2011年12月29日木曜日

この冠羽が目に入らぬか

   どうしてこうも根拠もなく信じていたのだろう。
 ずーっと以前から3日に1回は車で通っている道の側の田圃にいる野鳥のこと。

 「こんな時期にこんな所にいるのはケリに違いない」と、見ていても見ていなかったのだが、何となく「こんな季節に幼鳥でもあるまいに小さいなあ」と気がついて車を止めたところ、まるで鴫(しぎ)の一種のよう。

 これは珍しい鳥かも・・と家から双眼鏡を持っていったら、飛んでいる時の羽の上部も白の模様がハッキリしているケリとは違って、黒である。
 立っている時の背中が地味な感じのケリよりも、黒緑に輝いている。
 そして一番の「ウリ」は頭の長い冠羽が後ろ上方にそれはそれは見事である。
 そして、甲高くケリケリケリと飛びながら鳴くケリとは違って、ミューというような声である。
 どう考えてもケリとは全く違うのは明らかだ。
 
 そう、それは思いもよらぬタゲリだった。タゲリをタゲリとして見たのは初めてのことだった。ずーっと目の中には入っていたものの・・ああ

 ガイドブックを読むと大型のチドリとある。なるほど。同意。 
 続いて、「冠羽、白と黒の体等で混同する鳥はいない・・・」とある。
 ええっ! それを家から1キロほどの地で、混同というかウォッチングできないでいたのだから全くお恥ずかしい。

 原発報道や、言葉をもてあそぶ市長を根拠なく信じた人々を笑うことなど決してできない。

 「野鳥」には人生の「ものの見方考え方」を教えられる機会が山とある。
 よく言えば「新発見」、普通に言えば「己が無知を思い知らされ続けた」1年だった。
 こんなドジ話を読んでいただいた皆様に 『どうか、よいお年を

2011年12月27日火曜日

難波高津宮趾

高津高校にて撮影
   難波宮(なにわのみや)を最初に知ったのは高校の社会の時間で、先生が山根徳太郎博士の調査と発掘の物語のような話を、目の色を変えて感情を込めて「素晴らしいことです」と度々語るのを聞いた事だった。
 その後、その難波宮、つまり孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(前期難波宮)や天武天皇等々の難波宮(後期難波宮)の大極殿のあった法円坂の地で何回も勤務をした(転勤のため)のだが、灯台下暗しの例えどおり、この歳になるまでほとんど勉強せずに来ている。

 さて、タイトルの難波高津宮(なにわたかつのみや)は、前述の前後期難波宮にさらに先立ち、応神天皇の難波大隈宮の後、仁徳天皇が営んだと日本書紀にある、皇国史観の戦前には有名すぎるほど有名な宮殿であるが、この所在地については百家争鳴の感がある。
 そのうちの、摂陽群談、摂津志、難波旧地考、難波上古図説などはそれを上六(うえろく=上本町6丁目)の東北の「東高津」あたりと記している。
 
 そして我が家(といっても兄や姉までが過ごした家)は、大阪大空襲まではそこにあった。
 実母に聞くと、すぐ近所に氏神さんである東高津宮(神社)があり、そこには高津宮趾の石碑があった。
 東高津宮の鳥居には夫(私の実父)の名が彫ってあるのが誇らしかった。
 東南の周辺は元々一面の桃林であって、桃谷の地名の由来だろう。だから、相当開けてきた昭和初期でも鶯の鳴き声が頻繁だった。
 すぐ南の方には日赤病院があって、ひっきりなしに兵隊さんが運び込まれていた。
 空襲の後、上町台地からは大阪中が見渡せた。・・・とのことである。
 
 なお、東高津宮の神主さんに伺うと、東高津宮はもと「近鉄(大軌)上本町地上駅」の場所にあり、「元高津」と呼ばれ「仁徳天皇皇居大宮跡平野社」と記され、横には「難波寺」があったが、昭和7年に東高津の地に遷宮したとのこと。落語「高津の富」や「崇徳院」で有名な高津宮とは別である。
 もと東高津宮にあった高津宮趾の石碑は今は府立高津高校の校内に移されている。
 今日のブログは以上である。別に研究成果もオチもない。

 子供の頃は、生れるほんの数年前の戦争の話にも「別世界」のような距離感があったが、101歳の実母と話を重ねていくうちに、大正も昭和初期もまるで一昨日のように感じられるようになった。有難いことである。

2011年12月25日日曜日

寒波の日の夢想

   電力会社に義理はないし、いや、それどころか慇懃無礼で、まるで脅しのような節電要請には怒っているが、ただ、こんな機会に身辺の節約を考えてみるのも悪くはないと思わないでもなく、今季の暖房は相当控えめにしている。(正確には、妻がそうしていることに服従している)


 思い起こすと、就職したてのときに勤務した事務所は右の写真のような達磨(石炭)ストーブだった。
 1週間に1度ぐらい、天井付近から窓の外へ出て屋根まで伸びている煙突の掃除が必要だった。
 新聞紙を丸めて火をつけて煙突の下に入れると、ロケットのように煙突内部の煤を燃やしながら飛んでいくのだが、この文章を読まれた方でも若い方にはイメージしにくいことだろう。もちろん、その後ブラシで掃除する。
 煙突掃除の後はワイシャツの袖口等が真っ黒になり、洗濯をしても取れなかった。
 上司からは「ご苦労さん。銭湯に行ってきて」と風呂代が支給された。隔世の感がある。

 さすがに今では石炭ストーブは見かけないが、近所に数軒薪ストーブの家がある。
 煙突から流れてくる薪の煙の匂いが羨ましいが、既設の住宅に設置するのは難しそうなので、ホームセンターの鋳物の薪ストーブを指をくわえて眺めている。
 
 そこで、風情だけでも温かくならないかと近頃遊んでいるのが写真の火鉢。もちろん炭は臭いのきついバーベキュー用の炭ではなく姥目樫の備長炭。
 備長炭の炭窯である備長竃は備前の長兵衛氏の発明で、紀伊の田辺・熊野地方で広がり大阪へ大量に炭が供給されたということらしい。確かに嫌な臭いはないスグレモノである。

 火箸で炭をいじりながら五徳の上に網を乗せてお餅を焼く・・・・その楽しさを6か月の孫に伝授できるのはいつのことだろう。

 「またお爺ちゃんが同じことを言うてる」と親に言いつける「絵」が浮かび上がるが、そのときは「親の意見と茄子の花は千に一つも仇はない」「お爺ちゃんは親の親だあ」と切り返そうと今から考えている。これについては、あちらのお爺ちゃんも同意していただけるものと思っている。
 えっ、それはお爺ちゃん職としては下の下ですか。

2011年12月23日金曜日

一陽来復

   一陽来復。冬至。
 古人が太陽つまり生命力の衰えを実感し怖れた感じは説明抜きで理解できる。冬至は疫鬼の天下である。
 そこで、7月18日のブログ「贅沢な夕涼み」に書いた法華寺の蓮華会式(茅の輪くぐり)で小豆粥(あずきがゆ)を戴いたことを思い出した。
 ハレの食事、小正月の行事食として有名な小豆粥。
 これは、千田稔氏の著書によると6世紀の中国で冬至に食べられたのが起源らしい。赤い豆を入れた粥で疫鬼を払うと。
 ということで、原点に戻って冬至に小豆粥を食べることにした次第。
 スノウさんから頂いた柚子で柚子湯を沸かし、狭い身辺に限れば無事に歳末を迎えられたことに感謝した。
 春は遠いが一陽来復。

2011年12月22日木曜日

二つの餅つき大会

   日曜日とその前の日曜日に、老人福祉施設と町内会の二つの「お餅つき大会」に参加した。

 老人施設のお餅つきは、圧倒的には『見学』のようなものだが、実母が「お餅つきは見ているだけでも目出度いもんや」という言葉どおり、皆んな楽しそうに丸めたり応援の声を上げたりで盛り上がった。
 日頃ほとんど無表情の方が杵の動きに合わせて腕を動かしておられるのには驚いた。・・・古い古い思い出が引っ張り出されてきたのだろうか。それとも自分が搗いていると信じておられるのだろうか。
 やはり、餅つきは日本の正しい師走のしきたりであると、あらためて納得した。
 
 町内会の行事は主催者の一員だった。
 先ず、薪コンロを2台設置し、「蒸し係」に新聞紙と杉の端材と薪と斧を渡して臼の設置に向ったのだが、担当が「火が点かない」と言う。
 「着火材など邪道である」と私一人が「叱責」したが・・・・圧倒的多数の「大人」たちの多数意見に基づいて安直に着火材を使用して火を点けていた。ああ。

 子供たちは100名近く参加した。
 私の当初の予想では、斧を触りたい、コンロに薪を入れたい、いっぱい搗かせてほしい・・・と交通整理が大変だろうなあと思っていたが、ニュータウンの立派なお子達は・・・、斧を触る子はいない、火の側には近寄らない、誘っても搗こうとしない子が相当いて交通整理も必要ない、臼にこびりついたお餅の欠片(かけら)や餅米の欠片をあげても驚いて手を引っ込める、そしてお餅を貰って室内でビンゴゲームに興じている。
 ああ。「正しい日本の師走」は風前の灯である。

 世界中の大勢は、米や麦を粉にして→丸めて→蒸す文化であるが、日本から東南アジアにかけては蒸して→搗いて→丸めるのである。地球上では少数派である。つまり、これは実は世界遺産のようなものである。グローバリズムなどという言葉が好きな方々にはこの愛おしい感覚が解らないだろうなあ。

2011年12月20日火曜日

御堂筋に泣いた人もいた

   大局から見れば立派な事業と讃えられるような歴史的事実であっても、渦中の庶民は実は翻弄され嘆いていた・・・・というか、そんな人々もいたというのも、また歴史である。
   大阪の都市計画の代表例とされる御堂筋の拡幅もそうであった。
   真宗王国の近江商人たちが大阪に進出して「御堂(北御堂(西本願寺)と南御堂(東本願寺))の鐘が聞こえるところに店を出したい」と夢見たところの御堂筋も、その昔は幅6mにも満たない道だった。
   大正時代までの大阪のメーンストリートは、紀州街道を経て堺に通じる堺筋と今の四ツ橋筋(南北線)で、特に堺筋には大正時代に三越、白木屋、高島屋、松坂屋が並んでいた。
   それに取って代わったのが御堂筋で、その拡幅工事は大正15年に着工し昭和12年に完成した。幅員45mで、庶民は「飛行場を作るんかいな」と言ったらしい。
   その当時の話を実母に聞いたところ・・・、
 祖父母等が船場の心斎橋筋(御堂筋の一つ東の筋)で地元の方々を対象に商いをしていた我が家としては大きな打撃だったという。
 先ず、お得意さんだったご近所の方々がごっそりと立ち退きで居なくなった。
   同時に、それまでお店とお宅が一緒であった船場の商家の職住分離が進み、お得意さんだった家族の方々が芦屋あたりに転居された。
   そして、和服が中心の時代、幅45mの御堂筋を横断するのは困難なため、御堂筋の西側のお得意さんが離れてしまったという。
 祖母はよく「横断するのに息切れして困った」と言っていたらしい。
ということで、家では「お得意さんが2000人も減ってしまった」と御堂筋を怨んでいたという。
   高度成長の時代には「経済の大動脈」とか「幅がまだ足らんかった」と言われて人を押しのけて一方通行になった御堂筋だが、70数年の歳月が流れ、今では「東西にそれぞれ自転車専用道路を作ろう」と言われはじめ、ようやく「人に優しい道でなければ」と見直されようとしている。
   この言葉を、今は居ない祖父母や父は何んと聞いていることだろう。

〔余禄〕 船場の商人に近江出身者の多いことは有名だが、お正月のお雑煮も確かに一致している。また、船場言葉も近江弁と重なるように私は感じている。このような大阪文化の基底をなしている近江文化のもつ意味については一度ゆっくりと考えてみたいと思っている。好き嫌いは別にして、大阪文化の本流は吉本新喜劇よりも松竹新喜劇的なはず。もちろん太田プロダクション所属のタレント市長の品の悪さは大阪文化とは相容れない。大阪文化の無意識の記憶は蓮如の広めた真宗である・・と五木寛之氏は示唆している。

2011年12月18日日曜日

鬼の末裔

   その昔、道教から繋がる種々の宗教は、今日のイメージでいえば薬学であり医学であり土木工学、建築、水利、鉱工業等々の科学であり技術であった。
道修町の神農さん
 そのため、大阪・道修町の薬の神さんが道教の薬神・神農さんであることはあまりに有名であるが、それもまた理由のないことではない。

 また、起源が道教にあるとされている修験道には「陀羅尼助」等の伝統薬が伝えられてきており、我が家でも常備しているほど今も人気がある。私は正露丸よりもよっぽど陀羅尼助の方が好きである。

   その修験道の開祖・役の行者は生駒山で夫婦の鬼を捕まえ弟子にした。
 生駒山で鬼を捕まえたその地は「鬼取(おんとり)という地名で今もある。
我が家から数百米の
小山の中の役の行者像
 その鬼の髪を切った場所を「髪切(こうぎり)といい、山を越えた東大阪にある。何れも暗峠(くらがりとうげ)沿いである。
 暗峠奈良街道は謂わば当時の幹線道路で往来する商売人や旅人も多かったが、医者などいなかった時代、突然の病に対して、修験の弟子たち、いうならば鬼の弟子たちによって伝えられてきた秘伝の妙薬を旅人に施してくれる技能者は、きっと神様のように有難がられていたであろうことは想像に難くない。

 幕末から明治時代、その暗峠奈良街道沿いに住んでいた曽祖父(義父の祖父)は「疝気や腰痛に苦しむ旅人に家伝の妙薬を施して多くの人から感謝されていた」と市史に載っている。
 それは「松葉、ブクリョウ、シメシナ白南天の実、まむし、せんぶり、甘草、ダイダイの皮などを材料とした煎じ薬」(市史)とあるが、その秘伝は残念ながら途絶えて義父や私には伝わっていない。
 繰り返しになるが、役の行者の弟子である鬼のいた地(鬼取)に程近い地にいた曽祖父が、農業の傍ら、きっと役の行者から鬼たちに秘伝されたに違いない伝統薬を作って人々に施していたというのである。
 そうであるなら、実は・・曽祖父は鬼の後裔、わが妻はもしかしたら鬼の末裔ではないだろうか。(そういえば、妻は、時にシバシバ私に向って鬼になる)(これはナイショ)

 このように、古代史と仄(ほの)かに繋がる小さな事実を夢のように広げてみる冬の夜も楽しい。・・・来年からは「福は内、鬼も内」と豆撒きをしなければならないかも???

 ちなみに、夫婦二人の鬼の直系子孫が下北山村の秘境・「前鬼(ぜんき)で行者をしながら宿坊を営んできた。今も1軒だけ残っているようだ。昔から一度行って見たいと思ってるが叶っていない。

2011年12月16日金曜日

格が違う

   一口に老朗介護と言っても症状も様々であるから家族の有りようもまた様々であるが、有難いことに実母の場合は筆談で会話ができる程度なので、・・・それは、反対に言えば自由が利かない自分が情けなかったり、寂しかったりという感情が溢れてくるので・・・、私としても「食べて寝て排泄する」だけでは悲しいだろうと心を痛めて小さな努力を重ねてきた。

 最初に思いついたことは、花や草や木の枝や落葉や実や虫など、自然や季節を感じさせる実物を持参することだった。屋内ばっかりの生活にパッと気が晴れるようだった。 
 そして、母の属するテーブルを中心とした会話のようなものも始まった。
 その次に思いついたことは、私の趣味の鳥の写真などをアルバムの1ページずつのように持参すること。コメントつきの写真が施設の廊下を飾り、やはり気分を広げるようだった。
 その次は、駅の観光パンフレットや鉄道ニュースの持参で、行楽や行事のニュースは綺麗で楽しい話題が豊富なので、「体を治して行楽や登山に行きたい」と言葉を吐くという、ただそれだけでも活力源のように見えるようだった。
 その次は、思い出に繋がるような本や写真の持参。大正や昭和前半の本。上海日本人租界の本。オールド上海の絵葉書等々。
 「なつかしいなあ」「もう一度上海に行きたいなあ」と言うので「故郷は遠くにありて思うもの」と返すのだが、何週間かすると「また見たいなあ」と所望される。
 その次は、実母の想い出を聴き取ること。ただ、自分の子供時代の〇〇さんを私も知っているはず・・のように話してきたり、詳細不明の話が脈絡なく出てきたりするが、その一部をブログに書いたのを見せたりすると泣き出したりして喜んでくれる。何よりも「質問されている」・・は人格を認められている・・に通じる満足感があるように推察したりする。
 その次は、歌詞と楽譜の持参。早朝合唱団。この「力」についてはこのブログにおいて度々報告した。
 その次は、施設の行事への参加とその補助。

 ところが、ところが、ところが、これらの全てを足しても足下にも及ばない効果的な家族介護の手段が登場した・・・というか、気がついた。それは、曾孫の写真と携帯のムービー。
 私の孫(つまり母の曾孫)の写真などは母の属するテーブル共通の写真の有様で、つまり、他の入所者も曾孫の写真に顔を崩して語りかけたりして、いまや曾孫はテーブル皆んなのアイドルになっている。
 その威力は、コツコツと私が積み上げてきた手作りの家族介護のあれこれを束にしても敵わない。
 ズバリ、「曾孫と子(私のこと)では格が違うわい」とガツーンと思い知らされている。

2011年12月14日水曜日

見てても見えない

   庭先の白い蝶。「ああモンシロチョウか」と気にも留めなかったのだが、じっくり見るとちょっと違う。色は白というよりもシルバー。翅がやけに角々している。何よりも気品があって美しい。「これは珍蝶だ」と思って『白蝶属』を色々探してみても出てこない。やっと辿り着いたのが「ウラギンシジミ」。

 「何い~、この大きなのがシジミ蝶?」と思ったら、「シジミチョウ科ではなくウラギンシジミ科に分類することもある」とあった。少し納得。
 翅の表は茶色のベースにオレンジの模様。表と裏が違いすぎる。今回は越冬場所を探しているうちに寒さが来たのだろうか、ズーっと自慢の「裏銀」を見せたまま動かない。
 初めての出会いに感動。

 しかし・・・・、少し調べてみると「大阪市内でも比較的よく見られる」「郊外の住宅地などで普通に見られる」と、・・ええ~#$%&!!!???
 私は妻に「関心がなければ見てても見えない」と偉そうにバードウォッチングの心得を語ってきたけれど、きっと、ウラギンシジミ、「見てても見えていなかった」に違いない。ウラギンシジミさん ごめんなさい。

2011年12月13日火曜日

カチハジキの調査完了

  カチハジキという木を探し始めたのは今年の1月のことだった。
カチハジキ
 そして今は12月。
 長い長い道程だったと書きたいが、そんなに深刻かつ真面目に調査し続けたわけではない。
 それでも、奈良県や生駒市の図書館や国立国会図書館でまで調べたが文献資料が見当たらず、ネーチャー指向の植木屋さんやナツハゼの農園に尋ねてみても「知らんなあ」という答えに窮していた。
 しかし、ネットでキッチンバリキやキンタマハジキという方言を見つけ、半ば勘でナツハゼを庭に植えたところまでは、折々のブログに書いてきた。

 そして昨日、重要参考人である「外泊」の義母を真っ先にナツハゼのところに連れて行ったところ、「カチハジキや」と劇的な証言。
 
 よって、1年にわたるカチハジキ探求調査は完了した。

 『昭和初期の奈良県生駒谷の農家の娘は、いわゆる「おやつ」を購入した記憶はないが、その反面、生駒山東面の山裾には自然の恵みが豊富に存在し、子供等はその地の方言で、カガミソ、コシキ、カチハジキという木の実を「おやつ」にしていた事実が認められる。そのうちのカキハジキとは、調査の範囲内では全く文献資料上確認はできなかったが、大正に生まれ同地で育った重要参考人Aの証言に一切の逡巡、躊躇は見られず、ナツハゼを指しての「これがカチハジキや」との断言の信憑性は極めて高い。以上の調査内容から、カチハジキとはナツハゼのことであると宣言する。』

2011年12月12日月曜日

安くて美味しいもの二つ

   エイの煮こごり・・・と言っても身をほぐして四角に固めたわけではない。ただエイをそのまま煮て、冷えてから食べるだけのもの。

 私も妻も小さいときから食べてきた至って庶民的な料理だが、どうした訳か私の周りではご存知でない方も少なくない。飽食の時代ゆえ仕方のないことだろう。
 軟骨はそのまま食べるが、歯に自信がなくなってくれば食べなくてもよい。
 見た目もコラーゲンの塊みたいに見えるところも嬉しくて、「明日朝のお肌が楽しみだ」「サプリメントを飲む人の気が知れん」などと話しながら食べるとなおよろし。
 気がついて「写真を撮っておいたら?」と言ったときには山のようにあった料理が最後の一つになっていた。

 今年の春に一株だけ植えた金時草(きんじそう)は加賀野菜として有名。
 夏ごろまではあまりパッとしなかったが秋風とともに変身し、今では、あまりに立派に育っているので道行く人々から「それは何ですか?」と尋ねられたりする。もちろん、一とおり説明してお分けするが、少々お分けしたってカサは減らない元気な草(野菜)である。
 おひたしにするとツルムラサキやオクラのような粘り気の食感が好いし、フライパンでさっと炒めるときは別に肉も何にもいらないくらい美味しい。
 子供たちが来たときには土産に持って帰っていく。安上がりだ。これもよい。

2011年12月10日土曜日

修羅場を見た

   ひげ親父さんをはじめとする都会にお住みの読者の皆さんを再び羨ましがらせようと思う。

 この街はいわゆるニュータウンと呼ばれる大規模開発の街であり、相当程度コンクリートだらけの街であるが、旧住宅公団が開発しただけあって、民間デベロッパーの街に比べれば結構緑が残されている。
 そのせいだろうか、あるいは周辺の街(旧農村)のほうの開発が進んだせいだろうか、先日、駅前のショッピングモールの屋上にハヤブサ科のチョウゲンボウが留まっているのを発見して11月4日のブログに書いた。
 そのチョウゲンボウかどうかは知らないが(きっと同じ個体だと思うのだが)、先日、母の朝食の支援をしている時に窓の外の家屋のテレビのアンテナにチョウゲンボウらしい鳥の留まっているのを見つけ、部屋中の方々に興奮して教えてあげたら、その数日後に母の施設から帰る途中、運転している車の目の前で、それも結構大きな交差点のど真ん中で、一瞬、チョウゲンボウ(らしいタカ)が舞い降りてスズメ(らしい鳥)を襲って格闘の後鷲づかみにして飛び去っていったのだ。その一瞬の修羅場からは片や殺気と片や必死の抵抗が溢れ出ていて、なんというかゾーッとした。
 まるで「自然のアルバム」を見ているかのような残酷で力強い、つまりスズメ的にはショックでタカ的には感動的な自然の掟(いとなみ)をリアルに目にして、「わあ すごい」「わあ すごい」と一人叫びながら家に帰った。
 ただそれだけの見聞録だが都会の皆さんには如何でしょう。

2011年12月8日木曜日

長男の蝶ネクタイ

   先月、昨春まで勤務していた職場の事業場閉鎖に伴う解散パーティーが行なわれたので出席してきた。
 事業場閉鎖に至る「怒り」についてはこのブログのコンセプトに合致しないので記述しないが、言うならば二度とない歴史的パーティーなので、精一杯の御礼の気持ちをどう表せばいいかとズーっと考えてきた。
 そこで思いついて、長男に「蝶ネクタイを貸してくれ」と郵送依頼をしたのは、・・・コスプレではないけれど、衣装を大胆に決めてしまうとそれなりに気合が入ると思ったからである。
 実際に、大阪のおばちゃんが豹柄をまとったら元気になるという気持ちを十分に実感した。
 そして、その気合で、パーティーでは精一杯の感謝の気持ちを込めて大合唱を行なった。最後の歌は「今日の日はさようなら」にした。
 皆んな私が現役時代に企画したパーティーを思い出したようにノッてくれて(付き合ってくれて?)、一瞬ではあったが楽しい最後の思い出作りができたと喜んでいる。
 パーティーに出席した先輩諸氏からは些かあきれ果てられていたことは解っていたが・・・。ハハハ
 カラオケ以降の世代の人々には腕を組んで合唱するなんて異文化なんだろうが、誰もが未来を信じていた時代の日活映画では定番のシーンだった。これは承継するに値すると信じている。
 パーティー参加の皆さん、ムリヤリおじさんにお付き合いしてくれてありがとう。

 それにしても、長男の蝶ネクタイといい、長女の手作りのティアラといい、子供たちは格段に私よりも陽気で企画好きである。
 しかし、生れてこの方、常に因習や既成概念とたたかってきた我が世代としては、結局負けるのがわかっていてもまだまだ子供世代に負けてたまるかと思うのである。

 と言いつつ、わかっちゃいるが、だんだんオシャレにも気を使わなくなってきているなあ・・との自覚もある。。
 そんな私を見かねて、妻は真っ赤なウィンドブレーカーを買ってきて背中を叩いた。
 そして自分は、イオンのアンケートの担当者に「若い娘(こ)向けのテナントばっかりにせんと熟年用の店舗を増やしなさい」と強力にクレームをつけていた。いやはや。

2011年12月6日火曜日

バトンタッチ

   我が家の朧梅は律儀である。カレンダーの最後の1枚、パラリと朧月へとめくる音を聞いた途端早速咲き始めた。
 その己が名の来歴に沿った生真面目さがとても好もしい。
 だが、見つめれば、確かに「蝋細工のような花であるので蝋梅という」との説にも強力な説得力が感じられて悩ましい。

 ところが、その横のグリーンカーテンの朝顔は木枯らしなどそ知らぬ顔で咲き続けている。

 その健気さがあまりに可愛いのでよう抜かずにいる。

 週末には真冬の気圧配置とテレビが繰返しているが、来週はどんな様子になっているのだろう。
  
 老朗介護の日々、こんな庭先を見つめていると、永六輔が作詞し晩年の三波春夫に歌ってもらったという「明日咲くつぼみに」が頭をよぎってゆく。

    想い出のふるさと
    想い出の人々
    明日咲くつぼみよ
    今日散る花びらよ

    想い出の笑顔よ
    想い出の涙よ
    昨日今日明日
    過去現在未来

    時は還らず世は移りゆく
    いつか別れの言葉さようなら

    想い出のあの町
    想い出のあの人
    明日咲くつぼみに
    今日の生命を

2011年12月4日日曜日

マレビトに思う

   折口信夫のマレビトの論を読んだのは相当昔であり、また相応に歳を重ねてからのことであったのだが、率直に言えば「古い詩人学者はそうも考えるか」という程度のものであった。
 それは、つまり・・・マレビトの論に激しい同意の感情が湧かなかったのは、私が、第一次産業から遠い存在で、しかも家や土地を継いだり家業を継いだりということと無縁であったからかもしれない。

 マレビトの論を私は十分理解していないが、古来、人々は遠くから時を定めてやってくる(やってきたと考える)マレビトを神もしくは神の使いと考え(信仰し)、神からのメッセージを携えて祝福に訪れたマレビトを歓待するしきたりの中から、祭りや芸能あらゆる文化が発生したのだと折口信夫は言っているようだ。

せんば淡路町御霊神社の大黒さん
 さて、「聞き書 大阪の食事」という本の中の「船場旧家の暮らしと食べもの」という箇所を読んでいたとき、「年初の初甲子(はつきのえね)に大黒さんの絵を掛けお神酒と白豆腐をお供えする」とあったので思い出したことがある。
 昔、船場の商人であった我が家では、年初に限らず毎甲子(きのえね)の日には大黒さんの掛軸を掛け、赤ご飯を炊いて山盛りに盛り上げてご飯茶碗の蓋を載せ、湯気の加減でその蓋がガチャンと落ちたら「大黒さんが喜んで食べてくれはった」と喜ぶ家庭内の行事があった。
 この信仰というかしきたりについて、101歳になる母に尋ねたところ「嫁いで来る前からのしきたりで由緒などは知らない」とのことで、特定の寺社の大黒さんに直結した信仰ではなさそうであった。
 そこで、そもそも商売人には大黒さんの信仰が盛んであったということは明らかなことであったから、船場の産土神である御霊神社に行って見ると、写真のとおり大黒さんも鎮座ましましてはおられたが、「甲子(きのえね)の日ごとにお祀りがありますか」と尋ねたところ「毎月18日にお祀りしています」とのことで微妙に異なり、直接的な我が家のしきたりのルーツでもなさそうな感じであった。
・・・で、とりあえず、調査はここで保留にした。

 そこで、ふと思い至って今回言いたいことは、折口信夫のマレビトは遠い僻村の祭りや古典芸能の世界だけでなく、実は我が家のこのしきたりも、直接的な発生は近世(江戸時代)かも知れないが、たまに(60日ごとに)やってくる大黒さん(マレビト)を饗応し、大黒さん(マレビト)は蓋を落とすことで「きっといいことがあるよ」と祝詞を述べ、60日後も穏やかにこの行事が行なえるよう正しく生きていくのだよと道しるべを指し示して帰っていくという、あのマレビトに由来する行事・しきたりそのものではなかったかという感慨である。
 直接的には近世に誰かが示唆したしきたりだろうが、マレビトの心象の裏打ちがあることで人々に馴染んできたものに違いないと思えてきた。
 そう考えると、俗っぽい御利益信仰ではないこの種のしきたりは、再興させて子供に承継しても悪くはないかも・・・・と思ったりする。そうすれば子供がマレビトの論を読んだ時に何か琴線に触れるかもしれない。ただ再興するかどうかのその答えはまだ出していない。

2011年12月2日金曜日

大正ロマンの風景

   大正時代の女学生(実母)に当時のオシャレ心について聴き取ったことをメモにしておこう。

 近頃は卒業式シーズンに街でいくらでも目にする風物詩になったので別に驚くような情報ではないのだが、大正時代の女学生(つまり母)は和服に袴姿であった。
 その袴は海老茶色で、襞(ひだ)が前に6~8本、後ろに3本ぐらいだった。
 資料によると、明治の中~後期に跡見女学校が紫の袴を制服に制定する一方、華族女学校が(まち)のない海老茶色の行燈袴(あんどんばかま)を採用してからこれが全国の女学校に広まったという。故に女学生のことを「海老茶式部」と呼んだりしていたらしい。・・・なら、跡見は紫式部と言われていたの?
 
 その海老茶式部であった母たちからすると・・・、
  何と言っても関西のファッションリーダーは宝塚歌劇団で、女学生たちは雑誌などでむさぼるように流行の流れを追っていた。
 その宝塚の袴はというと緑(オリ-ブ)色で、襞が10本から12本で、少し高い目に着こなし、その全てが憧れの的だったと、目を細めて当時を振り返る。
 だから、多感な女学生たちは、せめて襞の数だけでも・・・と、夜なべをして襞の数を増やしたもので、・・・もちろん見つかれば風紀の先生に叱られたというのだから、大正時代といえども女学生は女学生だったのだ。
 そして、お嬢様学校として有名だった樟蔭女学校がその緑色の宝塚風であったらしく、ここも宝塚同様に普通の女学生の半ばジェラシーに似た羨望の対象だったという。
 なお、母は5年生の時にセーラー服も可となったので早速セーラー服にしたというのだから、当時としては時代の最先端をいくハイカラさん、「跳んでる女性」だったのだろう。
 田辺聖子さんも書いていたが、歴史を振り返ると、太平洋戦争前のこの時代はそこそこに明るさの残っていた時代であったようで、母の記憶もそれを十分裏付けている。
 歴史入門というほどのことではないが、確かな近代史のひとコマを聴き取った気がする。ちょっと大げさかな。

 「間違ったところはないですか」と、このブログの原稿を母に見せたら、重篤といわれているのが嘘のように目を輝かせて、「このとおりや」と嬉しそうに顔がほころんだ。

2011年11月30日水曜日

カチハジキを植えてしまった

   生駒谷で育った義母が「おやつなんか買うたことがない」「カガミソ、コシキ、カチハジキなんかを採って食べていたんや」と言うので、それはいったい何のことかと調べてみて、カガミソ=ガマズミ、コシキ=カマツカ、カチハジキ=ナツハゼらしいと解るまでには相当の月日を要したし、未だに本当にそれらが正解かどうかはわからない。
 特にカチハジキは『オニハゼのことをカッチンバリキともいう』という文献からの類推だったが、先日ネットで『ナツハゼのことを信州ではキンタマハジキともいう』というのを見つけたので、ほゞ間違いないだろうと思っているが、写真を見せて義母に尋ねても「こんなんやったかなあ」というばかりで、挙句は「小さいときのことやから忘れてしもうた」である。というように、そのものズバリの文献は見つけられていないし、生駒市立図書館で調べてもらっても解らなかった。

 (因みにオニハゼはほんとうの櫨(ハゼ)で食用にはなりそうもないし義母に写真を見せたところ即座に却下された。ナツハゼは夏に櫨のように赤く色づくのでそう呼ばれるがツツジ科スノキ属とある。)
 こうなったら仕方がないので、馴染みのネイチャー志向の植木屋さんに頼んでナツハゼを取り寄せてもらったが、次の義母の外泊の際に「こんなんとは違うなあ」と言われたらどうしよう。・・・といって今更どうしようもないが。
 和製ブルーベリーのよう・・と書いてある本もあったが、あまりに素朴な味のため、若干自信が揺らいでいる。
 なお、キンタマハジキを見つけたのはクロスミさんのブログだが、この方は方言(別名)も丁寧に調べられており感心してしまった。
 あまりに立派なので以下に紹介させていただく。
 1 キンタマハジキの類
    ウシノキンタマ(岐阜)
    ウシノダンベイ(新潟)
    キンタマハジキ(長野、愛知)
    コマノハジキ、コマノマラ、コンマラ、コンマラハジキ(長野)
    テテマラ(福井)
 2 季節から
    アキグルマ、アキゴロモ(山形、新潟)
 3 実の色
    アカノキ(山形)
 4 花の形から
    アタマハゲ(福井、京都、和歌山、岡山)
    アンドン(愛知)
    ハゲノキ(和歌山)
    ハゲノミ(香川)
    ハゲモモ(和歌山)
    ハチマキモモ(静岡小笠町)
    ヤカン(山形)
    ブンブクチャガマ(新潟)
 5 実が酸っぱいことから
    カンカンスイバ(山口)
    シーコ(岡山)
 以上、方言のため若干品位に欠ける点はご容赦を・・・・・。

2011年11月28日月曜日

庭先の天使

 晩秋の家の周りには蟷螂(カマキリ)がじっと止まっていたりして、それはそれで楽しい世界がある。

 そんな時に、金柑(キンカン)の木の近くで見つけたのは右の写真の揚羽蝶の蛹。
 カラスアゲハかクロアゲハかオナガアゲハかは知識不足で解らない。
 明らかなことは「緑の蛹と茶色の蛹は背景の環境による」という保護色論は当たっていないということ。この蛹は汚れた茶色の簾に付いていた。
 それにしても、このケッタイで、とぼけたスタイルは造物主が「屋外の女王」になる前に与えた試練だろうか。・・・・みにくいアヒルの子?
 
 此の頃の子供たちはバーチャルリアリティーの世界の怪獣や虫に夢中らしいが、こんなに可愛いリアルそのものの昆虫を知らないなら可哀相である。

 それはさておき、原発問題を見るにつけ、科学技術の進歩に人間の倫理観等の成長が追いついていないこと、むしろ後退局面を感じさせることが現代社会の問題ではなかろうか。
 昨夜の大阪のニュースを見てもそう思う。
 ちょっとでも自分より得をしているように見える者にムカつく現象。
 公務員、教員、この後考えられるのは年金受給者、生活保護受給者、私学に行っている家庭・・・、仮想敵国は次々に登場するが、決して真犯人には到着しないという現象。
 そして社会のひずみの原因が挙げて彼ら公務員や教員等にあるという憎悪のアジテーションの合唱に加わることに野球の応援団のような擬似連帯を感じる。そういう社会が生れているように思う。

 とまれ、本題に戻ると、他者を思いやる情緒のようなものは、バーチャルリアリティーの虫を好んでも育つことはない。孫たちをリアルな虫に触れさせることが地球を救う道であろう。
 そう考えると、この揚羽の蛹が天使に見えてきませんか。

2011年11月26日土曜日

穴子の半助

   明石家さんまが入門当初、笑福亭松之助師匠に「角(の鰻屋)で半助を(買ってくるよう)」頼まれたが半助を知らなかったため、角座で「半助師匠はおられますか」と聞いたという話をテレビでしていたが、確かに当時でも半助はそれほどメジャーではなかったから無理もない話しだろう。
 ところが私は、小学生の頃は父の仕事柄穴子の半助を嫌というほど食べてきた。穴子の半助を焼豆腐か厚焼玉子のヘタと炊いたおかずである。
 まだ「戦後」と呼ばれていた時代であるから今から考えると有難いおかずだったのだが、当時はもっと違うものが食べたかった。
 そして今は・・・、それもまた懐かしい記憶の中に分類されるほどに年を経た。

ネットから
  近頃、寒くなって寄せ鍋や水炊きをする機会が増えたが、我が家では鍋に穴子を入れることが度々ある。
 その時はもちろん半助もほかさずに入れることは当然で、ゼラチンのように柔らかくなった身?をせせるとあの頃の記憶がよみがえってくる。
 しかし、遠い半助の思い出がなかったならこれはどう見てもアラというかガラだろう。

 本などには「大阪の味」などと麗々しく書かれていたりするが、だからと言ってわざわざ半助を買いに行く気はもう起こらない。私としては戦後時代の思い出で、もういい。
 しかし、半助豆腐に見るような堅実な大阪文化は残ってほしい。
 だから、大阪にカジノはいらない。それは大阪の文化にも経済にも馴染まない。

(注)半助=焼いた鰻や穴子の頭だけを切り落としたもの

2011年11月24日木曜日

癒されているのは誰

   ABCラジオの桑原征平アナウンサーの政治がらみのコメントは失礼ながら薄っぺらで好きになれないが、氏が、施設に入居されているお母さんを頻繁に見舞われていて、その様子を明るく電波に乗せて語る話題は、老朗介護の家族を大いに励ましているに違いない。この点は大いに大いに評価している。
 特にお母さんと少しトンチンカン(失礼)に歌を唄った日の明るい報告は、ラジオの此方でも笑ってしまうことが多い。

 私も実母の入所している施設で毎朝、合唱(正確に言えばテンデバラバラに歌っているだけだが)をしていることは度々書いたが、皆さんのその日その日の体調次第で何かノラなかったり、夫々が居眠りタイムに移ったりして、「一憂」することも少なくない。
 そして、唄った入所者が「昔を思い出すなあ」とか「思い出して涙が出るわ」と言われる時があったり、「おおきに、歌を唄ったら元気が出てきたわ」とお礼を言われた時にはじ~んと嬉しくなって「一喜」している。

 「今日は皆んな楽しそうに唄ってくれたわ」と、そういう報告を帰って行なうと、妻は「その合唱は、入所者を癒してるのと違って、あんたの方が癒されてるんやなあ」と直球で評論してくるが、それはズバリ正解なのでありましょう。

 追伸  先日、音楽療法士の療法を受ける集りに出席した。
      「高度難聴の方にはどうしているのですか」と質問したら、何を聞くのとばかりに「聞こえない人には何もできない」と回答があった。それ以上は質問はしなかった。

2011年11月22日火曜日

ミズキの実力

   ミズキというと近頃ではハナミズキ(アメリカハナミズキ)の方が大きな顔をしているが、純国産のミズキも忘れないで欲しい。

 春に幹を傷つけると多量の水が染み出すので「水木」というらしく、柔らかく白い幹は正月の祝い箸である柳箸となる。

 このミズキ、私の周囲の本には「紅葉が綺麗」と一切出てこないのはどうしてだろう。不思議である。
 近所の研究所の庭のミズキは、周辺の見事な紅葉・黄葉に勝るとも劣らない紅葉だと思うのだが・・・。

 薄く透き通ったようなピンクというか肌色のそれは、非常に控えめでいて、この木の周りが光の通り道であるかのような存在感を漂わせている。

 とかく世の中というものは、このように実力があるのに見向きもされない木がある一方で、中身がないのに名前だけが売れている二流品が大きな顔をしているものである。
 こんな素晴らしい自然を堪能しながら、木々の紅葉を大阪W選挙と重ねて考えてしまうのは二流の風流人なのだろう。はい分ってます。

2011年11月20日日曜日

滅びゆく山村は他人事でない

   奈良大学中原洪二郎先生の「吉野の過疎化と文化」と題する講義を受けてきた。
 奈良県野迫川(のせがわ)村をフィールドワークの対象にされてきたその結論は「限界集落ならぬ限界村の状況」であり「あと10年程で村ごと滅びかねない」現実だった。
 また、衰退しきった林業の結果、伐採したあと植林もしないまま土地を手放した山が放置されていて、これが、今般の土砂ダムの一因ともなっている事実だった。(植林とは言っても杉等の針葉樹の単一樹種の人工林が自然災害に脆弱である事実を横においても、そのまま放置とはあまりにひどい)
 この国は、かつては生産性の名の下に照葉樹の森を皆伐して針葉樹の人工林に変え、今は生産性の名の下に禿山を放置しょうとしている。

 この講義から連想したものは、昭和62年に出版された下村治著「日本は悪くない」(文春文庫)だった。
 著者は、池田内閣の所得倍増計画を立案したエコノミストであるが、この本の中で「この日本列島の1億2千万人に十分な雇用の機会を与え、できるだけ高い生活水準を確保する、これが国民経済の根本問題である」と述べ、「それぞれの国には生きるために維持すべき最低の条件がある。これを無視した自由貿易は百害あって一利なし」と主張している。
 
 そう、生産性を唯一の価値基準にして米国の唱える自由貿易を神聖視してきた結論・結果が、現在の山村の実態であり、今後すぐ後の農村であり、一部の多国籍企業を除く産業の空洞化に陥るであろう都市の未来であるように思われる。
 
 原発災害を「国民全体の驕りの結果だ」と言い放った某知事の発言はいただけないが、今般の奈良・和歌山洪水・土砂ダム災害から真の解決策を導き出さないと、自然は再び三度私たちを鞭打つに違いない。
 都市の泡(あぶく)のような利便を享受しながら語るのは気が引けなくもないが、山村や農村の自然や文化が滅んだ先に都市だけが繁栄するはずもない。
 今回の講義は、吉野の素朴な山村文化を語ってもらえるのかと思って出席したが意に反して深刻な実態報告だった。
 ただ、いただいた資料の最後に「自由貿易という名の呪いと戦う必要もある」と先生の決意が認(したた)められていたことに希望の光を感じとった。

2011年11月18日金曜日

由来不明の父の笏

   今はいない義父の口癖は「親の意見と茄子の花は千に一つも仇はない」だったが、当時はその意見(口癖)を「また言っている」と、年寄りの繰言のように聞き流してきた。その後悔を今頃になって噛み締めている。

 折口信夫の書いた「私どもの生活は、功利の目的のついて廻らぬ、謂はゞむだとも思われる様式の、由来不明なる「為来り(しきたり)」によって、純粋にせられる事が多い。其多くは、家庭生活を優雅にし、しなやかな力を与える。」〔上野誠著「魂の古代学―問いつづける折口信夫」(新潮選書)から〕というような一文が首肯できるようになったとき(歳)には「親孝行 したいときには・・」ということになっている。

笏は古代学にはよく似合う
 そういう駆け込み乗車の心境で実母に「50年以上前に亡くなった実父はどうして(しゃく)を持っていたの」と尋ねても「ふ~ん」と考え込むだけである。
 実母の断片的な記憶を縫い合わせてみると、実父の恩師に多賀(おおが)先生という神道の先生がいて我が家によく出入りしていたこと。祖母等船場の商家の女子衆は唯一の休みとして「おたかさん参り」をしていたこと。確か実父は神職の資格?を持っていたということ。・・で、もしかしたら多賀大社の講の一員だったのだろうか。しかし、それにしては実母は多賀大社に行ったことがないと言うし、事実は霞の向こうである。これ以上は解らない。
 このは、掃除の際に実母が一旦は捨てようとしたのを私が「残しておこう」と言って残したもの。
 これからは、この由来不明のを持ちながら神社成立以前の神々の声を聞いてみようかと思っている。

2011年11月15日火曜日

堺の くるみ餅

   松露団子からの繋がりで、堺の「くるみ餅」を思い出した。
 ここも広い意味ではチンチン電車沿いにある。

 堺の「かん袋」は秀吉から貰った由緒ある屋号であり、ここの「くるみ餅」は有名な上に「なくなり次第閉店」のため、昨今は出かけて行っても食べられない(購入できない)ことも多い。

 しかし「くるみ餅」は、その昔の堺では比較的メジャーなメニューとして普通の喫茶店でも食べることができたから、夏の暑い日などは高校からの帰りに喫茶店で「氷くるみ」を注文したりした。
 当時宿院大通り(フェニックス通り)にあった喫茶「音楽」にええかげんな同級生と入った時には、お互いに相手が小遣いを持っているだろうと思って食べてから、実は二人ともオケラであったので、「氷くるみ」よりも汗が引いてしまったことがある。こういう恥ずかしい思い出はどうして消えてしまわないのだろう。

 恥ずかしいといえばこの「くるみ餅」。長い長い間「胡桃餅」だとばかり思っていた。
 100%ではないが餡の中に擂り潰した胡桃の入った胡桃餡だとばかり思っていた。
 人間信じ込むと怖いもので、胡桃の味や香りなど一切しないのに疑いもしなかった。胡桃餡とはこういうものかと妙に納得したりして・・・。
 実は「包み餅」だと理解したのは十分大人になってからだった。ああ。
 
 昔は「かん袋」の近くに住んでいたので、手土産用に購入したり、家用のお菓子としてしょっちゅう購入していてこの有様。
 おまけに、容器の壷を梅干入れの容器などとして今でも重宝にしているのに、・・・なんとも恥ずかしいことである。
 先日、堺の幼馴染から「たまにはくるみ餅を食べに帰っておいで」と手紙が届いた。あの味が懐かしくよみがえってくる。

2011年11月12日土曜日

忘れ物を見つけた 松露団子

   松露しょうろは、松林の砂地に生えるキノコで美味というから和製トリュフらしいが私は食したことがない。なお、トリュフを検索すると西洋松露とあったからあらためてそのイメージに納得、納得。
 だから、その昔白砂青松の堺の浜寺で松露が採れていたのは間違いなく、それが証拠に浜寺名物・松露団子がある。
南海本線浜寺公園駅舎


 その松露団子・・・。今から50年以上前のことになるが、病床の父が亡くなる少し前に「浜寺の松露団子を食べたい」と言い出して、母が浜寺まで買いに行ったことを何故か今でも憶えているが、当時、それがどんなものであったかは全く記憶にない。
 そして勝手に、それは、少し乾いた餡の周りに砂糖を固めた和菓子の「松露」の・・あれだ、と思い込み、和菓子の「松露」を食べるたびに「これが父親が食べたがったものか」と感慨を込めて食べてきた。

阪堺電車で

 父が亡くなってからの私は中学、高校へと進み、この間に友人たちと浜寺公園で遊んだり、松林の下で青春の悩みを語り合った機会は数限りがないが、その頃は松露団子のことは全く頭に浮かんでは来なかった。 当然か。
 
福栄堂

 その私も父の没年をはるかに過ぎ、先日、堺に行ったついでに阪堺電車(チンチン電車)で、遠い忘れ物の松露団子を探しに行ったところ、昔ながらの佇まいを残した福栄堂が駅の「まあ前」にあったので狐につままれたように驚いた。
 ここなら、何十回できかないほど前を通っていたはずの場所である。不思議なものである。 

松露団子

 そして、福栄堂のショーケースにあったのは和菓子の「松露」とは全く異なる「松露団子」・・松露のように小ぶりの「あんころ」だった。う~ん、知らなかった。
 お茶席の高級和菓子ではない、昔の行楽地のみやげ物そのもののような素朴な「団子」でしかなかったが、きっと、父には何か楽しい潮干刈や海水浴に繋がる思い出があったのだろう。 
  そんなあれこれを想像して、素朴な松露団子を味わった。

2011年11月11日金曜日

古都の催事

   古都の秋といえば正倉院展で、今年は『蘭奢待』が「目玉商品」か。
 妻も「ここが信長が切り取ったところか。足利義政はここを切り取ったのか。明治天皇はここを」と思いながら見ると歴史が生々しく感じられる・・との感想。
 私は『出蔵帳』に「陽宝剣ようのほうけん」「陰宝剣いんのほうけん」が書かれていて大僧都良弁の署名もあることに感動した。
 そして、奈良国立博物館本館の坂本コレクションの青銅器は、何回も何回も見ているものだが、何しろ紀元前1500年前後の殷の物などが多く、ワクワクして今回も離れがたかった。
 退館後「春鹿」の今西酒造で7種類ほどのお酒を利酒し、ほんわかとした足どりで奈良町を散策して帰ってきた。
 お土産は発泡性の春鹿で、
「はるしか ときめき SPARKLING SAKE」。
 あまりお酒の強くない子供たちが帰ってきたときのために冷やしておこう。

2011年11月6日日曜日

収穫の秋

 義母が外泊してきたので「がまずみ」と「しゃしゃんぼ」の実を少しばかり摘んできた。
がまずみ(カガミソ)
  3月20日のブログのとおり、義母が小さい頃おやつにしていたらしい木の実である。
 「懐かしい?」と聞いてみたら「コシキはもっと赤かった。ちょっと味が違うな」とのこと。
 とすると、やはり義母が食べていたコシキとは、シャシャンボではなくカマツカ=ウシコロシのようである。

しゃしゃんぼ
 
 すぐ窓の外には西洋カマツカがカガミソ=ガマズミ同様の赤い実をたわわにつけているが、ほとんど味がないのでシャシャンボを選択したのだが違ったようだ。
 義母はこんなの(カマツカ)を食べていたのだろうか。
 残念ながらそれ以上のことを聞いてみても、思い出ははるか遠い彼方で要領は得ない。


 先日、実母の施設に稲が飾られていた。入所者のご家族(農家の方)が持参されたものである。
 見事な稲のため、スタッフの皆さんに「飾るだけではもったいないからお米にして食べてみては?」と言い出した責任上、ネットで調べて、『コップの縁で籾をとる脱穀』『すり鉢+軟式野球ボールで脱穀(籾摺りを)する』らしいという情報を提供しておいたところ、今朝、「昨日してみたが上手く脱穀(籾摺りが)できない」と「抗議」を受けた。
 そこで、2月2日のブログのとおり義母から聞いた「昭和初期の木と粘土で作られた臼による籾摺り」をイメージしながら野球ボールで摺ってみると、立派な脱穀(籾摺り)が仕上がり、部屋中(といっても対応できる入所者は限られるのだが)からオーッという感嘆の声をいただいた。
 スタッフは全員が若いわけでもないが、誰も脱穀(籾摺り)のイメージが湧かなかったらしい。瑞穂の国はTPP以前に崩壊寸前なのだろうか? 
 もしかして、稲のバケツ栽培と手作業脱穀・(籾摺り)・精米は瑞穂の国の再生に寄与できるのでは? なぜなら、これ(脱穀・籾摺り)って、やってみると結構感動的だったのだ。
 11月9日写真を追加
母がすり鉢+ボールで
籾摺りを行なった

2011年11月4日金曜日

長玄坊 初見

 明日来る孫のための玩具を買いにイオンに行った。(ああ、この書き出しは、何かいっぺんに歳がいった様で抵抗があるなあ)
 帰りに、9月29日のブログに書いたイソヒヨドリ♀と再開した。ほんの近く(のイオンの階段の手すり)に留まって綺麗な声で鳴いてくれた。
 帰ってから、もしかしたら未だ近辺をうろちょろしていないかと、ダメモトでカメラを提げてもう一度イオンに出かけてみたが、当然、彼女には彼女の事情があろう・・・・。
 と、・・・はるか屋上の塔の上に留まったのが見えたので写真を撮ったが、こんな時に限って飛び立ちもせず(近くに寄ってくる気配もなく)、夕陽にシルエットを曝したままの持久戦となり、そのうちに反対側に去られてしまった。
 帰宅してから、パソコンに写真を取り込んだが流石に遠くて小さかった。
 そこでトリミングで拡大したところ、なななんと、それは思いもよらぬハヤブサ科のチョウゲンボウだった。(肉眼ではもちろんファインダーでも判らなかった。)
 この地に居住して約30年だが、こんな駅前にチョウゲンボウが留まっているのを見たのは初めてだ。
 パソコン画面を見てから興奮した。

 谷底(谷筋・川筋)を走る線路に沿って建てられたショッピングモールは、そういえば彼等の故郷の断崖そっくりだが、イソヒヨドリといい、チョウゲンボウといい、結構賑やかな急行停車駅前を行きかう人々の頭の上から「鳥瞰」されていることは誰もご存じないだろう。
 そんなちょっとした秘密を私だけが知っているというのも何故か楽しいものである。

2011年11月3日木曜日

隆達節

 先日、堺の顕本寺で隆達節を聴く機会に恵まれた。
 高三隆達(たかさぶりゅうたつ)は、堺の富商で同寺の住職の後還俗したが、彼の作った隆達節は、天正末から慶長年間(秀吉の全国統一から大阪冬の陣の頃)に大流行し、そこから、後の小唄等が進化したと言われている。故に小唄の元祖とも書かれていたりする。
 哥澤芝虎師匠の「皆さんもご一緒に」との言葉に誘われて謡ってみたのはよいけれど、残念ながら小生は、端唄、うた沢、小唄、常磐津等の違いも判らぬ邦楽音痴、歌詞は貰って帰ったが家では全く復唱できないのが悔しい。

  しかし同寺には、工藤晃著「エコノミスト歴史を読み解く」(新日本出版社)で紹介されていたボストン美術館所蔵「顕本寺屏風」のレプリカが飾られていて、遊里の情景の左右に隆達自身の筆による隆達節の歌詞があり、その筆頭が「君か世は千よにや千代にさゝれ石の岩ほとなりて苔のむすまて」であることを感慨深く鑑賞させていただいた。

 「君が代」とぴったり一緒の歌詞、それを謡っているのか相当はじけた様子の遊里の情景を眺めながら、「条例を定めて従わない教員を解雇する」といきまく人々たちとのこの距離感はいったい何だろうと考えさせられた。
 (写真は何れも本にあったもの)

2011年11月1日火曜日

奈良の贅沢

 例によって今朝、母の施設へ近鉄ニュース11月号を持参した。
大乗院庭園
 入所者の皆さんと一緒に読んでいる中で、目に付いた写真から、「そう言えば大乗院庭園には行っていないなあ」と思い至った。
 奈良公園から奈良町にかけては数十年にわたって散策してきたが、なにしろ国宝・重文がごろごろという地であるだけに、「また今度覗けばいいか」と後回しにしたままであった場所がまだまだ残っていることにふと気がついた。
大乗院庭園
 そんな訳で、丁度昼から奈良に出掛ける用があったので、大乗院庭園をぶらぶらすることにした。
 すぐ近くで正倉院展もあり、見事な秋空の下行楽客で賑わっていた奈良公園一帯であったが、予想どおりというか、この庭園にはほとんど人がおらず、気儘な散歩が楽しめた。

庭園のカワラヒワ

 出てから何げなく看板を見て、すぐ近所の福智院も同様に「この次の散歩に残しておこう」としたままであったことを思い出し発作的に拝観した。
 すると、周辺のウルトラ級の観光寺院と違い、お茶と飴玉を頂いてこれもゆったりと奥様の説明付きで落ち着いたお参りがかなって、短時間ではあったが、贅沢な時間を味わった。
 非常にさわやかなお寺だった。

福智院の地蔵さん

 それにしても、大乗院は言うまでもなく興福寺の門跡寺院。
 そして、今回知ったのだが福智院は元は大乗院の地蔵堂であったらしい。
 それぞれ辛うじて残ったからいいものの、明治の廃仏毀釈には背筋の寒くなるのを覚えた。

荒池
 大混雑の正倉院展のすぐ隣にあるこの静寂と控えめな歴史。
 奈良公園は贅沢極まりない。