2010年10月31日日曜日

法隆寺で鐘を聞いた

 (1)法隆寺の国宝大講堂屋根葺替工事の説明会に参加してきた。
 天平の瓦が幾つも残っていて今回も再使用するというのが感激だ。
 それに、室町時代(修理)の瓦が一番質がよくて、江戸、昭和の瓦の方が質が落ちるというのも、特権的に使用した時代と瓦が普及した時代の反映らしいが、歴史の細部は決して直線的に「進歩」しないことを物語っていて教訓的だ。
 国宝のあちこちを素手で触って歴史を感じさせてもらえて幸せだった。
 
 (2)奈良のお寺はガラスの向こうの観光寺院に止まらず、今も息づいているのがよい。
 法隆寺でも、寺女?が最新の(携帯の)時計を確認しながら2時間ごとに時刻の数だけ鐘を衝いている。
 この鐘の音を聞きながら、「柿食えば~ の子規が聞いた鐘の音は東大寺の鐘の音であった可能性が高い」という説を具体的な史料を挙げて講義をされた浅田隆氏の授業を思い出した。
 でも、俳句の絵としては、柿は奈良公園よりも斑鳩の里の方が似合いますね。

2010年10月29日金曜日

堺の国道上の謎の井戸

 中世に宣教師によって「ベニスの如く執政官によって治められた自治都市」 と驚かれた堺は、医者と薬屋と坊主の町とも言われたらしい。
 その名残を示す文久3(1863)年の堺絵図には、堺の中心部に調御寺(じょうごじ)という大きな寺が記されている。法華宗(真門流)の由緒ある寺である。
 しかし、宿院町の北半分は、今は大阪中央環状線・国道310号線の、片側だけでも4車線に立派な分離帯もついたフェニックス大通りになっていて、調御寺は余程探さないと見つけにくくなっている。
 ただ、調御寺境内にあった井戸だけは今も国道上に堂々と残っていてなにやらホッとする。
 「こんな井戸枠、歩くのにじゃまだ」とばかりに撤去されないでほしいが、願わくば、「黄金の日々、この地にあった調御寺の井戸枠である」ぐらいの説明板がほしいと思っている。
 また、その碑文も、今のうちに解読しておかないと、こんなに凄い排気ガスに晒されると石といえども急速に劣化する。
 堺の国道上の謎の井戸、がんばれ!


2010年10月25日月曜日

藤袴

 ふじばかま 秋の七草のひとつ。
 派手ではないが、その姿、いかにも秋らしい風情があって優雅・・・・とある。
 しかし、茎の細さに似ず丈があるので、多くは雨や風にだらしなく倒れてしまう。
 正直にいって、小さな庭には丈は高すぎるし、花もそれほどパッとしないが、藤袴というインプットされた諸々の情報のせいで「秋だな~」と感じさせてくれる。
 ラジオは、この秋雨のすぐ後ろに初冬の風の待機していることを何度も告げている。
 そういえば、一昨日が「霜降」だった。

2010年10月22日金曜日

帰り花

 染井吉野の返り咲きは美しいけれど少し寂しい。

 これも猛暑のせいでしょうか。

 普通返り咲きといってももう少し晩秋のことではないでしょうか。

公園の手品師

 「街路の手品師」はカードを撒く前に銀杏を落としてくれる。
 その臭いに誰も文句を言わないのは、田舎道ゆえか、それとも美味しい収穫物になるためか。

 昔、浪速筋の銀杏を家で処理したが、相当な臭いがした。
 そのためか、銀杏はおつな食べ物だが、子供たちは賛同しなかった。


2010年10月21日木曜日

トキワマンサクは立派、立派

 東北の山々が全山眠ったような早春、一足先に黄色い花だけが春の訪れを教えてくれる。
 このため「先ず咲く」が訛ってマンサクという。
 ・・この俗説。あまりによくできているので好きである。

 ところで、この紅花常磐満作(ベニバナトキワマンサク)。 落葉しないは、花は赤いは、春だけでなく秋にも咲くは、・・徹底して俗説に抗い可愛いげがないが、しかし、この時期に咲く木が少ない中で、名誉ある少数派を貫き通しているのは立派、立派。
 スカシバなどは喜んでころこんでいる。

2010年10月19日火曜日

災害原因不明の雀の子

 小さいけれど飛び立てないほどの雛でなし。
 落ちた雛ならチイチイチイチイうるさいほど鳴くのに鳴きもせず。
 とりたててココというような外傷もないが、フロントガラスにぶつかったと考えるのが順当か。しかし車といっても落ち着いたスピードしか出せない田舎道。不思議不思議???
 もみ殻の山にそっと置いてきたが、あとは君の幸運を祈るのみ。
 食物連鎖は厳粛な自然の掟です。

 PS  なお、基本的には「ヒナは拾わないで」(野鳥の会等のキャンペーン)が原則です。

大器晩成の鬼灯(ほほずき)

「いよいよ夏の訪れを告げる浅草寺のほおずき市が始まった」というのがテレビの決まり文句ですが、わが家の鬼灯は大器晩成なのか暑がりなのか、今頃花を咲かして実をつけ始めた。
これほどまでに季節感をずらされると、なんだかアリガタミが薄れるように感じるのは人間様の勝手でしょうが、本来なら、今頃は2枚目3枚目の写真(ネットからの写真)のようになっているはず。
・・と、鬼灯の悪口を言ったが、真相はトマトの痕に植えた連作障害らしい。やっぱりおかしいのは人間の方。
 
221019わが家の花と実

こうなるのは何時の日やら



2010年10月15日金曜日

山雀(ヤマガラ)のご訪問

 ニイニイニイと子猫のような声を出して毎日ヤマガラが訪問してくれるが、大阪弁でいう「イラチ」な彼は、あっちこっちとせわしなく飛びまわり、なかなか写真を撮らせてくれない。
 よく見ていると、食べもしないのに花桃の葉っぱを引きちぎっては捨てていき、「それって何なん?」と聞いてみたい気がする。
 イラガの繭を上手く剥がして電線までくわえていき、電線上で割って食べようとしているときはコツコツコツと相当大きな音を立てている。その場で突ついて食べるコゲラとは流儀が違うらしい。
 子供の頃は、お祭りの夜店で「山雀の御神籤」に感心したが、今は全面捕獲禁止のためこういう文化が消滅した。私は野鳥の会のシンパで捕獲禁止を支持しているが、こういう文化を伝承するための捕獲の例外はあってもよかったのでは・・・。
 というよりも、こういう文化は今のうちに、ほんとうに今のうちに、公の支援で復活させておきたいが、ご賛同いただけないでしょうか。
 山雀の御神籤芸のアニメがネットにあった。
 http://homepage1.nifty.com/wetland/HP2/edutainment/ymo.html
 本物の動画もあった。
  http://www.youtube.com/watch?v=nYDa9gK7TGQ
 この動画から、いろいろ見ることができる。

2010年10月13日水曜日

恭仁京跡の蕎麦畑

 天平12年(740年)聖武天皇が平城京から遷都してきた恭仁京は、天平14年末には天皇不在となり、その後数年で難波京、紫香楽京、再び(第二次)平城京と遷都したため、残念ながら影の薄い都城遺跡です。
 しかし、そのために?今もこんなに長閑な風景が残されたのかもしれません。
 地元の方は「猛暑のために今年の実りはさっぱりや」とため息。
 確かに、素人目にも少し寂しい実り具合でした。
 でも、少し寂しい蕎麦畑は、史上少し寂しい都の跡にとても似合っていたといえば、地元の方は喜ばれないでしょうかね。

2010年10月12日火曜日

柿の黄葉が始まった

 モミジも良いけれど、いろんな木々の紅葉~黄葉も捨てがたいものですね。
 柿の葉なんか、なかなか個性的に主張しています。
 吉野のみなさん!こんな“柿の葉寿司”作ったらどうですか。
 エッ 多くの方は敬遠される! ウン そうかもしれません。
 でも、団塊の世代は天の邪鬼が多いから結構売れるかもしれませんよ。責任は持てませんが。

2010年10月9日土曜日

天皇陛下の「おことば」

 平城遷都1300年祭で次のとおりの「おことば」があったと報じられた。
 『(略)平城京について私は父祖の地としての深いゆかりを感じています。そして,平城京に在位した光仁天皇と結ばれ,次の桓武天皇の生母となった高野新笠(たかののにいがさ)は続日本紀によれば百済の武寧王(ぶねいおう)を始祖とする渡来人の子孫とされています。我が国には奈良時代以前から百済を始め,多くの国から渡来人が移住し,我が国の文化や技術の発展に大きく寄与してきました。仏教が最初に伝えられたのは百済からでしたし,今日も我が国の人々に読まれている論語も百済の渡来人が持ち来ったものでした。さらに遣唐使の派遣は,我が国の人々が唐の文化にじかに触れる機会を与え,多くの書籍を含む唐の文物が我が国にもたらされました。しかし遣唐使の乗った船の遭難は多く,このような危険を冒して我が国のために力を尽くした人々によって,我が国の様々な分野の発展がもたらされたことに思いを致すとき,深い感慨を覚えます。(略)』(宮内庁HPから)
 高野新笠のくだりはW杯日韓共催前年の「おことば」にもあったものだが、少なくない偏狭な大臣や知事や議員などが口汚く近隣諸国を揶揄する中では、文化的な爽快感がある。

2010年10月8日金曜日

空飛ぶ宝石箱

 夫婦で「けいはんな記念公園」を散歩中に「空飛ぶ宝石箱=カワセミ」に遭遇。
 ダイビングをして小魚を捕らえてくるショウもたっぷりと披露して、次のテリトリーへと飛び去った。
 今秋はドングリが不作と言われているが、林の中を散歩していると、ボトッ ボトッ とたくさん降ってきて一安心。遅れていた秋も確実にこの地を訪れてくれている。
 

2010年10月5日火曜日

「君が代」はお座敷小唄

 10月4日東京地裁で都教委による「日の丸・君が代」処分取り消し訴訟の口頭弁論があった。
 原告側は「天皇制賛美の君が代」を「強制」するのは不当との主張をしているのだろうし、その主張は現下の社会問題、教育問題としては至極当然。
 しかし、少し長い歴史の尺度と文化の側面から考えると意外な素顔が見えてきた・・というのが『工藤晃著「エコノミスト歴史を読み解く」新日本出版社』の中の『堺の地で「君が代」の謎を考える』で、その内容たるや愉快、愉快。
 これまでも高三隆達の隆達節に「君が代」の歌詞があることは、堺の歴史に触れた少なくない文献で知られていたが、明治の始めに作曲に至った「君が代」が、通説である薩摩琵琶歌の蓬莱山ではなく、隆達節にある可能性が大きいとの結論には目から鱗の感。
 明治の大元帥が堺の遊里で習い覚えたお座敷小唄を「国歌」として強制されて処分された裁判は悲しい。
 平和な世に、お座敷小唄として「君が代」を唄いたいものだ。

2010年10月3日日曜日

曼珠沙華は確かに瑞兆

22.10.3




22.10.3

 9月20日の日記のとおり、法華経によると曼珠沙華は瑞兆とのこと。
 彼岸の中日から遅れること10日という異常気象ではあったが、写真のとおり友人の加藤弁英師が法華経でもって開眼法要をしてくれた道祖神を飾ってくれた。
 そう言えば彼岸の中日から満開までの間に介護問題の障碍が一つクリアでき、「大難小難、大難小難」と曼珠沙華に向かってお礼を言っておいた。

2010年10月2日土曜日

鯛の鯛

 鯛の鯛は福を呼ぶと言われている。
 子供達が小さい時分に「上手にせせって鯛の鯛を出すんやで」と教えたので、魚の食べ方だけは比較的綺麗に習得した。
 しかし、目玉や唇の美味しさも教えたので、娘は友人達に驚かれたらしい。
 その子供達は既に巣立って、今夕の食事では夫婦で鯛の鯛を比べあって「引き分けやな」と言い合った。
 妻は「孫ができたら鯛の鯛の出し方なんかの蘊蓄を傾けたら嫌われまっせ」と今からジャブを出してくる。