2011年8月31日水曜日

綴刺蟋蟀

 先日、確かにガクンと季節が4分の1回転する音が聞こえた気がする。
 実母の入っている完全空調の施設ではそれが判らないので、「外ではコオロギも鳴き始めました」と入所者にお知らせしたところ、傍で聞いていたスタッフの方々が「それはそうとコオロギって何て鳴くの?」と議論になり、諸説が飛交った。
 そう言えば、ラジオやテレビの中の(パーソナリティーとかコメンテーターとか)立派な大人が、これと全く同じようなことを言い、「ジッジッジやったかな」というように話を纏められているのを嫌と言うほど見聞きしているので、流石に私もこんなことぐらいでは驚かない。

 もちろん入所者の方は、ツヅレサセコオロギを『 肩刺せ 裾刺せ 寒さが来るぞ 』と聞きなすと文句なく一致した。
 『 綴れ刺せ刺せ 綴れ刺せ 』とか、いろんなバージョンがあるようだが、基本形は、秋の深まりと重ね合わせて、冬物の「綴くろい」をコオロギが急かせていると聞きなすようで、何時もながら先人の感性にはただただ感服する。
 
 他人を嗤っている場合ではない。子や孫に正しく伝承できていないのは挙げて親の責任である。
 しかし、私たちが子供の頃に当り前であった「綴くろい」の風景など、考えてみれば私たちの世代が「店じまい」してしまった感がある。
 だとすれば、子や孫に、見たこともない「綴くろい」を聞きなしなさいというのも酷であろう。
 だから、躾という範疇ではなく、「綴くろい」も歴史として伝承する方がさっぱりしていてよいようだ。
 古今の古文ならほんとうの勉強になってしまう。
 パッチワークも脱帽するような「綴くろい」だらけの靴下を履いて小学校に行っていた・・などと幾ら語っても、「また愚にも付かない昔話や・・」と鼻で笑われるのが関の山である。

 秋風に綻びぬらし藤袴 つづりさせてふきりぎりす鳴く (古今集)

2011年8月28日日曜日

エア熱唱(続々音楽療法)

 昨日、実母の入所している老人介護施設に「北国の春」の歌詞と譜面を持参した。
北国の春のイメージ(ネットから)
 びっくりしたことは、スタッフが「この歌、知らんわ!」と言ったことだった。
 昭和52年のミリオンセラーを知らんと、・・そんなあほな!

 私の方は、入所者にはこの歌は新しすぎないかと心配して持って行った歌なのに、スタッフは「まだ生れてないわ」と、・・・・・・(これは、私にとっては確かにちょっとしたコペルニクス的なショックだった。)

 日頃は老朗介護のために、少なくともこの施設内では私はいつも自分を「若手」という意識でいたものが、子供たちと同じぐらいかまだ若いスタッフと話してみると、客観的には私は「準入所者」の位置にいるという真実に直面して少し慌てたが、気を取り直して相対的に元気な方々に歌詞付き譜面をお渡しした。

 予想どおり、皆さんはこの歌をご存知でたいそう喜んでいただいた。
 が、「きたぐに~」と大きな声は出し辛いのだろう。見ていると、あちこちで一様に「エア熱唱」が始まった。それぞれの方が譜面を見ながら心の中で熱唱を始められたのだ。
 顔を見ていると、歌っている歌詞のところも判るし、サビの部分ではうっとりされているのも伝わってくる。
 歌い終わった満足感も表情に出ている。確かに歌われていたのだ。

 音楽療法士の方がこの「エア熱唱」を見たら何んと仰るだろう。
 「音のない音楽」は哲学の領域かもしれない。
 まあ何んと分析されようと、・・・確かにこのとき私は「北国の春」の大合唱を聞いていた。

 歌い終わった母が「故郷に帰りたいなあ」としみじみと呟いたのを聞かないふりをしながら、「エア熱唱」の輪の中に文句なしに参加していた。
 「エア熱唱」は、メロディーもリズムも絶対に外れることのない、究極の完璧な大合唱だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?

2011年8月27日土曜日

ヒヨにも可愛いときがある

 声がよくない。衣装もよくない。我が家の野菜や果実を横取りする。シジュウカラやメジロを追い払う。餌台を占領する。糞も汚い。そんな可愛げのないヒヨドリだが、親鳥が雛を育てる健気さはやはり見ていて微笑ましい。

右が雛、左が親
 去年は2階の窓から真正面の街路樹に巣を作っていたが、今年(2回目?3回目?の子育て)はというと我が家の、自転車で出入りする勝手口(ただの出入口)のシマトネリコの、手を伸ばせば届きそうな低いところにスウィートホームを構えた。
 おかげで自転車の出入りのたびに驚かせないようにと此方の方が遠慮する日々だった。もちろん撮影も遠慮してきた。
 まあ、その遠慮の甲斐があって、親鳥が頻繁に餌をくわえて帰ってくるようになったなと思っていたら、二十日鼠のような声が聞こえてき、そのうちに、お世辞にも綺麗とは言えない典型的な雛の泣声が頻繁になり、ほどなく飛翔の練習が我が家周辺で始まった。
 親鳥は飛翔の手本を見せ、あるいは少し離れた場所からそ知らぬ顔で見守り、それでいて火がついたように泣き続ける雛に付かず離れずの必死の親心は、昨今の育児放棄のニュースに出てくる人間様に見せてやりたいほどである。
 子育てが終わると憎たらしくなるヒヨドリだが、本によると、平安貴族のペットでもあったらしく、また外国にはいないため海外のバードウォッチャーには人気の野鳥とあった。へぇ~
 これ(ブログ)って、もしかしたら贅沢極まりない観察日記なのだろうか。

2011年8月25日木曜日

ブラックベリーの反撃

 秋風とともに、長期間楽しませてくれていたブラックベリーの収穫も99%終了した。
 蔓性のブラックベリーのため、木としては風情に欠けるが、花も綺麗だし何よりも実が美味しい。
 難を言えば種が気になるが、私は庭先ではペッペッと下品に吐き出し、そうでないときは噛んで飲み込んでもそれほど困らない。

デザートにいかが

 写真なんか、ちょっとしたデザートに見えません??

 こんな美味しいブラックベリー。『熟れた実を自由にとってね』と貼り出しているが、近頃の子供は一向に摘まもうとはしないのが寂しい。それを「おかしいなあ」と思う此方がおかしいようだ。
 

ブラックベリーの花

 今日も、いつものようにヒョイと摘まんで口に入れたが、ムムムム。
 しまった。いつものフーフーと虫を吹き飛ばしてから口に入れるという作業を省略していた。

 そうだ、ブラックベリーにはカメムシが付き物だったのだ。

2011年8月23日火曜日

雀の砂風呂

 もう2週間にもなろうか、実母の施設の木の根の砂地で雀たちが楽しそうに砂浴びをしていた。
  携帯で写真を撮ろうとしたが、もちろん異常を感じて直ぐに飛び立った。(写真の一つひとつの穴がその砂浴びの痕である。)

 野鳥は乾いた砂地などに穴を掘り、羽を羽ばたかせ、体中の羽毛を広げ、寄生する虫などの汚れを落とすらしい。よく見る水浴びと同じことであるが、此方の方が季節柄「虫干し」らしくていい。
 そして、本によると煙突の上の煙の中に飛び込んで煙浴びもするらしいが、そういう光景にはお目にかかっていない。
 本には全く書いていないが、この木の根の風呂場は木陰である。雀は、朝方の涼しい砂で「ほっこり」涼んでいるようにも私には見えた。

 よし、これは入所者の皆さんにも教えてあげなくては・・と思って、その後、毎日、カメラを持参したのだが、私がその場を往復する数分間には、役者たちはそんなに上手くは砂浴びをしてくれない。それどころか、雀のいない日も多く、そのうちに雨模様の日も増えてきた。
 このため本日の写真は、結局ギブアップをして、砂浴び痕の砂の穴だけで勘弁願い、彼女らのその楽しそうな温泉風景は読者の皆さんのご想像にお任せすることにした。
 ・・にしては右下の写真は蛇足の極み・・・はい
 シャッターチャンスをモノにできなかった悔しさで、ちょっとパソコンが滑りました。

2011年8月20日土曜日

世界記憶遺産

 今朝の朝刊に「作兵衛の世界(上)」が大きく取り上げられていた。
 提灯をかざしたり太鼓を叩いたりするほどの筆力はないが、購入して損のない本であると推薦したい。
 「あゝ野麦峠」もそうだが、苛烈な歴史をくぐり抜けてきた実話には予想外の明るさや定説とは微妙に異なる事実があるのが面白い。
 「人柄のよい将校もいたからあの戦争の全てが悪かったわけではない。」というような、大局観のない歴史観は全くいただけないが、「かつての民衆はただただ虐げられていた。」で済ますのも正しい歴史の学び方ではないように思う。
 例えば、『昭和初年、女子の坑内労働が禁止されてから職場にみられた濃密な人間関係も薄れていった。男の労働者たちは、炭鉱に潤いがなくなったといってはぼやいた。江戸時代末期から、明治・大正にわたり男たちの支えとなりながら忍苦に満ちた仕事をひきうけてきた女子労働者は、人道の名の下に職を奪いとられたのである。』『長らく坑内で働いた者(女坑夫)には太陽の下の労働はかえって苦痛となるものです。』という件などは学者には書けない文章ではなかろうか。
 余談ながら、ここに登場する炭鉱主の子孫が首相になったことを知っている我々は、この本(絵)をみながら作兵衛よりも気が沈む。
 ♪ 唐津下罪人のスラ曳く姿、江戸の絵かきもかきゃきらぬ
 

2011年8月19日金曜日

チンチロリン

 『虫の音を踏みわけ行や野の小道』は、子規19歳の作品で初めて活字になった句らしい。
 この句について近代文学の浅田隆先生は、「踏みわけ行ったら虫は鳴き止むから、この句は写生とはほど遠い観念的な句である。」と講義されたような記憶がある。
 この指摘が、浅田先生の論であるのか、晩年の子規本人若しくは他の人の論であることを解説されたものであったのか、記憶は定かでない。
 そしてその時、私は些か同意しかねる気持ちになったことを覚えている。
 私が不同意と感じた主旨は、文学論ではもちろんなく、少しの虫の音なら別だが、虫の音の盛りの頃は『踏みわけ行ったぐらいでは鳴き止まないぞ。「踏みわけ行ったら鳴き止むという定説」なるものの方が観念的ではないか。』という感覚だった。
 しかし待てよ。虫たちが鳴き止まなくなったのは子供たちが虫捕りを忘れてしまったからかもしれないし、木の上から騒々しくリーリーリーリーと鳴き続けるアオマツムシの大進出の後のことかも知れない。
ネットから

 秋の虫のいない都会も不自然なら、鳴き止まない郊外も少しおかしくなっているような気がする。各地の様子はどうだろうか。
 夜中に目を覚ますと、松虫のチンチロリンという声が聞こえてきた。アオマツムシとは似ても似つかぬ古から続く雅な声だった。

 「一番好きな秋の虫は?」と尋ねられたなら、「チンチロリン」と答えようかと思っている。ただし、夜中に草叢にさまよい出て倒れ伏してしまわないように気をつけなければならない。
 
 昔よく歩いた大阪市阿倍野区の松虫は、能の松虫の舞台であり小野小町の塚もあるが、当時は何の感慨もなく歩き回っていた。無知は時間泥棒である。

2011年8月17日水曜日

赤ちゃん家守は何んと泣く

 昔、ガラス窓の外側や外灯の下にヤモリを見つけたことがあったが、街の近代化の下で、もう絶滅危惧種になってしまったのではないかと思うほど近頃は見かけなくなっている。

 妻の大声で駆けつけてみると、そのヤモリが我が家のリビングに現れたので、追い出す前に先ずカメラと思って撮ったのが掲載の写真で、珍しい?赤ちゃんヤモリである。
 ところが、捕まえようとすると尻尾を自切してウーハースピーカーの中に逃げ込んでしまった。
 そこで、そもそも家守又は守宮と書かれるほどの益虫(虫ではない)だし、尻尾の自切も健気なので、このまま住まわせておこうということで夫婦の意見が一致した。以後、夜になると壁の上に出てきて挨拶をするようになっている。

 椎名誠の本では、ラオスで『夜は必ずヤモリが沢山やってきてウケケケケと嬉しそうに鳴き、トッケイというトカゲがそのとおり「トッケイトッケイ」と必ず4回続けて最後に「ウゲゲゲ」と止める。』とある。
 椎名誠は「昭和軽薄文体」代表だから鳴き声のオノマトペが写実的かどうか知らないが、他の本でも「トッケイ」の鳴き声はそのようであるし、それを「トッケイヤモリ」と書いてあるものもある。
 私は知らなかったが、世界中では「鳴くヤモリ」は全く珍しくなく、沖縄のヤモリも鳴くし、「本土のニホンヤモリも小さな声で鳴くことがある。」と本にはある。この「赤ちゃん家守の泣き声」も聞いてみたいものである。

2011年8月15日月曜日

原発撤退を祈ってきた

 神社といえば普通は神楽だろうが、春日大社の中元万燈籠は唐楽、高麗楽等の舞楽(14日のみ)も奉納される。
 それも、宮中、天王寺と併せて三方の楽所(がくそ)といわれる南都楽所によるオーソドックスなものであるから・・・と書きたいのだが、今回の曲はあまり派手さのないものであったので、素人にはチョッと物足りないものだった。
 「この歴史の厚さ、ユーラシアの空を越えて来た広さが解からないから素人は困ったものだ。」というお叱りの声が聞こえてきそうである。
 
 大仏殿も開放されていたし、奈良公園の行楽客がものすごかったので驚いたが、夜間徘徊の不良少年みたいな鹿の足下からは秋の虫の音も聞こえ始めて樹上の蝉と競演となり、安上がりで楽しい夕涼みであった。
 春日の神々に彼の地の復興と原発撤退を祈って帰って来た。


2011年8月12日金曜日

煙三題

1 先日、妻の友人(先輩)が妻に「蝙蝠なんか見たことがない。」と言ったそうである。
 このお方は、そもそもが千早赤阪出身で、我が家のご近所に相当昔からお住まいだから、断固として100%そんなことはないのだが・・。
 “興味がないと・・見えてても見えない。”・・・これは昨年11月6日のブログに書いたとおりである。あらためて納得。
 そんな話を、煙もうもうのバーベキューをしながら妻から聞いていたら、頭の上を何十匹(何百匹?)となく蝙蝠が「出勤」していった。この空は先輩のお宅だって同じはずである。

 道行く人々は「お盆で子供さんやお孫さんが帰って来られたのでバーベキュウーやな」という思いで通り過ぎていかれる。誰もシニア夫婦だけでバーベキューをしているとは思いもしていないだろう。
 でも、シニア夫婦だけのバーベキューだっておかしくないですよね?

2 親鸞の教えからは“迎え火、送り火”の必要性は導き出されないはずだが、どういうわけか私の実父母は昔からこれを行なっていた。
 だから私も何となく「これをしないとお盆の感じがしない。」のでしてきたが、今年はチムニーを使って(オガラと茅の輪の茅萱を用いて)迎え火の行事を行なった。
 チムニー使用というこんなアレンジはおかしいですか?

 それにしても、陸前高田の「高田の松原」の薪が京都に送られた。五山の送り火側は不使用を決定。マスコミで批判が続出。五山側が使用に変更。しかしセシュームが検出。やはり不使用・・らしい。
 思うに、出来る限り被災地を応援したい気は皆おんなじだと思う。しかし、チョッとでも危険性のあることはしてはならない・・というのが「本質安全化」の思想でもある。
 「この程度は問題ありません。」という嘘を垂れ流してきたマスコミに裁判官面をして五山側が叱られることもないだろう。こんなことで、被害者たる国民どおしが分断されるのは悲しい。

3 私が実は蚊遣りが好きなことは昨年8月7日のブログに記述した。
 そして、今年新たに手に入れた蚊遣りは陶芸作家手作りの蛙の蚊遣り。
 この種の買い物。通常、妻は「また要らん買い物をして・・。」と臍を曲げるのだが、今回は、偶々いた息子も含めて「ええ作品や」と納得してくれた。
 夏は蚊遣りに使用して、冬はさり気なく何処かに飾ってみたい。 
 蛙キャラ好きの娘に持っていかれるかもしれないのが心配だ。

2011年8月9日火曜日

日本人少姐的記憶

 実母は明治43年(1910年)生れ。それは中国大陸では清のラストエンペラーの時代。翌年が辛亥革命。1世紀と1年前のことになる。
毎日のように蟹釣をしていた横浜橋

  そして、2月28日と6月23日のブログで触れたが、母はその幼少期を蘇州や上海で過ごしている。
 
 近頃の母は、その頃(大正初期)の上海の夢をよく見るという。
    
 住んでいたのは北四川路で、本を読むと日本人の上層部が住んだ高級住宅地と書かれている。

 日本尋常小学校は4階建てで校門にはインド人の守衛が立っていた(こんな立派な小学校は内地にはなかったのでは?)とか、競馬場や新公園(現魯迅公園)には大人は羽織と白足袋で行ったとか(これは遅れてやってきた日本人が一等国になろうと必死になっていた証し)、日曜日には虹口(ほんきゅう)マーケットで上海蟹を買って来てく
れて美味しかった(現在なら贅沢極まりないが当時はごく普通だった)とか、楽しい思い出が去来するらしい。中には、学校の帰りにフランス租界で迷子になり、言葉が判らず悲しかった思い出も少しあるようだ。

外灘(英語でバンド)


 そして何よりも、晩御飯用の豚肉をチョッとだけ持ち出して、近所の横浜橋(わんぱんじょう)周辺で毎日のように小さな蟹釣りをしてバケツ一杯にした夢を度々見るらしい。
 
 そういう話を聞きながら本を読むと、万博後様変わりした上海という都市が何の不思議でもなくなり、映画の宣伝にもあったようだが、この都市は、1世紀前から既に魔都であり、東洋一の大都市であったことが理解できる。

 今夜も、母の想い出はこの魔都の路地や運河を飛び回っていることだろう。願わくは、楽しい夢であって欲しい。 
 

2011年8月8日月曜日

セミセミ

 老人介護施設は当然に完全空調のため、よほど感性を研ぎ澄まさなければ季節感が得られないが、入所者の方はというと総じて反応する能力が低下していて、「刺激の乏しさ→意欲の低下」というような悪循環に陥りやすいように感じている。
 このため、無理やりにギラギラの真夏の庭に実母の車椅子を押し出してみたところ、開口一番「あ~あ 気持ちがいい」「部屋は寒かった」・・・だった。

 7月30日のブログに書いたが、ここの庭の木々の幹には、低い位置に油蝉がいっぱい留まっている。周辺の街路樹などには見られない異常さである。
 これはきっと、ダーウィン的な適者生存(説)などではなく、親ゼミが子ゼミに「マリア像の前では如何な人間でも蝉獲りはしないわ・・」と語り継いでいる結果に違いない。
 そして、それをいいことに今日もヒョイと油蝉を手で獲って建物の中に戻り、思いっきり羽を羽ばたかせるのを他の入所者のお目にかけたり、耳にひっつけるように鳴き声を聞かせたりして、正真正銘の夏をほんの少し感じていただいた。(これらは7月30日のブログの繰り返しである・・・)

 そこへ、中国出身のスタッフが入ってこられ・・・、
 「わ~ 美味しそう」
 「親になる前のを掘り出して揚げて食べるのよ」

 ☆*▽※@$!!! おおっ 刺激の乏しい、日頃ほとんど居眠りばかりの部屋に珍しい会話が飛交ってほんとうによかった。
 こんな雰囲気が続くことを心から望んでいる。だから、どこかにセミセミの玩具はないだろうか。

2011年8月6日土曜日

蜂の子ご飯と赤飯

 (社)農山漁村文化協会の著作物に「大和に特有な食べものに『小麦餅』がある。半夏生や『さなぶり』のころ、とりたての小麦を荒挽きし、もち米と一緒に搗いたものです。」とあったので、生駒谷の典型的な農家の娘であった義母の外泊の機会に「記憶の再現」を試みたが、「半夏生や『さなぶり』なんかせんかった。」「小麦餅なんか搗かんかった。」「そんなんは知らんなあ。」と言うばかりである。
 本の限りでは、紀州や河内の一部までも含む相当広範囲な地に共通の習慣であったようであるので、義母の実家だけがしなかったのか?義母の記憶の問題なのかは解からない。
 長男夫婦が土産に持ってきてくれた「さなぶり家のさなぶり餅」を、「知らん言うのは知らんのやからしゃあないな。」と親子で言いながら美味しくいただいた。(仮に調べてみて「生駒谷でもそういう習慣があった」となっても、義母が「知らんものは知らん」のではしようがない。)
 その代わりではないけれど、6月27日のブログに書いたが、アシナガバチの子を食べていたことはよく憶えているようだ。
 「蜂の子をお米に入れて、醤油をちょっと入れて炊きましたんや。」「だいこんなんかは入れへんかった。」「美味しかった。」そうである。話の具合では、お米やおかずに困ってやむを得ず・・というのではなく、楽しい料理の一種のようであった。
 誰か、「蜂の子ご飯」をご存知の方はコメントをお願いしたい。

 今日、孫の“食べ初め”で赤飯を炊いた。古い安物の電気釜だが立派に炊き上がった。「もち米は釜では上手く対流しないので蒸さなければならない。」という言葉を昨日まで信じていたが、日本国家電メーカーの実力には脱帽である。
 その実力を持ってしても制御できない原子力発電所は、「すぐには止められない。」などと麻薬患者のようなことを言わずに早期に撤退すべきではなかろうか。
 孫の食べ初めに当って、青臭いと言われようがひとこと言っておきたい。

2011年8月3日水曜日

今こそ鎮守の森

 大地震と津波から思い出した本がある。
 5年ほど前に一志治夫著「魂の森を行け」という本を読んで、そのノンフィクションの主人公である宮脇昭氏に興味が湧き、続けて宮脇昭著「鎮守の森」(何れも新潮文庫)を読んだ時に、「この人の言っていることは本当だ」と感覚的に思った・・という記憶である。(違和感のある箇所が全くないわけではないが)
 この本は、あえて一言で言えば「その土地本来の森は火事にも地震にも台風にも耐えて人々を守ってくれる」と確信した“行動する学者”の記録である。

 丁度その本を読んだ後、私の通勤路にイオンが建設され、開設前に建物の周囲に植樹が行なわれたので、喜んで参加して正に宮脇方式の混植をこの手で行なった。(具体的内容は本を読んでもらいたい。)

1 素人が植えた森

 そして、時が過ぎた。
 乳幼児が適当に植えた木々を含めその植林帯は、森とまでは言えないまでも、ほとんど全く人手をかけぬまま見事に成長している。(写真1)

 そしてそして、あまりに見事な皮肉であるが、その前の緑地帯を管轄する市は、宮脇氏が否定的に著書で紹介したとおりの芝生とツツジを立派な造園業者に植えさせたのであるが、芝生の雑草は毎年数回にわたる相当な管理維持費の支出を想像させるに余りがあり、そして、ツツジの現状は写真2のとおり貧相なものとなっている。

2 本職が植えたツツジ

 私はほぼ毎日この光景を比較しながら見て歩いており、その度に宮脇理論の正しさを再確認している。
 前著の「中見出し」の「死んだ材料は時間とともにダメになる」や「都市の周りの森林を破壊したとき、その文明は破滅させられ、その周りは砂漠化していく」は、示唆に富んでいる。

 東北は自然豊かと言われてきたが、よく見れば津波の地域は人工的な田圃やハウスや住宅ではなかったか。復興対策の中から「防災林を造ろう」という声が聞こえてこなくていいのだろうか。
 なお、理性的に考えれば考えるほど、防災林でも防げない原発は早期に撤退すべきだと考える。孫の顔を見るたびにそれは確信になっていく。

2011年8月1日月曜日

香具山は何も語らない

 「朱花(はねず)の月」。2011カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式招待の河瀬直美監督作品。
   遠い昔、大和三山を男女に見立てた歌があった――
   香具山は 畝傍を惜しと 耳梨と 相争ひき
   神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も然(しか)にあれこそ
   うつせみも 妻を 争ふらしき     『万葉集』より
は、その宣伝パンフの一部である。
 ところで、この中大兄(後の天智)の歌から三山の三角関係を解説するのは、実はそれほど簡単ではないらしい。
 以下は、私の好きな上野誠先生の「大和三山の古代」(講談社現代新書)のつまみ食いであるが・・・
 「雲根火 雄男志等」は「畝傍を惜しと」ではなく「畝傍 雄雄しと」(漢字(万葉仮名)の選択(文字表記)には意味があると考える)との説があり、「畝傍を愛しと」(ほとんど否定されているが)の説もある。
 「乎」の「ツマ」は「男女ともの配偶者」である。
 「かくにあるらし」「然にあれこそ」では、万葉集のツマ争いは二人の男性が一人の女性を争っているのが多い。(ただし、それだけのことである。)
 なお、連想される額田王の天智、天武を巻き込んだ有名な「野守は見ずや君が袖振る」の歌は、現代では“恋歌ではない”というのがほぼ定説である。云々 云々
 このほか、反歌を含めて膨大な検証をされた上で氏は、・・・
   香具山(男性)は畝傍山(女性)を横取りされるのが惜しいと
   耳成山(男性)と争った・・・・
   ――神代からこうなので
   ――いにしえもそうだった
   ――今の世も妻を争うらしい
   ――(まして、自分も)
だと、解されている。

 しかし、その時代の共通の情報、常識的知識がどうであったのかは結局は解からない。そして、歌は、そういう当り前の常識を省略して歌われているのである。(このことも著書の中で解説されている。)
 また、「アブノーマルな三角関係を歌っているからこそおもしろくないか」と考えると、そもそもの各種前提が瓦解する。結局は氏の著書を読んでも100%は解からない。
この山が男性に見えますか、上野先生
(藤原宮側から天香具山をのぞむ)

 ・・・で、妻と一緒に藤原京の故地にいる孫の顔を見に行ったついでに大和三山を眺めなおしてみた。
 その結果、我が夫婦が到達した意見はというと、・・・
   香具山は見た目がずばり女
  性である。
   結果的に畝傍は男性である
  し、見た目もそうである。
   耳成もなかなかスマートな女
  性である。

という、上野誠説とは正反対の全く非論理的なものだったが、この結論に妙に二人とも納得した。
 見た目の方が学者の屁理屈(失礼)より重いのではなかろうか。
 そして、三角関係にノーマルもアブノーマルもありはしない。
 神代も、古も、現在も、・・・ 
 ・・妙に二人とも納得した。・・おおこわ・・・