世代を代表するが)、「この道」の歌詞よりも西田佐知子の鼻に掛かった「アカシアの雨がやむとき」が思い浮かぶ。
 この歌は「60年安保の挫折感の象徴」のように語られるが、その常套句の適否はさておき、確かにあまり前向きの歌ではない。だから善くないと言っているのではない。

 ところが、同じアカシア類の中でも「銀葉(ぎんよう)アカシア」の別名のミモザと聞くと、シャンソンのイメージが浮かんでくる。ただただ此方の勝手なイメージの話である。花には何の責任もない。
 さらに極めて個人的には、老人施設に入居していた実母が庭の立派なメープルの木をミモザという名と何回も何回も勘違いしていたことが思い出される。
 「ミモザではありません メープルです」と筆談をすると「そうやった」と言うのだが、次の機会にはまた「ミモザ」と言う。ということで、私にはミモザはあの綺麗な花にも拘らず、実母の老化、認知症と関連付いてちょっと重く思い出される。これも花には何の責任もない。
 本によると南フランスでは日本のお花見のように「ミモザ祭り」が行なわれ、人々は春の訪れを実感するらしいが、フランス人であるらしい我が妻も同じようにミモザで春を強く実感するらしい。
 「あの黄色い花の塊を見ると、ああ花粉症の季節だ」と条件反射的に鼻が痒くなると言う。
 孫も義母もやってきた。
 孫は歩く姿を披露してくれた。
 義母は曾孫の一挙手一投足が可愛くて泣き出した。
 何もなくても我が家のミモザ祭りはありがたい。