2011年6月28日火曜日

ヤマモモの季節

 駅へ向う通勤路であり、中学校・高校の通学路であり、散歩に適した遊歩道であり、大きなテニスコートの脇という、・・・・これだけの条件が揃っていながら全く無視されているヤマモモというのも実に可哀相である。

 ① 純粋に知らないのか、
② 自然のものは汚いと考えるのか、③ 道端の木の実なんかを食べると母親に叱られると思うのか、④ いたずら心や冒険心が去勢されてしまったのか、・・・と、不思議がる私の方がおかしいのだろうか。

 肥料も何もない道端のため実は小さく、そして、去年は「もう少し大きくなれば」と思っているうちに大量に落果してしまったので、昨日はほんの少しだけ遠慮しながら摘んできた。
 
 昨夜は、外泊の義母とつまんだが、見た途端に「懐かしいなあ」「ヤマモモの大きな木があった」「おやつにいっぱいほおばっていたんや」とキッチリとタイムスリップしていた。

 今朝は実母の施設に持参したところ、元気な入所者は「酸っぱいが美味しい」「自然の味だ」と大喜び。考えれば、人工の甘味とは程遠く、お菓子や料理や、もちろん「きざみ食、ミキサー食」とは似ても似つかぬ素朴きわまりない味が、ここでは一番のご馳走だったかも。
 若いスタッフも「こんなん初めてや」と一緒につまんで盛り上がってくれた。
 
 実母の施設は、道端の自然の木の実でも笑って持ち込めたり、スタッフも一緒につまむというアバウトなおおらかさが好もしい施設である。義母の入所しているような病院型の施設ではこんなことは論外とされている。

 7月1日:写真追加
 写真のヤマモモジュースは如何でしょう
 妻が、氷砂糖を加えて煮出してレモン果汁少々でつくりました。
 大きなペットボトルに入れて冷蔵庫で冷やしています。
 予想以上に上出来なので、飲み干すのがもったいない。

2011年6月27日月曜日

生駒谷の昔子供

 「今年は鰻が値上がりしている」というテレビを見ながら、「鰻なんか食べたことなかったなあ」「野菜ばっかりやったからなあ」と、義母が小さい頃の思い出を語り出し、・・・・そして、些か唐突に「おやつに蜂の子を食べましてん」と呟いた。(これは、昔のことを私に伝えておかなければ・・という使命感らしい?)
 それにしても、おやつの話は以前に大分丁寧に聞き、おやつに木の実とイナゴというのはたしかに聞いたけれど、蜂の子の話は聞き初めである。
 長野や岐阜での蜂の子の(昆虫食の)話は有名で、本で読んだり、テレビで見たり、そして食べたりしたことがあるが、奈良の生駒谷でも蜂の子を食べていたというのは、本や奈良に関わる講演でも聞いたことがなかったことである。
 「やはり地中に巣を作る(クロ)スズメ蜂ですか?」と聞いたら、普通のアシナガ蜂とのことで、あの、普通に家の周囲で見るアシナガ蜂の巣を燻してから採ったらしい。
 そして、「佃煮? 素焼き?」と聞いたところ、「そのまま引っ張り出して生で食べますねん」とのこと。
 「プチッと、ちょっと甘かった」というのは80年ほど前の懐かしい思い出のよう。
 生駒の郷土史を調べもせずに偉そうなことは言えないが、ビールを飲みながら宮本常一になったような愉快な気分になった。

2011年6月26日日曜日

続 無手勝流音楽療法

 6月21日のブログで「老朗介護の音楽療法なら、その実践の第一歩は『お富さん』からだろう」と書いた。
 大きな声では言えないが小さな声では聞こえない(古典的漫才のワンフレーズ)が、『お富さん』はあまり私の趣味ではない・・・・が、入所のみんなが知っている・・唄いやすい・・調子がよい・・ノッてくる・・で、厳然たる客観的第1位は『お富さん』だと、その後も度々再認識させられている。
 そのため、調子にのって、歌詞の背景である「与話情浮名横櫛」の名台詞を施設に持っていった。・・・・
 与三郎: え、御新造さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、お富、久しぶりだなぁ。
  お 富: そういうお前は。
 与三郎: 与三郎だ。
  お 富: えぇっ。
 与三郎: おぬしぁ、おれを見忘れたか。
  お 富: えええ。
 与三郎: しがねぇ恋の情けが仇 命の綱の切れたのを どう取り留めてか 木更津から めぐる  
       月日も三年越し 江戸の親にやぁ勘当うけ よんどころなく鎌倉の 谷七郷は喰い詰め  
       ても 面に受けたる看板の 疵がもっけの幸いに 切られ与三と異名を取り 押借(おし
       が)り強請(ゆす)りも習おうより 慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな) その白
       化(しらば)けた黒塀(くろべえ)に 格子造りの囲いもの 死んだと思ったお富たぁ 
       釈迦さまでも気がつくめぇ よくまぁおぬしぁ 達者でいたなぁ
       おい安やい これじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ 帰(けぇ)られめぇ

 
 ・・・やはりと言うべきか、実母が大きな声で芝居語りを始め、要所要所で見得さえ切ったのはいうまでもない。入所者は大喜びだが、若いスタッフは「その難しいのは何なん?」とあっけにとられていた。

 「貧乏人の娘が船場の御寮さんと呼ばれ、唯一のご褒美にと芝居見物。あの時だけは楽しかったなあ」という感慨は日中戦争以前のこと。
 そんなに芝居が好きで観ていたとは、お釈迦様には遠い不肖の息子、これまで全く気がつかなんだとは、チョーン ほんに 間抜けだったなあ。

2011年6月25日土曜日

気分のよい鷽替え神事

 天神信仰で余りにも有名な菅原一族も、古代史となると「元は土師氏。本業であった古墳の築造、埴輪の製作の需要が低下したため、官僚、学者となる。奈良市菅原町周辺が故地。」となる。
 その故地に菅原神社があり、由緒では道真の誕生地とされている。
 各地の有名で繁栄している天満宮を超越した、この本家筋の天満宮の田舎ぶりはなんともいえない味がある。

 ここで、今日、「鷽替え(うそかえ)神事」が行なわれた。
 道真が神事の最中に蜂が襲来したが、それを鷽(うそ)が食べつくした故事に因むと言えば聞こえはいいが、鷽と嘘の語呂合わせで、嘘を真にするとか、やむを得ずついた嘘を清算するというような、ここまで来るとその馬鹿馬鹿しさが可愛いほど安直な祭である。

 よく言えば、神と人間との間に距離感のない、夏休みの子供会の夏祭りのような気分の、いたって気楽な神事を、太鼓に合わせて「替えましょ」「替えましょ」と言って楽しんで帰ってきた。
 この話を、老人施設の若いスタッフにすると、「鷽を替えて嘘が清算されるなんて、ええ祭やわあ」と喜んでいた。
 これまでのブログの数々の誤解と独断もみんなチャラになったので、精神衛生上極めて有意義な神事であった。

2011年6月24日金曜日

馬刺しは旨し

 たまにミナミを歩いたりすると、飲食店の様子が様変わりしていることに驚いてしまう。
 一言で言えば、テレビやファッショナブルな雑誌のもてはやした料理とお店がやたらに目立ち、 えっ、ここがミナミ??? と思うのは遅れた人と言われそうな毒気がある???
 昔は“味にうるさい”と一目も二目もおかれていた大阪人も、これでは、メディアの奴隷ではないか。
 テレビは、昨日まで業界の革命児ともてはやしていた焼肉店をO111以降は「ユッケは危ないに決まっているだろう」とこき下ろし、「このタイミングではこのニュースがいい」とでも思ったのか「馬刺しにも寄生虫」と警鐘を打ち鳴らしてくれる。親切でありがたいことである。
 しかし、一旦停止!! 安全な食品を美味しくいただくかどうかは消費者の力量だと私は思う。
 メディアに惑わされず、スーパーの表示情報に惑わされず、これはいける・・と思うかどうかは究極のところ「勘」でなかろうか。勘に自信のない方は薬品まみれの「清潔」な食品をいただけばいい。
 生きていくうえで大切な勘を養わず、全てをメディアに依存する民族に未来はないだろう・・と私は思って、些か悲観している。
 馬刺しを美味しく美味しくいただきながらそんなことを毒づいていると、ブログの世界で、「すずめ、鮒寿司、蜂の子などを嬉々として振舞う上司がいた」と冷やかされているのを発見して、酔いも毒気もさめてしまった。
 わっはっは、 yamashirodayori で検索すると、その中に、該当する素敵な美術家のブログが出てくる。

2011年6月23日木曜日

唄の力 4

 蘇州夜曲を唄ったあと語りだした実母の思い出話に聞き入った。

ネットから
 大正の初期、小学校入学前、ずーっと叔父さんの家で育てられていたらしい。
 家の前は果てのないほど桁違いのコスモス畑。「だから今でもコスモスが大好きなの」と言う。
 コスモス畑が済んだら、いつも二階の窓から裏の大河を日がな一日飽かずに眺めていたらしい。
 大きなジャンク、小さなジャンクがひしめくように行き交い、どの船も喫水線ぎりぎりまで荷物を積んで、まるで生き物のように活気のある河は一日中見ていても楽しいものだった・・・・と言う。
 大きなジャンクは、先頭に大きく華麗な鳳凰を付けていて、ただの貨物船とは思われない、それはそれは見事な美しさだったと言うのだが、しかし、ネットでジャンクを探して見ても、そんなに素晴らしいジャンクは現在は出てこない。
 いくつかの貨物船の中には豚がいっぱい積み込まれていて、遠くの岸では耳と尻尾をもって放り投げるように荷揚げしていたと。そして、上流に屠殺場でもあったのだろうか、時々豚の頭が河をプカプカと流れてきたと可笑しそうに語ってくれた。

 これが、実母の一番小さいときの思い出。場所は蘇州。それ以上詳しいことは判らない。
 「もう一度いってみたいなあ」と目を細め、再び蘇州夜曲を口ずさんだ。
 「懐かしい昔を思い出させてくれてありがとう」と礼を言われた。

2011年6月22日水曜日

唄の力 その3

 実母の施設に通ううちに感じたことは、いわゆる認知症ではなく、外傷や脳血管疾患の後遺症と思われる方々が、思いのほか多いということだった。
 障害等級表の第1級の3「・・・著しい障害を残し、常に介護を要するもの」に該当される方も少なくない・・感じがする。
 そういう中では、筆談ながらどうにか意思の疎通が図られる実母の場合は、非常にありがたいものであると、ほんとうにそう思っている。
 私は、そういうワンランク軽い方々と毎日ほんの少しだけ歌を唄っている。
 そして「盆踊りはどんな唄ですか?」と聞いたある時、草津節を唄いだされた方がいて、・・・そうしたら、ちょっとした合唱になったので、「草津節はすごい!」と思っていたら・・・、
 別テーブルの、ある、どう見ても第1級の3のお方が、突然車椅子の上で踊りだされた。
 見たところ、それは炭坑節の振り付けであるが、そんなことは全く関係ない。
 その手の流れは力強くピシっと決まり、凛としたオーラさえ発していた。
 そして、踊ったあと、深々とお辞儀をされたのだ。
 スタッフの方々は「こんなに興奮したら後がどうなるやら」と心配されたが、私は心の底から跳び上がるほど感動した(びっくりした)。
 老朗介護の施設じゃないか。・・・食べさせて、寝かせて、排泄させて、それで全てだとしたら淋しすぎる。・・・だが、スタッフは忙しい。
 そうであれば、・・・あの方の、あの心持に応えてみたいが、・・・残念ながら今の私にはその力がないのが悲しい。

2011年6月21日火曜日

無手勝流音楽療法

与話情浮名横櫛
 昨夜のブログのつづき・・・を書いてみたい。

 実母の施設にいろんな「歌のボランティア」の方々が来られるが、「何かが違う???」と感じるところが少しある。(以下、全くの独断と偏見で・・)

その1 立派な演奏会だけでは難聴の方々は嬉しくない。
その2 合唱させようと必死であるのが痛々しい。大体が楽器に合わせて唄うというのは相当な水準の技術なのである。
その3 言語の障害がいろいろあっても脳内では大人の思考をしているはずで、幼児扱いされては嬉しくない。

 さて、門外漢の私が、こんな無手勝流の音楽療法?に目覚めたのは、偶然に「夏は来ぬ」の歌詞を持参したことから始まった。(合唱する気はなかったが、思いがけない唄の時間が生れて驚いた。)そして、そこで感じたことを何回か試行しながら思い至った・・・ことがある。

その1 歌は聴くより唄うほうが楽しいに決まっている。
その2 歌詞さえあれば、それぞれが歌って、たまに合唱になって、・・それぐらいでも不満は全くない。ボランティアは同じ水平線で一緒に歌うだけでいい。
その3 少なくとも小学校高学年以上の唱歌の名曲、そして、昭和30年頃までに流行った大人の唄がいい。低学年以下の童謡で満足しているのはボランティアの方だけだろう?

 ・・だから、(ボランティアの話ではないけれど)もし私が所長なら次の歌が唄えるかどうかをスタッフの入社試験の必須科目にしようと思う。(スタッフで唄える方は非常に少ない。・・・考えれば当然か・・・)
  お富さん  ここに幸あり  小さな喫茶店  湖畔の宿・・・
 (注:タンゴの名曲「小さな喫茶店」は全くの私の趣味・・・ハッハッハ)
 
 2~3種類の歌詞を配って、「〇〇さん、こんな唄憶えてはります?」と言うだけで、どれだけ素晴らしい唄の時間(まあ15分程度だが)が自然に生れるかということを、セミプロ?の方ほど見えていないように思う。

 プロよりもアマチュアのほうが問題の核心を突くこともあるのでは・・・
 ①(まる1)に来るのが「お富さん」っていうところ、・・このことも、ちょっとした発想の核心だと思いませんか?
 ゆっくりとした叙情歌の名曲(例えば:みかんの花咲く丘あたり)は結構難しいが、「お富さん」のリズムは歌いやすく、ラジオ時代の大ヒット曲「お富さん」を知らない入所者はびっくりするほどおられなかった。
 これこそが現場の「真理なのだ?」・・とまで言ったらあまりに大袈裟すぎますか。

2011年6月20日月曜日

UFO

 亡くなった義父が相当一徹な堅物だったこともあり、義母は、主婦として母として、ひたすら一途に歩んできた感じの、典型的な一昔前の日本の女性である。
 だから、年老いて半ば寝たきりのようになっても、「デイサービスなんかとても馴染めないだろう」と思い込んでいたのだが、実際に行き始めると予想外の順応性を発揮し、親が子供の成長を驚くように、親の潜在能力に驚く私たち子供たちであった。
 その後、施設に入所したが、・・そして、それほど単純に何もかもが上手くいったわけではないが、それなりに新しい環境を受け入れ、リハビリの効果が目に見えて表れたような気がしている。
 先日、施設の運動会が開催されたが、休憩時間に若いスタッフがピンクレディーのUFOを歌ったとき、義母が一番前で踊りだしたのには心底驚いた。
 親の〇〇〇 子知らず とでも言おうか・・、
 心の奥底では歌や踊りが大好きだったのだ。

 それにしても・・それにしても・・  生きる力を支える唄、・・唄のもつ力の偉大さをこれほどに実感させられたことはない。
 夏目誠著「流行歌とシンドローム」(中災防新書)ではないけれど、唄の持つ薬効を少し考えてみようかと思っている。

2011年6月19日日曜日

がっちょ釣り 

 今日、イオンで「がっちょ」を売っていた。
 昨年、ブログで、「高度成長以前の堺では夏祭りに“がっちょ釣り”の夜店が出ていた。」と書いたが、「そうやった。そうやった。」という声は寄せられなかった。
 同じ話は、現役時代に酒席で何回もしたが「へえ~。知らんなあ。」というものばかりだった。
 だから、「がっちょ釣りの夜店」は、限られた地方で限られた時代だけに存在した貴重な歴史の一こまだったのかも知れない。私は一人になっても証言する。
 がっちょは、魚釣では外道であったが、日本中が貧しい時代はそんな釣果も母親は喜んでいた。

 紀淡海峡の友ヶ島や成ヶ島は、十代後半から度々訪れたキャンプ場で、ここではヤスでがっちょを突いて獲ったものだった。

 子供たちには、私が子供時分に獲得した体験と技術を出来るだけ伝承しておきたいと、貝を足の指で獲る方法やトコブシを一瞬で獲る方法は伝授はしたが、魚をヤスで突いて獲るという、少し危険だが動物の狩猟本能を刺激する技術は結局伝授できずにきた。
 あとは隔世遺伝させるしかない。
 「そんなこと言うたら子供らに嫌われるで。」と、妻はがっちょを煮付けながら呟いている。

2011年6月18日土曜日

日本一の ゆりまつり

 5月25日のブログ「ゆり祭りを約束した」の報告。
先日、本社である
大神神社で撮影した

 昨日は率川(いさがわ)神社の三枝(さえぐさ)まつり=ゆりまつり。
 これが、なんと、推古天皇勅願で創建された大和の国の一之宮で、701年の大宝令に定めのある祭り。
 侮って到着した時には境内があふれていて、ささゆりを手に優雅に舞う巫女さんのお神楽も柱の向こうのほうというありさまだった。

ささゆりを手に優雅
この後、市内を行列
 
 
 夕食の時間に実母の施設に〔ささゆりの絵馬〕を持参した。

 「約束どおり〔ゆりまつり〕をしましょう」と、梅酒をスタッフと相談してドクターストップでない方々に配って乾杯!


 日頃、車椅子上で座りっきりの方も感慨深げに〔ささゆりの絵馬〕を手にとって微笑まれたり・・、
持参した絵馬
 みんな楽しく優しくなって、私にも自分のミキサー食をおすそ分けするから食べていけと言う。・・悪いのでチョッといただいた。
 顔を赤らめて「暑い暑い」という方や、何かの唄を歌いだす人もいて、大盛り上がり。
 あまりのハイテンションに少し心配したが、スタッフも「今晩はよう寝てくれるやろう」と笑ってくれて、率川神社よりも格段に素晴らしい〔ゆりまつり〕になった。
 約束が果たせて、ほっとして、私の方が思い出に残る日本一の〔ゆりまつり〕だったと感謝している。

2011年6月16日木曜日

ワープロは偉かった

 「はとぶえ」を送ってくれた同窓生の送り状に「ワープロで打ちました。」とあり、その頑固さにはサスガに脱帽した。
 私も長い間CASIOのワープロ一辺倒でやってきたから気持ちが痛いようによく解かった。
 各社の互換性には難があったが、大体が日本語の文書を作るために日本人が発明したワープロが悪いわけがなく、反対にWordは勝手に行の字数が変わったりして、如何にも欧米人の機械であったし、縦横の線の入った罫線入り起案文書の作成を専らとしていた仕事でもワープロの使い勝手の方が勝っていた。
 事務所の機械化が進んだ頃には、検索とMail用のパソコンとワープロとの2台を机の上において仕事をしてきたし、だんだんワープロが邪魔になってきた後もWordではなく一太郎を使用して抵抗してきたが、ついに圧倒的なシェアつまり互換性に敗れてWordに頭を垂れたのは還暦を過ぎてからだった。
 敗北感に包まれて正常なワープロを数台廃棄した時の悔しさは憶えている。
 こうして、相当古びたパソコンで、古いバージョンのWordを使って、パソコンに向って「勝手に動くな」などと罵声を浴びせつつ、このブログを書いている。
 自分自身はアメリカの世界支配に見事に絡め取られてしまったが、新聞に「ワープロの修理をして喜ばれている」という会社(人?)の記事があった時は何かホッとした。

2011年6月14日火曜日

「はとぶえ」のこと

 丸谷才一著「完本 日本語のために」(新潮文庫)は、「大学入試問題を批判する」の中に「慶応大学法学部は試験をやり直せ」とか「小林秀雄の文章は出題するな」という痛快な中見出しが躍り、目から鱗の指摘のあれこれに脳内のアドレナリンが踊りだしたのは本当である。

 ところがこの本、そもそもの第1章が「国語教科書批判」で、その巻頭が「子供に詩を作らせるな」である。
 そして、丸谷氏が完膚なきまでに批判する「インチキきはまる詩」を作ってきた(そういう国語教育にどっぷりと浸かってきた)私としては、この主張に理論的に種々納得しながらも、感情的にはムッと胸が詰まるのである。

 高度成長が始まる前の堺で小学生であった私(たち)は、「はとぶえ」(注)に詩が載るのが嬉しかったものである。
 先日、堺の友人から、同級生の掲載分を抜粋したコピーを送ってもらい、懐かしさがこみ上げてきた。

 「たしかに丸谷氏の指摘どおりかも知れん。あの頃は、文語体や漢字や決まりきった作文教育が古い考え(体制)を支えてきたので、形を無視した生活綴り方こそが正しい(国語な)のだと子供ながらに信じていた。」
 「だから、その完全な信奉者だった私は、結局定年で仕事を辞めるまで丸谷氏指摘のとおりの「正しい文章」をないできた。」と、私は妻に説明した。
 妻は「はとぶえ」を読みながら、「そのお陰で好きなようにブログを書いているんやなあ。ブログの文章のええかげんさは小学生の時の詩のままや。」と肯定(???)してくれた。
 過ぎた年月は取り返しがつかないが、そして丸谷氏の指摘も少なからず納得するが、「はとぶえ」で育って、無手勝流で「文は形よりも中身や。」と通してきた半生にも後悔はない・・・と、うそぶいてこの「生活綴り方ブログ」を書いている。
 丸谷氏の言うとおり、悪文を恥じる正しい教育を受けてきたのなら、こんなブログは一編たりとも公開できていなかっただろうと、笑いながら心の中で居直っている。

(注)「はとぶえ」は、昭和26年創刊で60年の歴史を数えた堺の月刊児童文芸誌

*当時の国語教育や「はとぶえ」に関する感想は、私の全くの独断であるので念の為。

2011年6月13日月曜日

アイスプラントは いけます

 今年初めて植えた野菜のニューフェース(という言い方がオールドだが)アイスプラント。 妻は早々に◎の札を掲げた。
 ミネラル分を多く含むプラッター細胞と呼ばれるらしい粒が葉の全面にキラキラ光り、堅くもなく軟らか過ぎもせず、これといった癖もなく(癖のないのは我が家では少々マイナス点だが)、今夏のサラダが一回り賑やかになりそうな予感がする。

 写真は何の調理もせず、ナスタチウム、ワイルドベリー、カモミールをアイスプラントと並べただけ、そして、これらを何も付けずにムシャムシャ食べてさっぱりと気持ちがよかった。
 宣伝では栄養豊かで各種薬効もいろいろあると書かれているが、我が家の方針は「健康のためにと不味いものは食べない」「いろんなものを美味しく頂くのが健康の基」であるから、美しく美味しいアイスプラントはグーである(これも古いか)。

2011年6月12日日曜日

プチ あやつこ考

 関西では、若干のヴァリエーションはあるが、お宮参りの時に男の子の額には大という字を、女の子の額には小という字を紅で書く。
 因みにこの大小の字、儒教的には男尊女卑の匂いがするが、私の考えでは、これは道教的陰陽であり序列や上下には関係がないと感じている。

 ・・それはさておき、この習俗を「あやつこと言う」と知ったのは、ホンノつい最近、白川静先生の最後の弟子を称されている大川俊隆先生(大産大)の講義のときのこと。
 講義の寄道部分で「あの額の文字、皆さんは何て言ってますか?あやつこって言ってますか?」と聞かれて初めて知った。
 そして調べてみると、確かにあやつこは広辞苑にも収録されているし、柳田國男氏は「阿也都古(あやつこ)考」を著されている。

 しかし、総じて広辞苑を含め多くの解説は「これは魔除のまじない」との平板な説明に終わっていて、「大」「小」以外ににも「犬」の字や「×」の印もあることから、「この子は人ではないから取り付かないように」と魔物を騙すのだ!との説もあったりしたが、全般的には何か物足りないものばかりだった。

 そこで、やはりと言うべきか、なるほど説得力のある論究だと私が勝手に感心したのは白川静先生の著作(辞書)だった。
 白川静著「常用字解」によると「産」のもとの字は「文と厂(かん)と生」である。
 文は一時的に描いた入れ墨のこと。
 厂(かん)は額の形。
 そして生。草の生え出る象形。この字だけで、うまれる、いきる、・・・。

 つまり、白川文字学、白川民俗学でいえば、この(産の)字には、漢字が完成した殷代安陽期初期(前1300年頃)までの古代の観念と習俗が見事に封じ込められているのであるから、・・・・・それは、健やかな成長祈願の魔除であるとともに、殷の社会では、「あやつこの方法で産土神に報告することによって共同体の一員として産まれたことが認知された」・・・今風に言えば、あやつこを描いて、子の誕生を神に報告して、そうして初めて産まれたことになるのだ・・・ということなのだろう。
 とまれ、産の字こそは、あやつこの儀礼を指したものだった。
 あやつこの儀礼はそれほどに大事だと・・・と、いうことを人々は語り継いできたのではないだろうか。

 私が感心したのはタダそれだけのことである。
 「なんのこっちゃ」と思われるだろうが、大陸の北の文化、南の文化、そして海の文化等々が混沌と重なり合い、また重ならず、模倣と換骨奪胎に天災的な才能を発揮してきた「辺境」の我が祖先が、およそ3,500年前の殷の習俗を大事に大事に受け継いで、今日のこの子のシーンがあるなんて、ちょっと感動ものではないだろうか。

 あやつこを旧弊であると一笑に付すことはたやすいが、「告朔の餼羊」」()と考え、折角だからこんな機会に古人の思いをあれこれ想像して頭の中で楽しんでみたいと思っている。
 お宮参りが、単なる魔除の迷信・前例の踏襲で終わったのではおもしろくない。

 () 「告朔の餼羊」こくさくのきよう(論語の故事)
 2月24日の「炭も焼いていた母」にスノウさんから頂いたコメント参照
 古来の行事や儀式は害のない限り残しておくべきだ の意

2011年6月11日土曜日

ハメは怖かった

 元興寺所蔵の中世庶民信仰資料の「蝮除けの願文」には、貴族達の極楽往生のそれとは違って、ヒシヒシと切羽詰った真剣さが覗えた。

 そんな記憶があったものだから、義母の昨夜の外泊の〔恒例民俗学〕の時に「蝮は怖くなかったの?」と聞いてみたところ、「ハメは怖かった」「見つけたらハメやハメや言うて皆で殺した」ということで、いくら山のふもとの農家で、蝮を見慣れているからといっても決して軽んじてはいなかったようである。

 「鍬で頭を押さえるねん」「スーッと皮を剥いで骨にするねん」「木の先に挟んで、その木を軒に刺し込んで干したんや」「河内の方から(漢方薬に)買いに来る人がおったんや」と話は続き、「怖かった」という割には、小遣いにもなった日常作業を淡々とこなしていたという雰囲気だった。

 ともあれ、蝮が・・実際に死ぬかもしれない危険な魔物であったこと、そういう危険と隣り合わせで「農作業に休みはなかった」という義母の子供時代があったこと、そんなことを(義母の)曾孫が知る時のために、こんな些細なことを文字にしておくのも無意味ではないだろう。
 現に私は、皮を剥いだことも小遣いにした経験も最早ない。

2011年6月10日金曜日

文句なく可愛いモリアオガエル

卵の泡
 
  テレビなどでよく紹介されるので誰でも知っているが、森の中で暮らし、産卵は池の上に張り出した木の枝に行い、おたまじゃくしがその泡の塊からポタポタと池に落ちるという少々ドラマチックな蛙である。
 
ぼんやり眺めていると見えてくる

 かつて、木の枝の先のおたまじゃくしの誕生の瞬間を蛇がパクパク?食べているのに出くわして、些かショックを受けながらビデオ撮影したことがあるが、地球温暖化のせいかどうかは知らないが、奈良公園内の観察ポイントも、池が干上がるなどして大幅に減少して寂しくなっている。


と、次の個体も見えてくる

 棲息している池には共通する匂いがあるので探してみるのだが、ここ数年はその季節にタイミングよく出向くことも出来ず、なかなかお目にかかれないでいた。
  


おたまじゃくし
 特に親蛙は、見つけてやろうと思って凝視した時には全く見えず、ここにいるのは確実だと信じた上でボンヤリ眺めているとフーッと見えてくるから不思議だ。
 

 最初はアマガエルのイメージで探したので、実際には予想外に大きくて驚いた。

 今回も、卵の泡とおたまじゃくしまでは見つかったが、親蛙はもう無理かなとボンヤリしているうちに視界に浮き上がってきた。(上から2番目の写真がそれ)
  
正真正銘のユルキャラ

 娘が小さいとき蛙のデザインのキャラクター商品を好んで集めていたが、モリアオガエルはそのまま「ゆるきゃら」でとおる可愛らしさである。
 


2011年6月8日水曜日

芝に咲いた花

 「芝生にきれいな花が咲いた」と感動して帰ってきて、確認のため田中修著「雑草のはなし」(中公新書)を開けると、そこには「シバにきれいな花が咲いた・・と思う人もいる」と書いてある。
本当はいっぱいさいている
 「と思う人もいる」・・・というこの冷笑はナンダ・・・??
 植物につよい妻は「ニワゼキショウでしょ」と即答した。
 園芸店に売られているサトイモ科のセキショウは、石に着生し菖蒲に似ているから石菖。その石菖に似て庭に生える花なので庭石菖。アヤメ科の帰化植物。
 それにしても見た目はほとんど「芝生の花」。
 高さは約10㌢。花の径は1㌢弱。
 妻に聞くと、我が家にもいっぱい芽を出すが、私が雑草と信じてセッセと抜いてしまったらしい。庭石菖さんごめんなさい。
 そういえば道端には庭石菖に限らず紫やピンクや黄色の可愛い花がいっぱい咲いているが、その場所が“区切られた花壇ではない”というた
だ一つの理由からほとんど見向きもされていない。
 高山植物として文学や歌詞や写真で褒め称えられている花の親戚であっても、それが道端や空き地に咲いていた場合は、蔑視と憎しみの対象になっている。
 彼の花たちは「この世は不条理だ」と嘆息しているのだろうか・・・それとも野原での自由を謳歌しているのだろうか。


 それにしても、見慣れた道端、見慣れた芝生に発見する花は多い。
 私は今まで何を見て生きていたのだろうか。

2011年6月6日月曜日

近代史講義

 いっぺんに蒸し暑い夏日がやってきた。
              額紫陽花も開花した。

 
 星蜂雀(ホシホウジャク)もホバリングを見せてくれた。


 源氏蛍も(限られた公園に)光り始めた。

ネットから


 実母が朧月夜を唄いながら「ほんとうに菜の花畠やったな」「本門寺の鐘の音が聞こえたな」「こ
の唄どおりやったな」と私に同意を求めてきた。


 東京都大田区大森の入新井小学校。大正の前半。同意を求められてもなあ~・・・しかし、その頃の東京ってそうだったのか!と、文献ではない活きた言葉として勉強になる。毎日が近代史の講義だと思えばよい。

 施設の若いスタッフも、いろいろ同意を求められて、「そんなの生れてないわ~」と大きな声で答えている。





2011年6月4日土曜日

都人が無視した?ヤマボウシ

 ヤマボウシは古くから山の谷筋に自生していた木らしい。
 四枚の白い花びらが肩に広がった頭巾の裾のようなので山法師と名づけられたと聞くと「なるほど」と納得する。
 ところで、いうまでもなく山法師とは中世に存在した北嶺の僧兵のこと。
 ということは、相当古くに名づけられたのだろうが、調べてみても、この木のことはあまり文字の世界に登場してこない。(大歳時記でも近代以降の句があるのみ)
 都人は名づけはしたが、梅や桜のようには好まず、鄙の雑木だと無視したかのように思われる。真相はわからない。
 それとも、無視では・・というよりも、あまり好まない花であったので、都人が嫌った山法師と・・皮肉というか嫌味で・・名づけた・・とまで考えるのは穿ち過ぎ・・・・??? 
 今では庭木として人気があり、この親類のアメリカヤマボウシ(ハナミズキ)などは超売れっ子である。
 秋に成る実もきれいで美味しいし、言うことがなさそうだが、花が空に向かって水平に咲くのが難点か。
 2階以上のベランダから鑑賞するのがお勧めである。


2011年6月3日金曜日

蛍を観て考える

 虫でも鳥でもないが、蜘蛛や蝙蝠は蚊や蛾などの「害虫」を食べてくれるので、その姿の好き嫌いは別にして、一般的には「益虫(虫ではない)」「益鳥(鳥ではない)」とされている。
 しかし、蛍にとっては彼らが二大天敵らしく、蛍を守ろうと1年を費やしてきた人々にとっては「憎っくき害虫(鳥)」とされている。
 だから竹箒を持って蜘蛛の巣を取って廻り、空を見上げては「あいつ等はよう知っておるんや」と毒づいている。
 確かに、優しく漂う源氏蛍を見ていると感情的に納得するのだが、冷静に考えれば「益か害」かは人間のマコトに勝手で便宜的な分類に違いない。
ネットから
 小さいときには害虫だったが大きくなったらせっせと受粉をしてくれたり、農村では害鳥と言われる鳥が都会では貴重な野鳥であったりということも少なくない。
 世界中には、カワニナを食材と考えている地域もあるかもしれない。そこでは「蛍はかなわん」などと語っているかもしれない。
 そんなこんなを考えると、人間は多様な地球に頭を垂れて住まわせていただくという己が自覚の欠如を思い知り反省する。
 なお、原発村の人々の発言に、その種の謙虚さが欠けているように感じるのは私だけだろうか。

2011年6月2日木曜日

民俗学の宝庫

 民俗学の諸先生は消えゆく風俗等の収集に全国を歩き、小沢昭一氏も滅びゆく歌謡や放浪芸の採録に歩き廻ったが、今回私は、ありがたいことに居ながらにしてそれとよく似た機会を得て、「老人介護施設は民俗学の宝庫である」という極めて当り前の真実を「発見」した。
 実は老人介護施設に通ううち、実母以外の何人かの入居者と友人のように親しくなっておしゃべりをするようになったのだが、そんな会話の中で「ストトン節を知っている」というのを聞き、「チョッと教えて」と言ったが、その時は「いやいや」と言われ、その日はそれまでであった。
 ネット社会の偉いところはこの種の問題がすっと解けるところであり、別の日に「ストトン ストトンと通わせて~っていう唄ですか?」と筆談したところ、その方が、♪ ストトン ストトンと通わせて~ と唄いだしたのだ。
 採録した先生方が再生した唄ではない。・・CDでもない。・・もちろん文字による記録でもない。・・実際に好きで唄っていた方が思い出しながら嬉しそうに唄っているのである。
 添田唖然坊とその子の世界。もう、街頭はもちろん、お座敷でも、音曲万歳でも聞くことの出来ない、紛れもない民俗学的一次資料を聞いているのである。
 おまけに、ネットの何処にも、そして書籍、例えば「一億人の昭和史・大正時代の流行歌」、小沢昭一著の中の「添田唖然坊は生きている」、高田光夫著「近代日本音楽の歩み」の中の「忘れられない添田唖然坊」の何処にも書かれていない、奈良版とも言える歌詞まで聞くことが出来たのだから、この感激を「民俗学だ~」と叫んだとしても許してもらえることと思う。
 演歌から艶歌に「堕落」した歌詞と言われるかも知れないが、艶歌もまた庶民への応援歌であった。
(チョッと歌詞が飛んでいると思われる)
(ご存知のお方は御教示ください)

   ♪ ストトン ストトン
    あなたと私は 身は生駒
    生駒トンネル 越えるとき
    堅い約束 石切で
    枚岡神社で 花咲かす スットントン スットントン